人 もし死なば また生きんや

       ヨブ記14:14











 まず最初に彼が感じたのは焼けつくような喉の痛みだった。
 ぴったりと喉の皮と肉が張り付いている、引き攣る痛み。それともこれはた
だの乾きなのだろうか? 違う、サハラ砂漠を横断したってこれほど“乾く”
ことはあるまい。
 頭が痛い、いや頭だけではなく鼻・喉・耳・胸・腹・手・足全てに万遍なく
痛みが降り注いでいる。全身にくまなく焼釘を叩き込まれているようだ。お陰
で彼はこの痛みをどうすればいいのかということしか考えられなくなっていた。

 目の前で甲高い声をあげたそれを間髪入れずに手で掴み取る。きぃきぃとい
う軋む音がとても耳障りだ。だから、それを黙らせることにした。
 口の中にそれの頭を入れた瞬間、もぞもぞと動いて彼の頬の肉を噛んだ。少
し痛かったが構わず噛み千切る。
 ぶつりという肉が切れる音、とろりと流れ出る何とも奇妙な味わいの液体。
 痛みがほんの少し和らいだので、目を開ける。


 ――まだ太陽が堕ちてない黄昏の空は、とても眩しかった。


 とても、眩しかった。


                ***


 ――日差しが眩しい。
 一定の速度で歩く犬の鎖をぶらぶらと弄びながら男はこれから数時間の退屈
な警備員(ギャラに見合った仕事だとも言えるが)を思い、うんざりしながら
大きく欠伸した。
 そして自分が護らなければならぬ、極めて不気味な館を見上げる。窓という
窓には片っ端から鉄板が打ちつけられ、防音機構が不充分な壁からは昼夜問わ
ず誰かしらの呻き声がわずかに漏れていた。
 快楽による声も稀にあったが、多くはあまりの苦痛に耐え兼ねて必死に助け
を乞うような絶望的な悲鳴だった。
 溜息。
 ここの館に棲む人ならざるものの狂気にはついていけない。そうかと言って
辞める訳にもいかない、ここを辞めるのは死体袋に詰め込まれる時だ。
 俺も吸血鬼になりてぇなぁ、頼んでみるか。そんなことを考えながら、男は
犬(こちらも“普通”の軍用犬だ)を連れて館の周りの巡回を続けた。
 そして、入り口付近を見回っていた時のこと。
 まず最初に反応したのは犬だった。唸りをあげて、入り口の重々しい扉を睨
みつけている。
「……なんだぁ?」
 あまりの事態に思わずそんな台詞が男の口から漏れた。
 息を弾ませながら壁を乗り越えようとしている不審人物が在った。思わず他
の連中に無線を入れるのも忘れ、ぼんやりとその男を見る。
 男は必死の形相で壁を跨ぎ、こちら側に向かって飛び降りた。あまりにも慌
てていたせいか、地面に着地した瞬間、ごろごろと転がった。
「お前、そこで何をしてる!?」
 銃を構える、同時に右手から鎖を離して犬を解き放つ。犬は瞬速で男に飛び
掛かった、男は悲鳴をあげながら噛み付かれた腕を抑える。
「動くな!」
 踏み出して男の脳天にAK−74を突きつける、男は苦痛に喘ぎながら片手
を挙げた。怯える瞳が警備員に訴えかける。
「たすけて」
 その言葉の意味を問い質そうとした警備員が口を開いた。
 しかし同時に軽快な電子音が響き、噛んでいる犬も噛まれた男も銃を構える
警備員も吸血鬼の館を保護していた扉も何もかもが突然吹き飛んだ。鉄製の扉
はあっけなく陥落し、防護機能を完全に停止する。
 爆音を聞いて慌てて他の警備員が扉の傍へ駆けつけた、双眼鏡越しに彼等の
右往左往する様を見ていたカレンが合図した。
「OK、行って!」
 ダークマンが頷いて、車のエンジンを始動させた。ギアを入れてアクセルを
踏み込む、縛鎖から解き放たれた獣の勢いで車が飛び出す。
 まだ少し煙が立ち込める正門に向かって勢いよく突っ込む、それに巻き込ま
れて正門付近で警戒を続けていた警備員の何人かが車の前輪に巻き込まれて、
内臓を破裂させたり、背骨をへし折られて死んだ。
「敵襲だ! 正門前で敵襲!」
 車を間一髪避けた生き残り達が慌てて走り去る車に銃を向けた。ボロワゴン
が館の前で停止すると、中から黒い塊が転がり出した。
「撃て!」
 誰かがそう叫ぶ、同時に銃声がけたたましいサイレンのように鳴り響き、叫
んだ男と叫びに呼応しようとした警備員が射殺された。
 偶然生き残った警備員が背後を振り返って、眼を剥いた――金髪の女がこち
らに向けて銃を乱射していた――バイクでこちらに突進しながら!
「うわあっ!」
 残念ながら男が銃を構えて引き金を引く前に、ドライは拳銃を横撃ちしなが
ら残りの警備員を撃ち殺した。
 どうやら第一撃は成功したようだ。勿論こんなもので済ますつもりはない。

