南風の写真便り

       

〜なんでもない話し〜


・・・と、いうわけで、一度は諦めかけたボートを再生することにしました。
当初大工はリロアンから呼ぶはずで、一度は交渉し、ほとんど話がまとまったところで、船を売ったぺドロが出てきて、自分が直す、と言い出しました。
私としては誰が音頭をとろうと、早く、安く、ちゃんと直してくれればそれで良いわけですから、ぺドロが安く早く仕上げられると言うのであれば文句は無いのです。 と、言うことで、ぺドロが呼んできた大工と、準備した材料でMDS4の修理は開始されました。
ぺドロと私は激論の末、エンジンのオーバーホールと船体塗装を除いて、全部ペドロが仕上げると言うことで、お互い納得し、握手をして契約成立、と。
しかも、彼が言うには、連れてくる大工はマスバテの腕利きの大工で、二週間の工期と20万ペソの予算で十分仕上げると豪語したのです。
ちなみに、リロアンの大工の見積もりは50万ペソで、工期が3ヶ月と言うものでした。
あまりにも違い過ぎるので、間を取って工期は一ヶ月、予算は25万ペソから30万ペソと私は予想して、着工に踏み切ったのでした。
写真の風景は、船体の耐水ベニヤを張り終えたところと、白いボロテントは、大工達のキャンプ・・・仮の住まいです。
船が完成するまでの数日・・・いや、たぶん2ヶ月位にはなるだろうと思う大工達のキャンプはとてもシンプルです。
大きな石を三つ拾ってきてかまどを造り、ポリタンクに水を汲み置き、鍋一つ、釜一つで炊事をし、蚊取り線香を一つ焚いてベニヤ板の上にごろんと寝ます。
物凄いサバイバル能力です・・・わずかな着替えと、大工道具一式で何処へでも出稼ぎに行くのです。



  ベニヤ板の船

 大工達はマスバテ(船つくりで有名な街)から来ることになっていたのですが、来てみると、セブのマクタンの船大工達でした。
始まった当初は5人だったのですが、一週間が過ぎると大工を2人だけ残して、帰ってしまいました。
帰り際には、一週間後に材料を調達して戻ってくるから、と言うことだったのですが、結局はなしのつぶてで、音沙汰無しのまま2週間近くが過ぎてしまいました。
この間に残された大工は、できる仕事をぽつぽつと続けてはいたのですが、如何せん材料がありませんから仕事はほとんど進みません。
そして、残された二人の大工も、仕事を依頼したペドロから何の連絡も無く不安になった様子で、一度帰らせてくれ、と言ってきました。
しかも、ペドロは給料も払ってくれないので、帰りのバス代や渡し船の路銀も無いと言うことで、私に貸してくれと言い出しました。
お前らの依頼主はペドロだろうに、と言いたかったのですが、ここで揉めて仕事を途中でほうり出されては元も子も無いと思い、一週間の休暇と言うことで路銀と、少しの小遣いを渡しました。
そして、セブでペドロに会って、材料や自分達の賃金の話をしっかりしてくるように言い、もしもペドロがまともに返事をしないようなら、これから先は全部私が責任を持って給料も払うし、材料も手当てするからと言いました。
その上で、絶対に戻ってきてもらう手立てとして、たぶんペドロは今までの未払いの賃金は払ってくれないだろうから、そうなったら、その分も私が払うので、約束の日に戻ってきてほしいと告げました。




