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思えば、高橋和巳(一九三一~一九七一)は至高の希望すら突き放し、憂愁と解体への永遠的運命を自ずからに課して、無惨に封印された。デジタルな世界から値踏みされた作家の不運なのだろうが、虚妄と頽落のもとに否定され、断絶された。 本書は、類型的な論証・分析による巷間の文学研究を向こうに、「二十世紀、すなわち戦争という廃墟経験のあとに革命の廃墟が連続」した二重の廃墟、この「二重の敗北という問題こそ高橋文学のテーマ」であるとし、「文学の二十世紀性を形づくるもの」だとたぐりよせ、心のほとりにゆらぐ。鮮やかな予兆のもとに高橋和巳がたちあがってくる。 内容の構成としては第Ⅰ部、『悲の器』としての人間――『悲の器』と『捨子物語』との往還が告げるもの。すなわち「実存的人間学の視点を集中的に解明」。 第Ⅱ部、救済と革命――『憂鬱なる党派』『わが心は石にあらず』『邪宗門』『堕落』『散華』『日本の悪霊』そして『わが解体』以降。さらに、全共闘のはらむ暗黒面(革命の廃墟)に最後まで抗した内景をさぐる。 第Ⅲ部、女たちの星座――ここでは女の汚と聖のありようにつき、『捨子物語』に母の不在や恋人・愛人・妻との不完全燃焼から娼婦との交情を説き、『悲の器』では「世界全体の破滅を求める呪詛的欲望」をあきらかにしている。 また、『邪宗門』に母の死肉をくらって生きる世なおしの滅亡史を模索。『憂鬱なる党派』は「政治的人間と文学的人間の対話劇」とみなし、『日本の悪霊』にはテロリズムにおける「怨恨的復讐」の全面展開の昂ぶりを論じるなど、高橋和巳の根源の位相が説かれている。 加えて出自に関しては、高橋和巳は美的な薫陶に浴することなく育った。大阪・釜ケ崎のスラム街近くで生育し、賤民世界と往還する宿命について考察する。下層領域から脱け出す負い目として、インテリゲンチャならではの墜落感があったという。終生、己をきびしく罰し、「固有の怨恨と復讐の破壊的情念」に身をさらしたのであった。 人間は不安によってこそ、世界へと頽落した状態から救いだされ、それによって本来の実存的課題のためにはじめて自由になる。だが、その自由さえ拒絶した諸作品は、相互補完的に絡み合いながら生の深淵に縋りつき、縺れあう。それぞれ登場人物たちが新たな血色の妙を得て浮かびあがってくる。付言すれば、改めてデータソースで検索すべき事柄でもあるまいが、高橋和巳をして「インテリ向きの大衆小説」と決め打ちした当時の一部の厚顔の不定形な文学構図が懐かしく思い起される。 いづれにしても、本書には徹底した批判と研究により、独自の「『思考実験』的思弁」が冴える。 あとがき」によれば、著者はヘーゲルの法哲学考察からはじまるサルトルに大きな関心を持ち、『聖ジュネ論』から『捨子物語』の実存的淵源をさぐり、さらにニーチェ研究から「宗教思想的淵源を把握しようとキリスト教研究を開始」。先行著書に『ドストエフスキーとキリスト教』『フロムと神秘主義』があり、「高橋和巳はほぼ半世紀取り組んできた哲学・文学・宗教の研究の軌跡と期せずして奇しき重なり合いと対話を取り結ぶものとなった」と知的系譜を披露している。 悲惨な戦後状況から一九六〇~一九七〇年の高度成長時代。究極原理としての「捨子という存在」、「戦争の廃墟」、「虚妄の理想」、「共苦の観念」をキーワードに、思想と文学がもっとも切実であった時代の鉱脈が切り裂かれる。酷愛の高橋和巳への深層史的眼光が清々しくつらぬく。苦悩も悲哀も思想的煩悶も、生涯をかけた絶望の戦略的な原点として、その内面的実情を明かしているのである。 しかり、「高橋和巳を忘却することは二十世紀の廃墟性を忘却することではないだろうか」と、時代のルサンチマンのように断言し、今日的意味をつきつめる。真言は美ならず。仏に会うては仏を殺せ。すべての思想は極限におしすすめれば、その思想を実践する者は破滅するであろう。狂乱怒涛の時代の知の岩盤が真の痕跡として炸裂し、輝やきはじめる。 なお、「補論」の項は新左翼動向につき、台頭した全共闘運動における武装党派のラディカルな抗争路線を省察うしている。ついに学園から追放され、∧暗黒への出発∨を余儀なくし、暴力的革命主義の奔流に同調する心優しい病弱の倫理的相貌がしのばれる。高橋和巳の生き様は、たしかに「有機的な総合的な結合としての政治・社会・人間革命」であろうが、表現という行為自体は生への愛、文学においては言葉への愛にもとづくものではなかったか。 本書は学究がなせる実存的時間構造に照応し、波瀾の文学創造の源泉にわけいる。言葉そのものの流麗な感覚はなくも、深い吟味から論証の手続きまで、「廃墟と原罪」の煉獄が示される。思想の本質を極限化し、「二十世紀日本の原罪」がつまびらかにされ、「怨恨と復讐の抗する共苦の文学」が論究されている。 自己超克した一切の破壊、変革、超克、逆転、創造が文学的営為であり、宗教と思想の高橋文学の核心をつき、褐色と悲哀の重層に痛切にせまる。はたまた想像力の文法もしなやかに、陰影、奥行き、重さが実感にもとづき、読む者をひきこませていく。自恃昂然たる思考回路には、学識を傾けた誠意がみちている。 副題は「宗教と文学の格闘的契り」とあり、「高橋和巳は、いわばどうしようもなく∧宗教∨と格闘せざるを得ない文学なのだ」。全五百六十頁にわたる圧巻は徹底的な博捜とともに、著者の精神史ともなって織り出され、編み出されている。身体ごとの時代の恐怖と焦燥が悲愴の文脈となっている。 それにしても、多様なデジタル人文学の表層にそよぐ思考や感性に、時に粛然となり息をのむ。「二十一世紀人類」への慧眼には、どこか醒めた認識がある。単なるテキスト分析に収まりきらぬ漆黒の闇の淵にうごめく危機感の訪れが、なぜか色濃く本書に匂う。 変形する精神が灼きつけ、冷却し、ほのめく虚空には死の郷愁がただよっている。処断と汚辱に内なる曠野が軋む。自己否定の内面化をすすめる破滅願望こそ、生への意志とエロス性をふくむのであろうが、かくして、アンドロメダの渦の光芒もよせつけぬ歳月がむなしく流れていった。剛直な思想体を背すじに凍らせて没後五十年、<忘却の暗渠>に高橋和巳がほほえんでいる。 |
『図書新聞』2020年6月27日号所載 ▲INDEX▲ |