暮れ行く秋に
暦が立冬を過ぎると、北の国からは雪の便りも聞かれるようになる。
帝都にも木枯らしが吹き始め、季節は秋から冬へ移っていく。
高尾への出張から帰った一週間後、マリアは夕暮れの銀座の街を歩いていた。
ショーウィンドウには一足早いクリスマスが訪れ、賑やかに通りを飾っている。
もう少しすると建物や街路樹にも電飾が施され、銀座は宝石箱のように光り輝くだろう。
帝国歌劇団もクリスマス公演に向け、着々と準備を進めている。
華やかな、胸踊る季節の到来がすぐそこまで迫っていた。
反面、マリアの心中には駆け足で去ってゆく秋を少し惜しいと思う気持ちもある。
先週仕事で赴いた高尾の紅葉は見事だった。
冬が来る前に、もう一度だけでいい。
あのような風景を帝都のどこかで見られないだろうか。
出来れば大神と二人で。
そう考えたところで、マリアは自嘲気味な笑みを浮かべた。
そんな時間がないのはわかっているから。
実際、クリスマス公演の稽古や舞台設営に費やす時間が徐々に増えている。
今日だって忙しい合間を縫ってようやく出てこられたのだ。
劇場の裏方を勤める大神とて同じである。
日々雑務に駆け回っているようで、出張から帰って以来、あまり顔をあわせていない。
少々寂しい気がするが、忙しいのはお互いさまだ。
やがて、彼女は大通りから少し奥まった道に面する、一軒の洋品店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ。」
店主であろう、初老の男性が声をかけた。
白髪に眼鏡を掛けた、穏やかな声の持ち主である。
「あの…カーディガンを見せてもらえますか?」
マリアが言うと、店主はニットの商品が並ぶコーナーへ案内してくれた。
彼女は今、大神に贈るカーディガンを選ぼうとしている。
先週の高尾で、モギリ服のまま寒さに震えていた大神。
せめてカーディガンでもあったらよかったのに、とマリアは思った。
それならば、自分がプレゼントすればよいのだ。
特に、これから寒さが厳しくなる時期である。
いつも走り回っているとはいえ、上着のないまま外出するのは辛いだろう。
また、クリスマス公演中、吹きさらしの玄関で仕事をする彼には必要なはずだ。
手編みという手段も考えてみたが、今の彼女には決定的に時間が足りない。
実際、ようやく買い物に出られたものの、思い立ってから既に一週間が過ぎている。
「こちらなどいかがでしょう?」
店主の声にマリアはハッ、と我に返る。
彼が手にしているのは、薄茶色のシンプルなデザインのものだ。
上質の糸を編み上げており、肌触りがとても柔らかい。
サイズもよさそうだし、これならモギリ服の上から着てもおかしくないだろう。
「そうですね、これにします。えっと、贈り物にしたいので…。」
マリアが言いかけると、店主は何も言わずにっこりと微笑んで、ギフト用の包装を始めた。
そう、ここは紳士洋品専門の店である。
女性であるマリアが来店したのなら、買う品物は当然誰かへの贈り物なのだ。
包装を待つ間、彼女は店内を見渡していたが、壁に飾られた一枚の写真に目を留めた。
「これは…!」
写っていたのは黄葉した銀杏並木――探していた風景である。
写真の下に記された日付はつい最近のものだ。
聞けば風景写真を撮るのが好きな店主が、この前の休日に撮ったものだという。
「あの、詳しい場所を教えていただけますか?」
マリアが尋ねると彼はそれをメモ用紙に書き、いつの間にか包装されていた品物と一緒に渡してくれた。
紙袋を手に店を出た彼女の足取りは、いつになく軽い。
翌日、帝都は穏やかな晴天にみまわれた。
公演の準備さえなければ、絶好の散歩日和である。
午前中は歌の稽古、午後は紅蘭と一緒に照明器具の設営を行う予定だ。
抜ける時間は殆どないといってよい。
マリアは溜息をつく。
だが、彼女の思いが通じたのか、事態は急転した。
午前中の稽古が終わり、昼食をとっている最中である。
このところ皆公演準備で忙しく、食事時間は各自でまちまちだった。
遅れて食堂にやってきた紅蘭が困ったようにマリアに話しかける。
「あのな、今日午後の作業出来へんわ。」
何でも、使用する照明用機材のひとつが故障してしまっているというのだ。
食事の前に機材を点検していた彼女は、そのうちのひとつが故障していることに気づいた。
故障の箇所はわかったものの、交換用部品の予備が帝劇にはなかった。
花やしきにも問い合わせてみたが、特殊な形なのでやはり置いていないらしい。
製造元より取り寄せるほかなく、結果的に午後の作業は中止となった。
「すんません、マリアはん…。」
「ううん、あなたが謝ることじゃないわ。下調べご苦労様。」
申し訳なさそうに言う紅蘭に、マリアは労いの言葉をかける。
その一方で、これはチャンスだ、と心の中で思う。
穏やかな晴天の午後、夕方までの時間がぽっかりと空いた。
“例の場所”へ、今日行かずしていつ行くのか。
答えはひとつだ。
「そうだわ、ちょっと用事を思い出したの。夕方まで出かけてもいいかしら?」
紅蘭が頷くと、マリアは計画を実行することに決めた。