ブレイドシティ「ディープレッド・クルスェイダー」(前編)



 世界は刃に満ちている。
 だから剣が必要だ。








          ディープレッド・クルスェイダー








 一言で言えば、それは良くあることだった。
 嘆息して、認める。住処とする街で良くあったことなら、違う街ではそうそ
う起きはしないだろう、などというのは根拠を欠いた願望に過ぎない。あの街
とこの街の相違点が、それが起こる発生条件の欠落を意味しないなら、同じよ
うにそれは起こるのだ。
 発生条件。
 空気さえあれば、地上の何処でも風は吹く。空が晴れてさえいれば、陽光は
降り注ぐ。人の手になる街と街の些細な違いなど関知しない。
 それと同じ事だ。
「どうかな、君。楽しく遊ぼうぜ? いいだろ?」
「名前教えてくれよ」
「うるせえ、お前ら。ちょっと黙れ。……ごめんよ、こいつらバカでさあ――」
 何処ででも、自分の前にこういう手合いが現れるという事実は。
 発生条件。
 一、こういう連中。見知らぬ女性に親しげな声をかけることが出来る勇敢な
男達。或いは縁もゆかりもない女性に、その外見が気に入ったというだけの理
由で馴れ馴れしく接する恥知らず達か。どちらにせよ、日本という国なら何処
にでもいる生物だ。
 二、こういう連中の興味を引く自分。類希なる美貌を備えた可憐な少女。そ
れとも一部の、しかし決して少なくはない、特殊嗜好を持つ男性にとっては理
想であるらしい容姿――おそらくは綺麗な部類に入るのだろう肌、肩口で切り
揃え背中に一房だけ伸ばした髪、小さく肉付きの薄い身体――を持つ、つまり
「実年齢に比して幼い外観」の女か。どちらにせよ、住み慣れた街を離れたか
らといって変わるものではない。
 あの街と同じように、ここでも涼やかな風が吹く。心地良い秋の日差しもそ
のままだ。そして周囲には、変わることなく鬱陶しい男の群れ。
 七条茅女は、何となく不満の一つも訴えたい気持ちで空を見上げた。辺りに
充満する矮小な問題を大自然に敷衍しても彼らは苦情を訴えたりしないが、適
切な助言を与えてくれることもない。
 何も言わないことで、いつも通りに対応することを勧めているのならば、そ
れはそれで助言と言えなくもなかったろうが。
「おい。聞いてんのかよ」
「名前だよ名前。何てんだよ?」
「なあ……おい、こっち向けって」
 前方と左右を取り囲む声が、次第に語気を荒くしてゆく。
 これも、いつも通りの展開だった。彼らには何かマニュアルのようなものが
あって、それに従って行動しているのではないだろうか。「チェックポイント
1。声をかけた女が無視するようなら、口調を強めて暴力の存在を匂わせるこ
と」とか。そんなものがあるなら、対処法の研究のために一度見てみたいもの
だと茅女は思った。
 もっとも、この場で適切な対処法が何であるか、それは思考というほどの行
為は必要とせず明白だった。ごめんなさい、と一言告げて歩き去る。大概はそ
れで充分だ。それでも諦めないようなしつこい奴なら、走って逃げればいい。
流石に、真っ昼間の表通りで逃げる女を追い回すような連中は、ここ数年で急
激に治安が悪化した日本にもまずいない。……絶対いない、とは言い切れない
こともまた今の日本の現実ではあったけれども。
「おい……!」
 そんな物思いに耽り、傍目には無視を続けていたのは、良い対応ではなかっ
たようだった。
 三人のうち、正面にいた一番大きな――身長は180センチほどか?――男
が、ぐっ、と茅女の胸座を掴み上げる。
 あっさりと、靴底の半ばが宙に浮いた。
「馬鹿にしてんのかよ、てめー」
 はい、おそらくは。
 その本音は、胸にしまっておく。相手を完全に激怒させることに意味を見出
せなかったからだ。代わりに、決して厚くもなく強靭でもないこちらの服の生
地が何処まで伸びるか実験しているらしい、その毛深い腕を見下ろした。
 特に鍛え込んでいるという風ではないが、太い。力ずくで外すということは
可能だろうか? ここが実は漫画の世界で、茅女は登場したばかりの主人公、
男達は主人公に絡んで叩きのめされ彼女の強さを立証する役目を担った雑魚キ
ャラ、という配役ならば、それは容易なことに違いない。
 勿論茅女は、実行しなかった。「何事もやってみなくては分からない」、成
功する見込みの少ない行為を強行する時、人はよくこの言葉を口にするが、茅
女はその範疇ではないのだ。言葉自体は間違っているとは思わないが、やる前
に結果を予測して行動を決めるのが賢さというものであるのだから、それは結
局のところ自己の愚かさを欺瞞することでしかない。
「おい、いいか。馬鹿にしてんじゃねえぞ、てめえ」
 腕力の強さとボキャブラリーの貧困さを誇示しつつ、男の顔が近付く。臭い、
と茅女は思った。男は別段不潔な格好はしていなかったから、それはイメージ
による錯覚に過ぎなかったろう。だが不愉快さは現実だった。
 臭い。
 臭い。
 臭い。臭い。臭い――
 意識が、尖る。
 拒絶反応で鋭角化した感性が、思考を凌駕して身体を動かそうとしていた。
これを、退けたい。目の前の不愉快なモノを、自分の世界から除外したい。茅
女は左手で男の腕を掴んでいた。無駄であることは承知している。自分の非力
さに男が嘲笑を浮かべるだろうことを予期しながら、それでも腕を掴んだ手に
力を込めた時、しかし男の顔は視界から消失していた。
「……?」
 見れば、左手は既に何も握っていない。ただ男のぬめった汗の不快な感触だ
けが残っている。服の適当なところにそれをこすり付けて、茅女は何となく落
とし物を探すのに似た心地で男の姿を求めた。
 ……足元に、いる。
 と言うより、倒れている。まるで強い力で後ろから引き倒されたのように仰
向けに転がり、腰を押さえて呻いていた。
 ――いや。実際に引き倒されたのか。
 その向こうに人影が立ち、これ見よがしに腕をぶらつかせているのなら。
「な、なんだお前!?」
「せーぎのみかた」
 男の仲間の狼狽した声に、人影は軽薄な答えを返した。表情がにやにやと笑
っている。あからさまに挑発的な態度に、左右の男の口か腕が反応すると見え
た時、すい、と人影は動いていた。
 人影と、身を乗り出しかけていた左側の男が接触する。茅女の眼には、それ
は引き寄せ合う磁石のように見えた。予定調和のような滑らかさで、自称正義
の味方の肘が男の腹部に突き刺さる。
 これが磁石なら、一方の磁極が反転したということになるか。男は、げぇ、
と踏み潰された小動物のような喘鳴を上げて、あたかも巻き戻しされた映像の
如く進み出た勢いをそのままに後方へ弾け飛んだ。
 街路の上で寝転ぶ男が二人に増える。その時、既に人影は次の行動を立ち上
げていた。
 身体を反転させ、一瞬前までの背後に相対する。そこでは、虚空に向かって
拳を突き出した最後の男が、無防備な側面を見せつけていた。何かの酔狂でそ
うしているのでないことは、一歩離れて状況を眺めていた茅女には分かってい
る。左の男と歩調を合わせて人影に殴り掛かったものの、彼が俊敏に位置を移
動したため完全に外されたのだ。
 逃した獲物を追う男の両目が、いま致命的なスタンスに立つそれを捕捉する。
「ちっ……!?」
 身体を振り戻して人影の側頭部へ回し打ちを叩き込むその動きも、決して遅
くはなかった。しかし、ハンデが付き過ぎている。男がスタートラインに立っ
た時には、人影は最早コースの半ばまで走破していたに等しい。
 男の拳が目的を達する遥か以前に、正義の味方の掌底がその脇腹を抉る。男
の素早い動きは、結果として彼自身に災いをもたらした。理想的なカウンター
の形になった打撃は、男へのダメージを少なくとも本来の倍にはしたことだろ
う。悲鳴を上げることすらなく、最後の男はその場にくずおれた。
 望まずして路上に横臥する男が、これで三人。その光景を俯瞰して、魚市場
のマグロみたい、と見たこともないものにそれを例えて感慨に耽る暇もあらば
こそ、刹那の後に茅女は腕を掴まれていた。
 見上げれば、三人を倒しながら息をつくこともなく歩み寄ってきていた人影
が、顔に小さな笑いを浮かべている。
「さ。行こうか」
 ”せーぎのみかた”の行動は、最後まで鋭敏だった。
 こちらの身体を抱え込むようにして、ずんずんと歩いていく。速い。歩幅が
圧倒的に劣る茅女は立て続けに足元をつまづかせそうになった。何とかバラン
スを保つのに成功すると、歩調を速めて引率者に速度を合わせる。
 後ろからは何やら罵声めいたものが聞こえてきていたが、彼は関知しないよ
うだった。勿論、茅女にも興味を抱く理由はない。声はやがて遠くなり、そし
て聞こえなくなった。


