塚本邦雄■咲き散る火花


 著者と私とを繋ぐ要因は、あるひは定家であらうか。
 伝・治承四年十九歳の「明月記」記事、「世上乱逆追討、耳に満つと雖も之を注せず、紅旗征戎吾が事に非ず。陳勝呉広大沢に起り、公子扶蘇項燕と称すのみ、最勝親王の命と称し郡県を徇ふと云々。或は国司を任ずるの由、説々恐るべかrず」の気魄と修辞の鮮烈、まことに太田代志朗に直接ひびきあふところあり。

 一巻を読みたどりつつ、私はかつて太田代志朗が閲したであろう読書の中の、平安鎌倉期詞華を胸中に繰り広げる。その一行一行が甦り、瞼が熱くなるのを禁じえない。「尊卑分脈」中の良経公伝、建永元年三月七日、三十六巻を一期として、寝所で味爽、戟に刺されて逝去してゐたという記事がおのづから浮び上がってくる。
 作者の朝餐のカフェオレ、黒褐色の珈琲を、乳が白く濁らせてゆく一瞬、二重写しになる夭折の天才の俤。曰く、新古今集の真名序作者たらむとして妨げられた菅原為長の意趣、藤原頼長及び卿二位の陰謀その他、下手人・刺客候補は十人に余るとも、全くの風聞であるとも、諸説紛々。

 ●ぬばたまのくろかみにほふまぼろしの明日香微笑(みせう)のゆめのしらゆり
 
 この一聯を誦しつつ、私はマーラーの名曲、リュッケルトの詩」亡き子を葬る歌」を聴いた。一句一句、一行一行が胸に沁む。
 切々と訴へる対話形式の歌詞が、おもむろに太田代志朗の声に変つてゆくやうな気がする。(略)初夏、佐保皮の畔、卒川神社の三枝祭(さいくさまつり)には、三枝の山百合を捧げて、乙女らが錬り歩く。その先頭に立つのは、あるいは明日香嬢、「明日香微笑のゆめのしらゆり」か。

 一巻に添えられた厚い栞の、主として高橋和巳の縁につながる多士済々の、あたるべからず筆勢を恐れつつ、私はむしろ遠くから、この稀なる歌人を凝視してゐた。そして私の目に見えてくる。今一人の太田代志朗の反面、あるひは私だけが識りうる志のあり処に、たどたどしい迫害に似た文章を綴つた。
 言はでもの解説であつたかもしれないが、今日も明日も、歌人太田代志朗は、私に最も遠く、それゆゑに、一番近い同志の一人であろう。これも亦韻文に殉ずる者の非業と言はう。

『恋の至極は』(季刊『月光』1992年9月)



 世に述志の歌寥々たる今日、太田代志朗の、ほとばしる清水、咲き散る火花さながらの心情吐露は、襟を正させるばかりである。巻中の「わが明月記」など、まさに白眉、「世上乱逆追討耳に満つ 詩歌あざむくためなる朝焼け」にも、この乱世を生きねばならぬ「ますらを」の爽やかにいたましい悲願がこめられているのだ。

『清かなる夜叉』帯コピー


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