「―――そっか。けど、やっぱりいいや。志貴の血はいらない
よ」
「なんで。俺の血じゃだめなのか。俺の血を吸えない理由なん
か、あるのか」
 うん、と頷いて。
「好きだから、吸わない」
 そう、彼女は咲き誇る花のような笑顔で告げた。
          ――TYPE-MOON「月姫」



「いいや、いいんだ。決めたんだ」
「俺は君の傍にいる、ずっと」
「“ずっと”だなんて……」
 今にも泣き出しそうなほど、悲愴を表情に顕わすリァノーン。
「貴方はその言葉を……理解しているのですか?」
          ――ニトロプラス「吸血殲鬼ヴェドゴニア」










 どこまでも続くだらだらとした山道を二人は登って行く。
 遠野志貴はいささかくたびれていたが、前の人間――いや、人間ではないか
――が平気な顔で山道を登る様子に負けられるかとばかりに速度を速める。
 元々、結構な負けず嫌いなのだ。
 しかして、目の前の女性に遠野志貴は連戦連敗を喫していた。
 肉体的な面ではなく、主として精神的な面で。
 そもそも、ここに居て、ここに在ること自体、遠野志貴は既に敗北している。
アルクェイド・ブリュンスタッドに
「わたしの住んでいた地を見て欲しい」
 そう言われて断りきれずにはるばるヨーロッパまで来ていること自体、既に
敗北だった――。










『吸血大殲 Blood Lust』Second Parts










「アルクェイド……」
 遠野志貴はうめくような、恨みがましい声を出した。
「ん? どったの志貴」
 志貴に声をかけられた"彼女"はにぱっと太陽のようなまっさらな笑みを浮
かべて後ろでよたつく彼を見る。
「……もうすぐ、なんだよな?」
 乞い願うような声を志貴は搾り出した。
「んー……」
 問われたアルクェイドは首をひねって唸り始める。
「あと、もう少しくらいかかるかも」
「勘弁してくれ……」
 絶望的な発言だ。
 棒のよう、というよりは発条式の機械で脚ががちゃこんがちゃこんと動いて
いるように感じられる、疲れたのを通り越して何も感じられなくなっている。
 以前小学校の時、遠足で無理して歩いたら翌日筋肉痛で動けなくなったこと
を志貴は思い出した、アレは辛かったと。
 志貴は吸血鬼の体力がそれこそ"底無し"であることをすっかり失念していた
自分に頭を抱えた。
(俺は、大馬鹿だ……)

 ありふれた高校のありふれた二年生であった遠野志貴は、ありふれていない
吸血鬼――アルクェイドに関わることで、いささか大変な目に遭遇した。
 ちょっとばかり初対面の彼女を殺しかけ(いや殺したのか)、
 ちょっとばかり死にかけ、
 ちょっとばかり狂いかけ、
 ちょっとばかり――哀しすぎる別れを体験しそうになった。
 報酬はと言えば、目の前をスキップしながら走る能天気な女吸血鬼の心。
 これが悪くない報酬だと言えるかどうかは人それぞれだ。
 勿論、彼女に誘われてヨーロッパまでやってきた遠野志貴は、それが命を賭
けて得るに相応しい報酬だと思っていた。
 思ってはいたが――。
 古びたバスでガタガタ揺られ続け、延々と続く山道を登らせられるとなると、
そんな想いもくじけようというものだ。
(秋葉、お前の言う通りだったよ……)
 志貴は、日本に出る前のことを回想する。

「……っ、絶っっっっ対反対ですっ!」
 遠野志貴の妹――秋葉は旅行のことを聞くが早いか、志貴を地下室に放り込
み、延々と説得、というよりは洗脳し続けた。
 曰く、遠野家の当主としてあんな未確認生物との接触は許しがたい。
 曰く、ましてや旅行なんてとんでもない。
 曰く、兄さんはいつもわたしを置いていくのですね――。
 哀しい瞳で訴えかける秋葉どころか志貴直属のメイドである翡翠まで洗脳に
参加したものだから、もう少しで志貴は旅行を断念するところだった。
 アルクェイドが旅行出発の当日、志貴を救出しに来なければ今ごろ地下室で
夏休みの課題をやる羽目になっていたかもしれない。
 志貴はアルクェイドに引きずられるように脱出する直前、秋葉が自分を追い
かけながら叫んだ科白を思い出す。

