人間を狩る以上の狩猟はない。長い間、武装した人間の狩猟
 をしてくるとそれが気に入ってしまい、それからは他のもの
 には見向きもしなくなる。
             ――アーネスト・ヘミングウェイ










「そんな!」
 玲二がどうしようもない悲痛な顔で立ち上がった。ついこの間まで、さらに
言うなら今この直前まで、玲二は心のどこかで吸血鬼の居る世界は自分達と係
わり合いのないものと思いこんでいた。
 その境界が一気に破られたのだ。
 しかも、かつての知り合いが吸血鬼化したという最悪の形で。

「畜生! 嘘だ! デタラメ……」
「玲二」
 エレンが立ちあがった玲二の腕を抑えた、ひんやりとした肌触りに驚く。
 玲二はエレンを見た、彼女の透き通った琥珀色の瞳がひたすら自分への気遣
いに満ち溢れているのが解った。
 玲二は自分に冷静になれ、と言い聞かせる。
 一秒、
 二秒、
 よし、落ち着いた。
「……」
 玲二は黙って腰を下ろした。
 それから搾り出すような声で、
「話を、続けてくれ」
 と言った。
 モーラは無言で頷き、事件のあらましを話し始めた――。

               ***

 実のところ、クロウディアの立場はインフェルノにおいて微妙に苦しくなっ
ていた。
 原因は一つ、ファントムの出奔に他ならない。
 アインとツヴァイが去り、ドライもまたインフェルノから抜けたことで、ク
ロウディアがインフェルノで成していた役割――暗殺業が果たせなくなってい
たからだ。
 サイス・マスターの死亡も確認されたことで、さらに彼女の立場は危ういも
のになっていた。
 今のところ、彼女が指示できるのはリズィ以下の直属メンバーに限られてい
た。

「大丈夫よ、リズィ。何とかなるわ」
 親友の心配そうな言葉に、そう答えつつも次第に焦りを募らせていた時、マ
グワイアから指令が下った。

「王小鳳を暗殺してもらいたい」
 マグワイアの命令はどう考えても無茶苦茶で、理不尽で、不可能なものだっ
た。
 近年台頭してきたインフェルノと激しい対立下にある中国マフィアの若きド
ンの暗殺。
 それはいい、問題は彼が自分の支配下にあるビルの最上階に住んでいること
だ。彼はそこから指示を出すだけで、決して外に出ない。
 周りには遥かに低い建物が広がるばかりで、同じ立ち位置で狙撃することは
まず不可能。
 ヘリコプターでの狙撃という方法もないではない、しかし、その為には揺れ
るヘリコプターで狙撃しなければならない上に、彼らの警戒領域である半径1
kmから遠ざからなければ、すぐに誰かに気付かれて、彼は瞬く間にビルのさ
らに奥に閉じ篭ってしまうだろう。
 最上階に殴りこむしか方法がない、不死身の体を持っているなら試してみる
といい――誰かが冗談混じりにそう言ったものだった。

 マグワイアはそういう事を理解した上で、クロウディアに暗殺を命令してい
るのだ。
 しかしこの理不尽すぎる命令を、クロウディアはあっさりと承諾した。
 命令を出しておきながら驚くマグワイアに、クロウディアはこう言った。
「了解しました、ただし、私はどんな事をしてでも、この命令を遂行します、
よろしいですね?」
 クロウディアの不気味なまでの勢いに、マグワイアは気圧されて頷いた。

「正気じゃないよ、アンタ」
 リズィが件の話を聞いて、呆れたように肩を竦めた。
「たとえファントム――ツヴァイ達がいたって、こんな命令聞きやしないよ」
「……そうね」
 ファントムだって、ラクダを針の穴に通せと言われれば拒否するだろう、ア
インならばたとえ不可能でもやり遂げようとするかもしれないが。
「ボブ・リー・スワガーにでも頼む? 頼んだって聞いちゃくれないだろうけ
どさ」
 彼女の冴えないジョークを聞き流しながら、クロウディアは一息でカクテル
を飲み干した。
「解ってるわ、私はね、リズィ」
「……何さ」
「魂を売るつもりなのよ」
 そう、全くもって王小鳳の暗殺は神にも等しい所業が必要だった。
 あるいは、悪魔の所業が。
 クロウディアは、その悪魔に賭けてみるつもりだったのだ。

