南風のたよりNo93


    ドゥマゲッティーから、の便り


     知ってる人には大事件・・・?

     01月某日 ?曜日 ドゥマゲッティーにちょっと長く滞在した人なら一度は食事に行った事が有るレストラン、ロサンテが火事になった。MDSのお客さんはほとんど誰でも一度は行く事になっています。そのロサンテが燃えてしまった。
    火事の前にはレストランの立替の計画が持ち上がっていて、一部ではロサンテの火事は予想されていたらしい。
    と、ボボンが言っていた。JーPOYも言っていた。
    もう既に、立替の計画は相当具体的で、一階は今まで通りレストランで、二階はオフィスと決まっているのだとか。

       01月某日 土曜日 シアトンでフェスタが有るので魚取りに行こうと誘われました。フェスタが有るから魚取りに行く?何の関係が有るのだろうか?フェスタの日に行くと魚が沢山取れるのか?・・・そんな馬鹿な事は無いだろうけれど、たぶん、どうせ魚取りに行くのなら、フェスタをやっているシアトンの方がより一層楽しかろうと言う事なのだと思います。

     あっと、この話の前に、MDSの軽トラの修理の話を書きたかったんだ。
    荷台の床が腐って道路が見えていた軽トラは、鉄板を継ぎはぎ溶接して穴を塞ぎました。シャーシーが歪んで真直ぐ走らなくなっていた足回り、ハンドル回りは、シャーシーを取り替えると言う大手術が施されました。そして、ボディーには全塗装が施され、屋根の日除けのビニールも新品に付け替えられました。もちろん、突然ひっくり返るベンチシートも溶接し、シートのビニールも張り替えました。
    ここまで手を入れて持ち直せばしめたものですが、何しろ年式と走行距離と酷使されている状況から察すると、いつまで持つものやらと心配になります。
    なにしろ、ひどい時には350キロ積みの軽トラに1トン以上も積んで走るのですから。
    しかし、軽トラは見違えるようにキレイになり、しかも、ハンドルもずーんと軽くなって、スクラップ状態からは取りあえず脱出したようでした。
    この修理をしてから、タイヤの片ヘリも無くなって、頻繁だった突然のパンクも今の所治まっています。
    でも、修理費はけっこう痛いものが有りました。総額で25000円も掛けてしまいました。・・・どうやって稼ごうかなぁ、この分。

     と、言う事で、新装なった軽トラに、ビール・コーラ・パン・缶詰めなどを持って、水中銃とダイビング機材一式5名分とタンク10本を積んで、ドゥマゲッティーから南へ60〜70キロのシアトンの街へ出掛けたのでした。
    魚取りの結果から行くと・・・いつも通り、なあーんにも取れませんでした。
    そして、お目当てのフェスタは・・・明日なのだそうです。 何しに来たんだろう、シアトンくんだりまで・・・誰の情報なんだか?

