「坊主。――月夜の晩に、悪魔と踊ったことあるか?」
            ――ティム・バートン「バットマン」










 対峙。
 それから、まず互いの正体を知った。

 ――“真祖の姫君”アルクェイド・ブリュンスタッド。
 ――“夜魔の森の女王”リァノーン。

 共にお互いがどのような存在か知っている。どのような力量かも知っている。
 リァノーンが知らないのは、なぜここで出会えたかということだけ。
 アルクェイドが知らないのは、なぜ彼女が“あんなこと”をしたのか、とい
うことだけ。

 ――紅の瞳は敵意に染まり、剥き出しになった殺意は彼女を怯えさせた。
 ――深い、翠緑色の瞳は戸惑いを見せている。瞳と同じ色をした髪はまるで
怯えを表わすかのように揺らいでいる。

 二人の男は、敵意に戸惑い、困惑に疑念を感じている。



           それでは話はしばし前に遡る。


                ***


 老人に話を聞いたその晩のこと。
 アルクェイドと志貴は、ティティー・ツイスターという名前のモーテルにと
りあえず身を落ち着かせることにした。
 ちなみにアルクェイドは「えー、野宿でもいいじゃなーい」などと言ったが、
志貴のばかおんな脳天チョップにより却下された。
 酒場とモーテルが合体したような極めて品の悪い所だったが、野宿よりは遥
かにマシだ、と志貴は自分に言い聞かせる。
 恐らく普段は騒がしいであろう酒場は、見事にひっそりと静まり返っていた、
物憂げな化粧の濃い女たちと、普段ならその尻を好色の顔で撫で回しているで
あろう酔っ払いが、静かに酒に潰れているだけだ。
 ちなみにアルクェイドは「わー、志貴志貴お酒飲もーよー」などと言ったが、
志貴のばかおんな頬上下ひっぱりにより却下された。
 宿屋の粗野な主人に個室を頼み、前金を払って鍵をひったくるように受け取
って、誰の注意も引かない内にアルクェイドを引っ張ってさっさと部屋に入り、
アルクェイドを押し込む。
 そうしてから、志貴はようやく息をついた。
 ……さて。

 ――という訳で、お姫様はなかなか機嫌が悪かったりする。
「なあアルクェイド……」
「……ふん! 何よぅ、シエルみたく良い子ちゃんぶったとおのしき―」
 ぶちぶちとそういう文句を繰り返す有様だ。
 志貴は何とか彼女のご機嫌を取れそうな――最悪、彼女の興味を引くことな
ら何でもいい――話を模索していた。
「お前の住んでいた城って、どんなところだったんだ?」
 試しにそんなことを訊いてみる。
 アルクェイドはそっぽを向いて、窓から見える闇を覗き込んでいたが、やが
てポツリと呟いた。
「何もなかったよ」
「何もなかった?」
「でも、綺麗だったよ」
「綺麗だったのか」
「でも、牢獄だった」
「……何だ、そりゃ」
 ――綺麗なところで牢獄ででも何もないのか。
 志貴が難しい顔をしながら、情景をイメージしようとしているのを見て、う
ーん、としばしアルクェイドは考え込む。
「やっぱり、行ってみなきゃ判らないかな」
「……じゃ、明日だな」
 ようやく、アルクェイドが人懐っこい笑みを取り戻す。
 志貴もほっと息をついた。
「うん、あした――」
 その時だ。
 カーン、カーン、カーン……。
 志貴は慌てて窓の外を見やった。
 ――まさか、またか。