             ***

 イノヴェルチ。
 製薬会社、兵器会社、新聞社、テレビ局、エトセトラエトセトラ、巨大な複
合産業体であると同時に吸血鬼や吸血鬼信奉者で構成された秘密組織でもある。
 中でも彼らがゴミ掃除に使用するキメラヴァンプと呼称される吸血鬼と動物
の遺伝子を融合させた戦闘生物は、吸血鬼と戦い慣れたハンターですらうっか
りすると返り討ちにあいかねない恐るべき存在だった。
 元々、彼らの組織はミレニアム・オブ・エンパイア――すなわち、ドイツ第
三帝国に与しており、不死者の戦闘部隊を構築するという狂った作戦に全面的
に協力を申し出ていたのだ。

 ところが、共同研究所が王立国教騎士団に完全に壊滅させられ、アメリカが
原爆を完成させたという情報を聞きつけるが早いか、イノヴェルチはドイツ第
三帝国をあっさりと見限った。
 形勢はあっという間にドイツ第三帝国にとって不利に陥り、やがて偉大なる
狂った総帥の自殺により幕を閉じた。
 一方で早々と歴史の影に消えたイノヴェルチはトカゲの尻尾を切り落とした
程度でまんまと生き延びた。

 彼らが次に眼をつけたのは、資本主義だった。
 略奪しか頭になかった彼等は搾取することを覚え、人が金と権力に盲従する
ことも覚えた。
 彼等は自分達に都合の良いものだけを与え、自分達に都合の良いものを奪い
続けた。
 誰にも、何者にも解らないようにそっと、少しずつ。
 膨れ上がる資本、吸血鬼として培われた経験と知識、倫理を完全無視して繰
り返される人体実験の穢れし結合――それはまさに資本主義の正しい在り方と
言えた。
 かくして、表は巨大企業、裏は軍産複合体、裏のさらに奥底に吸血鬼達――
現在のイノヴェルチが誕生したのである。

「――それで、あの楽師が行ったのか?」
「ああ、先方のお望みは長距離射程からの暗殺、あやつにはうってつけだろう
て」
 くくくっと含み笑いをする初老の男。
 それが壮年の男――紅の鎧に身を包み、それに負けないくらいの黒い炎を宿
した瞳を持つ――彼には気に入らないらしかった。
「人間の組織に手を貸す必要があるのか?」
「先ほどから疑問ばかりだな、ギーラッハ。案ずるな、連中は所詮我々と同じ
立場に在る者達。いずれは取り込まなければならぬ」
「ふん……この世界でも手に入れるつもりか? ナハツェーラー」
「悪いかね?」
 ナハツェーラーと呼ばれた初老の男――闇に紛れて目立たなかったその姿が
ぼんやりと蝋燭の光に照らし出された。
 よく見るとこんな闇の中、彼はチェスの盤を置いて駒を動かしていたらしい、
もっともギーラッハはそんなものに関心はなかったが。

「それよりも、移動計画はどうなっている」
「順調だよ、彼女――ロードヴァンパイアは最後に輸送する、厳重警戒の下で
な」
「警戒?」
 ギラリ、とギーラッハの瞳がナハツェーラーを射たので、彼は慌てて訂正し
た。
「失礼、護衛だな……まあ、とにかく我々もあの島国に移動せねばならないこ
とは確かだ、皮肉なことにあの小さい島国が我々の研究の鍵を一手に握ってい
るのだよ」

 真祖とも呼ばれるロードヴァンパイア達の一人、夜魔の森の女王と謳われる
リァノーン。
 彼女が冬眠期に入って既に百年以上が経過していた、キメラヴァンプを産み
出す時に見せる痴態反応以外にさしたる変化は見られず、その原因も不明であ
った。
 イノヴェルチにとっては、リァノーンがこのまま永遠に目覚めぬことを望ん
でいた、だが、それは即ち『いつかは目覚める』のを自然と肯定していること
でもあった。
 いつ、破裂するか解らない核弾頭。
 ならば、それを少しでも安全で、頑丈な場所に確保しておくべき。