「兄さん! そんな生物(ナマモノ)に引きずられる人生なんて、きっと後悔
しますよ!」
 秋葉、お前の言う通りかもしれないぞ。
 志貴は猛烈にこの旅行を後悔していた。
「休憩……しよっか?」
 少々申し訳なさげに提案するアルクェイドに、返事を言う気力もなく、ただ
ただ頷くと、志貴はどさりとその躰を地上に放り出した。
 空が高い、日本の照りつかせる太陽と違って、どこか遠い世界の蛍光灯のよ
うな陽光を志貴はぼんやりと見つめていた。
 志貴の隣にアルクェイドがぺたんと座り込んだ。
「――どうした?」
 アルクェイドは無言で、志貴の瞳を覗き込む。
 紅の瞳に真っ直ぐ見つめられ、志貴は――。
「な、何だよ」
 照れた。
「……怒って、ないかなあって」
 ひどくしょんぼりと、かつ申し訳なさそうにそんな事を言った。
 やはりアルクェイドも、志貴のくたびれた様子にそれなりに責任を感じてい
るらしい。
 志貴は、今更の言葉に思わず笑みを浮かべた。
「何よぅ、こっちが謝ってるのにニヤニヤ笑っちゃって」
「いや、謝ってないだろお前。あと、ニヤニヤ笑ったのはお前が今更なことを
言ったからだよ」
「今更?」
 あのなあ、と言いながら志貴は上半身を起こす。
「お姫様のわがままは今に始まったことじゃないだろ」
「あ、ひどーい。それじゃあ、まるでわたしがわがまま娘みたい」
「みたい、じゃなくてわがままそのものだお前は。
 わがままが服着て歩いて喋っているようなもんだろ」
 全く遠慮なく志貴はそういう言葉を投げかける。
 アルクェイドは投げつけられた言葉はともかく、志貴のそういう態度そのも
のは大好きだった。
「ねえ、志貴」
 アルクェイドは再び寝転がった志貴の方を見ずにポツリと呟いた。
「後悔、してない?」
「……何だ、いきなり、って言うかそもそも何を?」
「んー」
 アルクェイドは躊躇うように口をパクパクさせる、喉まで言葉が出掛かって
いるのに、音声として空気の振動を起こすことができない。
「言えよ、おまえらしくもない」
「だからさ、こんな旅行にわたしと二人っきりで来たりとか、わたしを、その
……恋人にしたこととか」
 もじもじと指を絡ませながら、アルクェイドはごにょごにょと言った。
「――ぷっ」
 思わず志貴が噴き出した。
 アルクェイドはそんな志貴をきっと睨みつける。
「な、何よぅ」
「お前さ、時々今更言わなくてもいいことを言うよな」
「志貴、答えになってない」
「お前と、その……えっとだな、こういう事になって後悔したことは一度も無
い。……お前、解ってて聞いてるだろ」
 志貴も、自分の言葉に照れたのか顔を赤らめながら照れたように鼻の頭を指
で掻いた。
 アルクェイドはへへー、と予想通りの答えにニヤついた。
「この旅行は――まあ、ちょっと、後悔してるかな。
 いい加減目的地が見えてくれば励みになるんだが、まだ見えないのか?
 その、お前が住んでいたっていう――」
「千年城」
「そう、そこ。まさかとは思うが」
「まさか?」
「……道を忘れた、とか言わんだろーな」
「あ、バレた?」
ぺちっ。
志貴の人差し指がアルクェイドの額を勢いよく弾いた。
「イタイ……ぶー、志貴ったら何すんのよー、お茶目な冗談ってもんでしょ」
「全然お茶目じゃない!」
 アルクェイドの住んでいた、というよりはアルクェイドが“在った”城。
 千年城ブリュンスタッド。
 ――月に一番近い城。
 二人はそこを目指していた。

