自分が悪であることを心に銘記せよ

         ――ブラウニング










 ニューヨークの致命的なまでの崩壊を目の当たりにして、モーラは驚きを隠
せなかった。どこが駄目だ、ここが駄目だというレベルではなく何もかもが腐
臭を発する吸血鬼たちに染め上げられている。
 そしてもっと信じがたいことに、そこまで崩壊しているにも関わらず、なぜ
かこの街は吸血鬼と人間が同居しているという奇妙な秩序が保たれていた。
 たとえばウォール街、太陽が出てくるのも間近という状況で出勤してきた吸
血鬼たちは平然と人間とともに仕事をこなし、休憩時に血を啜り、夕闇と共に
帰還する(残業をする吸血鬼も無論存在した)。
 彼等は仕事が終われば家庭に帰る、家庭の妻が吸血鬼ならば輸血用血液で食
事を済ませるか、あるいは“外食”に出掛けていく。けれど妻が人間ならば、
食事は自宅で済ませるらしい、彼女が喰屍鬼へと変貌するまで、ゆっくりと、
そしてじっくりと啜り続ける。妻は逃げることもなく、戦うこともなく輸血で
自我を保つ。
 そんな奇妙すぎる秩序、異常な共生関係、過去数千年に渡るまで決して成し
えられなかった吸血鬼と人間が共に生きる世界がここニューヨークという巨大
都市で成立しようとしていた。

 同時にその奇妙な世界が、ニューヨークを公然と攻撃できない理由の一つで
もあった。

「吸血鬼で何がいけないと言うのです」
 ニューヨーク市長はそう述べた、「彼等は我々人間と融和しようとしていま
す。その努力を認めるべきだと思いませんか? それに――」
 ニューヨークの犯罪率はかつてと比較して激減していた、これは人間が犯罪
を起こさなくなったからだ。吸血鬼に拳銃を突きつけて金品を脅し取ろうとし
た男が全身の骨を極めて念入りに砕かれて道路に放置させられていた――とい
うようなことが何度も繰り返されたのが大きな理由の一つである。
 この事実を掲げて、ニューヨーク市長は街への攻撃一切を拒んだ。市長と大
学の同期であった大統領が「ともかくニューヨークは平然と運営されている」
と彼を擁護した。無論ヴァチカンはその発言に反発した。
 ……が、大統領は断固としてニューヨークへの攻撃許すまじという姿勢を崩
さなかった。(無論、軍隊を利用してのニューヨークへの全面攻撃というとて
つもない作戦を何も知らない議院が承諾するはずもなく、攻撃が成功しようが
するまいが自分の辞任が確実である、ということを大統領が恐れたということ
も理由に含まれるが)。
 ヴァチカンができたことは秘密裏に第十三課のメンバーを介入させることの
みだ、これでは溢れる吸血鬼たちに対抗する術は無い。


 一方でニューヨークへ続々と侵入する人間達もいた。吸血鬼を狩るハンター
達である。
 ヴァチカン、吸血鬼を憎む力無き人間達、好奇心旺盛で吸血鬼狩りを見物し
たがる好事家や吸血鬼を“集める”蒐集家。
 彼等が積極的にニューヨーク潜入を支援した結果、ハンター達は憎悪、金銭、
興味本位、その他様々な理由で鬼界都市を訪れ――狩りが始まった。


 狩る者 ハンター/狩られる者 吸血鬼
 狩る者 吸血鬼/狩られる者 ハンター


 銀の弾丸が吸血鬼に風穴を開き、鋭く尖った牙がハンターの喉を食い荒らす。
 ボウガンが風を切って吸血鬼の眉間に突き刺さり、背後から吸血鬼の夫を理
不尽に殺された妻が怒り狂って金属バットで彼女を救ったハンターを撲殺した。
 溢れ出る憎悪、絶望、狂喜、生きる、生かされる、殺す、殺される、死ぬ、
地獄の縮図がそこには在った。