 アドレナリンが猛烈に分泌している為か呼吸が若干荒い、クールにいくこと
など当然不可能。そしてドライはクールにいくつもりは毛頭なかった。
 拳銃の弾丸を再装填、ショルダーホルスターへ収める。それからバイクの後
ろに危なっかしいバランスを保って搭載されていたRPG−7を抱え、先端の
キャップと安全ピンを外し、館の鉄板を張った窓へ狙いをつけた。
「信じよ、さらば救われん」
 ドライはおよそこの場に似合わない警句を呟いて、引き金を引いた。飛び出
したロケット弾は狙い違わず鉄板で覆われた窓にブチ当って目標を直撃、先端
部分の圧電素子が作動してHEAT弾頭が起爆、大爆発。
 大した威力だこと、ドライは口笛を吹く。
「灰は灰に、塵は塵に」
 今度はこの地獄場にそれなりに似合った警句だった。
 再び違う窓へ向けてロケット弾を発射する。
「おやおや」
 悲鳴をあげて、男が飛び出してきた。同時に太陽という聖光が飛び出した男
の躰を焼き尽くす、さらに女が二人、飛び出して焼き尽くされる。ガソリンを
被って火事場へ飛び出しているようなものだった。
 レミングスのような自殺行動を見てドライは悪趣味な笑いを浮かべた。しか
しバイクに乗ったまま、ランチャーを構える彼女にさすがに館の内部の吸血鬼
も気付いたらしく、窓の隙間からぱらぱらと弾丸の雨を降らせ始めた。
 もっとも吸血鬼は太陽の下にいる彼女へ狙いをつけることなど、とうてい無
理な所業だ、ドライはバカにしたようにバイクでぐるぐると旋回した、そして
最後の一発を二階の窓、誰かがせせこましくマシンガンを撃っていたらしいと
ころへ狙いを付ける。
 もしドライに吸血鬼並の耳があれば、彼の「ひぃっ」という悲鳴を聞いたか
もしれない。
 発射、轟音、そして爆発。
 馴染み深い一連の作業が終わった後、直射日光をモロに喰らった吸血鬼は炎
を纏いながら窓から落下し、落ちる前に灰になって崩れ落ちた。

 爆発、炎上、悲鳴、爆発、悲鳴、炎上、爆発、沈黙、沈黙。

 好き放題ロケット弾を打ち込んでから、ドライはRPG−7を投げ捨てた、
捨てるには少々高価過ぎるが仕方ない。ロケット弾は既に品切れだ。
 使えないものを持っていて何の意味があろうか? 持っていくのはただのバ
カだ。ドライはやはりRPG−7と共にバイクの後ろに載せていたステアーA
UGを取り上げ、安全装置を外した。
「さあ……決着をつけてやるよ、マグワイア」
 自分が、ジュディが、そしてツヴァイ――玲二やあのいけすかない最初のフ
ァントムに至るまでこの組織に人生を狂わされたのだ、この組織を完全に潰す、
それくらいの権利はこちらに存在するだろうとドライは思った。

