南風のたよりNo80


    ドゥマゲッティー便り


       小さな、話題


     ローカルルールも行き過ぎると・・・

     3月某日、お客さんが2名しかいなかったのでボートはMDSを使った。いつものようにダーウィンまで車で行ってそこからアポへ向ってボートを出した。
    のんびりと一本潜ってチャペル前のビーチにボートを着けて、少し早いけれど昼食にした。
    天気は上々、少し風が強いがアポ島らしい青空が広がって良い感じのダイビング日和だった。
    数日前まで続いていた雨で透明度は今イチだったが、ココナッツの流れがほど良く、気持ち良いドリフトを楽しんで休息に入った。
    先月からアポ島にはバランガイホールがオープンした。コンクリートの立派な、言わば村役場のような物で、入島料や係船料もそこの事務所で払う事になった。
    食事の後にお客さんがお土産のTシャツ攻撃をを受けている間にダイビングフィーを支払に行って来た。二人分の料金650ペソを支払って、軽い冗談を言って戻って来た。
    しばらくウトウトしていたらダダが私を呼びに来た。ボートのパーミットが不備だから罰金がかかると言う事らしかった。パーミットの件は知っていたので私はすぐにオフィスに行って事情を説明した。セブのマリーナオフィスからボートのレジストレーションペーパーが戻って来ていないので、ダーウィンのボートパーミットの手続きが出来ないでいる。ダーウィンのオフィスに足を運んで支払をしたいと言った時に、ナンバーが分らないから受け付けられないと言われた旨を伝えた。しかし、島の役場のスタッフは頑固に受け付けなかった。上位の役所の滞りが原因なのだから私に責任は無いと言い張ったがどうしても罰金を取りたい様子で、どうにもなら無かった。こういう場合いくら説明しても時間の無駄で、堂々巡りをする事が分かっていたので罰金を払った。ここで悪態をつくとまたややこしくなる事も学習済みなので、精一杯の抵抗の意思表示として、風の強いテーブルの上に札を投げ出した。案の定細かい札で出した450ペソが散り散りに飛んだ。ざまあみろだ。
    アポ島のボートパーミットはローカルルールでこの島にしか無い特別ルールだ。フィリピンではその地域に関わるルールはほとんど勝手に決める事が可能だ。法的にどうのこうのと言う事よりも、そのルールの摘要範囲の力関係で決まってしまう。私達MDSはドゥマゲッティーの住民なのでダーウィンの管轄内ではほとんど無力だ。それどころかダーウィンの市長とはダイビングフィーのことで何度か喧嘩さえしていたので私は特に評判が悪いようだった。
    この日、他にもドゥマゲッティーのボートが3艘罰金を払ったらしい。このローカルルールが違法なのは分り切っているが、誰も正面切っては何もしない。
    こんな書き方をすると「アポ島のダイビングでごたごたが有るのか」などと思われてしまうかも知れませんが、お客さんには何も変わらない、いつものアポ島が待っているだけです。御心配無く御出で下さい。