 折りよく日本のイノヴェルチの拠点の一つである燦月製薬の本社及び工場が
完成間近だった。
 最新のセキュリティシステム、最新の研究設備、最高レベルの技術を誇るス
タッフ達。
 また、島国という点も『いざという時』の彼女の逃亡の障害と成り得る。
 だが、何よりもかの東方の島国は、王立国教騎士団及びヴァチカン第十三課
――即ち、吸血鬼の天敵団体の不干渉地域であるのが最大のメリットだった。
 ただ一つ懸念されている問題を除けば、日本への輸送は文句なしに最良の作
戦と言えた。
「……ヴァチカンの神の犬どもはどう動いている?」
「アルバ枢機卿の報告によると、どうやら日本への輸送までは勘付いていない
ようだ。――ただ、最近のごたごたした状態から、何かあるとは思っているだ
ろう」
 万が一、姫――彼女を奴等に奪われてしまったら。
 それはギーラッハにとって全身を悪寒が走り抜けるくらいおぞましい妄想だ
った。
 彼ほどのレベルの吸血鬼――死徒になると姿見のままでも、海を踏破するこ
とは不可能ではないが、吸血鬼としての力は絶望的なまでに低下する。
 ヴァチカンの対吸血鬼戦闘部隊がリァノーン輸送計画を嗅ぎ付ければ、海を
渡っている時を狙って襲い掛かることは明白であった。

「――で、どうするのだ?」
「古典的な手法だが、効果的な作戦がある」
 ナハツェーラーの口元が愉しそうに歪んだ。
「ほう……では聞かせてもらおうか、作戦とやらを」
「なあに、単純な目くらましだよ。ウピエルには既に伝えてある。
 そしてギーラッハ、お前にも動いて貰うぞ」
 蝋燭の灯火がフッと消え、部屋は闇になった。
 ギーラッハはもういない、後に残る者はナハツェーラーのみ。
 否、そしてもう一人。
 それに肉体はない、魂と呼べるものもない、ただその残骸があるだけ、それ
は人間には勿論ギーラッハにすら視えない、視ることができるのはナハツェー
ラーのみ。

『ビショップをe7に』
 空気を震わせることなく、声がナハツェーラーの頭に直接入り込んだ。
 相手側のビショップを指定された位置に置く。
 少し悩んで、ナハツェーラーは自分の駒を動かした。
 置いた瞬間、
『悪手』
 と嘲笑う声がした。
 次に指定された駒を動かした瞬間、自分の打った手が台無しになった、確か
に声の言った通りである。
 その後わずか数手で呆気なくチェスは終了してしまった。
『チェックメイト』
「さすが」
 素直にナハツェーラーは声の主を賛美した。
『現実もこうして動くと良いのだが』
 声がする、肉体はない、気配もする、部屋にはいない。
 それは残留思念、魂の儚い一片、そして殊更に強い怨念そのものだった。
 ナハツェーラーはそれに決して逆らえない。
 ギーラッハが知ったらさぞや驚くだろう、とナハツェーラーは思って愉快に
なった。
 イノヴェルチの全てを動かしている私が、実はただの操り人形に過ぎないこ
とを知ったら、彼はどんなにか驚くだろう。
 そう思うとたまらなく愉快だった。

             ***

 ヘリコプターの中の吸血鬼は不機嫌そのものだった。
 パイロット――吸血鬼信奉者である普通の人間――はその恐ろしい不機嫌さ
にすっかり怯えきっていた。
 何かを言おうと口を動かすことすら恐ろしい、パイロットにできることはた
だひたすら、終わりを待つだけだった。
 堪えがたい長い時間――実際には、正味一時間程度――の末、ようやく旅の
終わりがやってきた。
 真っ暗な闇の中に佇むビルの屋上で、誰かが合図の警告灯を左右に振り続け
ている。
 パイロットはホッとして後ろを振り返って報告した。
「まもなく到着です!」
「……ふん」
 しかし、それでもやはりその吸血鬼は不機嫌だった。
 だがそれも無理はない、彼はヨーロッパからはるばるここまで、ありとあら
ゆる監視網をかいくぐり、やり過ごしてきたのだ。
 時に棺桶に入り、
 時に特殊な人工皮膚で変装し(光の中でも行動できるとの触れ込みだった―
―たった99分しかもたないが)、
 時には貨物列車の下にしがみついて――吸血鬼にとっては造作もないことだ
ったが――そこまでしてわざわざアメリカへやってきたのだ。
 しかも、人間が作り上げた犯罪組織のお手伝いをする為に、だ。
 ナハツェーラーの命令とはいえ――というよりも、彼の命令だからこそ、そ
の吸血鬼は一層不機嫌になっていた。
 もしもう一つ、裏に隠れた命令を聞かされなかったら、彼は絶対にナハツェ
ーラーの意になど従わなかっただろう。
 イノヴェルチの中でも最高クラスの力と階級を誇る死徒三人。
 最強にして孤高の騎士、ギーラッハ。
 実質的な権力を一手に握るナハツェーラー。
 そしてもう一人。
 殺戮と暴力に美学を追い求める男――ジグムンド・ウピエル。
 彼等三人を称してヴァンパイア三銃士。

