血を味わえばおとなしい猫でも悪魔になる。
             ――エドガー・アラン・ポー















 がくがくとハマーの座席が激しく揺れ動き、喋りかけようとしていた玲二は
思わず舌を噛みそうになった。
「どうした、日本人?」
 ニヤニヤとフリッツが笑っている、それで玲二は彼がわざと車を揺らしたん
だな、と思い至った。
 ……とことん、嫌な奴だな。
 玲二は乗り出していた身を再び座席に預けた。
 どうやら車の旅はもうしばらく続くらしい。

             ***

「サンメリーダ村だって? あそこへ行くのかい」
 フリッツはこの上なく楽しそうな笑みを浮かべていた。
 モーラは顔をしかめた。
 どうしてこう、彼は底意地が悪いのだ……。
 その笑みに気付いているのかいないのか、玲二は繰り返した。
「ああ、そうさ。俺達はあの村に行こうと思ってるんだ。なあ?」
 玲二が傍らのエレンに声を掛けた。
 エレンはフリッツとモーラの表情を窺い、すぐに察知した。
「……どうやら、あの村へ行くのは止めた方がいいみたいね」
「どうしてさ?」
 玲二は、まだ訳が解らない。
「あなた達は――あの村からここへやってきたのね」
「ご名答、嬢ちゃんはこっちの日本人と違って勘が鋭いようだ」
 軽く拍手をするフリッツにモーラがふざけるな、と視線を送る。
「だから、エレン。それがどうし……」
「レイジ、解らない? 私達はあの村から吸血鬼を‘追って’きたのよ」
 モーラの助け舟にああ、と玲二もようやく合点した。
「つまり、俺達が行こうと思っていた村は……」
「俺達が駆けつけた時には一人残らず喰屍鬼どもになっていたよ」
 今度はフリッツは笑わなかった、ただ吐き棄てるようにそう言う。
「そうか……」
 別に久しぶりに帰る故郷ではない、逃亡途中に地図を見て、ただここに立ち
寄ろうと思っていただけの村に過ぎない。
 それなのに、玲二は久しぶりに胸のむかつき――もやもやとして形にならず、
溜まりに溜まって爆発するのを待ち構えている――を覚えた。
「おいおい、お前が怒ったってどうしようもないんだぜ? 死んだ人間は元に
戻らん」
「判っている!」
「玲二、落ち着いて……それで、これからどうしようか?」
 エレンの問いに、玲二はとりあえず普段の自分を取り戻した。
 しばらく考え込んでから言う。
「そうだな……村へは行く気にもなれない、かと言ってここで仮眠を取るのも
論外だ、サンメリーダ村を抜けてさらに遠くの村に行くって線もないではない
けど……」
「――戻るのね?」
「そうするしかないな」
 玲二の結論が出たのを見計らって、エレンはフリッツとモーラに視線を移し
た。
「……」
「……」
「……」
 何も言わず、ただ二人を見る。
「おいおい、嬢ちゃん。まさかお前等を車に乗せろって言うんじゃないだろう
な」
 呆れたようなフリッツの声。
「だめかしら?」
「お、おいエレン……何を考えているんだ」
 後ろの玲二も半分呆れ声になっている。
 だがエレンは平気な様子で、すたすたと歩いてモーラの前に立ち、それから
言う。
「モーラ、私達を車に乗せてくれない? お願い」

 モーラが悩んだのはせいぜい五秒ほど。
「いいわ、二人とも乗って」
 淀みが全くない、快い肯定だった。
 その時、玲二はたとえ演技でも久しく見なかったものを見た。
「ありがとう」
 エレンがそう言って微笑んだのである。

 モーラが賛成すれば、フリッツも強硬に反対する訳にはいかなかった、勿論
ぶつくさと何事かを呟くことは忘れなかったが。
 ともあれ四人はハマーに乗り込み、吸血鬼の棲家を後にした。

 ……。
 ……。
 ……。
 ――色々なことを経験してきた。
 エレンとの出会い、暗殺者としての訓練、ひとを殺した、キャルとの出会い、
ひとを殺した、逃亡、エレンとの生活、美緒との出会い、ひとを殺した、
そして、別れ。
 しかし、これは極めつけだな……。
 吸血鬼、吸血鬼ハンター、生きている屍体、非現実的だった存在、銀の矢を
撃つ男、塵になる躰、ハンマーを振り回す幼い少女。
 ――夢、ではないのか、何もかもが。
 玲二は頭を振り払ってその妄想を打ち消した、夢に逃避するのは絶対にダメ
だ、自分は現実に生きなければならない。