 そして今、その有象無象の吸血鬼ハンターの一人であるモーラは最近の事情
を鑑みれば意外なほど静まり返ったニューヨークを一人歩いていた。イアホン
から耳障りなくちゃくちゃという音が聞こえて、顔をしかめる。
「フリッツ、マイクの傍でガムを噛むのは止めてくれないかしら?」
 露骨に不機嫌な声で、イアホンの向こうの男に呼びかけた。
「あいよ」
 ぺっという唾とガムを吐き出す音、マナーが悪いとは思ったが紙に包んでゴ
ミ箱に捨てる余裕はあるまい。まあフリッツは先ほどからモーラのように歩く
ことさえ許されないのだから、仕方がないことだとも彼女は思った。
「どうかしら?」
「今夜は外れだな、引っかかりそうにない」
 モーラはため息をついた、いつもならば人間の匂いを嗅ぎ付けて誰かが声を
掛けてきても良さそうなのだが。

 おうん、という引き攣った弦のような声がしてはっとモーラは身構えた。そ
して鳴き声の正体を知って苦笑する。痩せこけた老犬がガリガリとゴミ箱を引
っ掻いていた、恐らく食べ物の匂いを嗅ぎ付けているのだが、金属製のソレを
倒すほどの力がないのだろう。
 くすりと笑って、モーラはそっとゴミ箱を倒した。ガタン、という派手な音
と共に中の様々な残飯が転がった。音を聞きつけたのか、フリッツが呼びかけ
てくる。
「どうした?」
「何でもないわ」
 やせ細り、目もロクに見えないであろう老犬はふんふんと鼻を鳴らしながら、
ゴミ箱に顔を突っ込んで中を漁り始めた。
(フリッツのことは言えないわね)
 そう考えて、彼女は老犬を撫でようとしゃがみこんだ。
「ほら、こっちおいで」
 懸命に漁っている様子からして多分黙殺するだろう、と思ったモーラの予想
を裏切るように、老犬はわんと吠えてとことこと近寄った。べたついた頭を撫
でてやる。老犬がぱたぱたと尻尾を振った。


 ――風を切る音がした。
 

 手で地面を弾いて横っ飛びに転がる。陰影が老犬もろとも金属のゴミ箱を裂
いた。老犬の首が吹っ飛び、落書きだらけのコンクリートの壁に新たな色彩を
添えた。
 影は路地裏に消えた。
 モーラは老犬の首が壁に叩きつけられ、その小さい頭が潰れる様をしっかり
と見てしまった。一瞬で吐き気と、憎悪と、悲哀が混ぜこぜになった感情に囚
われる。

 ――――――――――。

 彼女は老犬のことを一時思考から遮断した。
「フリッツ、来たわよ」
 そう呼びかけながら、ポケットからナイフを取り出した。銀の刃が月光を受
けて朧な輝きを放つ。ナイフは逆手に持ち、柄に片手を添えて身構える。

 わずかな沈黙。
 
 吸血鬼が路地裏からのそのそと這い出てくる。その姿にモーラはわずかに動
揺する。そこに居たのは明らかに人の形をわずかに留めただけの蝙蝠の化物だ
ったからだ。
「どうやら……本命のご登場かしら」
 モーラは呟いて、その男を視た。
 黒々とした毛に覆われた躰、黄金に輝く爬虫類のような瞳、異常に伸びた牙、
そして身長の倍はあろうかという巨大な翼。
 しかし躰に纏わり付いている服の切れ端が、彼の裕福さを表していた。
 それから彼が腰のベルトに挿しているクラシックな拳銃。顔が人間だった頃
とかけ離れた存在になっても、この拳銃は余りにも独特で忘れ難い。
 ――ただ、一度逢っただけの男ではあったが。
「キメラヴァンプ……ではないのよね」
 どっちでも構わない。
 どっちになっていようと構わない。
「いいわ――還してあげる、貴方が住むべき世界へね」
 吸血生物が警戒か、あるいは威嚇の為なのか甲高い声で鳴いた。声と同時に
モーラは動いた。巧みなフェイントを使って振るわれる爪を二度、三度と避け
ていく。筋肉の抵抗に負けないように躰ごとぶつかってナイフを脇腹に突き立
てた。
 ずぶり、厭な感触。そして心地よい憎悪の奔流。
 吸血生物が苦痛の悲鳴をあげる。ざまあみろ、だ。
 モーラは薄く嗤って、弾かれるように吸血生物と距離を取った。道路に飛び
出した彼女にけたたましいクラクションが鳴らされる。アスファルトを削る耳
障りな音とともに、大型の軍用車が停止した。
「乗れ!」
 言われるまでもない。
 モーラは後部を覆うシーツを引っ掴んだ。同時にフリッツは目一杯アクセル
を踏み込む。
 咆哮。アスファルトを摩擦で熱しながら、巨大な鉄の化物が動き出した。
 吸血生物――マグワイアは逃すまいと躍動する、モーラはシーツを掴みなが
ら、ハッチバックドアを開いて中に飛び込み、その中から巨大なスピアガンを
取り出した。銛にはワイヤーがついており、さらに先端は複雑怪奇に絡み合っ
たバネ仕掛の刃が接続されている。
 飛翔するように空に浮かんだマグワイアに狙いをつける。
 引き金を絞ると空気を裂いて銛が飛び出した、咄嗟にマグワイアは躰を捻っ
た――心臓をわずかに逸れた銛が、胸の筋肉を抉り、そして絡め取る。