黙々と働くラモン

 ラモンとフェルナンドは約束の日より二日遅れでしたが戻ってきました。
案の定、ペドロは給料を払うこともせず、ドゥマゲッティーまでの交通費を持たせてくれることもしませんでした。
さて、こうなればもう約束はお終いです・・・後はこちらの都合でやらせてもらい、金の話は出るところへ出て、と言うことになります。
ペドロが登録書類を持っているのですが、それは、譲り受けて名義変更に必要な書類であって、新規で登録するのであれば、建造した大工の証明書があれば良いだけなのでペドロは用済です。
この日から材料の手当てを始めたのですが、木材も釘も結構高い物で驚きました。
マリンプライウッド・・・船を造るための耐水ベニヤが一枚4000円で、ブロンズネイル・・・銅の釘が1キロ1300円もします。
プライウッドは50枚、釘は20キロも使い、その他にラワン材やジェミリーナやマリンエポキシを20キロとか、とにかく、船が大きいので使う材料も半端ではありません。
たった1日、材料を買いに走り回って、また、30万円程が消えていきました・・・なんか、前に家を建てた時の蟻地獄を思い出してしまいました。
しかし、材料が揃うと大工もやる気が起きるのか、今までとは比べ物にならないハイピッチで、朝は6時頃から、夕方暗くなるまで働いてくれるようになりました。
MDSでは、いずれ毎日夕方は、サンタモニカビーチで一杯やって1日を締め括っているのですが、大工が来てからは、近所の人も加わって船を肴に、そこはこうした方が良いとか、ああした方が良いと、誠に無責任な議論が続くのでした。
そんな話の中で、船体をグラスファイバーで被ってしまえば、これから先20年間メンテナンスフリーだ、と言う意見が出されました。
ヤヨイの船は二艘ともファイバーで被ってあるので陸揚げして乾かしてペンキを塗る必要が無い、と強調しました。
それに引き換え、PCRやサクラは毎年一度はドライドックする必要があるし、ペンキ代が大変だぞ、と言うのです。
ベニヤ板の船は、マリンエポキシペイントと言う、硬いペイントで防水する必要があります。
このペイントは結構高くて、1ガロンの缶が1200ぺソほどで、MDS4を全部塗るには20缶は必要でしょう・・・これを毎年です。
そこに、まるで謀ったように現れたのが・・・いや、間違い無く謀られていると思いますが、グラスファイバーの職人でした。
彼は、全部一式、船体からキャビンまで、グラスファイバーで被い、仕上げにゲルコートも掛けてくれるて、10万ペソ・・・26万円でどうだ、と持ちかけてきました。
まあ、乗りかかった船とは正に今の状態で、もう後には引けないのですから、どうせなら良い船にしよう、と、グラスファイバーをお願いしました。
グラスファイバーの仕事が始まって驚いたのは、船体は、なんと4層重ねでとてもしっかりした仕上げなのです。
一番上を張る時にトナーを入れて白にしてもらい、これで船底掃除も船体掃除もたわし一つで済むと思うと、確実に安いな、と思いました。
私は日本では、自分で船を運転するし、オーバーナイトで航行することもあるので、航海灯の灯火関係と、12ボルトの電気の取りだしと、100ボルト用のインバーターも欲しいと提案したのですが、その他のスタッフに却下され、夜間航海灯以外はダメ、と言われてしまいました。
私としては、ゆくゆくは日本からGPSと魚探と無線と、ステレオと、電気釜と、電動シャワーと・・・すばらしい船にするべく考えていると言うのに。




  大工道具は・・・腕一本

   数年前に家を建てた時に、大工のエリックの仕事ぶりを見て、技術の高さと仕事の丁寧さに驚いたのですが、今回もまた驚きました。
彼等が使う道具は、写真に写っている物の他には、ノコギリ一丁、墨つぼ、鉛筆だけです。
そして、木を組み付ける部分では、ちゃんとホゾを切って組み上げていくのです。
私の予想では、強度もへったくれも気にせずに、適当に切り刻んだ材木を釘で打ち付けていくのだろうな、と思っていたのです。
ふぅーん・・・これなら強度も大丈夫、そして、耐用年数も長そうだなと、納得したのでした。
私も何ケ所か釘など打ったのですが、銅の釘はとても柔らかく、多用する三寸の釘は直ぐに曲がってしまって打てませんでした。
他のスタッフから、邪魔だからそこらで遊ぶんじゃ無い、と、ノノイの息子、アブロイ(6才)と共に除け者にされるので、隅っこで大工の仕事を眺めていました。
結局、船造りの現場でも、家造りの時と同様に私の受け持ちは、ポケットから財布を取り出す事だけで、金は出しても口出しは出来ず、で、いつもの事ですが、これは誰の船なんだろう?・・・そう、みんなの船なんだな、と自分に言い聞かせるのです。

