求めよ、さらば与えられん。たずねよ、さらば見出だせん。
 門を叩け、さらば開かれん。
 すべてを求むるものは得、たずぬる者は見出だし、門を叩く
者は開かるるなり。
                       「新約聖書」














 他の吸血鬼の狂喜狂乱っぷりに対して、ナハツェーラーは意外に落ち着いて
いた。だが、それでも掌ににじみ出る汗と興奮は隠し切れない。ただし、それ
は周りの吸血鬼が考えていた――ついに自分達が世界を支配する――という欲
望とはまた別個のもの、純粋な願いとでも言うべきものだったが。
 彼は窓越しにサン・ピエトロ広場に集まった有象無象の吸血鬼を視た。イノ
ヴェルチ所属のものが大多数を占めていたが、中にはドイツ武装親衛隊の格好
をしたミレニアム――彼等はイノヴェルチからは少し遠巻きに様子を窺ってい
る――の兵士もいたし、イノヴェルチでもなければミレニアムでもない、ただ
長い年月を生きたというだけで偉ぶるような鼻持ちならない吸血鬼もいれば、
今の内にお零れに預かろう、何だったらイノヴェルチに参加してもいい、とい
う若い吸血鬼まで。
 こんな光景は恐らく吸血鬼がこの世に誕生して初めてだろう、街中で、堂々
と、吸血鬼達が、こういう風に狂乱の騒ぎを起こすというのは。
 これまでの地下で行われるひっそりとしたサバトなどとは彼等の狂喜が段違
いだ。狂乱する彼等は互いに血を吸い合い、麻薬を吸い、生きたまま捕まえた
人間を拷問してその悲鳴に耳を傾け、中には少女や少年を殺しながら犯して愉
悦に浸る者もいた。
 好きにするがいいさ、とナハツェーラーは思う。どの道、彼等の狂乱も長く
は続かない、預言が正しいのならばもうすぐ彼等は静まり返り、次に再び狂乱
するだろう、ただし、狂喜ではなく、恐怖によって。
 ナハツェーラーはその時の様子を想像して、ほんの少し微笑んだ。
 ――まあ、それもうたかたの夢の一つか。


 本来ならローマ法王が説法を行う神聖なる場所。こんな場所で彼等は生贄を
捧げようとしていた。マクスウェルが聞いたらさぞ怒り狂うだろう。
(実際に怒り狂っていた)
 まず、巨大な石造りの棺桶に入れられた二体の吸血鬼が現れた。正面右手に
真祖の姫君、アルクェイド・ブリュンスタッド。同じく正面左手には夜魔の女
王、リァノーン。
 石造りの棺桶には吸血樹がまるでそれを縛り付けるように、十重二十重に絡
んでいた。吸血樹は棺桶の中にまで根付いており、もちろん中の二人の躰にも
しっかりと食い込んでいる。そしてその絡んだ根は棺桶から離れ、ナハツェー
ラーが今立っている場所の前面に位置している、やはり石造りの台座にその末
端を置いていた。根の末端は台座の中央に在り、まるで突き出た杭のようだ。
 時々その根がピクピクと蠢いているのは、樹のようで樹でなく、生物のよう
で生物でない奇怪な物体そのものといった感じだった。
 イノヴェルチのナハツェーラー直属の配下達に取り囲まれ、ウェディングド
レスを思わせるような純白の衣装を着込んだモーラが現れた。誰に言われるで
もなく、彼女はナハツェーラーの前に進み出た。
「……」
 ナハツェーラーはモーラの顎に手をやり、くいっと上を向かせた。
 果たしてそこには……何も視ようとはしない虚ろな瞳だけだ。
「……壊れたか。まあいい、いずれにせよ鍵となる者は壊れる運命しか残って
おらぬ、今壊れておけば後が楽だろう」
 彼は、ナハツェーラーはモーラが自分の娘であることは知っている。戯れに
犯した女が孕んだ娘。ハンターになった彼女が自分を付け狙うのを疎ましいと
は思っても、愛しいと思ったことはこれまで一度もなかった。
 だが、今ならナハツェーラーはこの娘がたまらなく愛しいと思う。自分のさ
さやかだが障害だらけの願いを叶えてくれたのは、この娘がいるからなのだ。
 子は親に従うべき、利用され、踏みにじられ、それでも子は親を愛するべき。
 ナハツェーラーはモーラの頭を優しく撫でた。モーラは何の反応も示さなか
った、彼女が今まで生き長らえてきた理由の一つである憎しみすら、失ってし
まったように思われた。
 だが、それは否だ。

