南風のたよりNo89


    ドゥマゲッティーから、の便り


     地熱発電

       朝飯を食べて椅子に座ってボケ−ッとしていたら、ラムズがやって来た。夜のお祈りの時間(ミサと言うらしい)まで暇だから、パッツも誘って山へ行こうと言い出した。面子が揃って走り出してみたが何故かしっくり来なかった。メンバーが一人足りないからか?。
    シティーリミットのいつものシェルでガソリンを入れた。 おいおい、パッツ以外は金を持っていないって、何を言い出すんだお前らは・・・と、まあ、毎度の事では有りましたが。しかし、マッツよお前までいっい全体・・・。パッツが私の顔を見て笑っていた。俺の心境が分るんなら、幾らか出してくれよ、大金持ちなんだから、さ。
    ヘルメット着用が義務付けられたセブランを、全員ノーヘルで無事通過。そして、ヘルメット着用絶対不可のアムランを通り越して、でも、バイスまではまだちょっと距離があるかなぁ?と思う辺りから山に向って左折した。やっぱり今日も、道だと言えたのは最初ばかりで、少し登って行くともう道とは言えない有り様になっていた。最近は夜や早朝に雨が振るので晴天だが道はぬかるんでいた。赤土の泥道はとても良く滑る。登りがきついのでローギャ−しか使えない。しかし、それでトルクが掛るとタイヤが滑ってしまって結局登らない。両足ぺたぺたで足漕ぎしながら何とか勘とか登って行くが、登ればやがて何処かで下る事になる。フロントブレーキを握ろうとして指を掛けただけでもうタイヤはロックしてスケート状態になる。リャブレーキだって踏んでもいないのに、エンジンブレーキでロックしている。いやはや、どうすれば良いんだと思っているうちにバイクはあらぬ方向に滑って行く。
    必死の思いで下って来たら、何だか見覚えの有る景色になって来た。セブランから上がって来たジャパニーズラインへ行く道の交差点に出たようだった。ここは見晴しがとても良くて、ドゥマゲッティーの街、セブラン、バイス方面、スミロン、シキホールと良く見える。そこから下ってパンプローナの温泉を通り、地熱発電所の脇を廻り、バレンシアの上のカサロロへ登る道へ入って行った。
    カサロロへの道は行き止まりで、滝へ降りる階段のある所迄しか行けない。ここは隣の山の地熱発電所を建設していた時に、日本人の技師が谷にケーブルを掛けて滝を見られる観光名所にしようとしたらしい。あくまでたんなる噂で、本当かどうかは分らない。でも、この行き止まりには、建築途中で放棄された建物も有るし、行き止まりから上も歩いてなら登れる、嘗て作業用だったと言う山道もまだある。噂とは言え、どうしてそんなに詳しく分かったのかと言うと、なんと、マッツは鉄筋の溶接工として、ジェフリーは資材運びのトラックの運転手で発電所建設に係わっていたからだった。マッツとJ-POYの馴れ初めはそれだったようだ。でも、この二人の噂話しの信憑性は、二人とも生っ粋のドゥマゲッティー人である事を念頭において下さい。
    ここには、KASARORO FALLS と呼ばれる落差30メートルくらいの滝が有る。ずっと下の谷底に降りて行って見る事になるのだが、その道がまた凄い。急傾斜の階段が335段、谷底に向って続いている。一つの段差がまちまちで歩き難い手作り感たっぷりのコンクリートの階段の谷側に、申し訳程度の手摺が有って、其れにしがみつきながら降りて行く。所々には、鉄でできた、階段と言うよりも梯子に近い場所も有った。下まで降りると遊歩道が有って、行き止まりの谷底に滝が有る。そこでも工事が中断されて放ったらかしの展望台らしき物が有った。滝の真下迄行くには、ずぶ濡れ覚悟で川を渡らなければならない。滝つぼでは、たぶんバレンシアのフォレストキャンプ辺りから歩いて登って来たのだろうと思われる、若い男女のグループが水浴びをして騒いでいた。滝つぼ近くは鬱蒼として陽も当たらず、肌寒くて、私は水浴び出来る気分にはならなかったが・・・。
    滝と滝つぼ見学はさして楽しくも無い割に、帰り道はとてもシンドイ思いをする。感激度と疲労困憊度を比較すると、2対8位だろうか。大股で登る355段は、もう二度とゴメン被る。それにしても、ジジィのパッツよりもJ-POYの方が足腰は弱っていた。まあ、あの腹だからね。
    バイクに跨がっても踏ん張り足が効かないほどにガタガタになって山道を下るのは、これまた辛い。しかし、幸いな事に、バレンシアのフォレストキャンプは下ってすぐ近くなのだ。
    バレンシアでマッツとジェフリーの友人の家に立ち寄った。2日前にフェスタが有った街だから、何か食い物に在り付けるだろうと言う魂胆だったようだ。その目論見はストライクで、祭りの残り物の御馳走が沢山出されて、まるでフェスタそのものだった。おまけに、レッドホースをジャンジャン開けて注ぐものだから、飲ん兵衛のラムズと私は集中放火を浴びて、昼飯時から酔っぱらってしまった。
    バレンシアのお昼御飯はほとんど宴会になってしまって、思わぬ時間をくってしまった。
    途中で何度か弱い雨に振られたり、バイクの跳ね上げる泥で汚れていたので、誰もがシャワーを浴びずにはダダのところへ行けない状態だった。パッツとマッツはマングナオには寄らずに直接家に帰ると言う事で、我々酔っ払いを放って飛ばして帰って行った。私は程よい酔っ払い、ラムズはほとんど出来上がった状態。ジェフリーは、まだ少し正気と言う事で、ジェフリーが先頭でゆっくり走り出した。安全運転、安全速度を心掛けるのは良いのだが、バレンシアからの下りの道は他の車やバイクのスピードが早く、下手にもたもた走っていると余計に危険に感じられた。が、酔っ払いだから、大人しく、ゆっくりと、時折ふざけながら、大声で歌なども唄いながら家に向った。

