南風のたよりNo65


    MDS・慰安旅行?・・・ドゥマゲッティー〜セブ〜バンタヤンの旅


       
     2005年5月19日、セブでMDSスタッフ全員と待ち合わせ。
    私は日本から大切なお客様のM様と同行して、PR433にてセブ入り。M様と私は手ぶらに近い手荷物のみで、急ぎ足で入国審査を目指す。ほぼ満席でビジネスにも客がたくさん居たようだったが、最前列を確保。あっという間に外に出てタクシーを拾い、いつものMホテルへ向う。シートベルトを外してから15分ほどしか掛かっていなかった。
    Mホテルでは午後一時に到着したと言うスタッフが既にチェックインしてリラックスしていた。スタッフは全員で4名。軽トラBOMBEE号にタンク12本とダイビング器材5名分を積んでドゥマゲッティーから走って来ていた。運転手はセブでセレスバスを運転していた事のあるボボであった。
    私とM様が到着するのをロビーで待ち構えていたスタッフは、開口一番「腹減ったから何か喰わせろ」と言い出した。決して我々を待っていた訳では無く、金が無くて飯が喰えなかったから待っていただけだったようだ。
    それでも一応は「お疲れさま、M様、私達は皆、貴方に会いたかった」などとお世辞を言うのは忘れていなかった。なしろ今回のメインスポンサーはM様であり、彼の企画でバンタヤン島行きは実現したので、スタッフ全員がM様には本当に感謝していた。

    5月20日午前6時30分。軽トラには器材と、荷物監視役のダダを荷台に乗せ、運転手がボボで助手席にジェフリーが乗った。我々はハイエースのバンに寝転がってバンタヤン島行のフェリーが出るハグナヤの港を目指した。
    ハイエースを運転するのはリロアンとセブの間を走るブィハイヤーのドライバーである。前だけ見つめて疾走する飛ばし屋であった。ボボもドライバーとしては凄腕ではあるが、如何せん車がBOMBEE号ではなぁと心配していたが、どうしてどうして、ボボの駆るBOMBEE号はタンク12本を積んでいるにも係わらず、全く遅れを取る事無く着いて来ていた。

    私はセブノースロードを町外れまでしか知らない。サウスロード、サンタンデールのリロアン行きと大した違いは無いだろうと思っていたがノースロードの雰囲気は大違い。セブの隣町、リロアン(どちら側にも同じ地名が有る)から先は海から離れて山沿いを走る。サウスロード側では見かけないサトウキビ畑が見られた。山沿いに入るとボゴの街までレストランもガソリンスタンドも無く、全体にサウスロードより人口密度が低く田舎の気配だった。セブとボゴは100キロ少し有る。
    そして私が見る限りではセレスが走っていない。曝走するセレスを私は往復とも見かけなかった。

    20日午前9時30分ハグナヤ到着。本来100キロちょっとなのでこんなに時間は掛からないのだが、ガソリンを入れたり、食い物を買ったり、ビールを買ったり、小便をしたりと途中休憩が多くて時間が掛かった。
    ここで軽トラをバンタヤンまで運ぶかどうかで思案した。私は情報収集に歩き回った・・・と、言っても港の近辺のポーターやトライシクルのドライバーに聞いただけだったが。彼らは口々にフェリーに車を積んで行くと高く着くから置いて行けと言った。私はバンタヤンに渡るフェリーの乗船待ちをしているトラックのドライバーにも島の交通事情を聞いてみた。彼曰く、レンタカーは皆無。ホテルのバンが多少有る程度。トライシクルは有るが台数は少なく、ダイビング器材の運搬と自分らの足を確保する為に車は必要だろうと言うアドバイスだった。
    バンタヤンは小さな島だと思っていたが、私のイメージよりも大きな島のようで、自由に動くには車は必要だなと判断して乗船手続きを開始した。
    フェリーの料金はそれ程高くは無かった。軽トラ1台に運転手1人で850ペソ。残りの乗客はノンエアコンで100ペソだった。しかし車を乗せるまでには4箇所の関所が有り、なんだかんだと金をむしられる。例えばターミナルフィーと言う名目で金を払った後には、ポートエリアの入場料だと別口が来る。挙げ句の果てには車の積み込み桟橋の利用料だと言う金を徴集され、もう一つ、理由を忘れた料金が掛かり、トータルで1600ペソ程になった。これらの◎×料は往復で取られるので結構な額になる。ポーターが言ったのはこの辺の事だったのかも知れない。