 隣の席の彼女――エレンは「疲れた」と言って、目を瞑って仮眠を取ってい
た。
 彼女が「疲れた」と自分の体調を悪く言うのは珍しい……玲二は何とはなし
に、彼女の寝顔を見つめた。
「……どうしたの?」
 ぱちり、と瞼が開いた。
「……寝てなかったのか」
「目をつむっていただけ、何かあった?」
「前の二人に聞こうと思ってたんだよ、何者だってな」
「あら」
 モーラの本をめくる仕草が止まった。
 玲二はちらりと見たが分厚い革の表紙にごてごてした文字が並んでいて、自
分の読める代物ではなかった。
 ……こんな揺れ捲くる車で本を読む方が凄いけどな、とも思った。
「さっき言わなかったかしら? 私達は吸血鬼ハンターだって」
「吸血鬼……ねえ」
 玲二の懐疑的な口振りをフリッツが耳ざとく聞きつける。
「おいおい、お前さんだってさっき見ただろ? あれが吸血鬼以外の代物で何
だって言うんだ」
「いや、な……まあ、吸血鬼だってのは信じるよ。ただ……何ていうか、今ま
で映画やマンガの世界だと思っていた存在が急に実在するって言われてもな、
正直戸惑っている」
 玲二は素直に自分の心情を吐露した。
「貴方みたいな人、珍しくないわよ……きっと、人間以上の存在を心のどこか
で認めたくないのよ」
 モーラが辛辣な口調でそう言った。玲二は思わずうな垂れる。
「そっちの嬢ちゃんはどうなんだい? 吸血鬼って信じてるのか?」
 フリッツが相変わらずニヤニヤと笑いながら言い、玲二は彼の笑みがかつて
自分が会った最悪の男に似ている気がして苛々していた。
 とてもではないが、好感の持てるタイプではない――と、玲二は彼を区別し
た、要注意人物。
 エレンはフリッツの問いにほとんど即答した。
「信じてるわ」
 あまりにもさらりと返された為にフリッツは気が抜けそうになる。
 玲二は少しだけ、胸がスッとした。
「……貴女は結構珍しいタイプね」
 モーラが少し呆れたように呟いた。

             ***

「それより俺は、お前さん達の方が気になるけどな」
 フリッツが後部座席の方を覗き込む。
「おい! 危ないだろ!」
「一本道だよ、それで……俺が訊きたいのは、お前等は何者だってことさ」
「旅行者……だ」
 玲二は自分でも苦し過ぎる言い訳だと思った。
 案の定、フリッツはこちらを抉るような視線を投げかける。
「旅行者……ねえ」
「じゃあ、あんた等は俺達が何者だって思うんだ?」
 フリッツは視線をようやく前に戻して、ハンドルを切った、がくんと再び激
しい揺れが車を襲う。
「そうさな……まず、拳銃を握っていきがっているようなチンピラじゃねぇこ
とは確かだな」
 再びハンドルを切る、わざと乱暴に運転していることが玲二にも解った。

「身のこなし、俺に拳銃を向けた時の落ち着き払った眼、嬢ちゃんの靴に仕込
んだナイフ、どれもチンピラが金を払って手に入る代物じゃない」
 フリッツはアクセルを踏み込んだ、ぐん、と車が加速して、また玲二は後部
座席に押し付けられた。
「だからと言って俺達と同業って訳でもねえ、吸血鬼相手にパニックになるよ
うなハンターなんて素人でしかないからな」
「運転が乱暴よ、フリッツ!」
 モーラの叱責もフリッツの耳には届いていなかった、届いていたとしてもす
っとぼけているだろう。
「それなら傭兵か、さもなきゃテロリストか? ――否! お前達は若すぎる
し、何よりテロリスト特有の兇気がった眼をしてない、信じているものは思想
でも神でもなく自分の腕だけ、そうだろう?」
 それから、わずかばかりの沈黙。
「つまるところ、お前さんたちに相応しい残る職業は一つだ。――てめぇら、
暗殺者(アサシン)だな」

 急ブレーキがかかって車がストップした。
 玲二ももう文句は言わない、代わりに探るような目をフリッツに走らせる。
 わずかに筋肉に力が入った、懐のデザートイーグルを取り出してそれから安
全装置を解除して狙いを絞って引金を引く、ここまでにどれくらい時間がかか
るだろうか、それを算段する。
 だが――。
 フリッツに走らせた視線を、モーラに移す。
 玲二には、彼女を撃つことなどできはしない。
 エレンも――エレンだって、きっと、そうだ……と、玲二は思う。
 けれど、玲二には解らなかった。エレンは彼女を撃てるのだ。
 ただ、それはあくまで玲二に危害が加えられたら――の話だが。

 空気が次第に研ぎ澄まされていく、沈黙が疑惑を産み出し、疑惑は殺意へ変
化する。
 フリッツは玲二を睨みつけ、玲二はフリッツを睨み返す。
 エレンは視線を下へ向け、モーラはフリッツと玲二を交互に見た。
 しばし、押し黙る。