 モーラは壊れた訳ではなかった、ただ、少し疲れただけだ。逃げるのに疲れ
て、眠ってしまっただけだった。
 もちろん、それは誰にも分からない。そしてモーラ自身すら気付いていない
のかもしれないけれど。それでもモーラは眠る。

 モーラの躰をナハツェーラーは抱きかかえると、丁重に台座に横たえた。中
央に在った吸血樹がたちまち反応し、モーラの両手と両足に食い込む。ただし、
それらは血を吸ったりはしない、彼等は単なる循環役である、要はポンプだ。
 それらが全身にくまなく接続するのを確認し、ナハツェーラーは預言書を紐
解いた。処女の血で記され、吸血鬼の皮で綴られた闇の書。用心のために劣化
コピーを世界各地にばら撒いていたが、いずれも預言の内容はナハツェーラー
が改竄していた。
 預言の真実が記されているのは、これだけだ。

 神を降臨させるには、まず扉を召喚しなくてはならない。

 ナハツェーラーは、吸血樹の制御呪文を発動させた。
 彼等はたちまち激しく動き出し、ロードヴァンパイアから血――というより
は純粋なエネルギーそのものを、どんどんとモーラに送り出していく。
 彼女の躰が鈍く、光り出した。その様子を下から見ていた吸血鬼達がざわめ
き始める、いよいよか、という期待感が彼等の胸に膨れ上がる。
 ナハツェーラーは更に呪文を詠唱し続ける。禍々しい発音の古代吸血鬼言語
はさながら亡者の呻き声のような響きだった。ナハツェーラーの脇には、静か
にシーツで顔面を覆った七夜志貴が立つ。
 彼は吸血樹に覆われた棺桶を、じっと見せ続けていた。己の心の内に巣食っ
ている遠野志貴に見せつけているのだ。ざまあみろ、と七夜は嗤うが相変わら
ず遠野志貴は答えなかった。眼鏡を外した綺麗な蒼い瞳で、じっと遠野志貴は
七夜志貴の心を見つめている。
 ナハツェーラーが第一の呪文をようやく唱え終わった、続けざまに第二の呪
文を唱え始める、見る見る内に彼の老体は疲労を感じ始めたが、それを吸血鬼
の力で無理矢理奮い立たせて、尚も呪文を唱え続ける。
 今唱え終わった第一の呪文は“作成”、ナハツェーラーは無事に鍵を作った。
 続いて唱え始めた第二の呪文は“召喚”にあたる。と言っても、神ではない。
 実を言うと、神を召喚する術はこの世に存在しない――あっても、術者の神
経がそれに耐え切れまい。
 では、ナハツェーラーが呼ぼうというものは何か?
 それは彼の主目的であり、神を降臨させる前段階である“門”(ゲイト)で
ある。即ち、この現世と死世を強制的に接続させる門。通常この門は内側から
しか開かない。だから門自体はたやすく召喚――要するに、入口を創造するだ
けだから――できるのだ。問題は、その開き方である。
 開くには内側から門を開けるか、外側からこじ開けるか、いずれにせよそれ
には巨大な力が必要だ、内側から開ける場合は外からこじ開けるよりは幾分消
費する力は少なくて済む。
 だが、内側から開ける場合は強い意志を持って――即ち、死世の世界でとも
すれば薄れて消えてしまいそうな怨念を保ち続け、それによって扉を開かなけ
ればならない。
 ナハツェーラーは、自信がなかった。自分で命を絶った後に、己の意志を持
ち続けて門を内側から開く自信が、彼にはなかった。それに、恐らく自分一人
では無理だ、他の強力な能力の吸血鬼達を多数犠牲にせねばなるまい。しかも、
強制では駄目なのだ、強制では死世に出向いた途端に、現世で聞かされた門の
ことなど綺麗さっぱり頭の中から抜け落ちてしまうだろう。
 自ら望んで、いるかも分からない神のために命を投げ出そうとするだろうか?
 ――もちろん無理だ、こんなことを信じている吸血鬼はそれこそ数えるほど
しかいまい。まして一度死ぬ、となるとどんな吸血鬼でも二の足を踏むだろう。
 そうなると、妥当なのは外から無理矢理こじ開けるということだ。内側から
開くより遥かに力を必要とするが、信じていようがいまいが彼等の力を搾り出
すことはできる。
 どんどん、という音が熱狂する吸血鬼の耳に届いた。
 雨雲が徐々に空を覆い始める、雨になるだろうか? と、誰も彼もが思い始
めたとき、唐突にそれは出現した。

