南風のたよりNo36


    南の島の話し・・・家を建てる-4 


     家は建った 確かに建った、が

     家は予定より大幅に遅れながらもなんとか格好をつけてきていた。フィリピン人ならもうとっくに住み始めているだろうと言う完成度である。しかし、私はどこまでいっても、やはり、日本人なのであった。しかも、筋金入りの頑固おやじである。だから、おおむね完成などと言う状態で入居することは、精神的に許さなかった。
    12月20日の新居完成パーティーの知らせはもう出してしまっている。出した、と言うと郵便や電子メールかと思ってもらっては困るのだ。この場合の出したは「口に出した」のである。もう関係諸氏津々浦々まで話しは行き渡っているはずだった。
    今さら延期など出来ない話であるが、2003年12月19日現在、パーティーのメイン会場となるリビングルームは床のタイルも張られていない。壁は今塗っている真っ最中で、トイレはまだベン座が付いていなかった。仮に便座があったとしても、ドアの取り付けがまだだった。したがって私は到底この家にはまだ住めないのだ。
    18と19日は大工5人が残業して、夜の11時頃まで仕事をした。大分仕事は進んだが、それでも私には20日に間に合うとは思えなかった。
    この残業が面白い。5時が定時だが、この日は6時頃まで仕事を続けて、一旦中止して食事をした。そして食事の後軽く一杯やる。その後は仕事をしながらちょっと手を休めては軽く一杯飲むと言う感じで仕事を進める。
    私は残業は、日本式に2割5分増しで日当を払おうと思ったのだが、どうも、この食事代とその後の飲み代を私が持つだけで良く、特別手当ては必要無いと言う事で今日の事情を納得した。
    19日の夜は、タイル張りの二人は家が近い事もあって、12時近くまで働いてくれた。しかし、11時過ぎからは、仕事をしているのか飲んでいるのか良く分からないところが有ったのは否めない。早く終わって翌朝早めに来てくれた方がはかどったような気はするが。
    20日の朝、エリックは相当早く来ていたようだった。昨日雨で出来なかった外回りを、今は止んでいる雨が降り出す前に片付けてしまう為との事だった。
    この日のエリックは無口で、少しの時間も惜しんで作業を続けていた。それにつられるように他の4人も黙々と働いていた・・・のは午前中だけ。昼飯の後はペンキ屋を中心に馬鹿話しをしながらのいつものムードに変わって行った。
    私はペンキ屋に、客が来た時にみっとも無いので、カウンターだけは塗り終えて欲しいと何度も言ったのだが、OK,OK「モンダイナーイ、シンパイアール」とダイビング仲間のフィリピン人が訳も分からずに言う日本語を、彼も繰り返すばかりだった。後で感じた事だが、鼻歌やお喋りが出た時点で一応の見栄えを確保できる見通しが 立っていたのだろうと思う。
    この日、12月20日は私の相棒のジェフリーの娘、ルイーザの誕生日パーティーも兼ねていた。近くの教会から牧師を呼んで、誕生日の為のお祈りと、新築のお祈りをしてもらう予定だった。6時頃から客が来るからと言ってあったにも拘らず牧師は4時少し前に現れた。4時頃と言えば後片付けの真っ最中で落ち着いて座るところなど無い状態だった。しかし来てしまった者は仕方が無いので、邪魔だったが中で座ってまったもらった。
    と、こんな風に慌てまくって、しかし、なんとか午後6時前には格好がついてきた。私は、フィリピン人は働かないだの、仕事が遅いだの、いい加減だのと、仕事に関してのイメージで良いものは無かったが、今日だけは見直した。やる時にはやるじゃないかぁ、と感心した。しかし、それも本当はどうだろう。10月には完成しているはずの建物なのだから、今日の追い込みが間に合わなかったでは済まされない話だった、と思うのだが、フィリピンなのである。今夜に間に合ってめでたくパーティーが開かれれば、それ以前の事は全く、モンダイナーイ・シンパイナーイ・・・なのである。

