南風のたよりNo16


    南の島の話し、南へドライブ 


    バヤワンと言うところに「ワニや猿が群れている」と言う話をそこの出身という人から聞き付け、暇だし、行ってみっかぁとなって、ネグロス島の南側へドライブしました。「愛車スズキキャリー左ハンドル仕様」で南へおよそ150キロです。行きが150キロと言う事は帰りも150キロなのでありまして、ハイウェイとは名ばかりの酷道と言いたい程の道を往復300キロ走るのは、ドライブ大好きの私でもけっこう疲れます・・・と、言う事で、この先写真も少し出てきますが、みんな代わり映えしないフィリピンの田舎の風景です。御用とお急ぎの皆様には時間の無駄かとも・・・まあっ、堅い事言わずに見て下さいな。

    地図でもあればもっとリアルに説明できるのですが、ドゥマゲッティーの町中でも地図と言えばフィリピン全土の地図位しか見当たらないので、たぶんネグロス島の地図を探すのはかなり困難かと思います。まあ、自分で書けなくも無いくらい単純と言えば単純ですが。曲がりくねっているとは言え、一本道ですから、当然地図なんて不要なわけです。
    走り始めて30分位でダイビングのベースになるマラタパイを通過して未知の場所へのドライブとなりました。マラタパイを過ぎると平地が少し開けて道路が海沿いでは無くなります。水田が目立ってきて、農村の様相になります。「農村・?・・・対向車めったに無し」
    このへんはまだドゥマゲッティーの経済圏で街を行き来する乗り合いのジプニーも走っています。緑が濃く、携帯電話の電波も届かず、テレビの受信もままならないこの辺りでは、娯楽はラジオと、男なら酒。女ならお喋り、共通の娯楽は子造り?・・・失礼しました。とにかく、こんな田舎でも子供は沢山います。日本の昔の田舎がそうであったように、ただでさえ子だくさんのフィリピンでも、田舎程一層子供が多くなります。田舎とは言っても、どんな集落にも日用品が間に合う程度の小さな店は有り、意外に生活には困らないようです。コカ・コーラの配達も毎日やってきます。
    さてこんな単調な道を走って行くと山に向かってのぼり始めました。道は曲がりくねっていて、東西南北どちらに向かうと定まる事なくぐるぐる回って峠を登りました。「峠の頂上」
    登っている間はドゥマゲッティーの近くの市街地では見る事も無かった、本当に素朴な、しかし決して貧しくは見えないネグロス島の農家の暮らしが見られました。牛を飼い、とうもろこしやバナナを育て、現金はあまり必要では無い生活だと思います。
    スズキキャリーの荷台にはいつもの事では有りますが、近所の子供が乗っています。そしてこの日は、バヤワンの近くの村から来ているおばさんが、それならタダで里帰りと乗り込んできて、軽トラの荷台は満員でした。子供と大人入り乱れて総勢9名が乗っていました。この人数を荷台に乗せて峠を登るスズキキャリーはさすがに苦しそうでした。
     余談です・・・フィリピンは昔の日本がそうであったように、交通ルールも厳しくありません。定員が有るのかどうか、私の車の登録証には記載は無いようです。スピードリミットも有るのかどうか。交通標識はたまに見ます。しかし、その看板の次に有るはずの、解除の標識も次の指示標識も無いので、見えた指示標識はどこまで有効なのか私には判断できません。
    飲酒運転も検知のしようが無いためかどうか、取締は無いようです。私が唯一注意を受けたのは、なんとシートベルトでした。しかもそれは、その取締のようなものによって出来た大渋滞の中で注意されました。だいたいがシートベルトなんて付いていない程古い車が多い中で、シートベルトの注意とはなにが目的なのか私には理解できませんでした。
    峠を下る前から海は見えていました。方角から言ってその海はスルー海でしょう。見通しのはるか向こうにはパラワン島があるはずです。「峠を下って、海1」
    ネグロス島を北に走って見える海は、漁師の船、フェリーボート、渡し船、大型の貨物船等がいつも見えてけっこう混んでいます。この道沿いから見える海には漁師の小舟がたまに見えるだけで静かです。
    バヤワンはネグロスオリエンタル州の州都ドゥマゲッティーとネグロスオキシデンタル州の州都バコロドのちょうど中間にあたります。どちらに向かっても大きな街までおよそ3時間〜4時間です。交通手段は一般にはバスしかありません。この辺りは都会の影響をあまり受けていない地域なのかと思います。
    同じ田舎でも北に向かっては常に対岸にセブ島が見えていて、距離は多少離れていても大都会セブシティーの影響を強く受けているように感じます。
