一番早いクリスマス

 太正十五年十二月二十三日。
 深夜の大帝国劇場に、カンテラの明かりが揺れる――

 マリアは照明の落とされた廊下を歩いていた。
一日の終わりに劇場内の見回りを行う、それが現在の彼女の日課である。
 時計は十一時半を回った頃だろうか。
普段ならとっくに見回りを終え、自らも眠りにつこうとしている時間だ。
今日に限って見回りが遅くなったのには理由がある。
 帝国歌劇団はクリスマス公演「奇跡の鐘」を明日に控えていたが、本番を前にした隊員達が緊張してなかなか眠りにつけずにいたのだ。
舞台の場数を踏んでいる彼女たちでも、公演のはじまる前はやはり気持ちが昂るものらしい。
まして一日限りの公演である。
 そんな彼女たちの気持ちを受け止め、その緊張を解してやるのもマリアの役目のひとつでもあった。
既に六人は部屋に戻って寝たようだから、あと一人でそれも終わる。
 二階、一階、地階といそうな場所を当たったが、どこにも探す人物の姿はない。
地下からの階段を上がって一階に戻ったとき、ふと思い立って舞台へと続く廊下へ足を向けた。
暗い廊下の向こう、楽屋のあたりから明かりが漏れているのが見える。
近づいてそっと扉を開けると、探している人物が化粧台の前に座って鏡をじっと見つめていた。
何かに集中しているらしく、まだマリアの気配に気づいていない。

「カンナ? ここにいたのね。」

 声をかけるとようやくマリアの存在に気づき、弾かれたように振り向いた。
濡れた髪と上気した頬が、風呂上りであることを物語っている。

「ああ、マリアか。見回り…って、もうそんな時間か?」

 もうすぐ日付の変わる時刻だと告げると、彼女は心底驚いている様子だった。

「まったく…役作りもいいけど、そろそろ休まないと明日に響くわよ。」

 マリアが呆れたように言うと、カンナは照れくさそうに笑う。
 明日の公演、彼女は主役を務めることになっていた。
カンナ扮する聖母マリアが大活躍する、「冒険活劇風・奇跡の鐘」である。

「役作り、ってのとはちょっと違うんだけどな…」

 それはカンナにとって役を演じるための儀式のようなものだった。
初日の前夜、楽屋に来て鏡を見つめ、鏡の中の自分に向かって言い聞かせる。
絶対にやってみせる、役に負けたりなんかしない、と。

「…そうするとさ、緊張とかが吹っ飛んでいくような気がするんだ。
まぁ、一種のイメージトレーニングってやつかな。」

 鏡に映る姿は彼女の弱い部分であるのかもしれない。
それと対峙し、強気の勢で臨んでいくことで己に勝とうとするあたり、格闘家のカンナらしいやり方である。
花組で最も古くからの付き合いだというのに、カンナが公演のたびにこのような努力を重ねていることをマリアは知らなかった。

「こういうのって、なかなか人には言えなくてさ。
…ほら、あたいが緊張なんかしてたら、他の奴が戸惑っちまうだろ。」

 そんなことになったらすみれに何を言われるか、と彼女は続ける。
カンナの明るく快闊な中に潜む、繊細な一面を垣間見たような気がした。
 そんな話をしているとき、カンナの髪からまだ水滴が滴っていることに気づいた。

「カンナ、髪をもっとよく拭かなきゃ。
このまま寝たら風邪ひいちゃうわ。」

 マリアはカンナの傍に置かれていたタオルを拾い上げると、カンナの頭上に乗せた。
自分で出来ると言うカンナに構わず、彼女の髪を拭き始める。

「ダメよ。いつもいい加減にしか拭いてないでしょう?
いくらあなたが丈夫だからって、こんな寒い時期はもっとよく乾かしてから寝るものよ。」

 カンナも観念したらしく、おとなしくされるがままになる。
あらかた水気を拭き取るとマリアは鏡の前に置かれた櫛を取って、髪を梳き始めた。
赤に近い茶色の髪が櫛の歯を通り抜けていく。
彼女の性格がそのまま現れたような、おおらかで生気に満ちあふれた色――自分とは正反対だとマリアは思った。