 もう鳴るはずがないと思っていたあの鐘が、高らかに鳴り響いた。

 アルクェイドも教会の方を睨む。

 鐘は、昼に聞いたあの統一性のある音とは全く違ったデタラメな音を鳴らし、
それが九回続いた。
(六回なら女、九回なら男……)
 それから、再び鐘が鳴り出した。またもデタラメな法則性を持ちながら、鐘
は鳴り続ける。
 だが。
 その乱暴な、些かも芸術性を見出せない鐘の音から、悲しみが溢れ出ている
ように、志貴は感じた。
 喩えるならば、死んだことを認めたくなくて、けれども認めなければならな
い自己矛盾の狭間にあって、思わず壁や物に当たってしまうような。
 あるいは、死んだことを認めてはいるものの、生きている際の思い出にしが
みつきすぎて、冷静に鐘を鳴らすことができないような。
 ――だから、あんなに乱暴に弔おうとする。
 鐘はひたすら鳴り続ける。百回から先はもはや数えられない。
 おいおい、と志貴は思った。
 ――いったいぜんたい、この老人は何歳で死んだっていうんだ?
 どたどたと、廊下を踏み鳴らす音がする。
「ええい、誰だ。私の居ない内に勝手に鐘を鳴らした大馬鹿者は!」
 カリカリとした神経質な声で、その男は叫んだ。
「あら〜、牧師様。ズボンをちゃんと履かないとみっともないよ」
「あっ、ええい、くそっ、さっさと寄越せ!」
「どうせ悪戯好きの誰かが鐘を鳴らしているんでしょ〜?」
「痴れ者どもめが、こんな時によくも神に無礼を働くものだ!
 今度こそとっちめてやる!」
 そんなことを言いつつ、牧師は教会へ向かった。
 志貴はアルクェイドと顔を見合わせ――。
 牧師の後を追うことにした。

                ***

 教会の鍵はリァノーンの“力”で簡単に開いた。
 なぜか牧師はどこにも居らず(こんな時間にどこに行っているのやら)、仕方
ないので、二人は誰にも頼らずに鐘を鳴らすことにした。
 もっとも、その方が下手に他の人間を巻き込むより遥かに良かったが。

 教会の鐘突き部屋は、礼拝堂から奥の扉へ入ったところにあった。
 鐘突き部屋が教会とは全く別個に建てられている場合もあるが、この教会は
鐘と礼拝堂が一体化している。教会の二つの尖塔にそれぞれ鐘があり、長い鐘
綱が鐘突き部屋までするすると降りている。
 鐘は全部で八つほど。
 もっとも、それら全部を鳴らせる訳ではない。本当は古式ゆかしい作法があ
るのだが、今の状態ではそんなことを言ってられないし、あの騎士とてそのよ
うな瑣末なことは気にしないだろう。
「さあ」
「ええ」
 惣太はリァノーンを促し、そっと抱き寄せると二人で鐘綱を握り締めた。
「ええと、九回で良かったかな?」
 惣太は鳴らす前にリァノーンに確認する。彼女はそっと頷いて肯定の意を示
した。
「よし……」
 二人は、鐘綱を共に勢いよく引いた。
 一瞬の間があって――。

 高らかに、鐘が鳴り始めた。

 まず、男であることを示すために九度鳴らす。
 それから別の鐘に移動した。
 二人して鐘綱を持ち、互いに顔を見合わせ、微笑み合う。
 ――何回鳴らすかは、もう決めている。
 通常、次に鳴らすのは年齢の数だけだが六百年間生きてきたギーラッハに、
年齢などあってないものでしかない。
 だから、それよりは。

「――では、鳴らします」
「ああ」

 想い出の数だけ、鳴らしてあげようと二人は決めていた。
 リァノーンは、彼との出会いや彼との様々な形のある出来事を思い出す。
 無骨で、忠実で、優しかったあの聖騎士を。

 伊藤惣太は、あの恐るべき男との出会いや、数刻ではあるが共に居たことを
思い出す。
 途方もなく強く、途方もなく忠誠心に溢れた最強の吸血騎士を。
 どれほど鳴らしただろうか……くたびれることを知らない彼等は後から後か
ら涌き出てくる記憶を思い出すたびにまた一度、また一度と鳴らし続けた。

「こら! お前ら何やっとんじゃ!」
 唐突に男の怒鳴り声が響いた、どんどんと鐘突き部屋の扉を叩く。
「……あら」
「……ま、仕方ないよな」
 二人は顔を見合わせて悪戯っぽく笑い合うと、鐘綱を伝ってするすると登り
出した。

 教会の尖塔から二人して、人家の屋根に飛び移った。
 誰にも見咎められない内に、そっと移動する。
 人家の屋根から屋根へ、静まり返った酒場らしきところの上をそっと歩き、
町を離れ、森へと向かう。
 二人が此処に来た目的はこれで達成された。
 では、次の目的を探さなくてはならない。
 それは何か?

