MAMBULODの山
8月のある日、山から来ている友人から、昔のフィリピンの暮らしそのままの山の様子を見に行かないかと誘われ、彼の家を訪ねた。
場所は・・・場所を詳しく説明しても多分誰も分から無いので、ただ山奥とだけ書く事にする。
通称ハイウェイと呼ばれる国道から未舗装の山道に入って、バイクで登り続ける事40分。バイクが入れる山道の終点から徒歩でまた40分登り続けて辿り着く、本当に山奥だった。
バイクが入れる山道はこのところの雨続きでまるで河原のように大石が転がっており、四輪駆動の車でも自動車は走れそうに無い道だった。
その道を「ハバルハバル」と言うバイクタクシーが行き来して山に住む人の街までの足となっている。「ハバルハバル」は日本では見かけ無い150cc、4ストローク単気筒のバイクの後輪をブロックパターンのタイヤに変え、サスペンションを強化し、座席のシートを延長し、ステップを増設して乗車定員5名程度にしてあった。このバイクに大人5人が乗ってスリップリーな山道を登り下りしているのである。そのドライビングテクニックは、特に下り坂のカーブでは神業とも言えるものだった。
山道沿いには電線が走っており、道沿いの家には電気が来ている。しかし山の幹線道路から遠く外れる友人宅には電気は来ていなかった。
私は大雨の後にのぞいた晴れ間の中、押し黙って山道を登って行った。いっしょに行った友人や途中で行き会った近所の人たちは、さして苦にする風でも無くひょいひょいと山道を登って行くが、私は次第に遅れがちになって行った。
山道を吹き抜ける風は十分涼しいのだが、私は不馴れな山道をスリッパで必死になって歩いている為汗だくだった。
彼は一人ならこの道を20分で行くと言っていたが、私といっしょだった為に40分以上掛かってしまった。それでもなんとか辿り着いた家は、山の斜面を削って作った僅かな平地にへばりつくように建っていた。
この状況は、昔私が山歩きをしていた頃の山小屋の在り方と同じなので見た瞬間には懐かしさの方が先にたった。写真を撮りたかったのだが、この家に住む彼のお婆さんが私を訝し気な目で見ていた為、カメラを取り出す事が出来なかった。突然表れた日本人に驚く老婆を後目に興味本位でシャッターを切る事は私には出来なかった。
その後も家の周りには誰かが居て、とうとう家に向かってシャッターを切る事は出来なかった。遠巻きに、誰か彼かが私を見ているのであった。
驚いた事にこの家は、こんな山奥にありながら意外に隣近所が多いと言う事だ。歩いて10分程度の範囲に6世帯、30人位は住んでいると言う事だった。
家の中でコーヒーを御馳走になっている時に一つの習慣に気がついた。
彼の家の前は近所の家への分岐点になっているらしく、庭先と言うか、軒先きと言うか、家の前を良く人が通るようだった。その通行人たちは必ず何か一声掛けて行くのが決まり事のようで、その声で通行人が誰なのかを知るようだった。もしも通行人がこれから街まで下るよと言うような事を言った場合は呼び止めて買い物や郵便などの用事を頼んだりもするようだった。
まだ暗いうちにドゥマゲッティーを出発したので山の家には10時頃には到着していた。山の家では一日に5回食事を採ると言う事だったがちょうど2度目の食事時に当って、日本で言うならおやつと言う感じの食事をいただいた。
とうもろこしの粉を蒸かしたマイスに塩辛い干し魚、スープ代わりにインスタントラーメンと言う食事だった。私はマイスも干し魚も大好きなのでなんとも無かったが、山の人たちは日本人の私がどんな顔をして食べるか興味津々で様子を伺っていた。
マイスは手で食べるにしても崩れやすく、右手でぎっときつく握ってから口に運ばないと途中でこぼしてしまう。しかも温かいうちに食べ無いと不味くなるので熱いのを我慢して握って口に放り込む。そして干し魚、ブラッドを少しかじって塩味を味わう。