    パーティーに先立って待ちくたびれていた牧師が祈りを捧げ、この家に住む者と列席者の健康と繁栄を祈ってくれた。
    私は牧師が何を言っているのか見当もつかなかったが、神妙な顔をして少し控えめに、うろうろと牧師の後をついて回った。
    新築の家に捧げるお祈りの内容は全く分からなかったが、サントニーニョを祀った祭壇の飾り方は日本の神事のそれと良く似ていた。中心に子供の頃のキリストの像、サントニーニョを置き、ろうそくを2本立てる。捧げる花は造花と生花の両方だった。そして、供物は、油と酒、米と水と小銭だった。鯛の尾頭付きや昆布、スルメなどの縁起物では無いにしても、良く似ているでは無いかと感心した。
    神主ならぬ牧師は、聖水をを持って全ての部屋を回り部屋の四隅に振り掛けて、短い祈りの言葉を言う。私はその後にずるずるとついて回っていたのだった。
    次にルイーザの誕生日を祝うお祈りが捧げられて、一通りのややこしい神事は終わったようで、私に「さあーそれでは神様からの頂き物を皆で食べて云々、かんぬん」と合図の言葉を述べろと言われて、戸惑っていると、ルイ−ザの母親のハニ−が察して、代りに短いスピーチをしてくれてパーティーは始まった。
    パーティーにはこのホームページに時々書き込みをしてくれるOIWAさんからレチョンバブォイの特大が一頭届けられ、私は驚くやら有り難いやらで恐縮してしまった。
    ドゥマゲッティー在住の日本人が3名、御祝に来てくれたのは大変うれしかった。
    100人を超す人たちが銘々に食事をしながら、小さなグループを作って話しをしている。ジェフリーにどんな人が来ているのかを聞いてみると、ほとんどは私の知らない「近所の人たち」だった。
    ダイビングのガイドに現職警官のロイがいる関係で、警官の訪問も多く、庭には赤色灯ならぬ青色灯を回したパトカーが止まっていた。


    家の外観


    夜中まで踊り続けて

    フィリピン人は踊りが大好きだ。テレビとカラオケのセットを庭に持ち出して歌い、踊る。
    6時に始まったパーティーは10時を過ぎて、喰うものもほとんど無くなっているのに、最高潮である。
    集まった人の本当の数は私には分からない。近所の人と言っても、どこまでが近所なのか、この辺の感覚も私には分からない。三々五々やって来ては、誰かかれかが帰って行くので、総数は把握できない。
    この日、日本人が私を含めて4人いたのだが、どうしても日本語同士のコミュニケーションは楽なのでついつい寄り集まってしまう。だが、寄り集まるのは日本人ばかりでは無い。良く観察すると、フィリピン人も何かのキーワードで集まっているようだった。
    それは職業だったり、年令だったり、血縁だったり様々だが、知らない者同士が同じテーブルで和気あいあいと言うのは見られなかった。
    フィリピン人は東洋のラテン民族と言われる程明るく人なつこいと言われているが、実は日本人よりも相当にシャイなのだ。
    酒に関して昔、フィリピンに来るようになって2度目くらいの頃だったが、フィリピン人は普段あまり酒を飲む機会が無いので基本的にはアルコールが弱い。安いからと言って気軽に酒をおごってやると、酔っぱらってトラブルになる事が有るので気をつけろ、と言われた事があった。
    これを教えてくれた人の真意が何なのか、今持って分からないのだが、フィリピン人は概して酒は強い。
    私も酒は弱くは無いが、フィリピン人には私より飲ん兵衛がいくらでもいる。ただ、酒を飲むスタイルが日本の酒飲みと違って、まず米の飯を喰ってからでないと飲まない。これはほとんどの人がそうだった。 日本でもたまに、まず何か喰ってからで無いと飲まない?飲めない?そんな人を見るが、そう言う人は大抵酒があまり強くは無い。フィリピン人は大酒呑みでも飯を喰ってからしか呑まない。健康にはとても良い事だが、酔いが回るのが遅くて不経済だと思うのだが、普段飲む酒が強いラム酒やジンなのでそんな飲み方をするようになったのかも知れない、などと想像してみた。


    家の写真


    これを書いているのは1月20日である。今日現在、本当の意味で完成してはいない。
    相変わらず呑気に、気長に、だらだらと工事を続けている。この分だと本当に終わる日は絶対来ないような気がする。
    何故ならば、あちこち手直しや修理がついて回るからだ。
    私はひょっとするとフィリピン人の大工を1人、ずっと雇い続けなければならなくなったのかも知れない。

    ではまた。

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