「ん――?」
 遠く、とても遠くで、荘厳な鐘の音が鳴り響く。それはまるで脳に直接響く
ような、それでいて決して不快ではない澄んだ、綺麗な芸術的な音色だった。
「な、んだ――?」
 志貴は思わず、音の方向を見やった。村の中では一番だと思われる背の高い
建物が見え、そこの巨大な鐘が揺らいでいる。
 くらん、くらんと揺れるたびに音が志貴の全身を振るわせた。
「ああ、九告鐘(ナイン・テイラーズ)ね」
 アルクェイドが志貴の視線の方を見やりながらそう言った。
「ナイン……何だって?」
「九告鐘。あの教会は村の人間が死ぬと、作法に則ってちゃんと鐘を鳴らすの」
「へえ……」
 よく鐘の音を聴き取ると、確かにそこには厳然とした法則性が垣間見て取れ
る、もっとも志貴は何となく「規則正しい」ように聞こえるだけであったが。
 それでもその鐘の響きに芸術性を聴き取ることくらいはできた。
 ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
「――凄いな」
「そう? わたしは何度も聞いたから慣れちゃったけど、志貴がそう言うのな
ら、きっと凄いんだろうね」
 だが、鐘の響きは六回で一旦中断した。
「――死んだのは女の子ね」
「なんで、解るんだ?」
「あの教会の鐘は男が死ぬと九回、女が死ぬと六回鐘を鳴らすの。
 それで、次に鳴らされる鐘の数が、死んだ人間の年齢を表すのね」
 アルクェイドが言い終わるか言い終わらないかの内に、再び鐘が鳴り始めた。
 死を惜しむが如く、立て続けに鐘たちが鳴らされ続ける。
 十三回鳴らされ、鐘の音は止まった。
「……死んだのは」
「十三歳の女の子、ってことね」
 志貴は自分でも驚くほどのショックを受けた、見も知らぬ異国の、そして赤
の他人の死、しかしそれを知らせる鐘の音が何とも哀切に満ち、それが志貴の
心に深く突き刺さっていた。
「早すぎるわね」
 アルクェイドはショックこそ受けなかったが、何だかひどく切なくなった。
「……そうだな」
 志貴は哀しい――というより、耐えがたい無常感に襲われた。
 今日もどこかで誰かが死んでいる、一分間にはそれほど数え切れない大人や
子供や老人や赤ん坊が死ぬ、知識で分かってはいても、感情では割り切れない。
 やるせない気持ち、そういうものなのだろう。
 ……ところが、それだけでは終わらなかった。

 また、鐘が鳴らされ始める。
 荘厳な音が六回、それの後に十四回の哀しみの音。

 次いで、
 荘厳な音が六回、それの後に十二回の哀しみの音。

 次いで、
 荘厳な音が六回、それの後に十六回の哀しみの音。

 次いで、
 六回、十七回。

 次いで、
 六回、十一回。

 次いで、
 六回、十三回。

 ――止めてくれ。
 志貴は思わず叫びたくなった。頭を抱えて走り去りたくなった。
 荘厳すぎるその音が、哀しすぎるその音が、あまりに憐れだ。
 それでも、鐘の音は易々と止まらない。

 六回、そして十回。
 六回、そして十五回。
 六回、そして十八回。

「……」
 アルクェイドも厳しい表情で、教会の方向を凝視している。

 六回、そして十四回。

 最後に。
 六回、そして十三回。

 死告鐘は十二人の死を弔ってようやく眠りについた。
「……」
「……」
 アルクェイドは厳しい表情で教会を睨む。志貴はアルクェイドの横顔を見て
久しく感じなかったアルクェイドに対する恐怖――を感じた。
「アルクェイド」
 志貴の呼びかけにも、彼女は厳しい表情を崩さない。
「志貴、ここまで歩いてきて悪いけど、もう一度村に戻るわよ」
「――どうか、したのか?」
「どうもしないかもしれない。ただの無駄足かもしれない。
 けど――何だか、胸騒ぎがするから」
「無駄足か」
「……志貴が、嫌ならここで待っていても構わないけど……」
 厳しい表情が一転して、アルクェイドはまるで悪いことをしでかした子供の
ようにちらちらと志貴の顔を窺った。
 はあ、と志貴はため息をついた。
 ――また、俺の負けだ。
 志貴は勝つつもりがこれっぽっちもない自分を責めつつ、笑顔で言った。
「いいさ、行こう」