 玲二は、それを視た瞬間冗談ではなく腰を抜かしそうになった。エレンも同
様だった、口を半開きにして空を見つめている。
 伊藤惣太はその、悪夢のような代物に呆然とするばかり。セラスも同様だっ
た。
「な、何。アレ――!?」
 悲鳴。
 マクマナス兄弟、シエル、由美子、ハインケルなども天を見上げ、思わず呷
いた。
 唯一キャルは、ちらりと空を一瞥しただけですぐに歩き出した。何が起ころ
うが、何が出てこようが、今更驚くような彼女ではなかった。
 とは言え、大多数の人間――そして、吸血鬼も空を見て驚愕した。普段化物
を見慣れているはずの第十三課ですら、それは驚愕する存在だった。
 理由として、それがあまりに巨大すぎたということがあるのかもしれない。
 間違いなくヴァチカンとほぼ同程度――いや、下手をすればそれ以上の大き
さで、雨雲を割るように登場した“門”。
 鉄でできているのか、石でできているのか、答えはどれでもない。黒々とし
たその門は、悲鳴をあげながら蠢く無数の“生物”でできていた。人間らしき
ものもいれば、犬もいた、馬もいた。巨大な蛇が膠で貼り付いたように痙攣を
繰り返すその下に無数の蛙が互いの躰をくっつけあっているかと思えば、百足
や地虫に自身の躰を喰われるに任せるしかない老人。悲鳴は風音と混じり合っ
て荘厳な合唱曲となり、さながら――さながら、魔界というものがあるとする
ならば、こういう風景に違いない、と思わせた。
 その門はゆっくりと高度を下げていく。重力など存在しないというように地
面と水平に動き、そしてモーラの直上数百メートルで停止した。台座に横たわ
るモーラは、ちょうど門と向かい合う形となる。