 ヴァンパイア・フィッシング。
 
 スピアガンを銃座に固定した。ワイヤーが物凄い勢いで引っ張られる。しか
し、二重三重に撚り合わせられたワイヤーはそう簡単に断ち切ることができる
ものではない。
 マグワイアは二度、三度とワイヤーを千切ろうとする。だがハマーがジグザ
グに動いて、彼の躰を右や左へと揺れ動かす。
 さらに、モーラが軍用ライフルM4A1を取り出した――。宙へ向けてフル
オートで掃射する。教会で洗礼済みの銀の弾頭が次々とマグワイアの翼を傷つ
けていく。
 だが、無数の弾丸がマグワイアを傷つけたのはその部分だけだった。彼は翼
をはためかせながら、ワイヤーで制限された行動範囲内を自在に動き、弾丸の
動きを察知して戦闘機のように回転する。
「フリッツ! もっと引っ張って!」
「この角を曲がればしばらく真っ直ぐだ、そこでケリをつけるぞ!」
 ライフルの弾丸を再度装填、空になった弾倉を投げ捨てる。
 狙いをつける。
 引き金を絞る。
 マグワイアは急降下する。
 怒りを滾らせる、
 少女の頭を潰そうと豪腕を振りまわす。
 ハンドルを回す。
 ハマーが再び曲がる
 モーラの体勢が崩れる。
 マグワイアは鉄柱に叩きつけられる。
 素晴らしき慣性の法則。
 

 ――いち早く体勢を立て直したのは彼女だった。


 地上スレスレに飛翔するマグワイアを再びフルオート射撃。固形の閃光が次
々と彼に襲いかかる。
「キィぃィィイ!」
 再び蝙蝠が鳴いた。
 ガチン。
 ライフルの弾丸が枯渇して空になった弾倉を落下させた音。
 ガクン。
 道路の凸凹を思い切り踏みしめた車体の悲鳴。
 またもやハマーが揺れ、モーラは片膝と右手を床に突いた。
 ガチャ、ガチャ、ガチャ!
 軋みを帯びた不快な音。
 見ると銃座のネジがマグワイアの力に耐えかねて外れかかっている。もうそ
ろそろ限界と考えていい――モーラはM4A1を捨て、小型のサブマシンガン
Vz61、通称“スコーピオン”を取り出した。
 狙いは蝙蝠野郎の頭部。
 及び腹部。