    ボートから落ちた ダダ

     ダーウィンからアポ島へ向う途中、ちょうど中間点位の海でダダがボートから転落した。ボートの後ろでウエットスーツを来ていて高波を喰らった時にバランスを崩したようだった。落ちながら大声を発したので落ちた事はすぐに分かったし、ウエットスーツを着ているので浮力は有るし、何よりもダダはベテランダイバーだから慌てる事は無いと私は思ってみていた。ペラに当たった様子も無く、怪我もしていないようだった。しかし、ダダは何だか必至の形相で船に向って泳いでいた。ボートのキャプテンも慌てていたし、助手のアンアンもただならぬ顔つきでダダに投げるロープを準備していた。
    バンカーボートは小回りが効かない船で、MDSの小型ボートでさえも信じられない程大きな回転半径を必要とする。しかも救助は風下から行かないとうまく無いので一旦やり過ごして体勢を整えてからまたダダを拾いに行った。たいした時間でも無いのにダダは相変わらず必死にもがいていた。1メートルでもボートに近付きたがっているのがありありと分かった。
    ダダは程なく、何と言う事も無くボートに引き上げられた。しかし、水面で暴れまくったダダは疲れ果てた様子でぐったりしていた。まあ、一本目はココナッツだからガイドは私だし、あと20分は休めるからと放っておいた。
    夕食の時にジェフリーを交えて、ダダが落水した事が話題に登った。私は大笑いしながらダダの慌てぶりを囃し立てたが、意外にもジェフリーが乗って来なかった。ダダやボートマンが慌てていたのは無理からぬ事だったようだ。原因はサメだ。あの辺りの潮の中には季節によって大型のサメがいるのだそうだ。体長は3メートルから5メートルと言うから、ホオジロとかアオザメなどの類いなのかも知れない。夏、この辺りがカツオの季節になると現れると言う。
    私はベタ凪ぎの時にイルカの群れの後ろについて歩くサメの背ビレを何度か見ていた。だから居るのだろうな、とは思っていたが、まさか人をかじるサメがうようよ居たとは知らなかった。みなさん、くれぐれも深いところでボートから落ちないで下さいね。ああ、でも、アポ島からは3キロ以上は離れていましたし、アポ島ではホワイトチップの1メートルさえ見られる事は稀です。安心して下さい。

    バイクの手入れが・・・

       私の自慢の愛車「ホンダ XLR125R」は、当然と言えばそれまでだが、やはり年式相応にくたびれているようだ。
    先月クランクケースのパッキン・・・ガスケットなのか?を変えて止まったはずのオイル漏れがまた始まった。たった一度山へ行って来ただけなのに。
    スターターコイルがへたっていると言われていたが、とうとう掛らなくなって撒き直しも必要になった。
    それらを直してもらって、なおかつ、次のツーリングでパラワンに行く時に何事も起きないように点検とチューニングアップをしてくれと、いつものバイク屋に持って行った。
    OKOK、任せておけと言われて置いて来たバイクだったが、翌日バイク屋から電話が来て、思ったより金が掛るかも知れない旨の連絡があった。
    私は「ホンダ XLR125R」が死ぬ程好きなのでは無かった。本音を言うとバイクなら何でも良いのだ。山バイクでツーリングに行く程度のバイクなら別にこだわりなんか無いのだ。だが、しかし、ジェフリーに乗せられて2台も「ホンダ XLR125R」を買う羽目になってしまっていた。それも、私の見立てでは、クラッシックバイクを通り越して、スクラップに近い程度と思う物だ。今私が乗っている「ホンダ XLR125R」は65000ペソですぞ。フィリピン人が嫌うタイホンダのXR200の新車は90000ペソで買えるのに。
    ああ、後悔先に経たず・・・何度も、なんども、何度も、だ。
    我が家の出来の悪い娘を見る時に、なんとか良い方向で見てやろうとする親心にも匹敵する目で「ホンダ XLR125R」を見て来たのだが、何だか限界が近付いた感じだ。
    ゴールデンウィークで儲かったら、こいつを売り払ってXR200の新車を買ってみたい。しかし、多分それは無理だろう。GWにそんなに客が有るはずが無いもの。
     ついでに、お買い物バイクの方も少しづつ手入れが必要になって来て、オイル交換の序でにチューニングアップをした。
    二人乗りをすると直ぐに空気が抜けてしまう後輪のタイヤも交換した。日本製の高級品「井上タイヤ」は買えなかったので、中国製の物を250ペソで買った。工賃は50ペソだった。

