南風のたよりNo18


    南の島の話し、まとめて3月分? 


    11月26日からDMGTに居た時に暇だったので・・・
    今日は火曜日・・・客無し暇有り。
    暇だったので、いつにも増していい加減に、なおかつ長文です

    昨夜は物凄い雨が1時間程続きました。溜にためた雨が堪え切れなくなった雲の水瓶から溢れ出たと言う感じか?いやいや、そんなものでは無かった。ため池が決壊したか?とにかく物凄い雨ではありました。いったいあれを雨と表現して良いものなのだろうか?それほど強いものでした。
    昨日と一昨日は「ローカルホリデー」でした・・・(これは私が勝手にそう呼んだだけです)・・・正式には、Dumaguete city fiesta でした。一昨日は日曜ですから何がどう休みでもかまわないのですが、月曜日をローカルホリデーと称して連休にしてしまう辺りが凄いと思います。
    地方都市の一市が勝手に休みを作ってしまって、役所も銀行も、電話会社も水道屋も休みになってしまうのです。
    私は電話会社にプリペイドカードを買いに行って、会社が閉まっていることでこの「市民まつり」を知りました。
    この二日間で何頭の豚が殺されたでしょうか。レチョンバブォイとして食べられたのです。DMGTの街の中心に近い河原の、河原と言っても日本の穏やかな風景を想像してもそれは違うのですが、川の原っぱなので河原と言います。そこで大量のレチョンが焼かれていました。その数は横一列に豚を並べて20頭位は一度に焼かれていました。さぞかし良いにおいが、と思ったのですがそうでもなく、ちょっと意外でした。そして次に焼かれる予定の豚が竹ざおに串刺しになって立て掛けてありました。
    9月の私の誕生日にブタを一頭つぶしたので、今回はやる気はまったく無かったのですが、今日もやるんだろうと周りから言われて引くに引けなくなり、クリスマス用に飼っていたブタを潰してしいました。
    BUTA1・これが我が家のレチョンバボイです。
    BUTA2・焼いているのは現地スタッフBさんです
    BUTA3・切っているのはトライシクルドライバーのTOMEさんです
    レチョンの由緒正しい作り方と言うのはけっこう大変なんです。
    まず道具一式と材料を揃える所から始めなければなりません。
    例えば、鍋は特大の物が二つ必要です。一つはお湯を大量湧かして豚の毛を抜く下ごしらえをする為の物です。もう一つは絞めた豚の血を溜めてその後血を煮て固まらせる為の鍋です。
    従ってかまどは最低でも3つは必要です。メインの豚を焼く場所はかまどと言うにはでかすぎるかも知れません。
    どれも大切な道具なのですが、豚をさばく為の道具はたいてい自作されていて、各自が使い勝手を自慢します。そのなかでも極め付けは豚の頸動脈を切ってなおかつそこからスムーズに血を抜き取る為に使う細長いナイフでしょう。それの出来の善し悪しと血抜きの腕で色々な祭りに呼ばれる回数が違ってくるのです。
    レチョンは、前にも書きましたが、でかい豚だと前日から準備して当日も丸一日かかります。いったん火に架かってしまえばあとは竹に水と油をかけながらほぼ一日ゆっくり廻し続けるだけの退屈な作業になってしまいます。 退屈な作業をくり返す裏では大変な作業をしている人がいます。取り出した内臓の処理をする人です。
    内臓の中でも腸はまだ中身が入っていますから、上手に処理をしないと大変な事になります。あれは面白いもので、腸の中に入っていれば大して匂いもしないのですが、一旦外に出て空気に触れると臭いを発します。それは時間が経てばたつ程凄さを増してきます。上手な処理をする人は殆ど臭わずに処理してしまいます。
    フィリピンの男達が一番好んで食べるのは血です。そして次に内臓の煮物です。レチョンの皮が美味しいと言いますが、私も最初はそう思って食べていましたが、しかし、今では旨い場所が他に有る事を知ったので、あせって皮を食べる事はしなくなりました。
    ちなみに一番旨い場所は、後足のすぐ前の腹の上の肉です。そこはハーブの匂いがしみて最高に旨い場所です。
    この二日間は市内全域が祭りですから色々なイベントが開かれています。