 第二の呪文、“召喚”は成功した。

 どんどん、という音が門の内側から聞こえてくる。中に居る何かが一斉に門
を叩いて音を鳴らしているのだ。中に在るのは、恐らくはおぞましい生物。い
や――生物ですらないのだろう。
 第三の呪文、“開門”をナハツェーラーは発動させた。
 これだ、これが成功しなくてはならない。預言書に在る通りの呪文を唱えな
がら、ナハツェーラーはモーラの腹に手を置いた。モーラの肉体が機械的に反
応し、背中を反らして口を開く。ゆっくりとモーラの躰が光に包まれて行く。
 間近にいた七夜志貴は、反射的に目を抑えた。光はどんどんとその輝度を増
して行く、ついにはモーラの姿は肉眼で捉えられないほどの輝きになった。
 周りにいたナハツェーラーの部下達が不安半分、期待半分というようににざ
わめく、もちろんナハツェーラーは無視して呪文を唱え続ける。
 ふわり、とモーラの肉体が――あの光の中にまだ肉体があるのならば――宙
空に浮いた。一メートルほど浮いたところでモーラは停止し、どんどん膨れ上
がりつつある光が、やがて一筋の線となって天に放射された。
 地面と水平に浮かぶ門に、光が直撃した。金属と金属を擦り合わせるような
耳障りな音、雷が疾走する音、そして錆びた扉を無理矢理開くときのぎ、ぎ、
という何とも言えない不快な音。
 そう、この巨大なデカブツ、幻影幻覚として片付けたくなるようなこの門は
モーラから発せられた光――二体の吸血鬼の莫大なエネルギーによって間違い
なく開き始めていた。
 叩きつけるような暴風が巻き起こる、吸血鬼達もあまりの威力に顔をしかめ
た。
 そしてついに。ほんのわずか――恐らく厚さ一mmかそこらだが、現世と死
世が完全に接続した。途端、その隙間から莫大な黒い塊が現世に押し寄せてき
た。黒い塊、負のエネルギー、塵に還ったはずの邪な魂。
 彼等は手近な肉体――そう、言わずとしれた見物者達――に次々と入り込ん
でいった。あちこちで悲鳴が上がる、隣に居たどこにでもいる吸血鬼が、ふと
気付くと醜悪な化物に変化しているのだ。そして彼等は人間だろうが吸血鬼だ
ろうが、ほとんど見境がなかった。自身の隣にいたものを喰い殺した、自身の
前に立つものに爪と牙を振るい始めた。
 その中に一際大きな塊があり、それが逃げ惑う吸血鬼の肉体に入り込んだ。
 姿形が変化する、黒い鎧を着込んでサディスティックな表情に顔を歪める男
は、ジル・ド・レ伯爵であった。だが、意気揚揚と周りの吸血鬼を殺しにかか
った彼は七本の剣で一瞬でバラバラにされた。
 腐臭を放ちながらいななく馬、ぼろぼろの鎧、そして顔面の肉が腐り果てて
いるせいで、骸骨にしか見えない顔、眼球は死ぬ前に抉られたので既に存在し
てはいない。ヴァチカンの恥部、テンプル騎士団がついに蘇ったのだ。
 彼等は向かうところ敵も味方もなしとばかりに、変化したものも変化してい
ないものも平等に殺し続ける。
 吸血鬼でごった返していたサン・ピエトロ広場は混乱の極地に達した。
 第三の呪文を詠唱し続けるナハツェーラーは、その景色を見て――嗤った。
(莫迦どもめ)
 ――吸血鬼の神や、吸血鬼の怨霊が、自分達に害を及ぼさない存在だと信じ
ていたのか、吸血鬼が支配する世界が本当に来ると信じていたのか、太陽と銀
を克服できると信じていたのか、救いようのない愚者どもめ。
 さらに、門の開き方が大きくなった。
 黒い邪悪な魂は次々と死世から飛び出してくる。わずか一センチ開くだけで、
黒い魂の数は倍に増えた。だが、ある程度の数の魂が現世に再び戻る(一部は
人間達の持つ概念武装によって二度目の死を迎えた)と、次第にその数は少な
くなっていった。その分、門の中から出てくる魂が巨大、つまり強い力を振る
うものと変化していく。伝説上でしか名前を聞かない吸血鬼、化物、怪物、死
してなお現世に執着し続けていた彼等の怨念がようやく結びついたのだ。歓喜
のあまり、誰彼構わず殺しまわるのも無理からぬことかもしれない。
 やがて、黒い魂の流入が止まった。死世の魂が全てこちらに舞い戻ったのか?
 いや、そうではない。一体の巨大な魂が、門に到達してしまったのだ。そう、
それこそが、ナハツェーラー以外の吸血鬼が追い求めてきたもの。


 ――神(カイン)


 だが開いたと言えども、余りに強大なカインの魂――否、怨念と言い換える
べきか――は門の狭さのためにくぐりぬけられない。このペースで開き続けて
も、カインが完全に現世に立ち戻るためには、幾年月が必要になるに違いない。
 もちろん、ナハツェーラーにはそんな体力も精神力も存在しない。
 だから、次の呪文で門を打ち破らねばならない。そのために可能な限り、こ
の清浄なる土地を血と汚れた魂で染め上げた。そして満月、吸血鬼の力が最大
レベルで発揮される刻。これならば、門を開くどころでなく、門そのものをも
破壊できるはずだ。
 ナハツェーラーが第四の呪文――“壊門”を発動させた。
 彼の声はまた大きくなり、ほとんど雄叫びの様相を呈している。灰から蘇り、
塵から産まれる不死の王。
 モーラの身に纏った光がさらに膨れ上がり、一瞬の間を置いてそれが門に叩
きつけられた。門が悲鳴をあげる、開くどころか直径数百メートルの大穴が開
いた。その穴からゆっくりと、カインが現世に侵入し出した。
「来るぞ!」
「何と――――――――――」
「スゲぇ…………」
 吸血鬼達は先ほどの騒動も忘れたかのように、呆然とカインの魂が現世に降
りてくる様子を見守るだけだ。
 ゆっくりと、カインが、地上に降りて――。