 つい先ほどまで窓であったところに、足を踏み入れる。
 あちこちにドライが放ったロケット弾により、太陽光が差し込んでいる。完
全な闇に覆われていたであろう館は今や日光という銛があちこちに突き刺さっ
て苦しむ鯨だ。
「さてさて――あっちの方は上手くいってるのかね」
 ドライは踏み込みながら、裏口へ回った彼のことを一瞬脳裏に浮かべた。ま
あ、あの男なら心配あるまい。あれも化物に等しい存在だ、吸血鬼に憎悪を持
ち、吸血鬼と同等の力を持つだけに尚性質が悪い。
 ああいうのを――“吸血殲鬼(vampirdzhija)”と呼ぶのだろう。ああいう
男を、あのダークマンを。


                ***


 裏口付近には、正門の混乱を察知したらしい警備員が用心深く辺りを見張っ
ていた。ダークマンは先ほど車を飛び出した際に手に持ったバッグのジッパー
を下げ、中から奇妙なゴムの皮と、銀色の鬘(かつら)を取り出した。
 服は着替えなくとも良いだろう、とダークマンは思った、いちいち着替え直
すのは実に馬鹿馬鹿しい。

 警備員の一人がその男の存在に気付き、ライフルを構える――。
「誰だ!」
 声にいち早く反応して、
 次の瞬間、起きたのは硬直と混乱。
「私だ」
 冷たい声。
 思わず警備員の一人がライフルを取り落としそうになった。何てこった、今
は一番逢いたくない男だ。
「どうした騒ぎかね?」
「え、あ、いや、その――侵入者が」
「侵入者が侵入するのを防ぐために君たちが居るのではなかったかね?」
「それはその、確かに……」
 男がゆっくりと間合いを詰める、警備員達はわずかに後ずさる。その冷たい
視線だけで、どれだけの人間が簡単に殺されたか、この館に詰めている人間な
らば誰だって知っている。
「マグワイア様、敵はあまりに突然すぎて――」
 一人が恐る恐る言う。彼の方へマグワイアの視線が向いた、全員が凍りつき、
視線を向けられた警備員はくぐもった声で悲鳴をあげた。
 だがしかし、マグワイアは怒鳴りつけるより恐ろしい行動に出た――微笑ん
だのである、微笑んで、警備員をいたわるかのように肩を叩いた。
 弛緩した空気。
 しばらくして、ようやく一人が気付いた――それは余りにも遅すぎた疑問だ。


「吸血鬼が、太陽の下を、歩く?」


 マグワイアが、肩を叩いた警備員の首に手を回すが早いかこきりと頚椎をへ
し折った。呆然とした表情で崩れ落ちる警備員、その手からずるりとAK−7
4アサルトライフルが抜け落ちる、しかしマグワイアは素早くそれを受け止め
ると迷わず残りの警備員に掃射した。
 吹き飛ぶ頭、吹き飛ぶ脳漿、飛び散る悲鳴、銃を構えた警備員も居たが、ど
うしても相手にしている男の顔が戦意を奪い、引き金を引く作業に微妙なタイ
ムラグを生じさせる、それが彼等と彼の生死を分けた。

 ダークマンは警備員達のAK−74を取り上げ、片っ端から弾倉を引き抜い
た。そして最初の一丁の弾倉を投げ捨て、新しい弾倉を装填する。
 侵入する前、ドライがそうしたようにダークマンも呟いた。
「あれが無茶をしなければよいが」
 しかし、それは無理な注文というものだろう。ダークマンは頭を振って彼女
の安否を思考の外へ追いやった、今更考えても仕方ないことだ。
 ダークマンは裏口から足を踏み入れ、いきなりまだ闇が残る部屋の中にAK
−74を撃ちこんだ。悲鳴が上がる。その悲鳴が上がった方向へダークマンは
突進した、悲鳴が発せられた空間へ正確に拳を叩きこむ。
 拳は硬質な歯と軟質な咥内を完全に破壊して、延髄を抉った。ばたばたと吸
血鬼が喘ぐ。ダークマンは拳を引き抜いて、吸血鬼の躰を触診するようになぞ
った。
 そして心臓に手を当てる、もう片方の手でポケットから杭を取り出し、耳元
で囁いた。
「さようなら」
 白木の杭を心臓に叩きこまれたその吸血鬼は一瞬で灰になった。
 息を止める。
 静寂が支配する。
 ――いや、ばたばたとけたたましい足音を立てる連中が居る。
「急がないとな」
 さもないと、お嬢さんの気分を損ねてしまう。ダークマンは足早にドライが
記憶を頼りに描いた地図を頭に浮かべながら、電源室へ急いだ。
 電力会社から供給されている電気とは別に、単独でこの館の電力を供給する
発電機があるという。停電の際の予備くらいにしか使用されないから、例え電
気会社からの電力を不要だと断っていたとしても、こちらはまだ動くはず……
とドライは言った。
 ――その言葉を信じるしかあるまい。
 ダークマンは足早に階段を駆け下り、発電機があるという部屋へ向かった。