     01月某日 ?曜日 マッツが、タンハイからパンプローナの山を抜けてバイスへ降りるルートでトレーリングに行こうと誘って来ました。
    マッツ・パッツ・JーPOY・私・ノノイ・ヤヨイ・・・総勢6名です。が、しかし、ノノイとヤヨイはトレールバイクでは有りません。XRMと言う、街乗りバイクの足周りをちょっと固めて、おまけ程度のブロックパターンタイヤを履かせただけの、言わばスクーターなのです。しかも、ノノイのバイクは、一昨日納車になったばかりの新車です。可哀想だなぁ、と思ったけれど、マッツもパッツも大丈夫だと軽く言い切っています。しかも、どうしてまたヤヨイまでが着いて来る事になったのか?
    おっと、もう一つ、忘れてならないのは、ノノイのXRMは2ケツなのです。最近コンビのト−ピンが一緒なのです。そして、どう言う訳か、私のバイクの後ろにはエリックが乗る事に。山道ですよ、石や岩だらけのオフロードですよ、二人乗りで山を超えるなんて正気じゃ無いですよ。
     タンハイまで行くには、ヘルメット着用義務地帯のセブランをパスしなければならないのですが、8名分のメットは準備出来ませんでした。それでは、と言う事で、ヤヨイはTシャツを頭から被るアブサヤフスタイルで頭と顔を隠して行ったのですが、別段お咎めも無いようでした。本当にヘルメット必要なのか疑わしくなって来ました。
     山は何時にも増して道が悪く、川を超える場所が3ケ所有るのですが、大雨の後で水かさが有り、どこも乗り切るのに難儀しました。特にタイヤが細く、車高も低いノノイとヤヨイは水を被ってエンジンが止まる事が多く、引っぱりあげるのが大変でした。最後の渡渉では、川から道路までの段差が1メートル程も有り、石を運んでスロープを作って登り切る事になり、全員ずぶ濡れで川から石を運びました。
     もう1ケ所は道路が崩れていて、飛び越すか、迂回するかで議論を呼びましたが、着地に失敗すると谷に落ちるので迂回する事になりました。が、この迂回も、道無き道を下ったり登ったりで、ノノイのバイクが哀れで気掛かりでした。
     私は途中で、ひょっとすると今回はバイクを放棄して山を降りる言になるかも知れないなと思った程でした。しかし、流石のドゥマゲッティートレーリングクラブです。なんとか行けそうな場所を探し、皆で押したり引っぱったりして抜けて行くのです。ルート探しは全部マッツの仕事で、時折マッツは20分程も歩いて下見をして来る事が有りました。
     結果は、バイスに出た時には予定を大きく遅れて日没近い時間になっていました。
    私は、ほとんど順調に来たのですが、誰も転ばないような所でステンと行って、しかも、谷川に転んだものですからひどい目に合いました。そして、悲劇は、転んだバイクを起こした時に、もう既に疲労困憊でバイクを支え切れずに、反対側に倒してしまい、クラッチレバーを折ってしまいました。この時、既に予備は無く、私はクラッチ無しのバイクでバイスの街まで下ったのです。山は割合平気なのですよ、クラッチ無しでも。しかし、街が近くなると停車はエンジンを止めなければならないし、止めればエンジンを掛けるのが困難で、とってもシンドイ思いをしました。
     後ろに乗っていたエリックは、乗っている事よりも降りて走り回っている事の方が多かったようでした。そして、ノノイのバイクは、思った程の傷も無く、まあまあ、なんとか、無事で何よりと言う事でした。
    それにしても、どう言う風の吹き回しでヤヨイが混ざって来たのか、謎です。

     01月某日 ?曜日 酔っぱらったヤヨイが、明日はどうする?モト−ルか?フィッシングか?と聞いて来た。
     夕方、お巡りさんのボボンがぶらりとやって来た。んじゃぁビールでも買って来るか、と言う事で、グランディーを一ケース買に行った。ついでに、つまみも欲しいし、腹も減ったし、晩飯のおかずは最近取れていないし、と言う事で、レチョンマノックを2羽買って来た。
    すると、珍しい事に夕方だと言うのに、ヤヨイが現れた。用事も無いのにやって来るのはとても珍しい。さっそく一杯勧めると、気持ち良く呑んでくれた。そして、しっかりと腰を据えて、呑む態勢に入ってくれた。時々一緒に呑むけれど、それは、いつもビーチで、魚取りの後などだった。
     ヤヨイとはダイビング屋とタンク屋、そして大型のバンカーボートのレンタルで長い付き合いだ。しかし、クリスマスでも、フェスタでも、誕生日でも、何度誘っても、夜に私の家に来てくれた事が無かった。時々、俺の事が嫌いなんだろうか?と思う程に、夜は私の家には近付かなかった・・・いろいろ有って今までは夜は多忙であった事が、この後酔っぱらって判明したのだが。
    と、言う事で、何だかんだと呑み続けて、私が一ケース、ヤヨイも一ケース、ボボンも一ケースにラム酒も1本買って来て空けていた。夜も8時を過ぎた頃には、庭にはダイビング仲間やバイク仲間で10人位が飲んでいた。
     私は、明日は魚取りに行きたいな、とボボンと話した。するとヤヨイが、それなら俺に任せろと言って、7時にサンタモニカビーチでと言う事になった。MDS3が陸に上げてあるので降ろそうかと言うと、面倒だし、取った魚で朝飯を喰うからSAKURAで行こうと言う事になり、ヤヨイが船を出す事になった。と、言ってもホテル・エルオリエンテの沖なので10分も走らない所なのだが。
     結局私は・・・魚はいつも通り取れなかった。 が、一緒に行ったノノイが大活躍して、一人でバギスを5尾も仕留めて来た。一匹は70センチクラスの大物だったので刺身にして食べた。
    ボボンも相変わらずの下手くそ振りで、ゼロ。ヤヨイが2尾。そして、小さな銃でラプラプを狙ったト−ピンがまずまずのアザハタを仕留めて来た。ハタはスープにして、私一人が全部食べた。絶品でありました。
     SAKURAはプロパンとバーナーを積んでいて、船倉で料理をする。ティノーラ・イスダ・・・簡単な魚の塩汁なのだが、魚の臭みが全く無く、美味い。調味料に塩を少しと、生姜とタマネギを少し入れるが他には魚だけだ。ただし、朝の9時頃なのでビールを飲む訳には行かないのがちょっと残念だ。