 ――とりあえず、明日考えよう。
 惣太は考えることを止めた。
 二人には、無限の明日があるはずなのだから。

「そこまでよ」
 闖入する声。
 そして。
「――誰、だ?」
 二人の背後に何かが在る。
 月下に金髪が煌いた。


 対峙。
 それから、まず相手の正体を知った。


             かくして、話は冒頭へ。


                ***


「満足かしら? “夜魔の森の女王”」
 唐突にアルクェイドが、リァノーンにとっては意味不明の質問を投げかけた。
 ――何を言っているのだろう、彼女は。
 リァノーンはますます混乱した。
 彼女の言っていることが理解できなかった。
 彼女の敵意が理解できなかった。
 リァノーンは理解できない敵意に酷く怯えた。
 なぜなら、きっと、彼女は、
「あら、十二人もの処女の血を吸ったっていうのに、まだ満足してない訳?
 ……それとも、吸ったのはそっちの死徒かしら?」
 ――彼女は、殺すつもりだから。
 ギロリとアルクェイドが惣太を睨んだ、惣太は戸惑いつつも躰が自然と傍ら
の女性を護るように動いた。
「アルクェイド・ブリュンスタッド……ですね」
 リァノーンは、彼女の名前を確認するように呟いた。輝くような――まるで
太陽のようだとリァノーンは思った――黄金色の髪、それから紅の瞳、まぎれ
もないアルクェイド・ブリュンスタッドだった。
 彼女の名前は、曲りなりにも一人前の吸血鬼(吸血鬼に半人前一人前の概念
が存在すればだが)ならば誰でも知っている。
 “真祖の姫”と呼ばれることもあれば、ごく単純にこう呼ばれることもある。
 ――“バケモノ”と。
 そう、まさしくアルクェイド・ブリュンスタッドは怪物だった。
 想い浮かべたものを自在に召還できる空想具現の能力を持ち、たとえその力
を除いたとしても、彼女のほっそりとした腕は吸血鬼の躰を信じられないほど
やすやすと引き裂き、地を駆ける速さはどんな獣よりも素早かった、そしてど
んな致命的な傷を負ったとしても、凄まじい回復能力が彼女の身をわずかの時
で元通りに復活させた。
 ――狩人(ハンター)というよりは、処刑人(エクゼキューター)か。
 吸血鬼を断罪する処刑人、それがアルクェイド・ブリュンスタッドの役割だ
った。
 月光を背負うように立ちはだかる純白の女吸血鬼。――それは絵画のように
美しい一瞬だった。もっとも、リァノーンや惣太にそんなことを感じ取る余裕
は存在しなかったが。
「しらばっくれる訳? ……まあ、いいわ。
 後のことは殺されてから考えてちょうだい」
 リァノーンは思わず後退る。
 さほど力を篭めた訳でもない拳――だが、彼女の振るったそれはやすやすと
自分を引き裂くだろう、そう思うと彼女は身震いした。
 彼女が無数の白木の杭を具現化させれば、針鼠のように自分は撃ち殺される。
 死ぬことが怖い。
 惣太を失うことが怖い。
 惣太が自分を失って哀しみの顔を見せることが怖い。
 自分が惣太を失って狂うほどの哀しみを味わうことが怖い。

 アルクェイドに寄り添うように立つ遠野志貴も、リァノーンを護るように立
ちはだかる惣太も誤った認識を持っていた。
 リァノーンは、アルクェイドなど怖くなかった。
 ただ、失うことだけが恐ろしかった。