               ***

 つまるところ、彼等は永久不変の旅人である。
 永遠の命を得たものは一箇所にとどまることを許されない、そういう宿命で
ある、旅から旅、土地から土地。
 誰にも知られず、誰にも干渉できず、ひたすらに歩き続ける。
 そうして彼等が得る残酷な真理、
 "永遠は安住に有らず"
 二人はその言葉の重みを噛み締めていた。

 彼等がこの村にやってきたのは、どうしてだろう。
 世界でも有数の素晴らしい鐘々がそこに在るからだ。
 それで、まず何よりもまず最初にやるべきことが在ったからだ。

 ――聖騎士の、鎮魂を。

 彼の為に、九告鐘を打ち鳴らしてやりたかったからだろう。
 彼等がこの村を訪れたのはそれが為。

 彼女は森に抱かれて眠るのが好きだった。
 木々の幹を枕にし、枝で躰を包み込み、木の葉の匂いをかいで安らいで眠る。
 永遠を生き続けて様々なものを捨て、あるいは飽きながら、ただ一つ、好き
であり続けたことだ。

 最近、もう一つ。彼の力強い腕に抱かれて眠るのも好きになった。
 彼の腕は木々の幹を枕にするより柔らかく、温かい。
 彼、傍らに寄り添う彼の名は――。

「もうすぐ太陽が昇る。……どこかで眠ろう」
「……そうですね」
 伊藤惣太といった。

 伊藤惣太はその名が指し示す通り、元から吸血鬼で在った訳ではない。
 まして自ら望んで吸血鬼になった訳でもなかった。
 吸血鬼と化したのはあくまで不幸な偶然であり、そしてその不幸を幸運に変
換すること――つまり、吸血鬼として“死なない”道を選んだ。
 代償として、人間であった頃の全てを――友人、家族、生活、そういったも
のを何もかも失い、代わりにかけがえのない“彼女”を得た。
 彼女は、かつて“夜魔の森の女王”と呼ばれた途方もない強さを持つロード
ヴァンパイア。
 けれども、惣太にとっては何でもないちょっとした微笑ましいことに感動を
見せる、一人の可愛らしい女性だった。
 彼女の名はリァノーン。
 彼等は昼の世界を棄て、夜の世界を二人で生きる決意をした吸血鬼だった。

 伊藤惣太は時折不安にかられることがある。
 決して忘れまいと誓った幼馴染、自分達を救ってくれた友人、妹のように思
っていた後輩、彼女達は果たして現実に存在していたのか?
 そう思うことがある。
 あるいはリァノーン、彼女は現実に存在しているのか?
 夢を見ているのではないか?
 夢を見ているのならば、どちらが夢なのか?
 現実はどちらだ? どちらが夢の中の出来事だったのだ?
 どちらも夢、ではないか?
 ――俺は、本当に存在しているのか?

 そこまで考えて、惣太は頭を振って妄念を打ち消す。
 違う……どちらもまごうことなき現実だ。
 それでも不安にかられ、彼は傍らのリァノーンの手をぎゅっと握り締めた。

 リァノーンは時折不安にかられることがある。
 八百年捜し続けた愛しい人、ついこの間まで、リァノーンは一目姿を見れば、
充分満足できると思っていた。
 彼の、かつての彼のささやかな一欠片を見ることができれば充分だと考えて
いた。
 それなのに。
 ――私は、決してやるまいと誓っていたことを。
 リァノーンは、惣太の血を吸ってしまった。
 味は覚えていない、ただ酷く哀しく、それでも幸せだったのを覚えている。
 巻き込んでしまった。
 人間としての彼の生活全てを奪い去ってしまった。
 元に戻せるものなら、戻してあげたかった。でも、惣太がリァノーンと共に
歩むことを誓った時、何もかも戻らなくなってしまった。
 共に歩んでいるにも関わらず、不安と罪悪感が枷となって惣太とリァノーン
は互いに距離を感じていた。

 ――俺の選択は間違っていたのか?
 ――私の選択は間違っていたのか?