     

    ハグナヤの港近く

    岸壁から町方向を望むが、ほとんど何も無い

     

    海方向岸壁を見る

    これもバンタヤン島行きの連絡船。車は積めない。

     

    フェリーの積みおろし

    ここでも日本で退役した古い船が活躍していました

    10時30分出港、12時着と言う事なので所要時間は1時間半。この1時間半は距離にしたらとっても近いのだが船足が遅いのでこんなに掛かる。
    瀬戸内海のような内海を静かにゆっくり走って行く。スタッフは車を積んである一番下の甲板の空きスペースで、てんでに寝ていたし、私とM様は風通しの良いデッキのベンチでビールなど呑んでくつろいでいた。
    船の上から見る景色にこれはと言うものも無く、水も内湾らしくどんよりとしたグリーンだった。ドコドコと単調な音を刻む古いエンジンの音に誘われて私もいつしか眠ってしまった。
    ほぼ定刻にサンタフェに接岸したフェリーからは先を争うように乗客が降り、誰も降りる人が居なくなってから車を降ろす。私らの軽トラは一番奥で最後に降ろされた。海沿いなのに風が無く、コンクリートの桟橋は灼けて暑かった。

     

    近づくバンタヤン島

    島で一番高いのはヤシの木だ。

     

    フェリーを降りる軽トラ

    500トン位のフェリーで中は結構広い

     

    ぞろぞろと桟橋を歩く乗客

    乗り物が少ないので先を争うようだった

    ビサヤチキンにハンギングライスの昼飯を食べて飯屋のおばちゃんに安くて良いリゾートは無いかと訪ねたが、返事は曖昧で適当なものだった。私の聞き違いか理解不足かも知れないが彼女は「適当に走っていれば看板が目に入るだろう」と言うものだった。が、狭い島だ。それもそうだなと言う事で適当に走り出した。
    バンタヤンアイランドのリゾートホテルの宿代は、ドゥマゲッティーと比較すると相当に高かった。セブの金持ちが週末に遊びに来るだけ有って、一部屋2000ペソは当たりまえで、上は60ドルだの70ドルだと言われた。結構な門構えのリゾートを数軒当った結果一部屋1200ぺソは覚悟したのだが、いざ空き部屋を訪ねると土曜日は満室だと言う。聞いて廻った日は金曜だった。
    一晩泊ってまた移動と言うのは面倒臭いので土曜日も空いている宿を探したが、当っても当っても土曜日は満室だった。ブルーマリンと言うリゾートのスタッフがレンタルコテージを紹介してくれた。しかし、一晩800ぺソはとても納得できる値段では無く、また自力で探す事にした。
    今晩は良いけれど明日はダメと、また同じ事を言われたリゾートでバンタヤン島のリゾートの案内パンフレットを見つけた。既に廻った宿が殆どだったが、いくつか当っていない宿が載っていた。よーし行ってみようとジェフリーが気合いを掛けた。しかしどこの宿も電話番号が書いてある。なにも動き回らずとも電話で聞けば良いでは無いかと、満室で断られたホテルの涼しいロビーに座り込んで電話攻撃を開始した。
    電話を始めて3件め、ビーチに面したコテージで1泊650ぺソ、2日ともOKと言うのが見つかった。早速行ってみればなかなかのリゾート。エアコンもテレビもプールも無いが、私らには一番ぴったりの宿が見つかった。ホワイトサンドのビーチに面し、ヤシの木と花に囲まれたコテージは思ったより素敵だった。雰囲気からは欧米のバックパッカーが好みそうな宿だと思った。しかし、こういう所はフィリピン人の金持ちは全く興味が無いので土曜の夜も空いていたのだろう。ヨーロピアンのバックパッカーのシーズンも既に終わっている。

     