 アルクェイドは、揺らいでいた彼女の瞳が決意のそれに変化するのを感じて
覚悟を決めた。
 どういう心境の変化で彼女が人の血を啜るようになったのか、それはアルク
ェイドには理解できないし、したくもなかった。
 ただ、そこには仮定の自身が鏡に映し出されているかのようだった。
 もしかしたら自分とて彼女のように堕ちていたのかもしれなかった。
 ――志貴が、いなかったら。
 アルクェイドは傍らの志貴を見て柔らかく微笑んだ。こんな状況だというの
に、志貴はどきんと胸を弾ませた。
「ありがと」
 そう言うと、志貴がその言葉の真意を問い質す間もなく、アルクェイドは大
地を蹴ってリァノーンに躍り掛かった。
 あまりの速さに志貴は彼女を見失った――と思った瞬間、アルクェイドは既
に右腕でリァノーンの胴を薙いでいた。
 空間ごとこそげとるようなそれは、確実に彼女の胴を真っ二つに切り裂いた。
 ……そのはずだった。
「――!?」
 あまりに軽すぎる手応え、薙いだはずの胴がいつのまにやら樹の幹に化けて
いる。
(変わり身の術、ってところかしら)
 アルクェイドは日本に居る間に読んだ“ニンジャ”についての本を思い出し
た。

 無論、実際にはリァノーンは念動力で大木を動かし、己の盾にしたに過ぎな
いのだが。
 アルクェイドが一瞬驚愕を見せたその隙にリァノーンは駆け出していた。
「……やれやれ」
 わき目もふらずにアルクェイドはリァノーンを追跡しようとする。
「させん!」
 駆け出したアルクェイドの踵に弾丸が命中した。
 アルクェイドが振り返るとリァノーンの死徒がこちらに拳銃を構えている。
 アルクェイドは無視することにした。この距離ならば、もう弾丸が当たった
としても大して障害にならないと判断してのことだった。
 その代わり、彼女はこう叫ぶことにした。
「志貴! 後はお願い!」
 この世でもっとも信頼できるパートナー、遠野志貴に後を託すことにした。

「……くっ」
 まるで疾る速度が落ちないアルクェイドにもう一発食らわせようと、惣太は
 再び狙いをつけた。
「待てよ」
 だが、地の底から響くようなうすら寒い声に惣太はゆっくりと後ろを向いた。
 若い、それにとてもか細い少年が眼鏡越しにこちらを睨みつけている。
 確かあの吸血鬼は彼を「シキ」と呼んだか――。
 惣太は油断なく拳銃を構えた。
 あのアルクェイド・ブリュンスタッドに後を任せられるほどの男に、油断は
絶対にするべきではない。
「別にアンタに恨みはなかったが――アイツを狙ったってなると話は別だ」
 遠野志貴は解っている。
 アルクェイドはあんな傷で死ぬことはないし、痛みだって蚊に刺された程度
にしか感じてないのかもしれない。
 だが。
 それでも、胸をかきむしられるほどの怒りは収まらない。
 それは七夜の血がそうさせているのかもしれない。だが、志貴は違うと思っ
ていた。
 もっと単純な答えだと考えていた。

 ――恋人を傷つけられたら、誰だって怒る。

 志貴は懐から七つ夜を取り出した、軽く振るとパチンという音と共に古めか
しい刃が飛び出す。あの戦いが終わってからもこれだけは手放せなかった、今
はそれがありがたい。
「アンタを消す」
「君は……人間か?」
 惣太は疑念の声を発した、それほど志貴がまとわりつかせる“気”は人間の
域を越えている。
「人間だ、アンタと違ってな」
 だが、志貴はそう宣言した。

