夏の衣替え




 ミーンミンミンミン……
 中庭から蝉たちの合唱が聞こえてくる。
支配人室を出た大神は、ふと足を止めてガラス越しの風景を眺めた。
八月の直射日光は容赦なく降り注ぎ、木々の緑さえ光の中で色褪せて見える。

「やっぱり帝都は暑いなあ…」

昨日まで滞在していた熱海は涼しかった。
帝都に比べて蒸気文化の発展は遅れていたが、その分蒸気廃熱による不要な気温の上昇がない。
特に、夜が涼しいのは救いだった。
この三泊四日の小旅行は米田の粋な計らいにより急遽実現したものだ。
途中黒鬼会の襲撃に遭ったとはいえ、隊員たちが羽を伸ばすには十分なものであった。
彼女たちは気分も一新、今日から特別公演「眠れぬ森の美女」の稽古に取り掛かっている。
並行して秋公演「青い鳥」の準備も始まるというから、再び慌しい日々が訪れるに違いない。
忙しい彼女たちを陰で支えるのが、帝国歌劇団員としての自分の役割でもある。

やがて、ホールの時計が正午を告げた。

(とりあえずお茶でも淹れるか…)

「さぁ、メシだメシだ! あ〜、腹減ったぁ。」

大神が人数分の麦茶を淹れ終わったころ、午前の稽古を終えた花組の面々が食堂へ入ってきた。
初日の今日は台本の読み合わせのみであるが、この暑い中、長時間集中するのはそれだけでも大変なことだ。
皆一様に疲れた表情をしている。

「やあ、お疲れ様。麦茶が入ったよ。」

トレイに乗せた麦茶のグラスの中で、氷が涼しげに揺れる。

「ありがとうございます、大神さん。」

「お兄ちゃん、ありがとー。アイリスね、すごくのどが渇いてたんだ。」

「えらいすんませんなぁ、大神はん。」

「少尉さんもたまには気が利くでーす。」

口々に礼を言いながらグラスを取っていく。

「さすがは私の少尉ですわ。」

すみれが言ったあたりでカンナ・アイリス・さくらが一斉に反論を始めた。
紅蘭は面白がって見物に回っている。
織姫はニッポンの男のことで言い争うのが信じられない様子だ。
またはじまった、と大神は目を細めながら溜息をついた。
いつものことなのであえて干渉せず、まだグラスを取っていないマリアとレニのいるテーブルへ向かう。
グラスを差し出すとマリアが微笑んだが、暑さのせいか表情に今ひとつ精彩を欠いていた。
今日も彼女は黒っぽいスーツを着ている。
紐育で新調したうちのひとつだそうで、先日の熱海で着ていたものとは少々異なるものの、シンプルであることに変わりはない。
歌劇団では男役をこなしているのもあってか、彼女は普段からパンツスタイルで過ごすことが多い。
派手な装いをすることはないが、恵まれた長身、類まれな美貌は彼女の印象を決して地味には終わらせない。

だが、ここで大神にはひとつの疑問がわいた。
夏真っ盛り、他のメンバーたちが薄着をしている中、マリア一人が長袖の上着を着ている。
ただでさえ暑いのが苦手なのに、大丈夫なのだろうか。
同様の疑問は、花組の仲間からも持ち上がる。

「それにしてもマリアさん、暑くないんですか?」

涼しそうなサマードレスを着ているさくらが指摘する。
そこへ織姫もさらに追い討ちをかけるように言った。

「紐育ならちょうどいいかもしれませんねー。でも日本の夏には向かないと思いマース。」

世界中を公演で回っている彼女らしい意見ではある。

「帝都東京は温帯域に属し、季節風の影響を受ける湿潤な気候。
もっと吸湿性・通気性に優れた服のほうが、夏の高湿度には適応しやすい。」

レニにまで言われ、反論の余地を失ったマリアは、がっくりとうなだれる。
そこをいつの間にか全員分の昼食をワゴンで運んで来た大神がとりなした。

「きっとマリアのことだから、ちゃんとした意味があるんだよ、きっと。」

九人分のそうめんと冷奴をテーブルに並べながら彼は言う。

「…肌が弱いから、あまり日焼けできないので…。」

そこで何故かマリアの表情が少しだけ曇った。
おそらく大神以外は気づかなかったであろう、わずかな動揺ではあったが。

「もしかしてそれで海に来なかったのかよ? だったらもっと早く言ってくれりゃあ…」

カンナが呆れたように言う。
水狐の襲撃があったあの日――後から行くと言ったきり、とうとう海岸へ現れなかった親友に、カンナはまだ少しだけ怒っていた。

「と、とにかく食べようよ。ほらカンナ、麺が伸びるぞ。」

思わぬ方向に話題が行ったので、大神は慌てて皆に昼食を促す。
おおそうだった、と思い出したようにカンナが山盛りのそうめんをずるずるとすすり始めた。
他のものもそれぞれに食べ始めるのを見て安心して自分も食べようとしたが、気になってマリアのほうを見てみた。
熱海の件を追及されずに済んだためか、ほっとしたような表情をしている。

長袖の理由――肌が弱いというのはおそらく事実に違いない。
だが、それだけではないだろう。
銃の名手である彼女は、その腕を買われて花小路の護衛を務めることもある。
そのせいか普段から銃を携行していることが多い。肩から吊っている拳銃を隠すため、ジャケットは欠かせないのだろう。
それも透けにくい素材と色のものが。
そうした点から、マリアの普段着は選ばれているようだ。
彼女の持っている服はほとんどがその条件を満たしている。

「…さん、大神さん?」

さくらの呼び声に我に返った。花組の一同が自分に注目している。

「午後から舞台で立ち位置の合わせをやるんですけど、よかったら見に来ませんか?」

しばらく考えていると、大神はある妙案を思いついた。

「ごめん、ちょっと用事を思い出して…。」

それだけ言うと、大神は残りの食事を慌てて平らげた。
その場にいた面々がきょとんとしている中、食器を片付けていそいそと外出してしまった。

その日の夕方遅く、大神は打ちのめされた様子で帰ってきた。
そのときちょうどさくらが玄関に居合わせたそうだが、げんなりした様を見ては言葉が見つからなかったらしい。
なにやら切羽詰った様子を心配しながらも声をかけられない隊員たちに代わり、副指令の藤枝かえでが事情を聴いたのは、その翌日のことだった。

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