    その中でも面白いのは毎度お馴染みの移動遊園地です。この日の物は今までに見たものより規模が大きく、「カーニバル」と称していました。入り口で入場料を払わなければならず、いつもの公園で開かれているものよりも格調高い感じがしたのですが、実体は、入って吃驚、見てがっかり、でした。
    切符売り場が大人と子供に別れていました。私は料金が違うからなのかな?と思ったり、子供には何か特典が有るのかな、などと思ったのですが、別けられている意味は全く無く、どちらでも大人も子供買えますし、なんと値段も独り10ぺソで一緒なのです。何の為に分けてあるのかと言えば、まずほとんど来るはずも無い正直な外国人が大人の列に律儀に並んでなかなか券を買えなくする為でしょうか。地元民は並ぶなどと言う事はしません。
    入場してみてすぐに目を引いたのは沢山有る大小のテーブルです。それらは全部博打のテーブルでした。ゲームは単純なものが多く、コインを升目に投げ込むもの、ボールを転がして赤か白かを当てるもの。赤と白しか無いルーレット、などです。その他に日本でもお馴染みの、3枚のカードを素早く動かして場所を当てるもの、それをコーラの瓶の栓でやっているテーブルなど、どれも単純ですぐに勝負の着くものばかりでした。
    博打はどこも人気は上々で沢山の人がテーブルを囲んでいました。
    そこで動くお金の単位は1ぺソからせいぜい20ぺソ(50円)紙幣までです。フィリピン人の博打好きは知っていましたがこれほどとは思っていませんでした。
    私はコイン投げをしてみました。そこの胴元は10才位の少年でした。口には斜にくわえた煙草が煙り、無口でただひたすら升目に投げ込まれてはずれたコインを長い棒でかき集めていました。彼の雰囲気は十分に胴元としての風格を備えたものでした。
    例えばこの子に、胴元には親は居ないのか?などと思ってはいけません。たぶんこの仕事をしていられるのですから親はいます。そして、親はたぶん違うテーブルで博打をしているはずです。この国では家族の誰かが収入を得れば、そり以外の人は殆ど働くなります。不思議な事に働いている本人は大して不満にも思っていないようなのです。それどころかその働き手が職を失ったりすると、その本人が家族に謝ったりするのですから、この国の家族の在り方と言うのは私にも良く分りません。
    しかし働いている人は家の中では全てに優先権が有り、それなりの待遇を受けてはいるようです。ですから10才の胴元でも一端の顔でくわえ煙草なのです。それはある種の自覚を象徴するものであると私は見ていました。
    さて、カーニバルと言うのは簡易賭博場であると言う事が分りましたが、隅っこに据え付けられている恐怖を誘う「ぶんぶん回る観覧車」も「ごうごうと回るメリーゴーランド」も大人も子供も混じって大にぎわいでありました。
    今日もまた日本の自分と家族の姿を思い出して考えてしまいました。
    あまりにも沢山の刺激に囲まれて暮らしていて、常に更なる刺激を求めていかないと満足出来ない暮らしぶりの日本の生活、その刺激を得るために稼ぐ金と仕事の事などを考えてしまいました。
    少ない刺激と言えるかどうか、日本でなら笑い話になってしまいそうなレースも開催されていました。
    Dumagueteの街のメインストリート「ブリ−バード」の堤防がバンカーボートのスピードレースを観戦する人で溢れていました。
    レースは小さなバンカーボートを2艘同時に走らせてトーナメント式に競って行くものでした。小さなバンカーは通常8馬力の2ストロークエンジンが着いていて、推定で8〜10ノットのスピードで走っていますが、この日のレーサーはそれを25〜30ノットで走らせていました。
    日本でなら牡蠣養殖用の船でも30ノット位は出ますが、耐水ベニヤで、ほとんど手作りの船で30ノットは凄い事です。
    レースは、スタートする事が先決で、3艘に1艘はエンジンが掛からずにヨーイドンで出遅れてしまっていました。
    この日は北からの風が程程にあって波もちょうど良く、船がポンポン飛んで観ている方は楽しいレースでした。
    ここでもトトカルチョが行われていて、それなりに盛り上がっていました。