     ヘルメットの話し

     ドゥマゲッティーと、その近隣の街でも9月頃に、ヘルメット着用の話が持ち上がった。そして、セブランではあっさりとそれが義務付けられた。義務付けられたセブランの言い分は、若い人達を中心に事故で亡くなる人が絶えないからだと言う、とても真っ当な言い分であった。では、ドゥマゲッティーでもヘルメット着用の話が再三出ていたが、今回も見送りになった理由は何かと言うと、今回はいつもの住民の反対では無かった。
    ドゥマゲッティーでは、10月のある週に4人の男が銃撃され射殺される事件が起きた。これは独りづつ、別個にだった。街の噂では、アロヨ大統領の覚醒剤撲滅の命を受けた警察がシャブの売人の掃討作戦を敢行していると言うもので、売人にシャブを卸すのも警察官で、それを売らせて買った客を捕まえ、長く続けると危険なので、シャブ取り引きのごたごたに見せ掛けて売人を始末していると言う噂が流れている。4人目の時は朝の10時位に、人通りの多いサウスロードのバレンシアロードとの交差点、南へ行くジブニ−の発着所の前で起きた。ロビンソンデパート建設中の広場の前と言えば分かりやすいかも知れない。
    この度重なるヒットマンがいつもヘルメット着用で、バイクで事に及んでいるので、ドゥマゲッティーではヘルメット絶対不可にしようと言う声さえ上がっていた。そんな訳で今回もドゥマゲッティーはノーヘルで通せる事になった。めでたしメデタシである。
    ちなみに、4人目は、殺られる数日前に、マングナオで酔っ払いながら皆が口々に次はあいつだろうな、と言われるほど有名なシャブの売人だった。これで、今年一年間では、もう10にんではきかない人がシャブの取り引きやもめ事で殺されている。
    流石に鈍感な私でも、ロオックとティナゴとロックライトのシャブ地帯には近付かなくなった。間違って撃たれたり、流れ弾なんて言うのも無いとは言え無いですからね。でも、普通の人の普通の場所での生活は、いつも通り、至って平穏です。

     WEESAM EXPRESS と言う高速船

    8月だったか、9月だったか忘れましたが、ドゥマゲッティー〜ボホール経由〜セブの高速船が就航しています。
    ドゥマゲッティー〜セブは一日一往復です。
    セブ発 午前6時00分 タクビララン着後 8時10分発のドゥマゲッティー行に乗り換えが必要です。ドゥマゲッティー到着は大体10時頃です。(まだ乗っていないので定かでは無い)
    ドゥマゲッティー〜セブ行きは午後2時発、タクビラランで乗り換え、4時10分発〜5時50分頃セブ着。
    料金は片道610ペソ。往復割引で1100ペソ。その他にも早割が有るようです。
    私はドゥマゲッティー午後2時発のセブ行きにしか乗った事が無いのですが、オーシャンジェットより2割り方安いですが、どちらも一長一短だと思いました。WEESAM EXPRESSの船内はとにかく寒いです。私の格好はジーンズにTシャツの上に長袖のセーター。足下は靴下にスニーカーと言う、日本の秋の装いでしたが、それでも寒くて震えていました。
    オーシャンジェットも寒いですが、WEESAM EXPRESSの寒さは尋常では有りませんでした。そして、船がうるさいのも気になりました。