                ***


 何しろ暗闇と光が交互に交錯するから、人間も吸血鬼もたまったものではな
い。闇ならば吸血鬼、光ならば人間が有利。ドライは光と闇を走り抜けるたび
に交互に目を瞑った。
 闇に眼を慣らすために、光に眼を慣らすために。
 光そのものに弱い吸血鬼はそれができない、闇の中の吸血鬼は確かに圧倒的
な力を持つが、この一点によって戦況はドライより遥かに不利と言えた。
 ドライの環境対応性はズバ抜けている、駆け抜ける廊下を瞬時に光と闇の空
間の二つの属性に判断し、闇に慣れさせた左目と光に慣れさせた右目を交互に
瞑り、廊下の人影を認識すると即座に銀の銃弾を雨のように浴びせかけた。
 また一人、吸血鬼が悲鳴をあげて銀の弾丸を浴びた躰を掻き毟る。
 しばらく悶え苦しむと、躰が発火し、一握りの灰になった。
 吸血鬼との殺し合いはこれだから止められない、血を浴びることもないので、
帰りにシャワーを浴びて血の匂いを落とす必要もない。

 人であろうと吸血鬼であろうと、この館に居る者は鏖殺だ。
 ドライは弾倉を再装填しながらそんな事を考えている間にも、吸血鬼達は目
を血走らせながら思い思いに手に取った銃を乱射する、P90からベレッタM
92Fまで。よりどりみどりだ。
 ドライは廊下の角を曲がろうとした瞬間、ステップバックした。途端、彼女
が瞬間的に存在した空間に弾丸が降り注ぐ。
 ドライはホルスターからスミス&ウェッソンを取りだし、耳を澄ませた、様
々な発射音によって連中がほぼ同位置に存在することを確認する。
 深呼吸。――ようし。いざ進め、小さき弾丸よ。

 彼女は鉄板が打ちつけられた窓に向かって銃弾を二度、三度と放った。金属
に金属が叩きつけられ、跳ねる軽快な音、しばらくして苦痛の悲鳴。
 一瞬の躊躇いもなくドライは腕を突き出し、ステアーAUGを掃射した。
 今度は悲鳴はない、ただ肉体が地面にどうと臥せる音のみ。

 ドライは手鏡で角を覗き込んで顔をしかめた。これだから吸血鬼は困る、灰
になったら隠れているのか死んでいるのか解らないじゃないか。
 彼女はそう愚痴りながら、廊下の角からひょいと頭を出した。どうやら問題
はないようだ。目標地点である武器庫を頭に描く。ここから真っ直ぐ進んで、
左へ曲がったところにある扉。扉の解除パスワードは――変更してないことを
祈るのみ。
 奥まったところにある、この通路付近まで進むとロケット弾によってできた
崩落が少なくなり、差し込んでいた日の光も徐々に少なくなっていく。
 代わりにどこからともなく漂う血の匂い、

 どうやらここからは、吸血鬼どもの領分らしい――。


                ***


 マグワイアの自室にて。
「お前達で存分に対処するがいい、私は眠い」
 襲撃者の処遇を尋ねた結果がこれである。報告に来た部下はしばし唖然とし
た、どうやらマグワイアにとって人間の襲撃など眼中にないらしい。
「それとも何か。お前たちは私にいちいちお伺いを立てないと、ゴミ一つ片付
けられないのか?」
「そ、ういう訳では……」
「分かった、ならば命令してやろう。殺せ」
 用は済んだとばかりにきびすを返す、部下が声をかけるべきか躊躇った時、
電話が鳴り出した。
 もしマグワイアが人間だったなら、顔面を蒼白にさせていたことだろう。そ
れほど狼狽した仕草で彼は電話を取った。