    ああ、ああ、今日も怠惰に日が暮れる。
    11月末のDumagueteは日中の気温は30度を優に超していますが風が涼しくて過ごし易い季節です。木陰にベンチを持って行って本など読んでいるとついつい寝てしまいます。エアコンなんて全く必要有りません。
    日本で昼寝なんかしてしまったら夜には眠れなくて苦労するのですが、ここではいくら昼寝をしても夜になればまた眠くなります。
    フィリピン人を観ていると暇さえ有れば寝ていますが、寝て起きて飯を喰ってもする事が無いのでまた寝てしまって、腹が減って起きて飯を喰う、以前の私であればこの怠惰と言える生活に苛立ちを感じたものですが、今ではこれが本来の自然な生活と言うものなのかな、などと思えています。
    怠惰・・・怠惰な暮らしは最近、私にはとても魅力的なものになってきました。

    怠惰な暮らしについての考察・・・? 考察などと言う事高尚なものでは無いのです。単に思い付きを書いているのですが。
    私はDumagueteで今日もお客も無く暇でした。庭のジェミリーナの木の下に竹で出来た長椅子を置いて、初めはノートパソコンなどいじっていたのですが、そのうちうとうとしてしまいました。こんなに時間が余っているのに、結局何もしなかった一日だけが過ぎてしまうのでした。
    何かできる?する事が無かったから暇だったのですから、本当に仕方がなかったのです。しかし、何もしなかったと言う罪の意識のようなものが生まれてしまうのでした。
     昨日は、やはり似たようなものでした。何もする事が無いのに少しづつ慣れてきたとは言え、やはり時々えも言われぬ焦りとも強迫観念ともつかぬ思いが込み上げてきて、いたたまれなくなるのです。そんな時はうろうろと歩き回るのですが、やがて椅子を見つけて座ります。座ってしばらくは、日本人とフィリピン人の違いなどを考えてみたりするのですが、やがて風にそよぐ木の葉に目をやったりしていると、思考が止まります。この状態は多分「無」の状態であります。何故かと言えば、この状態の後はたいてい横になって眠ってしまうのですが、たまに目を開いたままずっと眠ったような状態で木の葉なり雲なりを見ている事があります。そして気がつくと相当な時間が過ぎているのです。この時間の間に何の記憶も無いのです。ただ、時々庭先を通って行ったトライしクルの音などは覚えていて、ああ、「トメさんが行ったんだなぁ」などと思い出すのですから、眠ってはいなかったと思うのです。
     今日もまたする事が無いので朝の7時だと言うのに愛用の長椅子に座ってiBookを開いています。程よく風が有って心地よく、またすぐ眠ってもおかしく無い程快適です。
    ちょっと道路に出て近所のフィリピン人の家の辺りを覗いてみれば、案の定この時間にもう縁台で寝ている人がいます。これは自然の成り行きなのでしょう。多分、彼は昨日も今日もそしておそらく明日も何もすることが無いのです。
    あくまで私の想像ですが、彼は5時には起きているはずです。沢山の米と少しの野菜か魚の缶詰めなどをおかずに朝飯を食べたのが6時位でしょう。食事は10分も掛かりませんから、食べ終わってすぐにおもての涼しい縁台に腰掛けたのです。立っているより座った方が楽なので座ったのです。意味は他には無いのです。そして次に、座っているより横になった方が楽なので横になったのです。そして、横になれば自然に眠ってしまうのです。彼は10時位に目を覚まします。それは確かです。その時間になると日陰のサイドが変わってそこでは暑くて寝ていられませんから。
    そして彼は昼飯の準備にとりかかり、早い昼飯を食べて、また寝るのです。
    そして夜ともなれば彼は、どこか別の家の軒先きの椅子や縁台が並んでいる溜り場に顔を出して、「トゥバ」(ヤシ酒)などを御馳走になるのです。その場所は、子供が意味も無く駆け回り、5〜6頭の犬の群れも駆け回り。酒のテーブルから少し離れて近所の奥さん連中もうわさ話に花を咲かせていると言う、昔しの日本の長家の路地裏の風景とそっくりな情景があるのです。
    仕事が有っても無くても1日は過ぎて行き、なんとなく酒まで飲めてしまうこの社会は、私には結構魅力的であります。
    私の推測では、たぶん彼もかつてはトゥバを御馳走した事が有るだろうし、その内仕事にありついて金が入れば、サンミゲールを御馳走する事も有るのだと思います、たぶん。