 答えてくれる第三者は存在しない。
 だから、惣太は自身の感情の中でただ一つ確実に在る物――リァノーンへの
愛情に必死にしがみつくことにした。
「リァノーン」
「――なあに?」
 儚い笑顔を向けるリァノーンを惣太は包み込むように抱き締めた。
「愛してる」
 かすかに手が震えた、それは、多分、何かしらの。
 ――恐怖だった。

「ここは、まるで……」
「時代に取り残されたようね」
 リァノーンの言葉に惣太が同意を示す。
 惣太達は夜の闇を、心地よい冷気を浴びながら、村を歩いていた。
 古びた廃屋のような家々の扉はしっかりと閉じられ、窓からわずかに光りが
漏れている、時折聞こえる呑気な家畜の鳴き声はこの街が平穏という証なのか。
 だが、それにしては。

「――静かすぎないか」
「……」
 惣太は耳を澄ませた、いつもなら漏れ聞こえるはずの家族の団欒の声や、あ
るいは華やかな食事の音や、あるいは若い夫婦の嬌声が全く耳に入らない。
 人間が居ない訳ではない、惣太は人間の気配をいくらでも家々から感じた。
 つまり、彼等は恐ろしいほどひっそりと静まり返って夜を過ごそうとしてい
るのだ。
 ――まるで、闇を恐れるように。
 否、闇を恐れているのではないだろう――惣太は薄々感じ始めていた。
 彼等は闇を恐れているのではなく、闇の中にいる"何か"を恐れているのだ。

「"何か"がいるのかもな」
 それは恐らく自分達と同類の死物だ――と惣太は読んでいた。
 リァノーンが身を竦ませて、腕にしがみついたのを感じて惣太は苦笑した。
 この人ときたら、強さは全くの別問題として争いが滅法苦手なのだ。彼女が
得意なのは、身を護ること。
 だから。
「心配するな。――俺が護ってやるから」
 伊藤惣太は強く思う。
(俺は、戦わなければならない。彼女を護らなければならない)
 それこそがギーラッハ――紅の高潔な騎士が伊藤惣太に託した願い、そして
役割だった。
 一つだけ違うところがあるとするならば。
 ギーラッハは忠誠をリァノーンに捧げ、彼女を護ることを誓ったのに対して、
 伊藤惣太は彼女を愛するが為に護ることを誓ったことだろうか。
(だが)
 惣太は回想する。
(ギーラッハが忠誠と思っていた、それも)
 もしかしたら、自分と同じ愛情だったのかもしれなかった。

「それでは――あの、森へ」
 リァノーンが指差したその方向を、惣太は凝視した。暗闇にも関わらず、そ
の先に何があるのか不思議と感じ取ることができてしまう。
 呪わしい吸血鬼の力だが、惣太はそれほど悩むことなく「便利な能力だ」と
思っていた。そこらへんの切り替えの早さは、吸血鬼となってからも変わりは
ない。
「ああ」
 村を抜けて、更にその奥の山、更に先に進む場所にある、その森。
 捻じ曲がったような木々が山の表面を構成し、まるで
 二人はそこで“昼を過ごす”ことにした。
 朝も近い、今日はゆっくりと眠り、それから――。
 忠実だったあの聖騎士の魂が安らかになるように。
 鐘を鳴らしてもらおう。

               ***

 人より何倍も高い木々が寄り集まり、森が森であるための法則性を見せずに
雑然と生い茂っている――時に宙空で捻じ曲がり、他の樹木と結合し、さなが
らそれは南米のジャングルのよう。
 ――ここだけ、空間が異なっている。
 異世界といってもいいだろう、村の人間はこの森を恐れると同時に敬い、怖
がると同時に有り難んでいた。
 ――おそらく結界なのだ、この森は。
 異世界と人間界、化物と人間の接合線、引き剥がすこともできないが、融合
することもない、侵入しなければ所詮それはただの森に過ぎない。
 逆にいうと侵入するならば、それは異世界への扉をくぐることになる。
 吸血鬼。
 村の人間にとって、彼等は非現実的な存在ではなく、あくまで異世界の住人
である。
 そうすると、無力な人間にはただ一つの作業しかすることはない。