   1月、MDS4沈没の知らせを受け、飛んで行って変わり果てた姿を見た時に感じたのは「絶望」でした。
実際に船はほとんどスクラップ、後の用途は薪だな、としか思いませんでした。
周りの無責任な声は、キールだけでも15万ペソはするのだし、今時得難い長いキールなのだからこれを再生しろ、と言うのですが・・・。
私としてはすでに支払ってしまった金が文字どおり水泡と化したわけですから、この上追い銭を出せる心境ではありませんでした。
MDSの小屋の前で打ひしがれ、うなだれている私に、トーピンが「ビヤ カ?」と話し掛けてきました。
私は声にならない声で、要らない・・・アヤウ、ディリ コと言ったはずなのですが、トーピンはビアナビアのグランディーを2本とグラスを二つ持ってきました。
目の前に置かれればつい手が出てしまう訳で、取りあえず一杯、一気に飲み干しました。
いつもならあまりビールを飲まないトーピンがこの日は何故か私につきあって、早いペースで飲んでいきました。
最初の2本が空になる頃、ノノイが魚の干物、ブラッドを炙って持ってきて、一緒に飲み始めました・・・ビールは1ケース追加されていました。
いつの間にかリチャードがバルー(ダツ)でティノーラ(魚のスープ)を作り、ライスと一緒に持って来てテーブルに置きました。
私はティノーラで御飯を食べながら、ビールをガボガボと飲み、ブラッドを齧りました・・・そして、いつものように酔っぱらったのでした。
そこへ、真打ち登場です・・・ジェフリーがこういう時の特徴的な低い、静かな声で「Ah・・・MASAYA SAN・・・」と始まりました。
あー、来やがった、お前が言いたい事は、死ぬ程酔っぱらっても分かるぞ・・・船を造りなおせって言うんだろう、と。
私はジェフリーに「ワライ クワルター ナ コ」と・・・俺、金は無いよ、と言ったのです。
しかし、ジェフリーも引き下がりませんで、「ヒナイ ヒーナイ バ・・・」ゆっくりやろうよ、と言うのです。
そこへサンタモニカのジョイも現れて、これを捨てるのは勿体無いぞ、と言い出しました。
テーブルには、誰が買って来た物やら、ラム酒のロングネックが一本置かれ、氷も用意されていました。
私のグラスのビールが空になると、誰かがラム酒を入れて手渡しました。
結局・・・私は今夜も酔っぱらいました。
そして、すっかり酔っぱらって気分が良くなった私は「オッケー ナ リペール ナラン パム ボート」と叫んでいたのでした。
と・・・なんで毎度・毎度、酔っぱらって物事を決めるのか、当人が一番納得行かないわけですが、これが私の本性なのでしょうね。




 日本人は皆無だったが、込み合うアポ島

 3月のある日、飛び込みの客が来た・・・名前は、えーと・・・忘れましたのでジョンブルと呼びます。
イギリス人で、なんだか気難しそうなたので、俺はボートマンやるから、お前ガイドな、とノノイに言って、リチャードと3人で出かけました・・・行き先はアポ島です。
サンタモニカから朝に飛び入りできたために慌てて準備に取りかかりました。
もう一人のお客さんが、本日のダイビングをキャンセルだったので、のんびりと、昼前に魚捕りだな、なんてノノイと話していた矢先の事でした。
ところが、イギリス人と言うのは順応性が高いのか、すっかりフィリピンに馴染んだようで、約束の時間よりも1時間遅れで、10時過ぎに現れました。
うひゃぁー・・・これからアポ島かよ、参ったな、帰りは何時だ? 午後は風が吹いて時化るぞ、と私が言うと、トラバホ ナ オイ、とノノイが言いました・・・これは仕事だよ、と、彼は言ったのでした。