 口火を切ったのは玲二でもフリッツでもモーラでもなく、
「その通りよ、私達は暗殺者――よ」
 エレンだった。
「エレン!」
 玲二が咎めるように叫ぶ。
「――そう」
 モーラはそれだけ言うと、フリッツに向き直った。
「聞きたいことはもう充分でしょ? 出発しましょ」
「え? あ、ああ……」
 フリッツは毒気を抜かれたような顔をして、車を再発進させた。

             ***

 着いた場所は、寂れたモーテルだった。
 薄汚れて安っぽいネオンの「HELLO」という文字の「O」が時折霞むよ
うに点滅し、「HELL」に見える。
 フリッツは俺達に相応しい名前じゃないか、とげらげら笑った。
 無論、その安っぽい冗談を受けてくれる人間は誰もいなかったが。
 エレンはシャワールームで服を着替えていた――玲二は、彼女の着替えに同
席することを嫌がるのだ。
 それが当たり前のことなのだ、とエレンが知ったのはつい最近のことだ。
 安物のブラウスを脱いで下着姿になった時、壁越しに玲二が話しかけてきた。
「ちょっと、いいかい?」
「……どうしたの?」
 沈黙があった、玲二は訊きにくいこと、訊きたくないことを言うつもりなの
だ、とエレンは理解した。
 そして、今の時点でそれは一つの話題しか有り得ない。

「……あいつらのことだけどさ、信用できるのか?」
「――解らない」
 意外な答えに玲二は眼を丸くして壁を見つめた。
「信用できると思ったんじゃないのか?」
「玲二、フリッツって人が信用できると思う?」
 そう言われて玲二はフリッツの顔を思い浮かべた。
 顔に広がった傷、引き攣った笑い顔、人を探るような目付き、そして自分と
相対した時の表情。
 あいつはそこらの殺し屋より邪悪な目をしている。
「……できない」
「そうね」
「じゃあ、何で――」
「彼女を、信用したの」
「彼女って、モーラって娘の方か?」
「そうよ」
 確かに、フリッツという男よりはあの少女の方が数段信頼がおけそうだ――
と、玲二は考える。
 だからって、
「だからって……観ただろ? モーラの動きを。あの娘だってどう考えたって
……化物だ」
 重たそうなハンマーを軽々と持ち上げ、振り回し、二階から躊躇せずに飛び
降りる――外見は十歳くらいの少女。
 それを化物と言わずに何と言うのか。
「そうね、普通じゃないわね。……でも、私も似たようなものだわ」
「あ」
 玲二は、思わず言葉に詰まった。
 世間一般の人間からすれば、自分達もモーラとフリッツや、あるいは吸血鬼
達と同じような立場である、そんな簡単な事実に今更ながら気付いた。
 自分は、彼女達のことを化物だなんて言える立場ではない。
「そうだよな、俺達だって……殺し屋だったんだよな、ファントムだったんだ
よな」
 玲二は思わず苦笑した。
 少なくとも死人だけを相手にする殺し屋より、よっぽど惨い人間だったじゃ
ないか、自分は。
 壁越しに再びエレンの声が突き刺さる。
「ダメよ、玲二。……そんなに自分を卑下しないで。
 貴方は少なくともそうやって死を悼むことができるんだから、何も考えない
よりずっと苦しいことをしているんだから、だからせめて罪ばかり考えて押し
潰されることはしないで」
 エレンの台詞は玲二の心をわずかに慰めてくれた。
「……ありがとう」
「いいのよ」
「でも、一つだけ反論させてもらうよ。
 悼んでいるのは俺だけじゃない、君だって……そうなんだろ?」
 沈黙、重苦しい沈黙だった。
 一分、
 二分、
 三分。
 エレンがようやく口を開く。
「……解らないわ、そんなこと」
 いいや、しているさ、と玲二は心の中で呟いた。
 君は、日本に居た時からずっと――死を悼んでいる。

             ***

 モーラは本を読んでいたかっただけで、別に隣の部屋の会話が聴きたかった
訳ではない。
 しかし、混血児(ダンピィル)として産まれ持った鋭敏な聴覚は否応なしに
隣の部屋の会話を聴き取ってしまう。
 モーラはかつて泊まったモーテルで隣のカップルが一晩中自分を寝かせなか
ったことを思い出した、あれは最悪の経験だった。
 人間離れした身体能力、人間離れした五感、あるいは超自然的な能力、ハン
マーを手にした時に感じるかすかな躰の喜びと疼き、吸血鬼と相対した時に感
じる狂喜の感情、どれもこれも、モーラにとっては必要であって必要でないも
のだった。
 でも、今はまだ必要だ。そう、吸血鬼が完全に死に絶えるまで彼女は自分の
能力をフル活用することを決意していた。