 壊門の呪文は長く、そして多大な精神力を必要とする。そのために、ナハツ
ェーラーは必然的に周りの敵意から無防備にならざるを得ない。だから、神官
の衣装を着た部下の吸血鬼達が、ナハツェーラーを護らなければならない。
 だが、この状況下で果たして誰がナハツェーラーに害を為すというのだろう。
 吸血鬼だけでなく、七夜志貴も同様の想いだった。
 だがこの状況下だからこそ、ナハツェーラーに激しい敵意を抱く吸血鬼が居
るということを、彼等はもう少し考慮すべきであったかもしれない。とは言え、
それは限りなく零に近い確率であった。
 儀式が行われている建物の屋根の上に、ソレは佇んでいた。ブラウンのロー
ブで全身を覆ってはいるが、その躰の不定形さ、異形さは隠しきれていない。
 ――俺のものだ。
 吸血鬼はローブを脱ぎ捨てた。吸血鬼であるが故に異形であることは珍しく
もないが、彼は余りに奇怪すぎた。巨大な頭が左肩に噛み付いたような状態で
同化している、そして本来の頭はゆらゆらと頼りなく揺れていて表情は虚ろだ
った。頭に憑かれているのだ。
 巨大な頭――他の吸血鬼に寄生することで生き長らえたカインのプロトタイ
プはついに、真の肉体まで辿り着いたのだ。プロトタイプは跳躍する、既にこ
の肉体は完全に支配下に置いている。宿主の精神は破綻していた。
 再び“壊門”を唱えることで、今度こそ門を完全に破壊しようとしていたナ
ハツェーラーは背後に気配を感じた、が、振り向く暇もなく――。
「ひ、ひ、ひ、ヒサシブリダナ。なは、なはつぇ、ナハツェーラー!」
 宿主の口が開き、無理矢理声を押し出していた。同時に、プロトタイプはナ
ハツェーラーの心臓を一突きで抉り取っていた。
 血を吐く。誰も彼も――七夜志貴も含めて――呆然としていた。
 ナハツェーラーは、驚愕の瞳でそれを視る。信じられなかった、自分の置か
れている状況が信じられなかった。
「ば、莫迦……な……お、お前、まさか……まさか!?」
「俺の物だ、あれは俺の物、俺のもの、オレノモノ。アレはオレノモノダァ!」
 ナハツェーラーを蹴り倒し、一足飛びで、カインの肉体にプロトタイプは辿
り着いた。
 巨大なカインの魂を見上げる。プロトタイプは全く臆せず、それに向かって
呪詛を吐く。我の肉体に手を出すな、と。
「な……なにを……しているッ! 殺せ、殺せ、殺せッ、殺せ――――」
 ナハツェーラーは抉り取られた心臓を抑えながら――なぜか、彼は未だ生き
ている――叫んだ。神官達は慌てて彼を抑えに向かう――が、例え首だけにな
り、他者の躰に寄生しているとは言え、プロトタイプはやはり化物である。た
だ長く生きていただけの吸血鬼が敵うはずもない。
 腕の一振りで、彼等の顎と顔面、首を抉り取る。それで呆気なく終わりだっ
た。他の吸血鬼は怯む、後ずさる、一瞬で命を奪われる危険と、カインの復活
が防がれる危険を天秤にかける。
 中途半端に長く生きてきた彼等には、自分の命以外に優先するものなど何も
なく、故に。
 ――逃げた。
「お……の…れ……くそッ………………シキ! シキ!」
 ナハツェーラーは最後の頼みの綱とばかりに七夜志貴を呼んだ。だが、彼は
呆然とアルクェイド・ブリュンスタッドが封じられた石造りの棺桶を見つめて
いる、ナハツェーラーの言葉などまるで耳に届いていないように。
 では、七夜志貴は今、果たして何をしているのだろうか? 実を言うと。
 七夜志貴はすでに、殺されていた。