 ――死者の、鎮魂を。

「死体は、見つかったのかしら?」
「うんにゃ、そんなもん見つからんよ。
 多分これからも見つからんじゃろ、吸血鬼相手ならそういうもんじゃ」
 アルクェイドの問いに眠たげな老人が口をもごもごさせながら答える。
「ふうん、つまりこの村の敬虔なカトリック信者の少女が十二人消えた。
 死体は見つかってない。
 けれど、全員何となく吸血鬼の仕業だと思っている――ということ?」
 アルクェイドの問いに、老人は何度も頷いた。
「そうさな、そういうことじゃ」
「でも――どうして、吸血鬼の仕業だと?」
「……それは」
 老人が、眠たげな眼を擦り、アルクェイドをじっと見た。
 目尻の皺が寄り、
「ココこそ吸血鬼発祥の地――だからじゃよ」
 志貴は思わず口を挟んだ。
「吸血鬼ってトランシルバニアが生誕地じゃないのか?」
「……なんじゃお前さんは」
 老人の目が訝しげに細まる。アルクェイドが志貴を後ろに退がらせた。
「もう! 志貴、ちょっと邪魔しない」
「……う、すまん」
 アルクェイドの瞳が一瞬、金色に煌き、老人の警戒した瞳が温和に細まる。
「それで、お爺さん。
 ――ここが吸血鬼発祥の地だとすると、どうして貴方達は十二人の少女が殺
されて納得しているのかしら?」
「それは……」
 老人が、口篭もった。
「――何でじゃろうな」
 搾り出すような苦痛の声だった、浮かび上がるはずのない哀しみ・理不尽な
暴挙に対する怒り・狂おしい絶望、それらは果たして教会で魂を鎮魂させるだ
けで救えるものなのだろうか。
 ――救えない。
 神に頼っても祈りに頼っても奇跡を祈ってもプルトニウムに頼ってもそれは
途方もない無駄な行為であり、救われない。
「そうじゃ、ワシは、ワシの孫娘が死んだというに、どうしてこんな――」
「お爺さん」
 老人が立ちあがろうとした時、アルクェイドがそれを押し留め、もう一度。
「――ごめんね、もう少し眠った方がいいわ」
「そうか? ……そうじゃな、もう少し眠るとするか」
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 老人は再び眠りについた、目が醒めれば夢で誰かしらに逢ったことを記憶し
ているが、数時間も経てば夢を見たことそのものを忘れるであろう、それから
孫の死の哀しみと怒りはゆっくりと老人を覆い尽くすだろう、それは、やはり
人の手による暗示では決して止められない哀しい愛情だった。

「――どういうことなんだ?」
「んー……つまり、この村全体に誰かさんが暗示をかけたのね。
 必要以上に苦しまないように、狂ったりしないように、まあ……単にヘタに
騒がれると困るからってこともあるかもしれないけど」
 志貴は、暗示という言葉でふと彼女を連想した。
 メキシコに行ったというあの先輩はどうしているだろうか――?
「志貴、シエルのこと考えているでしょ」
 アルクェイドの指摘に志貴はギクリとした。
「お、お前っ、な、なんでっ」
 図星をつかれた、という志貴を見てアルクェイドの眉が見る見る内に釣り上
がって行く。
 キリキリキリという螺旋回しの音が聞こえてくるようだ。
 慌てて志貴は話を変えようとする。
「で、その暗示をかけたのは誰かってことを聞いてないんだが」
「へ? ……もう! 志貴ってば鈍すぎ!」
 眉の釣りあがりは途中でストップしたものの、むむむ、というように閉じら
れた口は彼女の不機嫌さをよく表わしている。
「やったのは教会の人間に決まってるでしょ!」
「ああ」
 なるほど、と志貴はぽんと手を叩いた。
 アルクェイドが人差し指を一本立てて、ちっちっちとメトロノームのように
動かす。
「吸血鬼騒ぎで一番困るのは、彼等の存在が公然と表に出ることでしょ。
 異端イコール存在しないという概念の教会からすれば、それは許せないこと
なのよ、だから被害に遭った人間の記憶を操作したりする訳」
 ――ああ、道理で世界にはこんなに吸血鬼が居たりするのにタブロイド新聞くら
いでしか特集されないのか。
 志貴はなるほどと思った。
 それと同時に、彼はふと、重要な事実に気付いた。
「……っておい、待てよ。
 ということは、ここらへん一帯教会の手が回っているってことじゃないか」
 志貴の指摘にアルクェイドはきょとんとした。
「それがどうかした?」
「マズいんじゃないのか? やっぱり。
 吸血鬼がのこのこーっと出張っているのは」
「んー……別に大丈夫だと思うよ。
 私、血を吸ってないし、第七聖典装備のシエル以外だったら私に対抗できる
相手なんて――あ」
「あ、って何だよ」
 アルクェイドが異様なくらい渋い表情を見せた。
 ――イヤな奴等を思い出した。
 アレとアレと、それから多分大丈夫だと思うけど、アレなんかとバッタリ出
会ったらさぞかし厄介なことになるだろう。
「あー……面倒だなー」
 アルクェイドは万が一の展開とそれに伴ってやらざるを得ない色々なことを
思うと頭痛が痛かった。
 幸い、自分を追いかけていたアレはもうすっかり綺麗さっぱりこれ以上ない
くらい見事に消滅してくれているのが、唯一無二の救いと言えたが。
「もう、頭痛が痛いなあ」
「お前、なんか間違えてる」
 志貴がツッコミを入れた。