    日本軍駐屯地 跡

     ドゥマゲッティーの町の中心部からシリマン大学の門を通って、サウスシーのホテルの方へ向って行くと、右手に台形とも言えない、変な形のコンクリートの固まりが見える。それが旧日本軍駐屯地の跡を示す唯一の名残りだそうだ。今は狭い空き地に鉄条網の柵で囲われて、それだけがポツンとある。
    20〜25年前には兵舎や武器庫などの建物も残っていたらしいが、それらは全部取り壊されて今では用途も不明な不思議なコンクリートの固まりが残っているだけになったそうだ。
    だいぶ前にマングナオの近所の年寄りにヤハラソンビーチとサンボンギータの日本軍のキャンプの話を聞いた事があった。しかしドゥマゲッティー近辺にどの程度の人数が駐屯していたのかなどは誰も答えられなかった。
    日本軍が進駐して来た時には物資が豊富で、フィリピン人に食料や医薬品を分けてくれたのだが、戦争が激しくなると物資が不足して、日本軍もフィリピン人も食料が無くなってひどかった、と言う話なども聞いた。
    バレンシアの山のずっと上に日本軍の兵隊の墓がたくさんある事も聞いた。海岸沿いの駐屯地が艦砲射撃でやられ山に逃げたが、そこも砲撃されて多くの日本兵が山で亡くなったのだそうだ。今でも墓参に来る日本人がいるらしい。

    バイクのパーツ

     日本に戻る度にバイクのパーツを買い集めてドゥマゲッティーに運んでいる。日本でもそこそこ仕事らしいものが有るので、パーツ集めに専念、没頭などは出来ないので、もっぱらインターネットのオークションなどを頼りに集めている。
    先日、格安で125R用と言うキャブを買って持って行った。これの用途はバイクでは無くてパムボート・MDSの予備エンジンに搭載する予定で買った物だった。
    運賃込で2500円程度のもので、これはオークションでも格安だった。しかし、結果的にはそのキャブは中が腐っていて使い物にならず、ゴミを買っただけに終わってしまった。安物買の銭失いがまたも勃発だ。
    ダイビングのレンタル器材が痛んで買わなければならなくなった時にも、今回と同じようにネットオークションで安く買えればと思ってチャレンジした事があった。しかしその時もやはりゴミを多く集めただけで、結局まともな物はほとんど手に入らず、高い買い物についていた。
    それにしても私は、学習能力が低いのか、忘れっぽいのか・・・まあ、バカなのだろうと言う事は自分でも勘付いてはいるが、何度も、なんども、何度でも同じような失敗を繰り返す。
    が、しかしだ、こんな性格でも無ければフィリピン人に囲まれて快適には過ごせないので、これで良いのだ、と思う事にしている。

    セブランの港の待ち合い室

     ここの待ち合い室がまた様変わりした。
    だんだんフィリピンらしく無くなって行くと言う事は、一般的には良くなっているのだと言えるのだが、私にはそれが寂しい。
    セブランとリロアンを結ぶ渡し船の航路は、私が知る限りでは、ずっと昔から認可も許可も無く、バンカーボートを持っている人が気紛れにやっていたのが始まりだと思う。
    そのパムボートは渡し船でありながらもダイビングのチャーターなどで、もっと実入りの多い仕事が入ると何処かへ行ってしまう事があった。だから不定期船だった。もっともその当時はリロアンからセブへのブィハイヤーも無く、ハイウェイに出てセレスなどのバスを拾うしか無かった。ハイウェイがまた結構な代物で、今日とは比べ物にならないひどい道だったので、ドゥマゲッティーからセブへのルートで陸路はそれほど重要視されていなかった。
    陸路が重要視されなかった理由は何度も書いているが、海路の便利さに加え当時はセブからの空路さえ有ったからだ。
     セブランからリロアンまで新しい連絡船が就航したのは3月14日だった。その日に合わせてリロアン側の桟橋と待ち合い室が整備された。リロアン側の桟橋は今も工事が続いていてまだまだ拡張される。そして、ゆくゆくは以前就航して半年程で廃止になった、ドゥマゲッティーのピアとリロアンを結ぶ航路が再開されると言う噂だ。
    この連絡船の就航が切っ掛けでセブランの待ち合い室の雰囲気が変わった。以前はパムボートのチケット売りのテーブルには、あまりガラの良く無いボートの船員が座ってチケットを売っていた。しかし今度就航したCRAFTのテーブルが若い品の有る女性を採用してから、パムボートも人選を変えて来た。
    たった5〜6年前まで、ニッパ椰子の屋根だけの小屋の下でチケットを売り、少し風が吹けばボートが着けられずに往生した頃の面影はもう無い。


    ではまた。


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