食事の時に台所を見せてもらったが窓が小さく昼間でも薄暗かった。流し場や流し台は無く洗い物は外の竹の台の上で済ませるようだった。台所には古びた水瓶があって外にある天水を溜める大きなタンクから水を移して使っているようだった。
天水受けの大きなタンクを覗かせてもらったが今年は雨が多く満水で、水もきれいだった。雨の少ない時にはずっと下まで牛にタンクを担がせて水汲みに行くのだそうだ。
家は最近になってコンクリードロックで建て替えたと言っていたが台所は昔のままの竹と椰子の葉っぱで出来ていた。風の吹く日には火の粉で火事にならないように注意しなければならず、一見煙りも抜けやすく熱もこもらない快適に見える小屋もそれ程良い物では無いと言う事だった。
台所にはおき火を絶やす事の無いかまどの他に、風の日などに火を起こせない時に使う石油コンロも置いてあった。しかし灯油は運びあげるのに苦労するのでなるべくかまどで調理するようにしているようだった。
この家にはお婆さんと彼の姉、姉の娘二人が住んでいる。彼の父はバコロドで仕事をしていて、月に何度か戻って来るのだと言う事だった。彼の姉のだんなの事は聞かない事にした。フィリピン中どこにでも有る母子家庭なのだろう。
彼の姉の子供は小学校に通っていた。毎日一時間かけてやまを下りて学校に行く。このところ強い雨が多く学校に行けない日が続いたと言う。彼女の名前はクリスティーナ、学校ではメダルを沢山もらっている優秀な子供だと言う。学校は大好きだから行き帰りの山道も苦にはならないと言う。だが進学して高校に通うには街に寄宿しなければならず、その金の工面が出来ずに進学出来ない子供も多いと言う。クリスティーナはなんとしても高校に行きたいと言っていたが家にはその余裕は無さそうだった。
クリスティーナと話をしているうちに、打ち解けて来た彼女が見晴しの良い裏山へ登ろうと言い出した。周りの皆は足場は悪いし登りはきついし大変だから止めろと言うのだが、クリスティーナが手を採って引っ張るのでしぶしぶ外に出た。
私は歩き始めてものの5分もしないうちにギブアップした。少女はどちらかと言えば痩せ過ぎなくらいの体格でどこにそんな体力が有るのかと驚かされる。しかし、その足取りはしっかりと早く、滑りやすい、とても道とは言え無い坂をすいすいと登って行くのだった。
彼女の足下は鼻緒のついたゴム草履だ。その草履の鼻緒を足の指でしっかり挟んで粘土質で粘る坂道を上手に歩く。私が登り切れ無いと察した彼女が、昼飯時だから帰ろうかと言い出した時には正直言ってホッとした。男の面子に掛けても、日本人の面子に掛けても小学生の女の子に体力負けして自分から帰るとは言いたく無かった。
家に戻ると昼飯の準備が始まっていて、客人の私に振る舞う御馳走を作る段取りのようだった。
庭を駆け回り、羽ばたいて空も飛ぶ地鶏を一羽しめた。めったに炊かない米も炊いてくれた。畑から芋とその葉っぱも採って来ていた。地鶏のスープで芋と葉っぱを煮てくれたのだが、このスープはきれいに澄んで、さっぱりした塩味にトウガラシの辛みが利いて美味かった。炊きたての米に芋のスープはこの家で今できる最大の御馳走だったろうと思うと、食べていて涙が出そうな程うれしかった。
私が下の店で買った時から冷えていなかったコーラをこの家のお婆さんが一口飲んで、久しぶりにコーラを飲んだよ、明日お迎えが来るんじゃ無いかなみたいな冗談を言って皆で大笑いをした。
クリスティーナーに山の暮らしの事を質問してみた。
街に住みたいかと聞いてみたが、無言でほほえむばかりだった。
ではまた。
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