 モーラは左手でスコーピオンの引き金を絞った、無論フルオート。弾雨が降
り注ぐ、マグワイアは右へ左へ己の躰を揺らして避ける。
 ほんの掠り傷、わずかな苦痛と燃えるような熱がマグワイアを逆に興奮させ
た。彼女の血を二リットルあまり飲めば治癒には事足りる。早く飲みたい、血
液への渇望が徐々に酷くなっている。
 カチリ。
 弾切れを知らせた微かな音をマグワイアは聞き逃さない。
 裂けたような顎を大きく開いて、力を振り絞る。ピィンと張ったワイヤーが
じょじょに弛んでいく。最短距離、最大速度、最高純度の突撃。
 真っ直ぐ、マグワイアはモーラに襲いかかる。
 モーラが右手でガトリングガンを持ち上げた。
 サブマシンガンの弾丸は囮に過ぎない、こちらが本命。マグワイアがそれを
悟った瞬間、モーラが悪魔のように可憐な笑顔を見せた。
「よけてみる?」
 問い掛けるが早いか唸りをあげた四本の銃身から弾丸が洪水のように吐き出
された。モーラの耳は轟音に支配され、ハマーが道路を押し進む音も、タイヤ
の擦れる音も、マグワイアの悲鳴も、そしてモーラが無意識の内に放っていた
叫びも掻き消してしまう。
 マグワイアは必死で避けようとした。
 鉛の弾丸が一発当った程度では、マグワイアは物の数秒で修復することがで
きるだろう、しかし弾丸が当った直後、同じところに二度三度と弾丸が当れば
修復は追いつかない、そして数百発余りの弾丸が彼の躰を食い尽くしていた。
 マグワイアは力尽き、道路に墜落した。
「フリッツ、止めて!」
 ハマーが悲鳴をあげながら、スピードを減速する。それでも急に止まること
ができるはずもなく、マグワイアは道路に強かに打ちつけられ、数十メートル
あまりを引きずられた。
 ガトリングガンを降ろすと、モーラはハンマーを握り締めて駆け出した。
 吸血鬼は屍体が残ることはない。躰が現世に残っているということは即ち、
まだ生存しているということになる。ハマーから降りたフリッツが慌てて後を
追う。
 マグワイアはピクリピクリと断末魔の如く痙攣を繰り返していた。その余り
にも変わり果てた姿に、モーラは生前のマグワイアの姿を思い出す。
 クロウディアの一件で自分達に依頼したのは、この男だったと言うのに。た
った数ヶ月で何が変わってしまったのだろう、彼は望んだのか、それとも望ま
なかったのか。今となっては分かるはずもない。
 そう、彼にかけてあげられる言葉はただ一つ。


「灰は灰に、塵は塵に」


 キィィ。
 マグワイアが情けない悲鳴をあげた――。
 キィィ。
 たまらなく耳障りだった、鼓膜を直接弄られているような不快極まりない音。
 キィィ。
 マグワイアは悲鳴を止めない。
 キィィ。
 モーラは老犬の最後を思い出し、冷徹な表情でハンマーを振り上げる。
 キィィ。
 そして、ハンマーを振り降ろす直前、その異常な事態に気付いた。
 キィィ、キィィ、キィィ、キィィ。
 マグワイアが繰り返し鳴いている、それは断末魔の鳴き叫びだ――とモーラ
は思い込んでいた、しかし今、彼の悲鳴に呼応するようにあちこちのビルから、
路地裏から、悲鳴が聞こえ始めている。
「モーラ!」
 フリッツがようやく追いついた。息を切らしながら、油断なく周りの状況を
窺う。その間にも悲鳴の音量はどんどん高まっていく。
「どういうことだ?」
「……」
 モーラは戸惑うだけで、答えることができない。だが、胸の奥底から嫌な予
感が滲み出てくる、それはハンターとして培ってきた経験だった。
「フリッツ……逃げるわよ」
 一歩、マグワイアから後退する。だが、フリッツはボウガン付きのライフル
をマグワイアの頭に突きつけた。
「ここまでやって、逃げられるかよ」
「……撃っている暇もなさそうよ」
 呆然とモーラが空を見上げたので、フリッツも釣られて空を見上げる。