「きれいな髪ね。」

 マリアの言葉に、カンナは意外そうな反応を示す。
やたらと赤いうえにまとめにくいだけだと、彼女は言う。
赤い髪のことは結構気にしているらしい。
大雑把で細かいことは気にしないように見えても、やはり女性である。

「そんなことないわ。ハリがあって、いい髪よ。私は大好き。」

 『大好き』と言う部分に反応したのか、カンナの頬が一瞬赤くなった。
照れくささを紛らすため、彼女は慌てて話題を変える。

「そういやさ、隊長帰ってこないのか?」

 カンナの言葉に、マリアは一瞬手を止めた。“隊長”とはもちろん巴里滞在中の大神一郎のことだ。
彼はマリアの思い人でもある。現在は彼の地で巴里華撃団の隊長に就任していた。そしてカンナは帝劇内で二人の関係を知る数少ない人物の一人である。

「…まだ無理そうね。戦いが終わったからって、隊長の仕事がなくなるわけじゃないもの。
彼女たちには隊長が必要なのよ。」

 仲間たちとともに巴里の街を魔の手から守ることに成功したとの報せを受けたのは、先月初めのこと。
平和が訪れた今、大神が今だ彼の地に留まっているのは、華撃団のチームワークをより強化するためだ。
彼が去りし後に備えて。
 それに、彼の人事を握っているのは賢人機関だ。
上の命令なくして独断で帝都に帰還することなど出来る筈もない。
そうした事情も推察できるので、頭の中では割り切ることが出来た。
いや、割り切ろうとしていた。

「一時帰国くらいしてもよさそうなのにな。
そうだ、今から頼んでみようぜ。
そうすりゃ年明けには間に合うんじゃないか?
凛々しい公子役を隊長にも観て貰えよ。」

 年明けの特別公演は、夏公演「海神別荘」の再演が既に決定している。
前回の公演ではマリア演じる海の公子役が好評を博した。しかし――

(隊長が帰ってきても“公子役”は私じゃない…)

 花組ではまだ彼女しか知らない事実が胸に突き刺さる。

「任務で赴任している隊長を、こちらの私的な都合で呼び戻すわけにはいかないわ。」

 隠し事を悟られまいと平静を装いながら言う。

「けどさ、マリアはそれでいいのか?」

 核心を突いた発言に、マリアは沈黙する。
頭では理解できても、心までは同じようにいかなかった。
本当はすぐにでも彼に会いたい。
主役でなくても舞台に立つ自分を見て欲しい。
日々募る想いに押し潰されそうになることもあった。

「寂しくないと言ったら嘘になるわ。
でも花組のみんながいるから今は大丈夫。
それに…約束したんだもの。」

 彼女を紙一重で支えていたのは、隊長代行としての責任感と、彼との約束。
巴里へ旅立つ前の晩、彼はいつか必ずマリアの元へ戻ると約束していた。
それがどんなに先のことでも、今はその言葉を信じるより他はない。

「だから、私は今できることをやらなくちゃ。
少しでも前に進まないとね。
隊長が帰ったとき、自分に恥ずかしくないように。」

 彼女にとって最も大切なのは、大神が戻るまで花組のみんなを守ることだ。
それは悲痛までの決意ではあったが。

「…まぁ、あんまり無理するなよ。
愚痴くらいならいつでも聞いてやるからさ。」

 いつしか手にした櫛を握り締めていたマリアを鏡越しに見ながら、元気付けるように言う。
カンナはこの親友が人前で滅多に弱音を吐かないことを知っていた。
それでも彼女がつらいときは、傍にいて支えてやるのが自分たち花組の役目だろう。

「…ありがとう。
とりあえず今は明日の公演を成功させることを考えなきゃね。」

 親友の心遣いをありがたく受け止めながらも、何かを振り切るようにマリアは言う。
その表情には多少無理している観もあったが、固い決意の前には何も言えなかった。

「…ああ、そうだな。そんじゃ、そろそろ寝るとするか。」

 楽屋の照明を落とすと、辺りは途端に暗くなった。
足元を照らすのはマリアの持つカンテラの灯りのみ。
その小さな光も二人が階上へ上がっていくのに併せてゆらゆらと揺れながら、静かに消えていった。

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