               ***

 ――狂うている。
 その化物を一目見たとき、ナハツェーラーはそう漏らした、そして多分今も
 その考えは揺るがない。
 かの吸血鬼の神、その魂の一欠片。十二人の敬虔なカトリック信者の処女を
贄に捧げて一欠片の力を授かったキメラヴァンプ。
 異形だった。
 キメラヴァンプは勿論異形の姿の"化物"だが、その彼等がわずかながら持ち
合わせている人間の知性をかなぐり捨てて怯えて泣き叫ぶほど、それは異形だ
った。
 あまりに巨躯で、かつギリギリまで鍛え、引き絞られた芸術的なまでの筋肉。
 裂けてしまいそうな口からは襞がねっとりとした唾液を滴らせ、サーベルタ
イガーのような牙は固まった血で黒く染め上がっていた。
 だが、他のキメラヴァンプが泣き叫ぶのはその姿形からではない。
 憎悪だ。
 彼の彼以外のもの全てに向ける憎悪はあまりに圧倒的で、解りやすい警告を
発していた。
 ――俺を近づけさせるな、俺の傍に近づくな。俺を視るな、俺に視られるな、
俺の臭いを嗅ぐな、俺に臭いを嗅がせるな、俺の気配を感じるな、俺に気配を
感じさせるな、俺に触れるな、触れるな、触れるな、触れるな――!
 
 キメラヴァンプの多目的実戦用超特殊型。
 名前はなく、呼称する際には「プロトタイプ」とだけ呼ばれていた。
 一体何のプロトタイプなのか、それはナハツェーラーとウピエル、諸井霧江、
それにサイスくらいしか知らぬことであったが。

「――美学がねぇよな、アイツにはよ」
 ウピエルがそう吐き捨てた。試験的な実戦投入においてそのキメラヴァンプ
は凄まじいデータをたたき出していたが、彼はただ己の激情の赴くままに破壊
し続けただけに過ぎず、あまつさえ味方の人間やキメラヴァンプまで破壊の対
象とした。
 一体のキメラヴァンプは腕を引き千切られ、泣き叫んでいるところを頭を丸
ごと齧られ、血液ごとその肉体を貪られた。
 暴走する怪物。
 体内分泌液抑制機能遺伝子――これは、血液中の酸素の循環をストップさせ、
脳内麻薬の分泌を強制的にストップさせた――それに加えて本能レベルで刻み
込まれた主への忠誠心、さらにナハツェーラーが直にかけた暗示催眠、そして
その場にたまたまウピエルが居て、彼を殺さんばかりに抑えつけなければ、今
ごろ「プロトタイプ」は暴走を止めずに人間を蹂躙しまくっていただろう。
 ナハツェーラーにとってはもう少しだけ、それは勘弁してもらいたいところ
だった。
 もう少しだけ、だが。