 少し刻を戻す。それはナハツェーラーの心臓が抉り取られた瞬間のことだっ
た、呆気に取られてその様子を見つめていた七夜志貴の全身に、とてつもない
悪寒と衝撃が走り抜けた。
「ま、さか――」
 己の心の内を探る。そこには居ないはずの男がいた、居てはいけないはずの
男が、七つ夜を構えて立っていた。背後には牢獄、つい先ほどまで彼が捕らえ
られていたはずなのに。
(檻が――)
 男は呟き、逆手に七つ夜を構える。七夜は一歩後ずさる、男は一歩踏み込む。
(緩んだぞ、七夜)


 ――勝負になど、なるはずもなく。
 七夜志貴という存在は、きっちりと十七に分割された。



 かくして遠野志貴は己の躰を取り戻した。久方ぶりに呼吸をする、久方ぶり
に躰を動かす。七夜志貴の記憶は全て脳に詰まっている、だからアルクェイド
が今、何処にどうしているかも当然知っている。
 眼鏡を外す、一瞬で線の世界が自身の視界を覆い尽くす。途端に始まる頭痛、
だがそれが何だと言うのだろう、眠ってから今までの苦しみに比べれば。
 吸血樹の線を七つ夜で断ち切った、傷口から綺麗な緑色の液体がぶちまかれ
る。どうやらこれが、アルクェイドのエネルギーらしい。
 背後のナハツェーラーの呼びかけを黙殺し、石造の棺桶に刃を突き立てる。
 これもまた、一瞬で棺桶は棺桶としての意味をなさないほどバラバラに分割
された。中にいたアルクェイドがわずかに血を噴出しながら、地面に倒れ込み
そうになるのを、遠野志貴はしっかりと抱きかかえた。
 そして、アルクェイドの中に寄生するように入り込んでいる吸血樹を片っ端
から引きずり出して突き殺す。それでも彼女はぐったりとして、目も開かず、
ただ志貴に身を預けるのみ。
「アルクェイド――! 起きろ、起きろよ、アルクェイド!」
 かすかに彼女がその声に反応した。わずかに聞こえる息遣い。たったそれだ
けで、ぐるぐると狂ったようにぐらついていた世界が急激に平衡を取り戻す。
 ――生きている。
 安堵。
 落ち着いた。状況分析の余裕まで作り出すことができた。――ふと気付くと、
ナハツェーラーはいつのまにか姿を消しており、プロトタイプはカインの真の
肉体と融合し始めていた。
 細胞が融解し、結合する様は肉感的な性交を思い起こさせる。ただし、普通
のいわゆるセックスは、少なくともあれほどグロテスクではないだろう。
 その様はちょっとした見世物だった、が――そんなものに構っている暇はな
い。それよりも――。
「ごめん、ちょっと待ってろ」
 未だ目覚めないアルクェイドにそう声をかけてから、志貴はもう一つの棺桶
に七つ夜を突き立てた。もちろん、線を切ってバラバラにしながら。棺桶の中
には、夜魔の森の女王がアルクェイドと同じように力なく横たわっていた。
 やはり、アルクェイドと同じように吸血樹を引き抜き、切り裂き、呼吸を確
認する。彼女もまた、エネルギーをギリギリまで搾り取られてはいたが、まだ
息はあった。
「友達の恋人を見殺しにするなんて、ちっとばっかし後味悪いからな」
 ――そんな言い訳をして、志貴はリァノーンを棺桶の傍に寝かせた。手近の
吸血鬼の屍体が、マントを着込んでいたので、それを奪い取って彼女に被せて
やる。
「これで、よしと――」
 リァノーンが苦悶しながら呟いた。「ソウタ」と。志貴は哀しそうにリァノ
ーンの手を取り、耳元で囁いた。
「大丈夫、惣太はもうすぐ貴女の元へやってくる」
 これは嘘をついたような気もするし、嘘をついてないような気もした。今、
確かに伊藤惣太はこの場にいない、そしてこの吸血鬼が満載している場所に潜
り込むことも難しいに違いない。