    WEESAM EXPRESS の出港前

    WEESAM EXPRESSは相当早くドゥマゲッティーの港に来ているようだった。北ミンダナオのダピタンからドゥマゲッティーを経由してボホールのタクビラランへいく船だ。私は出港30分前に港に行ったのだが、既に船は乗船を開始していた。乗り込んでみると乗客はまばらだった。こんなにまばらな乗客なのに私の席は3人掛の真ん中だった。私はシート番号を無視して適当な所に座っていたが、私以降に乗船して来た客も無く、何故こんな席の配分をされたのか理解出来なかった。これもまあ、フィリピンだからとしか言い様の無い話だ。
    出港迄の数分の間に若い男女が二人乗り込んで来た。二人は船の前と後ろに分かれて乗客に何やら話し掛けていた。女性の方が私の所へ廻って来て、ビサヤ語で何やら言い出したが理解出来なかったので、私は彼女に、英語で頼むと言った。それを聞いて彼女は驚いて、私をフィリピン人だと思ったと言って、説明を英語に切り替えた。英語の説明になったところで、結局良くは分らなかったのだが、彼女はシリマン大学の学生で、もうすぐ試験が有ってお金が必要なのだが、家からの仕送りも少なくて困っている。ついては、少し寄付をしてくれないかと言う事らしかった。寄付のお礼には手にしていた、マリア様とキリスト様と、何だか天使の家族のような、3種類に絵柄が変化する素敵なお札を差し上げますから、と言う事のようだった。私は日本人でブッティスとなので寄付はするけれどもお札はいらないと言った・・・つもりだったのだが、通じていなかったのか、ニコニコ笑いながら、ブッテイストでも神様は祝福してくれるのだぞ、みたいな事を言って手渡して行った。私の寄付金は50ペソだった。


      仏教徒にも御利益があるらしいお札、と、裏側の言葉

    ロビンソンデパート

    11月開店予定のロビンソンデパートは、多分間に合うだろうと思う。私の記憶の中では、フィリピンで堂々と宣言した予定期日がビシッと守られるのを見るのはこれが初めての事だと思う。
    何せ、フィリピン政府が音頭を取って進めている、セブの東アジアサミットの会場でさえ、会議の日程迄には絶対に間に合わないと太鼓判を押されている国なのだ。(06年10月25日現在)ロビンソンデパート、恐るべしだ。

    鶏の話し

    雨が振って冷える。その後晴れて気温が上がって蒸す。これが繰り返されると放し飼いになっている鶏が何羽か死ぬ。
    ジェフリーは鶏に抗生物質とビタミンの混合薬を与えたいと前から言っていたのだが、私は、天然放し飼いの限り無く野生に近い鶏にこだわって居たので反対し続けていた。しかし、雨の度にヒヨコが死ぬのが可哀想になったので、液体型の薬を与える事に同意した。これを投与すると耐久力は向上するのだが、食味が落ちると言われている。しかし、発育途中で死んでしまっては食う所迄行かない訳だ。相当数の雛が孵って、沢山のヒヨコが庭を駆けずり廻っている割には、私は食べた事が無い。
    そんな訳で、死んでしまっては元も子も無いと言う事に気がついて、薬を与えるようになって2ヶ月目。とうとうその日はやって来た。
    夕方、晩飯は何にする、と聞いたら、ジェフリーでは無くラムズがチキンと言った。私は目線でジェフリーを見て、三羽の中で一番大きい雄鶏を顎でしゃくった。ジェフリーが眉毛をピクッと動かして、そうだと言う合図をした。私は何だか少し興奮した。やっと鶏が食えるのかと言う感激と、一方で、あいつを絞めるのか、と言う思いが交錯した。
    絞めて食べるのは基本的には雄鶏だけなのだそうだ。雌鳥が何羽いようとも、有精卵のための雄鶏は一羽で良いのだそうだ。そして、例えば今日生き延びられた雄鶏も、何れは世代交代の為に確実に絞められるのだそうだ。
    豚を絞める時もそうだが、この国の男達は実に手際が良い。鶏などの小物は雑作も無いようで、鶏に一声も発する時間を与えずに一気に始末してしまった。そして、鶏の血も捨てずに調理するのでボールに集める。固めて血は後でアドボに入れるらしい。
    絞めた鶏の下処理をラムズが黙々とやっていた。私も手伝ってお湯を湧かしたり、毛を捨てる穴を掘ったりした。鶏をタライに入れてお湯を掛けて毛を抜くのだが、簡単そうでなかなか難しく、そして面倒な作業だった。
    簡単に鶏を絞めて喰うと言っても、卵を孵化させて、雛を育てて、大きくなったてから絞めて下処理して調理して、食卓に登った美味そうな格好からはなかなか想像出来ないだけの手間ひまが掛る事に、今更ながら驚いた。
    鶏を絞めるくらいの事は知っているつもりだったが、終始立ち会ってみると、現実と聞き齧りの半端な知識では生臭さが全く違っていた。生き物を喰らうと言うのは、凄まじい事なのだなと改めて実感した。
    さて、理屈はどうであれ感情もどうであれ、とても腹が減っていた私は、哀れな鶏の姿を見た後でもなんと言う事も無く、アドボとティノーラに変身した鶏を美味しく食べさせてもらった。
    翌日は、一羽になってしまった雄鶏の朝のコケコッコ−の声が心無しか淋しげに聴こえていた。

    ではまた。


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