 ――はい。ええ、少女のダンピィル? はい、仰った通りに捕らえておりま
す。姿形はメールで送信した通り……あのダンピィルを? は、それはもう―
―了解致しました。 ところで、一体彼女を何に……? っ! ……申し訳あ
りません、はい、ただちに――。


 突然、派手な爆発音がたて続けに三回起きた。
 一瞬部屋が揺れ、天井からぱらぱらと屑が舞い落ちる。
 不意にマグワイアとマグワイアが通話している相手が沈黙した。吸血鬼であ
ある部下の耳にごくり、とマグワイアが生唾を飲む音が聞こえた。
 電話口から、地獄の門番のような冷徹な声が響く。
「――今のは」
 慌てて弁解しようとするマグワイアの台詞を遮って電話の相手が言う。
「もういい。どの道、そちらには既に私の部下を二人派遣済みだ。以後は彼女
の指示に従うことだな」
 彼女? マグワイアは驚いて聞き返した。彼女だと? ふざけるな、この私
に女の命令に従えと言うのか?
「男女差別は善くないな、マグワイア」
 電話口の男が押し殺した声で笑った。
「しかし――」
「黙れ、もう喋るな。貴様は事態を粛々と収拾することに専念しろ」
 尚も反論しようとしたマグワイアを再び迫力を取り戻した声が押し留めた。
 そして突然回線が切れる。次にツーツーという回線の断絶音。
「あの……」
 憤怒のあまり、マグワイアは部下を殴り飛ばし、その首を吹き飛ばした。

「くそ」

 ――あの忌々しい吸血鬼めっ! 私に命令できる立場か、あの吸血鬼め!
 ――私はこの街の王なんだぞ!
 苛つきながら、マグワイアは部下を何度も蹴り続ける、それが肉の塊に成り
果てた頃、ようやく彼は落ち着きを取り戻した。内線で部下を呼び、彼女を閉
じ込めてある部屋の警備に向かわせる。
 それでも苛々は収まらない、頭蓋骨から脳味噌に向かって一本一本針を貫き
通され、金槌でそれらを打ちつけられているかのようだ。
 先日の激闘の傷はほぼ癒えたものの、いつものように己の力を誇示して、絶
望に浸らせながら殺す、あるいは血を啜ることができなかった、それがマグワ
イアの心残りだった。
 ダンピィルの少女――彼女を適当にいたぶったところで「殺すな、傷つける
な」と厳命されている以上、むしろストレスが溜まるだけだろう。
 しかし。
 マグワイアは閃いた。
 今この館には侵入者が在る。八つ裂きにしても火あぶりにしても犯しながら
血を啜っても泣き叫び懇願する声を聴きながら躰を切り刻んでも、誰にも何に
も咎められない理想の実験動物(モルモット)が。
「ふふ、ふ、あはははは」
 マグワイアは扉を開いた。耳を澄まさなくとも銃声が実験動物の場所をがな
りたててくる。端正な顔を妄想で醜悪に引き攣らせて、マグワイアは歩き出し
た。期待に胸を躍らせながら。