 深淵のような森を二人の女神が疾走する。
 絡みつくような樹木の枝をアルクェイドは無造作に千切り進んでいく。
 だが、森はリァノーンの支配下にある。
 いつしかアルクェイドはいやらしいほどこちらに絡みついてくる枝が意図し
て動かされているものであることに気付いた。
 ――念動力(テレキネシス)か。
 枝はその身を震わせ、アルクェイドの手や足や腕や胴にその手を伸ばして、
まるで森の世界に固着化させるかのように食い込んでいく。
 もっともアルクェイドは服が裂けようが血が滴り落ちようが気にも留めなか
った。こんな瑣末な障害で彼女を止めることなどできはしない。
 だから、アルクェイドがリァノーンを鼻で笑ったのも無理からぬことだろう。
 リァノーンもそれは充分理解していた。
 理解してこその行動だった。

                ***

 対峙。
 お互いの力量は既に読んでいる。
 だが、お互い“とっておき”を隠し持っている。
 伊藤惣太はこれまでの死闘で培った勘によって、
 遠野志貴は自分の体内に脈々と流れ続ける七夜の血によって、
 お互い、何かを隠し持っていることに気付いていた。
 だから――。

 志貴は踏み込んで無造作に七つ夜を突き出した。
 目の前の吸血鬼からはわずかながら“線と点”が見え隠れしている。それを
突くか切るかすればそれで終わりだ。
 惣太はぼんやりと胸の急所でもない部分を狙ったナイフを見る。
 そんなところにナイフが突き刺さったところで痛くも痒くもない、ならば彼
の思うがままに突き刺させて、間合いを詰めたところを手刀で軽く一撃すれば
事足りるだろう。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、相手の顔を観た。

 眼鏡を外したその少年の顔は。
 ――マズい。
 先ほどのあどけなさを残した表情などかなぐり捨てていて。
 ――コイツは、ヤバい。
 まるで修羅のように、菩薩のように、綺麗。
 ――刺されたら、俺は。
 連動回転する弾丸を思い起こさせるその動きはまさに神速。
 ――シヌ。

 惣太は躰全体で、彼の一撃を受け止めながら、ナイフを両手で握り締めた。
 ぽたりぽたりと、手から命のかけらが紅に染まって零れ落ちていく。
 にも関わらず、惣太はますます渾身の力を篭めてナイフを両手で握り締める。
 このナイフをこれ以上自分の間合いで振り回させてはならない、惣太の戦闘
本能はそこまで読み切っていた。
 もっとも、振り回させた場合どうなるかは、さすがに戦闘本能だけでは理解
できなかっただろうが。
 ともあれ惣太は全神経を集中して、少しでも気を抜けば血糊で滑りそうにな
る手の中のナイフを押さえ込むことにした。

 志貴は、自分の狙いが読まれたことに思わず舌打ちした。
 そうかと言って退くこともできない、退がれば彼が手に持った拳銃が轟音を
挙げてこちらの人生をあっさりと終わらせてくれるだろう。
 志貴としては、それは避けたい事態だった。
 だから、退くことも、かと言って剛力で抑えつけられた七つ夜は線を切ろう
にも一ミリたりとも動きはしない。

 恐ろしい均衡状態だった。
 ほんのちょっとバランスが崩れるだけで、天秤は崩壊し、完全なる勝利者を
決定付けてくれるだろう。
 志貴は懸命に打開策を模索する。
 七つ夜を引くか蹴るかして、間合いを取るべきだろうか。それは同時に拳銃
の弾丸から身を躱すという離れ業を行わなければならないことを意味する。
 ――無理だ。
「動けないな」
 堂々巡りの志貴の思考を読んだかのような惣太の声。
「お互いにな」
 志貴はそう答えた。
 もたもたしている暇はない、早くアルクェイドに追いつか――。