    さて、延々3時間、途中で峠の写真や海沿いの写真を撮ったりする時も走りながらで止まる事なく運転し続けてバヤワンの街はずれに来た時です。動物園の看板を発見しました。その看板にはワニと象が描かれていました。私は悪い予感がして同乗していたこの先の村出身と言う彼に聞きました。「まさかバヤワンのワニは動物園にいるんじゃないだろうな」と。答えは「ピンポーン」でした。
    ワニも猿も亀もニシキヘビもいるよ、と宣うでは有りませんか。私は、やられたなぁと思いつつも微かな期待を持って、川を遡ればワニ狩りができる程の場所が有るのかと聞きました。彼曰く、そんなにワニがたくさんいたら恐くて暮らせると思うかと聞かれました。そして、もしもそんなに沢山ワニがいたら人が集まって来てすぐ捕り尽くされるだろう、との話でありました。
    私のがっかりした様子に彼は一言付け加えて、それでも彼の父の時代にはそんな話も有ったらしいがね、と付け加えましたが、けっして慰めなんて言わない彼等ですから、多分少し前までは本当にいたのでしょう。
    それともう一つ新しい情報を彼がくれました。向いの島、パラワンには本当にワニが群れているそうです。これはかつて日本のODAで作られたワニ養殖場の事だそうです。今は日本の援助も打ち切られ、訪れる観光客も少なく、ワニの肉の需要も減って踏んだり蹴ったりで経営が行き詰まって破産状態だそうです。ワニは餌がもらえず違いに共食いをして生き長らえているとか。やけに詳しいじゃ無いかと聞いてみれば、去年までそこで働いていたと彼は言いました。
    余談・脱線ですが、ナタデココを覚えていますか?あのブームがフィリピンを駆け巡り小金持はこぞってナタデココの増産に走りました。そして日本のブームがあっと言う間に終焉を迎え、多くが破産したと言う話です。ワニ養殖がどんな経緯で始まったのかは分かりませんが、南の島でワニ農場・・・安易で馬鹿くさい話だと思いませんか?輸出の手段は、需要の見通しと買い手は、普通に商売を考えられればすぐ分かりそうな事が平気で行われています・・・日本政府のODAですよ・・・税金。そして本当の被害者はフィリピン人か。
    小さな漁村の小さな船が浜に並ぶ景色は、私が子供の頃のにほんの漁村に似ているような気もして、思わず車を停めてしまいました。「峠を下って、海2」
    こんな単調な道がずっと続きます。海沿いを走ったら山に向かって上り坂。坂を下ればまた海沿い。最初感激した景色もだんだん単調に見えてしまい、思わず居眠りしたりしてハッとします。そんな時はちょっと休憩です。小さな街でも必ずいるアイスクリーム屋さんを見つけて1コ6ペソ(15円)のアイスクリームを買います。発泡スチロールの箱にドライアイスを入れて一日売り歩くのですが、35度を超す気温の中で、全く溶けずに保存されているのには驚きます。「アイスクリーム」味はどこで買っても同じ、値段も一緒、と言う事は、製造元は一緒ということでしよう。バニラとマンゴーとグレープとウべのような物です。写真はマンゴー味です。「アイスクリーム2」
    3時間走って辿り着いたバヤワンでバスターミナルの脇にある食堂で昼飯を喰いました。バヤワンには日本人はいないとの事で珍しがらました。食堂にいたおじいさんが日本語で「もしもし、あのね」と言いました。私はてっきり戦争の時にでも日本人から教わったのかと思ったら、DMGTから一緒に乗って来た小学校2年のジェロームが節をつけて歌い出しました。もしもしあのね、あのね、あのねと。ロンドン橋渡ろう、渡ろう・・・と言う歌を知りませんか?その節で歌います。ジェロームはエレメンタリースクールで歌うのだと言っていました。ちなみに歌詞の最後は「さようなら」です。
    バヤワンで昼飯を食べた後、荷台に乗っていたおばさんの実家へ行ってビールをごちそうになって、みんなの用事が終わるを待っていました。竹でできた壁の家は風通しが良く涼しいので寝てしまいました。
    どうも一行はブラックマジックのまじない師の所へ行って祈祷してもらっていたようでした。そうと知っていたら見に行ったのに。しかしアルコール7パーセントレッドホースを大瓶で2本も飲んでしまいましたから、一眠りが正解だったのでしよう。
    帰り道、私以外の全員が寝ている車を1人で運転してまた150キロ帰りました。
    行きに窮屈だろうなと思った荷台にまた二人乗って来ました。型トラのフロントにも3人掛けです。いやいや、ベイビーが抱かれているのでフロントは4人です。なんとも恐るべしフィリピン人の窮屈好き。フィリピン人の窮屈好きは面白いので叉の機会に是非書きたいと思います。


    では、また。

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