                ***


 武器庫は目の前。
 だというのに、こちらの狙いを読み取ったのだろうか。二人の吸血鬼が飛び
出したドライに銃を向けた。慌てて彼女は戻る。
「……ったく、早くしてくれよな」
 激しい跳弾の音を聞きながら、ドライはぶつぶつと愚痴を零す。いい加減ラ
イトがついてくれないと、やりにくくて仕方ない。
 ステアーAUGを床に置いて、ショルダーホルスターから二挺の拳銃を取り
出す、こういう時イカした(少なくとも彼女はそう思っていた)ハリウッドの
役者ならばこう叫ぶだろう、多分。
「ロックンロール!」
 不意に連弾が途切れた、今だ――!
 両腕を交差させながら、飛び出した。弾倉を装填していた吸血鬼の動きが一
瞬だけ止まる、暗闇なので顔は掴めないがきっと驚いた表情を浮かべているだ
ろう。
 壁を蹴って、床を滑りながら拳銃を撃つ。
 マズルフラッシュ。
 くぐもった悲鳴、そして確かに“当った”という独特の手応え(勿論彼女は
それが幻の感覚に過ぎないことを承知している)。
 屍体が灰になるのを確認してから、廊下を駆ける。暗闇の中、ぼんやりと光
るパネルがあった。辿り着いたら後は暗証番号を押すだけ。
 万一の場合に備えて銃を構えながらパネルの数字を順番に押していく。
 0・1・7・9・3・7・0・8――ドアが滑らかな動作で二つに割れた。
「よし」
 中に入るのとほとんど同時に天井の蛍光灯が輝き出した、一瞬目が眩む。そ
してドライは中の様子にしばらく呆けた。そこにはあの山のように積まれてい
た武器は跡形もなかった。代わりに部屋の真ん中にワイヤーで両手首を拘束さ
れた美しい少女がわずかに揺れている。
 思わず警戒するのも忘れてその少女に近づく、年齢は十かそこらだろうか。
セミロングの金髪は自分と似たような輝きだったが、自分以上に透き通った肌
がほんの少し羨ましい。
「……う、ん」
 苦悶するように少女が身を捩る。生きている。ドライは彼女の頬を壊れ物を
扱うようにそっと叩いた。
「おい、しっかりしな」
「――ダレ?」
 モーラは目を開いた、紫水晶のような瞳がドライの姿を映し出す。敵意のな
さを見て取ってわずかながら安心した。もっともどうやら目の前のティーンエ
イジャーのような彼女は敵意ではなく、疑念を持っているようだったが……。
「こんなところにどうして?」
「分からない……」
 モーラは半分嘘をついた。残り半分は事実だ、血を吸われるか惨たらしく殺
されるかのどちらかだと思っていたが。
 ドライは彼女は敵ではないと判断し――直感的なものも多分に含まれていた
が――アーミーナイフで彼女の両手首のワイヤーを切断した。
「歩ける?」
「ええ」
 ドライは顔をしかめた、「ええ」だなんて随分とまあ大人びた喋り方をする
子供だ。育ちが良いのだろうか。少女は手首を擦りながら、躰を動かした。わ
ずかに赤みが差しているものの、どうやら動くことに支障はないらしい。
 ドライは素早く頭の中で言うべき台詞を探し出した。
「あたしと二人でここを脱出する、いいね? お嬢ちゃん、名前は?」
「モーラ」
「あたしの名前は――ドライ」
 モーラは少女らしからぬ冷徹な顔でドライを見据えた。
「脱出できるの?」
「任しときな」
 にっこり笑ってドライが親指を突き立てた。
 そして、背後からの騒音。
「――来たわ」
 モーラが呟いた。誰が来たのか? その答えは一つしかあるまい。
「あーあ、どうやらモタモタしている暇はないようだね」
 ニヤリとドライは笑ってステアーAUGの弾倉を装填し直した。さて、この
娘を護りながら果たしてどこまで行けるものか――? 頭を振った。否、護り
きる。ドライは無意識に胸の懐中時計を握り締めた。
「私にも拳銃を貸して」
 この危機的状況で、モーラは芝居を打っている必要はないと判断した。しか
し生き残ってどうするかまでは分からなかったが――ともあれ、恩人を死なせ
る訳にもいくまい、と彼女はそう思った。
「……アンタに?」
 ドライの訝しげな目。どうやら“ダンピィル”のことまでは知らないらしい。
 となると、彼女は吸血鬼ハンターではないのか。
「いいから貸して!」
 ドライはショルダーホルスターに戻していた拳銃の内、一挺を放り投げる。
 モーラは受け取ると、弾倉を外して弾数を確認し、再び装填。安全装置を解
除して、遊底を引いた。
 ドライが感嘆するほど、モーラの一連の動作は手慣れていた。
「……慣れてるね、お嬢ちゃん」
 ドライの呟きに構わず、モーラは耳を澄ませて足音を聞く。どうやら向こう
は挟み討ちを狙っているらしい。右と左からの一斉掃射、シンプルにして最善
の作戦だろう。
「ムダ口叩いてる暇はないようね。ドアを出て両側から来るみたいよ」
 モーラとドライのそれに対する作戦の思考は同一だった。
 ならば、こちらは強襲しかあるまい。
「わたしは右、モーラは左。OK?」
「分かったわ」
 頷くと同時に二人は飛び出した、慌てふためきながら走っていた吸血鬼達が
銃を構える、しかし不意を突かれただけに反応が遅れた。
 モーラとドライは床に伏せて撃った。立っている側が伏せた側の二人を撃つ
には銃口を下に向けなければならない、咄嗟の状況ではその調整すら難しい。
 慌てて撃ち始めた何人かの銃弾がドライとモーラの上を飛びかった。