 ――早くこいつを殺さないと。

 突然、ノイズが混じるように志貴の思考に殺意が沸いた。
 疑問に思う間もなく、ノイズが志貴の脳髄を侵食する。
 ――こいつを殺さねば俺が殺されるアルクェイドも殺されるだから殺さない
といけないだってこいつは吸血鬼なんだから俺とは違うのだから俺は吸血鬼で
はないのだからそれを殺すための一族なのだから。
 無意識に膨大な情報が志貴の頭に強引に挿入される、かつてアルクェイドを
バラバラに解体した時の興奮が蘇る。
「……おい、お前……?」
 志貴の様子がおかしいことを見て取った惣太が思わず声をかける。
 彼はゾクリとするような蒼い瞳を惣太に向け、あどけない笑顔を見せながら、
惣太に思い切り蹴りを入れた。
 ずるりと七つ夜が惣太の両手から逃げ出す。志貴はバランスを失ったまま、
不安定な態勢で倒れこんだが、すぐに立ち直って再び間合いを詰めた。

 惣太が、拳銃を構えた――瞬間。
 人外の素早さで、志貴がタックルを仕掛けてきた。
 思い切り態勢を低くしていたので、惣太は狙いを上手く定められず、引き金
を引くことすらできなかった。
 やむを得ず、惣太は躰全体で志貴のタックルを受け止めた。勢いを押さえき
れずにごろごろと二人して地面を転がる。
 馬乗りになったのは、志貴だった。
 志貴は七つ夜を振りかざした、闇夜だというのに相手の躰からは、線も点も
クリアに見える、その代償か先ほどから脳に蛆が涌いてがつがつと食われてい
くような鈍い痛みが志貴の頭に襲い掛かっていたが。
 ともあれ喉仏から頚動脈に沿って見えた、線を切ろうと七つ夜を叩きつける
ように振り下ろす。
 耳障りな金属の音がした。
 志貴の七つ夜を惣太の拳銃――レイジングブルの銃剣(バヨネット)が受け
止めていた。
 そのまま、惣太は力任せに志貴を押し込んだ。吸血鬼となって得た剛力はた
易く志貴の躰を吹き飛ばす。
 大木の幹に志貴は勢いよく叩きつけられ、躰がゴムマリのように弾いた。
「しまったっ――」
 やりすぎた、と惣太は思った。殺されるつもりなどなかったが、殺すつもり
もなかった。
「……おい、しっかりしろ!」
 惣太は慌てて志貴を抱き起こした、素早く左手で頚動脈を触って脈打ってい
ることを確認して安堵の息を吐く。
 ――隙ができていた。
 ひゅっと志貴の振り上げた腕から風を切る音がする。
 惣太は本能的に突き出した右腕でそれを受け止めようとして、思い出した。
 ――俺は、この攻撃を、止めることはできない。

 手首からずるりと肌に食い込んだ七つ夜は、腕を伝いながらジグザグの線を
走らせる。
 刃が肘から飛び出て、志貴は線を切り終えた。
 ――見事。
 右腕は、見事なまでに切断されていた。
 志貴は割合上手く切断できたことに、ほっと安堵の息を吐いた。

「……」
 呆然と、惣太は自身の切り取られた腕を拾い上げる。
 素晴らしい、と思わず賛嘆してしまうような見事な切断口だった。滑らかに、
柔らかく、あたかも予め自分の躰に切り取り線が記されていて、相手のナイフ
はただ単にその線をなぞっただけ、というような。
 ――来たぞ!
 吸血鬼の戦闘本能が呆然となった惣太の躰を強制的に動かし、志貴の攻撃を
躱した。
 ここに至ってようやく惣太も手加減をしていては死ぬ、という結論に達した。
 かつて死闘を繰り広げた、ヴァンパイア三銃士のギーラッハやウピエルとは
また別物の強さ、底知れない恐ろしさをこの人間――この、敵は持っている。
 ――ならば。
 殺すしかあるまい、と惣太は切断された右腕に未だ握り締められているレイ
ジングブルを拾い上げた。
「――すまないが、本気で行く」
「……ああ」
 志貴は嬉しそうに微笑んだ。
 ああ、やっぱり、と惣太は思う。
 ――こいつは、吸血鬼以上の殺人鬼だ。