 空が黒かった。
 闇夜というばかりではない、雲や月が何かに覆い隠されて一切合財見えない。
 そして黒い空は。

 蠢いていた。

「まさか……」
 フリッツは手持ちの双眼鏡で空を覗く。そして視た、無数の生物、無数の黒。
無数の――吸血鬼、達。
「冗談じゃねぇぞ。こ、こいつら全部がキメラヴァンプってぇのか!?」
 フリッツの問いにモーラは首を横に振る。
「そんな訳ないわっ……いくら、何でも多すぎる!」
 悲鳴に近いモーラの声。それほど空で蠢いている吸血鬼の群れは想像を絶し
た、圧倒的なまでの数量だった。
 一体何秒間ほど呆然としていたのか――モーラがはっとマグワイアを見た。
 否、マグワイアは居なかった。モーラが見たのは彼が先ほどまで転がってい
た道路、そして残った血痕だけ。
「フリッツ! マグワイアがいないわ!」
 フリッツは応じない。
「フリッ……?」
 フリッツの視線はぼんやりと宙空を彷徨っていた、瞳の虹彩が白く濁る。そ
して分かりやすいほど脱力して、昏倒した。
 ――首筋から、血を滴らせながら。
「い」
「いやああああああああああ!」
 無様なくらい動揺し、モーラはフリッツの元へ走り寄った。目の前の復活し
かかっている吸血鬼には目もくれなかった。
 彼を揺さぶってみる。フリッツは答えない、応じない、動こうともしないし、
声を出すこともない、瞳はわずかに濁り、ぽかんと口を開いているのが哀しい
くらい滑稽だ。
「フリッツ! お願い、起きて! フリッツ!」
 ――彼は、応じない。
 二十秒、いや三十秒ほどそれを繰り返しただろうか、ようやくモーラは自分
の兄が死んだのだ、そう理解した。
「……」
 虚ろに周りを見る。そこら中のビル・路地裏に佇む黒の吸血鬼・黒の蝙蝠・
黒の鴉・黒の――蟲?
 雑多に散らばった彼等は無言でモーラを覗き込んでいる、舌なめずりの音が
どこからともなく聞こえてくるような気がした。
 実際には彼等はそんな声を出してはいなかった。
 静寂。
 鳴き声一つしない。
 ――まるでヒッチコックの鳥ね。
 そんな事を考える余裕があることに、モーラはしばし苦笑した。一番近くに
居た吸血鬼が自分に手を伸ばす。抵抗はしない、わずかに恐怖で躰が震える。
 これから自分の身に降りかかるであろう苦難を思う。
 目をつむり、祈った。
(……お母さん、お兄ちゃんはお母さんのところへ行ってしまいました)
 しゃがみこんでいた自分を吸血鬼が軽々と持ち上げる、肩を曝け出さられ、
夜の冷気が首筋をつぅっと撫でる。
(わたしも今、お母さんの元へ行きます、迷いませんように、離れませんよう
に、どうかわたしをお導きください)
 ――瞬間。
 首に衝撃を受け、モーラは意識を喪失した。


                ***


 名前はリチャード・T・チェイス。
 彼は恐怖で震えていた。震えすぎて歯の根が合わない、その一方で心の中で
毒を吐く。くそ売女め、くそ化物め、くそニガーめ。死ね、死ね、死んでしま
え、でも助けてくれ。矛盾した思考が更なる混乱をきたす、車の振動を感じな
がら、彼は憎悪と恐怖を同時に感じていた、不快極まる二律背反。
 後頭部を棒で小突かれた。
「変なこと考えんじゃないよ」
 ――くそ。
 小突かれたのは棒ではなく、拳銃だ。スミス&ウェッソン。ちっぽけな銃口
から吐き出される小さな小さな弾丸は、脳天を貫けばこちらを確実に死に至ら
しめる。
 ――くそ。
 彼はこんな拳銃なんて恐れたくはなかった、もうすぐ恐れなくても良くなる
予定だった、そのはずだった。
 娼婦をやらせていた女――最近は吸血鬼が怖くてやりたくないとかほざいて
やがった――を宥めすかして、一人の吸血鬼に血を吸わせた。大層具合が良か
ったらしく、その吸血鬼は次に逢ったときに吸血してやろうとまで言ってくれ
たのだ。
 この世の楽園が待っている。
 はずだった。
 だのに女は逃げ、家に帰った彼を待っていたのはいけすかない女と拳銃一丁。
 脅されてワゴンに連れ込まれ、包帯男に強烈なパンチを食わされた。痛い。
 もう一発。今度は痛くなかった、パンチの衝撃と共に昏倒したから。
 そして今。俺は躰中に何やら変なものをくくりつけられ、目隠しをされてお
まけに口には臭いボロ布を詰め込まれている。
「本当にやるの?」
 ニガーの声。ありがたい、早くこいつを止めてくれ。
「やるさ」
 包帯男の声。くそ、お前は黙ってろ。
「もうすぐ着くよ」
 乱暴な女の声。着く? どこへ着くって言うんだ?