 ジグムンド・ウピエルは不機嫌だった。

             ***

(来た……)
 警告灯を振りながら、クロウディアは躰が緊張で強張っていくのを感じてい
た。
 あのヘリコプターには、悪魔がいる。
 ごくり、と生唾を飲み込んだ。
 ローターが巻き起こす風で髪が千々に乱れ、視界が遮られる。
 プロペラの回転音が耳を遮り、何も聞こえない。
 もう引き返せない、ヘリを見ながらそう思った。
 これは裏切りだ、しかも組織を裏切った、誰かを裏切った、そのような生半
可な裏切りではない。
 人類に対する、裏切りそのものだ。 

「全くっ…」
 うっとうしい髪を手でかきあげた瞬間。
 まだヘリコプターは屋上に降り立ってないのに、
 人なら死ぬ高さなのに、
 悪魔が闇の中から堕ちてきて、
「お前がクロウディアか? いい女だな」
 彼女に笑いかけた。
 その頬肉が歪んだ笑いは、普通なら嫌悪すべきなのだろう。
 全身から漂う血の匂いは、普通なら吐き気を催すべきなのだろう。
 だのに、
「貴方が――ウピエル、様ですか」
 彼女はひどく、ときめいていた。

 インフェルノの幹部たちが使う会議室を使って、二人きりのミーティングが
スタートした。
「で、標的は?」
「ええと、はい――」
 ウピエルの問いに対するクロウディアの返事は若干のタイムラグ
があった。
 クロウディアの心はウピエルを一目見た時から乱れ続けていた。
 彼女は彼に惹かれていることを実感し、自問自答を繰り返した。
 自分は、彼のどこに惹かれているのだろう。
 それは残酷な光を湛えた瞳でもその癖透明感のある美しい声でもない、強い
て言うなら彼の体臭――だろうか。
 血の匂いが濃厚に漂う、まるで死臭のような、けれどそれは酷く蠢惑的で―
―クロウディアは混乱した。
「おい」
「え、はい、その……標的は王小鳳という中国マフィアで……」
 彼女は心を平静に保ちながら、彼が人間の暗殺者の手に余る理由を説明した。
 ウピエルは聞いているのかいないのか、時折エレキギターを――しかもライ
フルと銃剣(バヨネット)が一体化している――愉しそうにかき鳴らした。

「要するに、狙撃で仕留めればいいんだよな?」
「はい、狙撃以外の方法は考えられないので――」
「人間ならな」
 ウピエルはニヤリと笑って言った。
「俺なら、真正面から突っ込んでもいいぜ。あのビルの中の人間を百人とした
ら全員ブチ殺すのに正味一時間以内ってとこだ」
「……」
 彼の言葉は紛れない真実である、とクロウディアは確信した。
 間違いなく彼は殺すだろう、完全なまでの鏖殺行為を行うだろう。
 しかしそれは、
「その……困るのです、貴方がそうすれば間違いなく――」
「オレ達の仕業だってバレたら困るのかい?」
「そうです」
 その通りだった、マグワイアはクロウディアが外部の手、まして人間に仇な
す吸血鬼の手を借りたと知れば、彼女を許しはしない。
 マフィアとて、マフィアだからこそ破ってはならない仁義というものも存在
する、クロウディアはそれを承知の上で依頼したのだ。
「ちっ、ごちゃごちゃややこしいなお前等は。
 まあいいさ、お前の言う通り狙撃で仕留めてやるよ」
 ウピエルは――この男を知る者にとっては不気味なくらい、素直に彼女の指
示に従った。