MDS1は追い風に乗って新記録を樹立してアポ島に到着しました・・・50分は大記録です。 案の定、アポ島に着く頃には風がビュービューで、チャペル近辺以外は無理、と言う有り様で、私は帰り道を心配していました。
ノノイのガイドで一本潜って来たジョンブルはとても御機嫌で、特にウミガメが気に入った様子でした。
さて、ビーチに着けてランチタイムとなったのですが、ジョンブルはレストランで食べると言う事で、リゾートへの階段を登っていってしまいました。
案内して行ったノノイがなかなか戻ってこないので、たぶん一緒に食べているんだろうと、私とリチャードは弁当を食べはじめました。
この日はセブからの大きなバンカーボートが何艘も来ていて、チャペル前のビーチはとても混雑していました。
知り合いのコーリアンのダイビングボートが小さなMDS1の横に無理矢理入って来て、ダイバーを上陸させていました。
私が、凄い客だなと言うと、安くて儲からない団体なんだ、と小さな声で・・・そして、キムチ食べるか?と。
私は、オーオーと怒鳴って、コーリアンがランチを食べている所へ行ってキムチを分けてもらって来たのでした・・・美味いのです。
ノノイとジョンブルはなかなか戻ってこなくて、そのうちにノノイが、リチャードと私にと言って、サンミゲールを一本づつ持って来ました。
イギリス人の昼飯は、とんでもなくゆっくりなのですね・・・初めて知りました。

グダグダと昼寝などしていたら、やっと戻って来てセカンドダイブスタートです。
チャペル前ドロップオフとかなんとか、ノノイが適当にブリーフィングをしている時に私が、帰り道が厳しいので30分で切り上げる事、と言うと、ジョンブルは、オーケー キャプテンと気持ちよく分かってくれました・・・おっ、ビール奢ってくれたし、結構いい奴かも、なんて、ね。
ノノイがぴったり30分で戻って来た頃には、チャペル前でもうねっている程で、いやぁー参ったな、状態でした。
とりあえず、ダーウィンのマサプロド・サー当たりを目指して海峡を横切っとしまおうと方向を決めて走り出すと、物凄い波でボートは叩かれ捲りでした。
タンクが全部前なので後ろが軽いのですが、今日はボートマンが一人しかいなく、後ろに立つ人が足りません。
結局尻が持ち上がる度にプロペラが空転してヤバいなぁ、と思っていたら案の定、空転して高回転手の後に水に叩き付けられたステンレスのプロペラは、ぐんにゃりと曲がってしまいました。
予備のぺラは2個積んであるので交換しようとしたのですが、シャフトに食い込んだ曲がったペラが外せず、交換できませんでした。
悪戦苦闘する事1時間と少し・・・私は諦めて、別なお客さんに付き添って市内を回っているはずのジェフリーにレスキューを依頼しました。
さて、救助の船は多分ヤヨイのTAKAだろうから、サンタモニカから50分・・・でもスタートの準備に30分で、後1時間半だな、と言う事で昼寝の体制に入りました。
ノノイがジョンブルに状況を説明すると、5時にガールフレンドとサンタモニカで待ち合わせだが、間に合うか?との事。
私は、多分帰りは6時近くになるはずだから電話したら、と言うと、それ程のものでも無いからと笑うのでした。
彼はガールフレンドが24才で若いんだ、と自慢げに言い、自分の年令が62才である事も披露しました。
若さの秘密は、この国の女性からエネルギーを分けてもらう事だと言う・・・とてもジョンブルとは言えない、スケベなおっさんでした。
ビュービューの海を3時間も漂っていたのに文句一つ言わないイギリス人と、すっかり打ち解けた我々は、私のつたない英語も交えて、様々なスケベ話しに華を咲かせ、サンタモニカに戻った時には、明日の予定も今日と同じで、と彼は笑ってホテルに戻っていきました。
別れ際、彼が、フィリピン人で眼鏡を掛けているのは珍しいな、と言うので、私は、若い頃に本を読み過ぎたからだ、と言うと、覗きじゃないのか、ですって。


  では、また・・・。           




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