    ホワイトサンドビーチとリゾート

    プラスチックの安物の椅子に座ってビールを飲む、美味い。

    ここはフ−カー潜水の漁をしているようで、遊びのダイバーに対する反応がフィリピンには珍しく冷たかった。たぶん漁法が御法度のダイナマイトなのだろう。水中には来て欲しく無いのだろうと思う、が、これはあくまで私の勝手な推測だ。
    私もダイバーだが、ビニールホースを口にくわえて潜る芸当は多分出来ないと思う。当然ウエッスーツも着ていない。フィンは片足だけ、ベニヤ板をくり抜い物を使うか、獲物によっては重り漬けにして水中を歩く。深度計も時計も持たないから、窒素の影響も勘で決めるしか無い。多くの人が減圧症でやられるが、勿論チャンバーも酸素も、近代的な医療は望もべくも無い。軽い減圧症では、身体にガソリンを塗って皮膚感覚を誤魔化すらしい。思い減圧症は、昔の日本と同じで「ふかし」をするらしい。しかし空気の関係でいつまでも「ふかし」ては居られないのでその後は砂に埋めて圧力を掛けるのだと聞いた。

     

    フ−カーのコンプレッサーを積んだ船

    船のエンジンからコンプレッサーの動力を取っている。止まったらお終いだ。

    船は明日の朝8時にビーチの前に来る事になった。
    ダイビングの段取りさえ決まれば私の役目はお終いだ。ビーチの椅子に座ってM様とビールを飲む。M様は着いてからずっと本を読みながらビールを飲み続けていた。
    日没には少し早かったが、観光がてら我々の滞在するサンタフェ地区からバンタヤン地区に行って晩飯でも喰うか、と言う事で出かけた。
    私は、この島の唯一の銀行がバンタヤン地区に有ると聞いたので、お金を降ろして来たかった。しかし、ATM機は無かった。考えなくても分かりそうなものだ。オンラインであるはずが無い。これで私の手持ちの資金は急速に厳しい事態となったが、しかしM様がいるので実際には困らないと思っていたが。
    この日の夜は、昨夜セブでオールナイトで飲み明かした反動で8時頃にはベットに入ったが、まだ眠ってはいなかった。暫くうとうとしていたら、顔がむず痒くて飛び起きた。私のベットの頭の位置がアリの通り道で、アリは私の顔の上を横断しているのだった。
    私はホテルの従業員にこの事を告げた。彼と彼女らが楽しそうにアリ退治をしている間に、私はビーチの前に座ってもう1本ビールを飲んだ。満月の明かりで本も読めそうなほどで、時折吹く風で海面がざわつくと、どんよりと浮かんでいた月が散り散りになって踊りだしていた。
    殺虫剤臭い部屋に戻って姑く様子を見ていたら、案の定アリはまた同じルートを辿り始めた。私はもう誰も呼ばずに勝手に空いている部屋に移って寝る事にした。

     

    カーテンの模様に御注目

    カーテンの裏に隠れたつもりの「トッコ」・・・ヤモリです。

    ダイビングの為に雇ったボートは時間通りにスタンバイしていた。昨日の青年団はやはり船とは関係が無い、ただの口利き役である事が分って、改めてキャプテンにポイントを訪ねた。我々はドロップオフ、壁を探しているのだと伝えた。私の見立てでは遠くに見える島の西側は壁になっていると見て、キャプテンにその場所の事を訪ねた。キャプテンは壁際は魚は居ないと言い張り、どうしてもそこへ行ってくれなかった。 結局何の変哲も無い濁った砂地にエントリーさせられ、私は堪らず直ぐに浮上して場所変えをした。しかし、変えた所も似たようなもので、とても潜る気にならないひどい場所だった。もともと内湾なので透明度は期待していなかったが、沖に出ればなんとかなるかも知れないと淡い期待を抱いていたが、それもあっという間に砕かれた。最後に案内されたのはフィリピン中何処でもお得意のサンクチュアリーだった。ダイバー1人頭100ぺソと言う法外なエントリーフィーをふんだくったバランガイキャプテンは、昼間からガンガゼを肴にトゥバを喰らっていた。案の定サンクチュアリーとは名ばかりの、ただの濁ったガレ場だった。こうして見ると、大した事無いなぁといつも見下しているスミロンでさえ、こことは比べ物にならないポテンシャルを持っている事が分かる。
    私はM様にお伺いを立てようとしたが、M様はとっくにバンタヤンのダイビングを見限っていて、M様の方から「あー、戻って飯にすっぺし」と言った。
    最後まで拒否されて入れなかった場所こそがたぶん、フ−カーでの漁場なのでは無いかと思うのだが、真相は分からない。
    ポイントが近かった事も有ってホテルに戻ってちょうど昼飯時だった。
    ビーチ前の私のお気に入りの席には白人の長身のカップルが座ってココナッツジュースなど飲んでいた。私はお気に入りを取られて悔しかったが、あの場所は日本人のオッサンよりも、彼と彼女に相応しいと思った。