 銃声、怒号、悲鳴。


 しばらくして二人が立ち上がった時、通路はわずかばかりの灰塵が舞うだけ
になっていた。いくら吸血鬼になっていても、最終的には判断力に優れた者だ
けが常に勝つ。それは対吸血鬼の時のハンターの心構えだ。


 ――しかし。そんな事を語り合った頼りがいのあるパートナーは、もう。


「ようし、モーラ。後はオッサンと合流して、こんな忌々しい場所からはおさ
らばするよ。くそ、武器が移動されていたなんてツイてないよなァ」
 モーラは頭を振って、フリッツのことを当面思考の外に追いやった。
「オッサン?」
 大げさな仕草で、ドライは頭を振って額を手で叩いた。こんな年端もいかぬ
少女に“アレ”は少々キツい出会いかもしれない。
「あーっと……モーラ、オッサンのツラ見ても悲鳴をあげちゃダメだよ。あれ
でも結構気にしてるらしいから、自分の顔」
 しししっとドライは笑った。底抜けに明るい笑顔、自分ではとても真似がで
きそうにない表情だ。わずかばかり、モーラにはそれが羨ましい。
「行こうか、モーラ」
「ええ、行きましょう」
 暫定的な戦友契約を結んで、ドライは彼女のことをどうやってダークマンに
説明しようか考えながら、モーラは思考をこの館からの脱出という論理に固め
ながら、二人は来た道を共に戻り始める。


                ***


 手が無意識に彼女の残滓を掴んでいた。しかしそれは今の彼にとっては充分
な代物ではない。ゴミ箱に打ち捨てられてあった薄汚れたシーツを被る。腐臭
など今の彼にはどうでも良い事柄の一つだった。それより遥かに強烈に匂うも
のがある。残滓の傍に一滴垂れていた彼女の血。
 哀しい気分でそれを舐めた、乾ききっていた為か舌にはわずかな味しか感じ
られない――それでも余りにも鮮烈な味だったが。

 夜が来た。
 もう、動ける。今の内に急いで――はて、急いでどこへ行けばいいものやら。
 道路に這いつくばって彼女の血の匂いを探す。
 鼻で呼吸をし、舌で道路を舐め、彼女のわずかな痕跡を探し出そうとする。
 ――見つけた。
 あるいはそれは彼の必死さが産んだ幻覚だったのかもしれないが、その男は
自分の発見した痕跡を確信すると、その方向へ真っ直ぐ歩き出した。彼を止め
る者は? 居ない、吸血鬼ですら彼を気味悪がり、あるいは嘲笑して止める事
はない、男は恐れられる化物に変わり果てていた。
 頬に痛みが走ったので指で穿ると、ぼろりと頬肉が崩れ落ちた。きっと太陽
の光を浴びすぎたのだろう、もっともその男には原因が理解できるはずもなか
ったが。
「モ…………ーラァ」
 圧倒的な濁流のように、人間であった時の記憶が薄れつつあった。モーラと
は誰だったか、どんな者であったか、大切だったのか、大切にされていたのか。
 しかし、一つだけ確実なのは。かつてフリッツ・ハールマンであった男はこ
のモーラという人間にたまらなく逢いたがっているということだった。
 逢って何をしようというのか。
 瞬間、フリッツはモーラの姿を思い出した。華奢な躰、陶器のような肌、こ
ちらの意図を何もかも見透かしたような美しい瞳。
 ――何だ、やることは決まっているじゃないか。
 残滓を握り締めて、彼は走り出した。


 フリッツ・ハールマンはモーラ・ハールマンの血を吸いたくてたまらない。





                             to be continued



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