井波律子■京都、そして『対話』のころ

 
 太田代志朗と最初に会ったのは、六七年晩秋だったと思う。(略)
 太田代志朗は、途中で東京に行ってしまったが、大阪育ちらしいシャイなところもある彼は、シンドイ、もうアキマへンなどと口走りながら、相変らずものすごい勢いで本を読み、「雉も鳴かずば撃たれまい」とぼやきつつ、その実少しもめげずに書いているようすだった。

 雑誌『対話』もむろん発行され、太田代志朗は「このひとときは風にみち」などといったタイトルの、とても「浪漫的」な小説を書いていた。彼の感性には、まさしく漢字の「浪漫」がぴったり似合う、やむにやまれぬ自己劇化の衝動のようなものがあり、そうしたパトスの乱反射といった趣きのある作風だった。高橋氏はそんな太田代志朗の才能にたいへん期待を寄せておられるように、見受けられた。(略)
 
 あのころの高橋氏と彼らの関係性には、よくあるような、高名な作家と彼を身も世もあらずあがめる若者たちという、なにやらゾッとさせられる気色わるい結び付きとは、決定的に異質な、もっと風通しのよい爽やかなものがあったと思う。にもかかわらず、私は、太田代志朗ら当時若かった『対話』同人が、高橋氏亡きいまもなお抱き続ける感情のありかたを思う時、いつもなぜか、「眷恋」という言葉を思い浮かべてしまう。男同士の全面的な信頼関係と、そこに賭けられた時を越える思いの深さには、まったく想像を絶するものがり、羨望を感じずにはいられない。

 あれから茫々二十余年。
 太田代志朗のパトスは、短歌という華麗な花を咲かせた。愛娘明日香嬢の夭折は、どれほど情の深い彼に衝撃を与えたことか、考えるだに胸ふさがる。その喪失感の深みから沸き起こった魂の叫びが歌となった、この絶唱『清かなる夜叉』こそ、太田代志朗の更なる旅へのかけがえのない証となることを、願ってやまない。


『清かなる夜叉』栞 1990年11月

▲INDEX▲