     

    ホテルの前のビーチで遊ぶ兄弟

    兄はパンツだけ、弟はシャツだけだった

    この日の夜、サンタフェの目抜き通りを車で散歩し、何処で飲むかの目星をつけようとした。軽トラでメインストリートを走って、アクセルを2度吹かすと目抜き通りは終わる。まともな飲み屋も見つからず、ホテルのそばのカラオケ屋に落ちついた。客は我々だけだった。

     

    カラオケ屋の娘達

    日本語の歌が有ると言ってハングルを出して来た。

    M様に申し訳ないと思いながらも、言い出しっぺはM様と言う事で、早々にドゥマゲッティーに戻って口直しのダイビングにアポでも行きましょうと促して、滞在を切り上げて戻る事にした。セブ行きのフェリーが有ると言う事を聞き付けてそれで行こうと思った。しかし、聞いていた時間が午前と午後を間違えていて利用できない事を知り慌てた。ハグナヤからセブまで、まだ帰りの車を用意していなかった。こうなったら全員で軽トラで行くか?と言う事になり、またもやM様に打診。M様は軽トラの助手席でOKとの事で一件落着。しかし、軽トラの荷台には12本のタンクと5人分の器材と手荷物。加えてクラ−ボックスも一つ載っている。残りのスペースに大の男が4人乗れるのかと心配だったが、そこはフィリピン、何とでもなるさ、で簡単に納まった。
    しかし荷台のへりに腰掛けているジェフリーとブチョックは直射日光をもろに受け、たまらない暑さだと漏らしていた。二人とも長そでのシャツにTシャツでほおかむりをして防御していたが、一番暑い季節の直射日光は、フィリピン人でも辛いと言った。

     

    バトのフェリー乗り場

    リロアンの少し手前のバトからネグロス島へ渡るフェリー

    不味いソーダカツオと不味いトッシーノの食事だったが、干涸びる寸前だった我々には、日陰で休めただけで満足だった。
    セブ市内がやけに空いていて、今日が日曜日である事を思い出した。いつもは混んでいてなかなか進まないセブサウスロードの入り口も空いていた。
    誰からともなくカルカルで土産を買うぞと言う事になって、中心部からサウスロードへ入り、空いている道を快調に飛ばした。カルカルで買う土産とは日本のオコシのような物で「アンパオ」と言うお菓子だつた。
    カルカルで大渋滞にぶつかった。渋滞の先頭は葬儀の列だつた。しかも3グループの列で、その距離は1キロ近くに伸びていた。フィリピンでは葬儀の列に出会うのは縁起が悪いとされているらしく、昨日からで6件の葬式を見てしまったとダダが言って、十字を切った。
    通り慣れ、見慣れたサウスロードの景色に安心してか窮屈な軽トラの荷台でも結構寝られた。気が着けばもうオスロブまで来ていた。
    バトのフェリー乗り場を通りかかったら桟橋にフェリーが見えた。何時発か確認しようと言う事で港に入って時間を聞いたら30分後に出ると言う。渡りに船とはこの事で直ぐに乗船手続きをした。
    ここでは矢鱈な通行料だの桟橋利用料だのと言う料金の徴集は無く、ネグロス島のタンピまで、車と乗客5名で850ぺソで済んだ。
    バトからタンピまで約1時間。タンピからドゥマゲッティーの自宅まで40分。家に着いたのは6時少し前でした。
    ではまた。

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