    フィリピンの主婦は働き者だぞ。この国は女系家族の国。
    フィリピン人の洗濯。
    フィリピン人主婦は暇なので手で洗濯をします。例えば、子供が4〜5人、父親と母親、あと1人爺さんか婆さん、居候の親戚が独りなどというフィリピンでは普通の家族に値する構成の家を見てみます。 たらいを2個とでかいバケツを2個、洗濯篭が1個置かれています。洗濯物の量は大きなバケツに一つ半と言う所でしょうか。 洗濯の洗剤は500グラム入りの袋を2回の洗濯で使い切ります。75ぺソですからそんなに安くは有りません。多分この家はけっこう豊かなのでしょう。他の家を覗いてみれば、粉せっけんは使わずに固形せっけんを使っていました。
    水は、井戸か川水を利用します。市営の水道は料金が馬鹿に高いので洗濯には使わないようです。
    手で一つ一つていねいに洗うのでとても綺麗に洗いあがります。柔軟剤などは普通の家はほとんど使いません。しかし漂白剤は大量に使います。日本の物と質が違うのか、300mlを一本使い切ります。
    7時頃から始まった洗濯は9時、遅くても10時には終了します。そしてそれらは庭に一杯に干されたり、生け垣をおおい尽くして干されたり、物によっては木の枝に吊るされたりして干されます。
    熱帯の日射しと乾いた風であっという間に洗濯物は乾いてしまい、午後3時には取り込まれます。この時間帯を逃すとスコールが来る事があり、又一からやり直す事も有ります。
    日本の昔の井戸端会議とまったく同じ情景で、彼女らは洗濯の間中ずーっと話し続けます。それはほとんどウワサ話と亭主の悪口です。その噂の伝達速度かなり速くて、夫婦喧嘩のウワサ等もあっという間に町中に知れ渡ります。
    この国の洗濯洗剤のテレビCMは洗剤を水に溶かして洗濯物を入れっぱなしで長時間放置しても匂いが良い事を協調しています。
    その理由は、突然の雨で洗濯が中断してしまう事が有るからでしょう。

    使い捨て文化・・・。 私がこの国を知ってからまだ10年しかたっていません。しかしこの間のこの国の変貌の速度は日本よりもかなり早かったと思います。
    もともと物に執着しない人々だと思っていましたが、今は使い捨て文化のまっただ中で物を消費する事に熱中、いやいやもっと強烈に狂っているようにさえ見える事があります。
    現金収入の少ない彼等の生活の中に「貯える」と言う習慣が殆ど無いのは、底辺の人々には余裕が無いからかと思っていましたが、あながちそうでも無いのかと思うようになってきました。
    私の知っている人ばかりがそうなのかも知れませんが、金は有ったら使い切ります。
    一月に5000ぺソ(12000円)あれば一家が生活できます。独りが得る収入は少ないのですが、そこは人数でカバ−して、一家から3〜4人が働きに出ていれば、1人の収入は3000ぺソ程度と少なくても、合計してそれなりの暮らしが成り立つようです。この場合即戦力としては男よりも女の方が仕事を得られる率は高いようです。女の仕事と言ってもそれを売り物にした仕事では有りません、念のため。
    給料として現金が入ると大量に物を買います。日銭の仕事の場合は買えるものとその量が決まってしまうので浪費にもならないのでしようが、例えば米です。米も一袋50kgの物を買ってしまうとけっこう無駄に炊いてしまうようです。なぜそんな事が分るのかと言うと、晩御飯に招待された時などに簡単に分ります。客とその家の主人は焚きたての御飯を食べるのですが、別な皿には冷たい御飯が沢山残っていて、女性達はそれを食べています。私はいつも思うのですが、毎回そんなに沢山残すなら程程に炊いて毎回みんなで新しいのを食べたら良いでは無いかと。しかし、食べ切れない程炊くのが好きなのでしよう。台所洗剤、殺虫剤、お菓子、ビール、ジュース、何でも買い置きしたものはあっと言う間に使い切ります。ジュースやお菓子は開けてみても全部は食べません。途中で喰い散らかしたと言うような状態でまた違う袋を開けています。そして在庫が切れると何も食べない生活になるのです。だったら加減して次の給料までやりくりすれば良いのにと思うのですが、彼等の主義には反するようです。

    テレビCM
    テレビCMも一生懸命に消費を煽ります。今買えばこれだけ得だぞと言わんばかりに宣伝しています。その品物は大抵は生活必需品でしたが、最近ではファーストフードの宣伝やドックフードなども出るようになりました。Dumaguete市内の犬が栄養失調で毛が抜けて、関節の骨が見えているような犬がそこいら中に居たのはほんの2〜3年前です。今でも小さな島に行けばそんな状態ですが。
    CMの回数で一番多いのはシャンプーでは無いかと思います。次が歯磨き粉。そして粉ミルクと子供の薬でしょうか。
    大雑把に分けると、80パーセントの貧困家庭と18パーセントの中流、2パーセントの金持ち階級という風に分けられるそうです。エンゲル係数のバカ高い貧困家庭がテレビCMのターゲットです。所得と財産の多価で言えば、20パーセントの人たちが80パーセントの金を握っているのですからターゲットはそちらに行きそうですが、そうではなく、ターゲットは貧困家庭です。しかし、路上生活者などは別にしても、貧困とは言わないまでも普通よりやや下位の家にもテレビは無いので、深く考えればCMは誰に向けて発せられているのか疑問です。
    余談ですが・・・スーパーのレジで金が足りなくて商品を返すなどと言うのは日常茶飯事です。暗算、足し算、苦手なのでしょうね。でも客は慌てません。なぜか多い分だけ返すのでは無く、総ての品物を放棄してそこを立ち去ってしまうのです。たぶん、引き算も苦手なのでしよう。