 ウピエルは、鬱状態だった。
 それは、無様にもプロトタイプと同じ方法、即ち吸血鬼の神とやらの力で、
蘇らせられたからか。
 あるいは、ギーラッハが逝ってしまったことか。
 不意打ちとはいえ、彼に完膚なきまでに叩き潰されたことへの返礼ができな
いことか。
 ナハツェーラーに貸しを作ったことか。
 それとも何か途方もない大きな"何か"が動いていて、しかも自分はそれの添
え物、脇役に過ぎないと漠然と感じていることか。
 だのに、ナハツェーラーがその中心に居ることか。
 ――ムカつくジジイめ。

 締めつけられるような暗闇の部屋で、憎しみを隠そうともせず、ウピエルは
ナハツェーラーに先ほどの台詞を繰り返した。
 ナハツェーラーは聞いているのかいないのか、くるくるとチェスの駒を回転
させた。
「ギーラッハは、惜しかったな」
 かつての仲間を懐かしむようにそう言った、吸血鬼にとっては一週間前に死
んでも、百年前に死んでも、過去であることには変わりない、だから懐かしい。
 たとえそれが、自分を殺した相手であっても。
「――アイツは、どうして復活できねぇんだよ、俺達みたいに」
 ナハツェーラーと、ウピエルは日本での吸血殲鬼との闘いにおいて一度は死
に果てていた。もっともナハツェーラーもウピエルも、味方であるギーラッハ
に殺されるという不始末であったが。
 それでもウピエルは騎士道一辺倒のあの男は嫌いではなかった。
 堅物であることをからかうのがひどく楽しかった。
「意志がない、からだ」
「……意志?」
 そうだ、とナハツェーラーは駒を弄ぶのを止めて、ウピエルに向き直る。
「我々は、まだ現世に留まりたい、成すべきことをしたい、そういう残留思念
が存在した、ゆえに神の力さえ借りれば、復活は不可能な話ではない」
「神――ね」
 疑問的な口調のウピエルをナハツェーラーが咎めるように言った。
「人間に人間の神が存在するように、吸血鬼には吸血鬼の神が在る」
 吸血鬼の神。
 ウピエルはそんなあやふやなものを信仰するほど愚か者ではない、と自負し
ていた。
「アンタが神様を信じてるとはね」
「意外かね?」
 ウピエルは肩を竦めた。
「まあな、アンタ自分以外誰も信じちゃいねぇと思ったからな」
「神は所詮、便利な道具に過ぎんよ、使い道を誤らなければ、な」
 ナハツェーラーは冷笑した。
「なるほど、やっぱりアンタだ」
 ウピエルも応じて笑った。

「さて、ウピエル。お前を呼んだのはこんな戯言を話すためではない」
「――? てっきり、あのプロトタイプの戦績報告しろってことだと思ったが
……」
「違うさ、お前を呼んだのは新しい我らの同志を紹介するためだ」
 ヒューッ! ウピエルは口笛を吹いた。
 わざわざ自分に紹介するくらいだ、きっと訳有りなヤツに違いない。
「で、何処にいるんだよ、その“同志”ってヤツはよ」
 そうウピエルが言った瞬間、ナハツェーラーの背後の暗闇が“動いた”。
「――ッ!?」
 咄嗟に後ろに退いて、蠢く闇を睨みつける。
 闇ではなかった、正確に言うと闇の物体がそこに存在していた、それは蠢き、
揺らいで、徐々に形を成していた。
「驚かせたかな?」
 空間が声を発した。
 ウピエルは一瞬、唖然としたが、すぐにこういうことが可能な吸血鬼の存在
を思い出した。というよりは、こんな吸血鬼をウピエルは二体しか知らず、も
う一方は自分達の敵であり、
「手前、まさか……」
「紹介しよう、ウピエル」
 やがて、暗闇が一つの存在へ変化した。黒いコートに身を包み、何事にも無
関心そうな瞳、躰に六百六十六体のケダモノを擁し、真祖の姫君を追い続けて
いる伝説の吸血鬼、“混沌”。
 いや、もう一つの名がある、それは確か――。
「“混沌”――ネロ・カオス、だ」

 欠片が揃いつつあった。
 バラバラだったソレラは一つ、また一つ、掻き集められていく。
 それらが完全形に復元された場合、どうなるか?

 ――それは、まさに、神のみぞ知る。




                            to be continued



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