 闇夜に再び斬鋼の音が響いた。
 レイジングブルの銃剣と、七つ夜が激突する。
 志貴は線を切ろうとするが、その奇妙な攻撃動作に惣太は慌てて銃剣を離し、
デタラメな連撃を打ち込む。
 長期戦になれば、右腕を切断された惣太が不利なことは明らかだった。
 ――おまけに、血が止まらないときてやがる。
 惣太は焦燥を感じた、リァノーンに追いつかねば、あの女吸血鬼はこの男を
さらに上回るバケモノだ、あの戦いが嫌いなリァノーンでは勝てるかどうか、
いや、生き残れるかどうか――。
 焦りを感じながら、惣太はデタラメな連撃を放ち続ける。
 ――線が切れない。
 やむを得ず、志貴は大木の背後に隠れた。
 惣太は隠れた志貴を追おうとする、大木に腕を回して、飛ぶように回り――。

 志貴が、大木の下に走っていた線を切った。

 大木がぐらりと揺れる。その大木は、勢い良く惣太の躰に倒れ込んだ。
 志貴は倒れ込む大木に飛び乗った、地面と大木に挟み込まれた惣太は身動き
が取れない。吸血鬼とて、左腕一本ではそうそう大木を持ち上げることなどで
きはしない。
 志貴は、惣太を見下ろした。
 ――なんだ。
 志貴はようやく相手の顔を冷静に見ることができた、そこに居たのは自分と
さほど変わらない歳の少年だ。
 どこかで見たことがある、と志貴は思った。
 どこでも見たことなんてない、と志貴は思い直した。
 ――きっと、こいつは。
 志貴はそこまで考えて、頭を振った、回想は後からにしておこう――。
 今は、とりあえず彼を消すことが重要だ。

 ずず、と何かが引きずられる音がした。
「……?」
 志貴は周りを見渡した、そんな音がしそうなものはどこにも見当たらない。
 ずず、とまた音がする。
 それは志貴の居る場の下から聞こえてくる。
 ――まさか。
 志貴は下を見た、大木が微妙に動き出している。
 目を瞑って集中していた惣太は力を解放するかのように、カッと目を見開い
た。
 大木が一気に動いた、バランスを失った志貴は地面に倒れ込む。
「……くぁっ」
 倒れ込んだ志貴の上に、大木がずるりと移動した。

 ――なんて、無様。
 志貴はあの時感じたものを思い出した。
 この吸血鬼も、自分の直死の魔眼に匹敵する業を隠し持っている、そう確か
に感じたはずではなかったか。
 それを忘れて、自分の業を曝け出し、あまつさえ油断までしてしまった。
 吸血鬼の線を切ることに夢中になり、それだけを考えて、向こうのことをま
るで考慮に入れなかった。
 ――遠野志貴の、大馬鹿野郎。

 惣太は立ち上がった。
 ふう、と安堵の息を吐いて、それから志貴の元へ歩む。
(……俺は、殺されるんだろうなあ、やっぱり)
 志貴は漠然とそんなことを考えた。
 怖いなあとか、痛いだろうなあとか、そういうことよりも、アルクェイドに
すまないなあ、怒られるだろうなあとまず第一に考える自分に志貴は思わず苦
笑した。
 ――こんな時でも、俺はあの馬鹿な女のことばかり考えている。

「……なぜ、笑う?」
 レイジングブルを志貴の頭に突きつけた惣太が不思議そうに尋ねた。
「ん? ああ、いや、すまない。別にアンタを馬鹿にした訳じゃない。
 ただ、自分の不甲斐なさとこんな状況なのにどうしようもない馬鹿げたこと
を考える自分に呆れ果てていただけだから」
「馬鹿げたことって何だい?」
 惣太は興味深げに尋ねた。
「ん、大したことじゃないんだ。ただ、あの猫女に怒られるだろうなあ、とか
そんなことをさ」