    葬式・・・知人の葬式に参列。
    昨年ゴットファーザーになった。本当に訳も分からず代理で出席したのだった。教会で厳粛な気持ちになったのはあの時が初めてだった。
    今回はめでたく無い方の出席だった。知人の母親が亡くなったのだった。亡くなった人は私も良く知っていて、なんどか食事なども御馳走になった家のロラだった。ロラと言うのは、日本語に直せば、おばあさんになるが、彼女の年令は私よりも若かった。
    彼女はたしか、44才。彼女の一番小さい息子、ジェロームはまだ6才だった。普段から顔色が悪く、時々薬を買うお金が無くて困っていた。
     スイカの話しを書いた頃だった。夜に息子のジェロームが私のところに飛んで来て、PATAI NA MAMAN と泣叫んだ事があった。駆け付けてみるとジェロームの母はほとんど虫の息だった。私は取急ぎ軽トラにマットを敷き彼女を乗せてプロベンシャル病院に運んだ。救急で担ぎこんでもすぐには手当てなどしてもらえない。まずは金の相談だ。担当になる医者に私が呼ばれ、金がかかる事と支払いの方法等が告げられた。私が一通りの書面にサインしてから始めて治療は始まった。彼女はその後2週間入院して歩けるようになって退院した。医者から聞かされた病名は、胃ガンだった。あと数カ月と言われた。子供達が医者に母親の事を訪ねると医者は、お腹に大きな蜘蛛が住んでいるんだ、などと言っていた。
    彼女はあれから5ヶ月して亡くなった。
    彼女の葬式の喪主は彼女の夫だった。1日〜2日でマニラやその他の街に散らばっていた子供達や親戚が集まって来ていた。私もドゥマゲッティーから彼女の実家のディポログのまだ先の田舎まで、フェリーとバスとバイクを乗り継いで辿り着いた。
    葬式は、貧しくても立派に出せる。葬式の時は隣近所がみんなで助け合い、金も融通しあう。フィリピンでの葬式には博打がつきもので、博打の寺銭は葬式の足しにされる。
    私も縁あって参列しているわけだからと思い、大きく賭けてすっかり負けた。負けっぷりが認められて振る舞い酒をたっぷりと飲まされて酔っぱらい、葬式の席で歌を唄った。翌日、ヒンシユクをかっただろうと聞いてみると、葬式だからいいんだよ、と言われた。良く訳がわからなかった。
    埋葬の時、坊主ならぬ牧師がお経?・・・なんと言うのか私は分からない。私は仏一筋なのだ・・・をあげて、ついでに説教を垂れた。ほとんど意味が分からないので聞いていてもつまらなかった。みんな泣いていた。
    この家の墓は質素だった。しかし近くにはワンルームマンション並みに立派な冷房完備の墓もある。死んでからも貧乏が付いて回る階級社会のフィリピン。フィリピンカーストと私は呼んでいる。
    日本では49日まであるがこの辺りでは40日目にまたもう一度法要が有るらしかった。その時も来てくれるかと聞かれた。ジェロームが私にまとわり付いていた。直ぐ上の兄のレイモンドも私のシャツの裾を引っ張った。だが私は、たぶん日本に帰っているといって約束はしなかった。
    2才を少し過ぎた孫のメリッサが、「ロラ、マトォーログ カ」と聞いた時私も涙が出てしまった。お婆ちゃんは寝ているの?とビサヤ語で私に聞いたのだった。すぐにビサヤ語で返事が出来なかった私はRola does not wake up any moreとメリッサに言ったが、メリッサはどう受け取ったのかケラケラと笑った。


    では、また。

    問い合わせ、質問のメールはこちらです ow807360@mars.dti.ne.jp


    さいしょに戻る 南風のたよりのとびらへ