「――普通じゃない」
 それでも、助けたり共に戦ったり、あるいはただ知り合っただけの人間だと
しても、こういう台詞を投げつけられるのは、モーラの心を酷く傷付けていた。
 モーラは読んでもいない本のページをめくり、自分に言い聞かせる。
(大丈夫、いつものこと。仕方のないこと、どうしようもないこと、考えない、
何も)
 エレンが台詞を続ける、耳を塞ぎたかったが塞いでも無駄なことはよく知っ
ている。
 だが、次にエレンが言った台詞はモーラを戸惑わせた。
「――私と一緒よ」
 ページをめくる手が止まった。
 同類であるハンターにすら軽蔑されたこともある、救った人間に恐れられた
こともある、わずかながら同情を寄せてくれた相手もいたが――。
 同じダンピィル以外で、共感を寄せてくれた相手は初めてだった。
 なぜか心がひどく、温かくなった。

 この時点でモーラは彼女を信用することに決めた。
 フリッツが、何と言おうと。
 モーラは話を聞くのを止めて、しばらく外に出ていようと思い、椅子から立
ち上がった、けれどその間も話し声は耳に当然のように侵入する。
 レイジが自嘲的に笑い出し、そして続いて出た単語。
「俺達だって――ファントムだったんだよな」
 モーラは思わず本を取り落とした。

「いよぅ、買い物済ませてきたぜ」
 フリッツが食料品やら雑貨品やらを手一杯に抱え込んで、部屋に戻ってきた。
「……何か、あったのか?」
 モーラのあまりに深刻な表情にフリッツが尋ねた。
「フリッツ、依頼人から渡された資料があったわよね? それ、持ってきて」

             ***

 玲二とエレンはモーラに呼び出され、モーテルの横にあるカフェにやってき
ていた。
 フリッツはモーラが「貴方がいると話がややこしくなる」という事で部屋で
待機している。
 玲二はモーラだけしか居ないのを見て安堵した。
 どうも彼がいると、何もかもがやりにくいのだ。
「話ってなんだ?」
 玲二の問いにモーラは深呼吸して、向かい側に座ろうとする二人を見る。
 二人が座った途端、彼女が口火を切った。
「私達が、吸血鬼を追っているって話は聴いたわよね?」
「ああ、そう言えばそんなような事言ってたっけ」
「正確には女吸血鬼(ドラキュリーナ)なんだけど。……私達はね、ある組織
から依頼されてソレを追っているの」
「ふうん」
 興味をそそられる話ではあったが、それが自分達と何の関係があるのだろう、
と玲二は訝しげにモーラを見た。
「そのある組織は、その女吸血鬼によって幹部ほとんどを皆殺しにされたの、
生き残ったのはただ一人だけ」
 モーラの説明はちっとも要領を得ない、まるで話すことを躊躇っているよう。
「そのただ一人の男に私達は依頼されたの」

「……いや、それは解ったけどさ、それが俺達に何の関係があるんだ?」
「あるのよ」
 モーラは一息ついてコーヒーを飲み、それから言った。
「その前に、一つだけ警告――というか、前置きしておきたいことがあるの」

「多分、この事実を知ることは辛いことになるわ。
それが嫌なら、今すぐこのメキシコから、アメリカからも逃げて。
 ヨーロッパ、もしくはアフリカに行けば大丈夫だと思う、何なら空港まで私
達のハマーをしばらく貸したっていい」
 モーラの気遣うような視線が玲二とエレンに注がれた。
 玲二はエレンを見つめた。
 エレンは玲二の視線に軽く頷き、玲二もそれに同意する。
 それからモーラに視線を移すと、彼女の視線を真っ直ぐ見据え、頷いて肯定
の意志を示した。
「――いいのね?」
「構わない」
 玲二とエレンは声を揃えて言った。

 モーラが服のポケットから写真を取り出し、テーブルに置いた。
 女性の写真だ。
 若い女性特有の溌剌とした笑顔で、彼女はもう一人の女性と腕を組んで写っ
ていた。

 ――こんな笑顔は、インフェルノに居た時には見たことがない。

「こ、この写真は……」
 玲二の声が震えている、エレンは無理もない、と思った。
 モーラは残酷なまでに冷徹な声で話を続ける。
「この黒人の女性の隣にいるのが、私達の標的(ターゲット)。
 レイジ、貴方は彼女のことをよく知っているわね?」
「でも、だって、そんな、ことって」
 玲二は差し出された写真の衝撃から抜け出せなかった。

「私達の追っている女吸血鬼の名前はクロウディア・マッキェネン。依頼され
たのは貴方達が元々所属していた組織――インフェルノよ」

 ――写真の中のクロウディアは、びっくりするくらい眩しい笑顔だった。

                              to be continued



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