 だが、それでもあの男は来そうな気がする。ここに来て、リァノーンを救い
出しそうな気がする、そんな確信めいたものが志貴の頭から離れなかった。
「大丈夫、すぐ、来ますから――」
 心なしか、リァノーンの表情に安堵が浮かんだ気がした。もうこれ以上、自
分がやれることなどあるまい。志貴はリァノーンの元を離れ、再び自分の仕え
る姫君の元へ戻った。
 この時ばかりは遠野志貴は彼女が気絶していて良かったと思った。あんな場
面を見せていれば、半殺しにされるだけでは済まされそうにない。志貴は場違
いな苦笑いを浮かべた。
 目と鼻の先にあるプロトタイプとカインの真の肉体が融合した“物体”は、
何故かその動きをピタリと止めており、まるで月を観察するかのように仰いで
いた。
 いや、月ではないか――“物体”は門を観察しているのだ、門はあと一歩の
ところでカインの魂の行く手を頑強に阻んでいた。カインの魂は無駄な体当た
りを虚しく繰り返している。
 無駄?
 志貴は上空の圧倒的な威容と異形を誇るそれを見て、ふと気付いた。
 わずかに、わずかにだが先ほどより数メートル、もしくは数十センチ
「門が……開き始めてる?」
 ――無駄……じゃ……なかっ…………た…………?
 直感的に。
 本能的に、そういう状態がトンデモなく不味いと感じた。ヤバい、閉まるの
ではなくて、開くのは絶対にヤバい。
 だが、志貴にはどうすることもできない。門がこれ以上開くことのないよう、
祈り続けるだけだ。アルクェイドならば空想具現化で何とかすることができる
かもしれないが、今の状態ではそれもままならないだろう。
 志貴は、ふと台座にその身を横たえている金髪の少女に目をやった。七夜志
貴とナハツェーラーの話から察するに、彼女こそが門を開く鍵、アルクェイド
とリァノーンの莫大なパワーを取り込んで扉を半ばまで破壊した者。名前は確
かモーラとか。
 できれば、モーラの様子も看ておきたかったが、彼女の周りには未だ金色の
光が渦を巻いており、その光に右手を近づけた瞬間、凄まじい重圧が志貴の全
身に叩きつけられた。この光は純粋なパワーだ、どうやら迂闊に近付いて触れ
ると、自分の体内にパワーが取り込まれるらしい。そして、それに耐え切れな
い場合。
 恐らく、経絡秘孔を突かれたみたいな死に方するんだろうな、と志貴はそん
な馬鹿げた想像をして身を震わせた。その時に反射的に握っていたアルクェイ
ドの手を強く締め付けたのが良かったのだろうか。
 アルクェイドが、うっすらと目を開けた。
「あ……」
 しき、と聞き慣れた発音で、聞き慣れた声で、彼女は呟く。
「アルクェイド………アルクェイド……」
 志貴は彼女の名前を呼びかけながら、引き攣った笑顔を見せた。アルクェイ
ドはいかにも疲れきった、という表情で、普段志貴の名を呼ぶたびに浮かべる
笑顔など作る余裕すらないようだ。お陰で志貴も、笑顔を作る余裕があまりな
い。
「ここ……そう……儀式……は――――門…………は、どうなった……?」
 志貴は首を横に振った。果たして今の状態は成功したと言えるのかどうか。
「――分からない。ナハツェーラーは逃げた、門は中途半端に開いている。
 モーラって女の子には近づけやしない。それで、何か分からないんだけど、
カインとはまた別のカインが、やってきて――」
 アルクェイドが初めて表情らしい表情を見せた。膨れたのである。
「ちょっと志貴、何言ってるんだか全然分かんないわよ」
「だから、俺も分からないって言ってるんだ。
 ……だけどまあ、一つだけ確実に言えるのは」
 唐突に、もぞりと、動いた。