             ***

 ――ヘリは闇を縫いながら飛びまわる。
 クロウディアは言われた通り、彼の隣に座ってウピエルがギターを丁寧に手
入れするのを眺めていた。
 ちなみに、ヘリのパイロットは気の毒なことに昨日の男であった。
 彼は今日も脇に冷たい汗をかいている。

 狙撃。
 人類が産み出した兵器の中でも、最高レベルの殺傷力を持つ武器による長距
離攻撃。
 吸血鬼の狙撃は人間とはまるで違う。
 人間の狙撃のプロは言う、「肉体を信用するな」と。
 肉体は状況の変化に対応しきれない、天候、風向き、汗、血液の流れ、そし
て精神の動揺。
 だから、人間は肉体ではなく骨を使う。
 骨は決して動揺によって動かず、しっかりと大地を踏みしめる。
 骨による固定は狙撃のプロには常識中の常識であった。

 吸血鬼の狙撃は人間のそれとは根底的な理論から全く違う。
 筋肉を完全に屈服させた吸血鬼にとって、筋肉は心から信頼できる奴隷であ
る。
 神経一本、細胞一つに至るまで超精妙なコントロールができるならば、骨の
支えは不要。
 研ぎ澄まされた戦闘本能がタイミングを自然に感じ取らせてくれるし、風は
皮膚がその流れを教えてくれる。
 何も考えず、ただ撃つだけでもほとんど必中の狙撃になる。
 吸血鬼はそんな神業が可能なこの世でただ一つの――すでに死んでいるが―
―食物連鎖の頂点に立つ戦闘生物なのだ。

 ――目標のビルまで1500メートル。
 ヘリコプターから縄梯子がぱらぱらと下ろされ、ウピエルは自分のライフル
を抱えてひょいひょいと降りていく。
 見ているクロウディアの方が焦ってしまうほど、気軽な降り方。
 足を踏み外せば、たとえ吸血鬼といえどただでは済まないはずなのに。
 どうして、そんなに簡単に自分の命を弄ぶことができるのだろう。
 彼女は命が大事だ、命がなければ果たせぬ夢がある。
 だから、ウピエルの生命に対する倣岸な態度が羨ましかった。
 クロウディアはそれがあまりにも――羨ましかった。

 標的まで1500メートル、ウピエルの目は遠く遠く、1500メートル先
のビルの窓にシャンペングラスを持ってうろうろしている男を目視していた。
 風の流れを皮膚の繊毛一本一本が感じ取っていく、どこでどうやって引き金
を引けばあの男の眉間に辿り着けるか、皮膚が風を教えてくれている。
 今や、ウピエルは風すらもその支配下に置いていた。
 一方の手で縄梯子を持ち、もう一方の手であまりにも無造作にステアーAU
Gを構える。
 不安定な格好にも関わらず、彼の腕は完全に固定されていた。
 筋肉に無駄な力は一切入ってない、それでいてライフルの重さに負けない最
低限の力だけで支えている。
 ゆらゆらと縄梯子が揺れ、まるで振子のように体が左右に引っ張られる。
 ウピエルが真正面から標的を見据えることができるのは、まさに刹那とも呼
べる時間だった。
 吸血鬼としての戦闘本能がウピエルの意思よりも段違いの速度で肉体に、神
経に、細胞一つ一つに囁きかける。

 奴を撃て、
 人を撃て、
 今だ撃て、
 奴を殺せ、
 人を殺せ、
 今だ殺せ、
 奴よ死ね、
 人よ死ね、
 今だ死ね、
 撃て、殺せ、死ね。

 引け。

 ウピエルがフルオートでバラまいた弾丸は、恐ろしい精密さで、防弾のガラ
スに二発ずつ重なって当たり、防弾ガラスを貫いた二撃目が王小鳳の心臓と眉
間と肺に炸裂した。
 地獄に堕ちるまで、彼には何が起こったかなど理解できまい。
「終わった……?」
「仕留めたぜ」
 もちろん、クロウディアに確認できる術はない。
 眼を凝らしてもそこに広がるのは疱瘡のようにぽつぽつと広がる民家の光と、
モノリスのようにそびえ立つ高層ビルだけ。
 明日のニュースに期待する以外に方法はなかった。
「帰投します!」
 ヘリを揺らすまいとするプレッシャーにくたくたになっていたパイロットの
男は喜んで叫んだ。

                           to be continued



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