                ***


 とりあえず、正門前の監視がこちらを見咎めるギリギリ手前で車を停止させ
る。車はありきたりのワゴン車、サイドに“スプラッシュアイスクリーム社”
などという名前が書かれていたりもする。
 ハンドルにもたれかかり、煙草に火をつけてくゆらせる。
 インフェルノに所属していた頃からずっと調べていた、この建物の構造・死
角・弱点・抜け道・警備の間隔・監視カメラの数及び位置。
 いずれ抜け出す、いずれ敵対する事になるとずっと思っていた、それが今役
に立っているとは何とも嬉しい限り。
 それでもわずかばかり緊張を覚える、ハンドルを握った手に無意識に汗をか
いていた。カレンの方はそれがもっと顕著だ……まあ、元血液学者である彼女
にとって戦闘は何度経験しても慣れないものなのだろう。
 一方、ペイトン……ダークマンは非常にリラックスしている。というよりも
単に何を考えているか分からない。ただ、ごく普通に窓の外を見ている。
 さて。
 ドライは後ろの座席の縛りつけた男を視る。自分の女を吸血鬼に売り飛ばそ
うとしていた最低のクズ野郎。あのメフィストとか名乗ってるホームレスが彼
女の悩みを聞いていなかったら、今ごろ吸血鬼と喰屍鬼が一匹ずつ増えていた
ことだろう。
 目隠しと口に詰め込んだボロ布を取り外し、ドライはじっと彼の瞳を見た。
 男はたじろいだ、恐怖に怯え、その癖怒っていた、理不尽な事態に遭遇して
しまったとばかりに非常にムカッ腹を立てている。
 彼を試してみることにした。
「下衆野郎、あの娘は死んだよ。アンタが血を吸わせたせいだ」
 ドライの怒気を含んだ声に、チェイスはきょとんとした。
「へえ、それが?」
 そう言った瞬間、ドライは顔面を強かに殴りつけた。
 ――クズだ。
 親が娘を売り飛ばすより尚性質が悪い。実を言うと、彼女は死んでなどいな
い、早目のガーリックエキスの投下と血清が効いたらしく、今はメフィストに
匿われてぐっすりベッドで寝ているだろう。
 今の言葉を聞いて、最後まで迷っていたカレンも頷いた。この男はどうしよ
うもない“奴隷(Slave)”だ。人間でも吸血鬼でもない半端なゴミ。
「……降りな」
 言うなりドライは車からチェイスを引き摺り出した。足を縛っていた結束を
ナイフで切り、黒いコートを着せる。
「ゲームだよ。ゴミ野郎。
 種目名“ランニング・マン”」
 チェイスの躰の周りで電子音が鳴り出した。
「おい! 何だよこれ!」
「爆弾」
 あっけらかんと言ってのけるドライ、チェイスはさぁっと血の気が引いた。
「ほら、真っ直ぐ行ったところに大きな屋敷がある、あそこに一定時間内まで
に辿り着けばアンタの勝ち、一定時間を越えたら言うまでもないけどアンタの
負け。こちらにはリモコンがあるから、逃げようと思ってもムダ、お分かり?」
「ちくしょう! 殺してやる!」
「いいのかい? もう始まってるよ、急がないと爆発する」
「ひっ……く、くそぉ!!」
 チェイスは必死の形相で走り出した。
 爆弾爆発まで後何秒あるのか、それすら分からない。いつ爆発するのか、恐
怖で狂いそうになる思考を必死に落ち着かせ、走り出す。
 ――ちくしょう、俺が何をしたってんだ!?
 チェイスは知らない。
 その疑問を抱いたままでは、ここで助かってもドライやダークマンは彼を生
きて帰すことは絶対に無いということを。
 そして多分彼はそのことを一生知ることはないだろう。


 何はともあれ殲争は営々と開始される。
 人間の先手はこれ以上ないくらい派手なモノになりそうだった。




                            to be continued.



次へ


前へ

indexに戻る