 プロトタイプが。


「要するに、現在(いま)の状況はかなりヤバいと思う」
 プロトタイプが寄生していた吸血鬼の首が突然ずるずると伸び始めた。吸血
鬼の表情は虚ろだったものが、急にムンクの叫びのような苦悶の表情に変化し、
舌がずるずると地面に這い出していく。そして眼球がぽろりと零れ、眼窩から
二本の長い指が突き出ていた。
 吸血鬼から耳障りな悲鳴があがった。アルクェイドは思わず顔をしかめ、志
貴は耳を抑えた。
 突然、二体――というよりは、半ば融合しかけていたから一体半――に成り
果てたカインが起き上がった。躰は上半身から二体に分裂していたが、プロト
タイプが寄生していた吸血鬼の肉体は、徐々にカインの真の肉体に細胞ごと引
き込まれており、完全に取りこまれるのも時間の問題だろう。そしてプロトタ
イプの意志――怨念と言い換えてもいいが――はカインの真の肉体を不完全な
がら、かなりの部分を支配下に置いていた。
 だが、プロトタイプは空を仰ぎ見て怯え出した。
 ――あいつが、あいつが、あいつが、来る!
 肉体の真の所有者が、門に何度も何度も体当たりを繰り返していた。門は彼
が体当たりを行うたびに揺れ、今にもカインが空から降臨してきそうだった。
 プロトタイプは思う。この肉体は俺のものだ、断じてあんな輩に渡すものか、
このパワーは俺のものだ、断じてあんな偽者に渡すものか!
 今やプロトタイプは過去の記憶は捨て去っており、自分こそが絶対的な神で
あると全く疑うことなく信じていた。だが、それでも本能的に真のカインをプ
ロトタイプは恐れた。偽者であるはずの、門の向こうの化物が怖くてたまらな
かった。
 ――私にも、私にも力が。
 力は身近に存在した。それも圧倒的なまでの力が。
 志貴は、ナイフを構えて背中にアルクェイドを退がらせたが、プロトタイプ
の三つの頭が一斉に同じ方向を向いていることに気付き、瞬間的に彼の狙いを
悟った。
「ヤバい!」
 志貴は駆け出した。だがそれは一瞬も二瞬も遅く、モーラはプロトタイプに
抱きかかえられた。そして、プロトタイプは全身から放たれていたエネルギー
を奪い取るためにもっとも都合の良い状態――即ち、彼女を丸ごと胃袋の中に
納めた。
 次の瞬間、カインの真の肉体に激変が起きた。まず、全身が膨れ上がったの
である。それから背中と半一体化していたはずの翼が動き出し、醜悪で、そし
て鈍重な躰を、あっさりと空へ運んで行った。
 志貴は足を止めた、いくら何でも追いかけることはできそうにない。けれど、
止めようという気がないことも確かだった。あの化物は、イレギュラーであり、
明らかに儀式の邪魔をしていた。となると、あれが今目指しているのは門であ
り、目的は門の向こう側の邪魔をすることだろう。それならば、少なくともこ
の現世に存在する“神”はたった一体で済むことになる。それ以上の増加は御
免だ。
 彼の予想通り、プロトタイプが空を飛んだ目的はただ一つ、門を閉めること
である。永遠に“偽者”を封じ込めてしまうことである。だが、彼は一つだけ
決定的な間違いを犯していた、その上そのことをすっかり頭の中から追い出し
ていた。
 それは、まずプロトタイプは所詮創り物であるということ。
 そしてもう一つ、真の肉体の所有者は門の向こう側にいるカインであり、決
してプロトタイプのものではないということ。
 門に行くべきではなかった。カインの、真の吸血鬼の神の怨念はプロトタイ
プのような生易しいものではない。カインの怒りは、この世の全てのもの、全
ての存在に向けられている、人間だろうが、吸血鬼だろうが、例え草花と言え
ども、だ。
 だから、プロトタイプは迂闊に近付くべきではないのだ。




 ――人類が一人残らず殺戮されるから。














                           to be continued






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