     01月某日 ?曜日 久しぶりに自分で車を運転してマビナイに行った。友だちのMaricelが久しぶりの休みで家に帰ると言うので、じゃぁドライブがてら俺の車で行くかい?と言う事になって、軽トラで出掛けた。
    途中バイスの街で昼飯用にレチョン・マノックとライスも買った。そして、少しのティノーラも買った。要するに昼飯一式だ。
     Maricelとマビナイまでドライブに行くぞとJーPOYに言ったら、ぞろぞろといつもの皆が着いて来るんだろうなと思ったが、豈図らんや、あっそうと呆気無い返事だった。おい、何か勘違いして無いか?と聞くと、マッツの家で誕生パーティーが有るのを忘れたのか?と逆に聞き返された。あっ、しまった。今日だったっけ・・・。で、結局私はMaricelと約束してしまったのでマビナイに行く事になったが、JーPOYはマッツの所へ行った。
    JーPOYが何だか不機嫌だったが、3時までには帰って来てダーウィンに行くからと言って出掛けた。
     私とMaricelはそれ程親しい訳でも無く、皆とわいわい行くはずが二人きりで行く事になって、一番驚いたのがMaricelだったようだ。車の中で彼女はしきりに自分の家の事を話した。マビナイと言っていたが、国道から脇道に入り、車を降りてから暫く歩く事。年老いた父と病気の母が二人で暮らしている事。兄弟がどこそこへ働きに行っているのだとか、どうでも良い事を話していた。息苦しかったのだろうか。
    私は、マビナイは良く知っていたし、山で暮らしている友人が幾らも居たのでMaricelの話から大凡の要すが想像出来た。私は、国道に車を停めて1時間でも2時間でも待っていても良いと言ったが、Maricelが一緒に行こうと言うので着いて行く事にした。
     Maricelの家までは車を降りてから15分〜20分位歩いた。土地は痩せていて、多分火山の溶岩の痕だと思える岩が露出していた。家は、日本の不動産屋風に言うと「バス停から徒歩30分・電気、ガス、水道、不完備・1DK・三坪のテラス・二坪の物置風別棟有り」とこんな感じの家だった。この家は完全なネイティブスタイルで、高床式に統べて木と竹で出来て居た。床は地面から2メートルも上がっていて、ほとんど2階からの眺めに近いものだった。これだけ床が高いと風通しはとても良く、涼しかった。
     Maricelが父親を紹介してくれた。英語は全く話せず、私の片言のビサヤ語も聞き取り難いようだった。マビナイはネグロスオリエンタル州とオキシデンタル州の境目で、オキシデンタル州側は言葉がイロンゴになる。その影響でビサヤ語とイロンゴが入り交じり、独特のアクセント、イントネーションになっているようだ。  Maricelの母は2年前に卒中で倒れて寝たきりで、挨拶もできなかった。
     私は喉が乾いて居た。国道のサリサリで買って両手に下げて来たグランディーを早く飲みたかったので、Maricelに言ってグラスを貸りた。
     2階からの眺めは、これと言って特別なものは見えないのだが、何だかとても落ちつく風景で、居心地が良かった。私はテラスでMaricelと話している父親にビールを勧めた。少し和んで来た父親が私とMaricelの関係を聞きたがっているのが分かって可笑しかった。Maricelはなんと言ったんだろう。最初の彼女の紹介は私の名前を言っただけだった。私は、ボーイフレンドでも何でも無いよと言って、私の年令を告げた。Maricelの父親は私より7才歳上だったが、日に焼けてしわだらけだった。