「猫女? ああ、あの女吸血鬼のことか」
「そう、あいつってさ、都会に住み着いた猫みたいなんだよ。
 こう何てゆーか、誇り高い癖に一人じゃ妙に寂しがるような」
「――そう言えばさ、お前等っていったいどういう関係なんだ?」
「ああ、それは……」
 志貴は妙にテンション高く、アルクェイドのことを喋った。
 いつしか惣太も、レイジングブルを懐にしまってそれに聞き入る。
 最悪の出会いをまず喋った。
 気まずい再会を次に喋った。
 ネロ・カオスとの戦いを喋った(惣太も彼については噂を聞いていたので、
素直に驚いた)。
 ファーストフードや、公園のジュースのことや、他愛もないお喋りをしたこ
とを喋った。
 ロアについて喋った。
 アルクェイドの吸血衝動について喋った。
 最後の戦いについて喋り、アルクェイドを待ち続けた日々について喋った。
 唖然とした再会について喋った。

 そこまで一気に喋り、ふうと志貴は息を吐いた。
「悪いな、無駄話に付き合わせて」
「……そうだな」
 惣太は頷いた、素直な吸血鬼だな、と志貴は苦笑した。
 拳銃はいつしか懐にしまわれていた、ならば首の骨をボキリと折るのか。
 それとも顔面を潰すのか。いずれにしろゾッとしない殺され方だな、と呑気
にそんなことを志貴は考えた。
「おい、準備はいいか?」
 惣太は志貴にそんなことを尋ねた。
 殺される準備? この状況でそんなものが必要なのだろうか。
「いいか? 俺の力は多分一度しか使えない、だからお前がどれだけ素早くそ
こを抜け出せるかにかかっている」
「――なんの、ことを」
 言っているのか、と志貴は尋ねようとしたが、惣太は終わりまで聞かずに答
える。
「お前を助けようって言っているんだよ」

 惣太は集中して、イメージを喚起させる。
 大木が少しずつ、少しずつ重力に逆らって空へ浮かぶ。
 余計なもの――たとえば、大木の重量などをイメージせずに、心の外へ追い
やって、ひたすらその大木が浮かぶ情景を頭に巡らせる。
 ずず、と大木が少しだけ浮き上がった。
 志貴は躰を捻じ曲げるように回転させると、肘で少しずつ大木から這って離
れていく。
 ――もう少し。
 惣太はさらに脳内のイメージを強くさせる。大木がまた少し浮かび上がる。
 志貴は急いで、下半身を抜け出そうとずりずりと匍匐前進を続ける。
「まだか……ッ!?」
「もう少し……!」
 頭がグラグラする、不可能な状況下を創り出そうとするせいで惣太の脳が悲
鳴をあげる。
 ――もう限界だ!
 ――よし、抜けた!
 志貴の足が大木から抜き出された瞬間、吊り上げていた糸が切れたかのよう
にどすんと大木が落下した。

 しばらく、お互いに荒いだ呼吸を静めることに集中する。
 やがて、惣太が立ち上がった。
 ――マズいな、出血が激しすぎる。
「なあ、この右腕くっつかないか?」
 惣太は志貴に右腕を差し出しながら言った。
 だが、すまなそうに志貴は首を横に振った。
「すまん、俺でもどうすることもできん」
 その代わり、志貴はポケットからハンカチを取り出して、惣太の肘から上を
強引に縛り付けた。
「これくらいしか、できない」
「まあ……血が少しは止まったからいいさ」
 惣太は右腕を放り捨てた、くっつかない以上持っていてもしょうがない。
「アルクェイドなら、右腕を再生する方法を知ってる――かもしれない」
 何しろ、十七分割された状態から蘇生した吸血鬼だからな、と志貴は付け加
えた。
「そうか、じゃあ……」
 惣太は左腕で、ひょいと志貴を抱え上げた。
「お、おい!」
「これが一番速くあの二人に追いつく方法だ、しょうがないだろ」
 惣太は志貴に文句も言わせず、弾丸のように走り出した。
 そして、走りながら付け加える。
「じゃあ、次は俺の無駄話に付き合ってもらうぞ」
 そう言ってニヤリと笑った。



                           to be continued



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