     今日はマビナイの街でフェスタがあるので見に行こうとMaricelが言い出した。OKすると、早く昼飯を喰って出かけようと言う事になり、買って来た昼飯一式をテーブルに並べた。この時、近所に住むMaricelの兄と嫁さんと娘が現れた。私は軽く挨拶をして、残っていたビールを兄に勧めた。兄は終始にこにこして無口だった。兄の嫁さんは、山の人らしい身なりで質素だったが、驚く程の美人だった。その娘も、これまたキュートで、カメラを持って来なかった事を悔やんだ。君の兄の嫁さんはとんでもない美人だなとMaricelに言うと、彼女は、この辺は美人の産地だと言って笑った。事実、この家に来るまでに何人かの少女に会ったが、身なりは別にして、皆とても可愛かった。そして、子供の側の木の下で世間話をしている母親達もそれなりに美人だった。
     皆で昼飯を食べた。この時、どうしてライスを買って来たのかが判明した。Maricelの家の主食はマイス(トウモロコシの粉)なのだ。私がマイスは食べないだろうと思って買ったのだ。テーブルに朝の残り物のブラッド(干し魚)が出されていた。私はチキンよりもブラッドが好きなのでそれを少し貰って食べた。それを見て兄が口を開いて、きれいな英語で、どのくらいドゥマゲッティーで暮らしているのかと尋ねて来た。私は、ブラッドで飯を食べるからかい?と聞き返した。Maricelが答えて、もう7〜8年居て、ドゥマゲッティー市内に家が有って、と簡単に説明した。
     早い昼食を終えてマビナイへ行く事になった。家から出て周りを少し歩いてみると、ドゥマゲッティー界隈では余り見かけない植物が在った。野生のコーヒーやグアバ。バジルやニホンハッカにそっくりなミントも自生していた。
     マビナイのフェスタはオキシデンタル側の影響を受けているらしく、パナイ島のアティアティハンの祭りと似たようなダンスを踊って町中をパレードするものだった。全身を真っ黒に塗って腰ミノに槍と盾を持って踊る姿はなかなか迫力が有った。しかし、一糸乱れぬ、とはならない所がフィリピンらしい。踊りの他はどこの山のお祭りも一緒で、物売りのテントが立ち並んで、何処から湧いて来たのかと言う程の人が溢れかえっていた。
     Maricelと私は物売りのテントを少し見て歩いて、一緒について来た近所の子供らへアイスクリームを買って戻った。
    帰り道、Maricelの父親を闘鶏場の前で降ろした。父は土日はいつもここに居るのだ、とMaricelが言った。
    Maricelも他の山の人達と同じで、ドゥマゲッティーの暮らしは好きでは無いと言って、ここへ戻って来たいけれど、と歯切れ悪く呟いた。
    たぶんMaricelが稼ぐ3000〜4000ペソが大切な現金収入なのだろう。
     国道で乗り合いのお客を降ろすと雨が振って来た。ワイパーの調子の良く無い軽トラは視界が悪がった。ドゥマゲッティーには3時までに帰れそうも無かったが、気持ちの良いリズムのFMを聞きながらのんびり山を下った。
    Maricelは、走り出してからずっと眠ったままだった。

       ではまた。


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