 ――これは、良くあることなのだろうか。
 自問する。だが、茅女は解答を容易に見出せなかった。
 悪漢に絡まれる女。そこへ颯爽と現れるヒーロー。彼は瞬く間に悪人を倒し、
女を助け出す……
 ありがちと言えば、余りにもありがちな話ではある。だが『悪漢』とか『ヒ
ーロー』とかいう単語が出てくる時点で明らかなように、それはフィクション
の世界での話だ。現実でそんな場面に遭遇した経験は、これまで彼女にはなか
った。誰かの体験談として聞いたこともない。
「今、君が考えていることを当てて見せよう」
「?」
 ドッキリカメラの可能性について考え込んでいると、喫茶店のよく磨かれた
テーブルを挟んで座る男が、唐突にそんなことを口にした。
 何やら得意げに指を振りつつ、言葉を繋ぐ。
「つまりこうだ――そう、この人がわたしの王子様なのね。なんて素敵なのか
しら。ああもう、今すぐにデートしたい恋人になりたいむしろ結婚したいわ」
「…………」
「こんなところだろう?」
「いいえ」
 茅女はきっぱりと、普段周囲の人間から「冷たい」と評されることが多い無
表情のまま答えた。
「…………もう少し、暖かみのある反応をしてもらえると、俺としても助けて
良かったなーと思えるのだけれども」
「結婚したいです」
「いやあのな。コーヒーの宣伝ポスターに写ってる黒人のおっさんに向かって
そんなこと言われても」
「語尾に『わ』とつける女性って、現実にはあまりいないのではないですか?」
「ええと……なんつうか……そこかなあ、突っ込みポイント」
 何やら考え込み始める男。
 取りあえず放置しておき、茅女はその間に改めて彼、『正義の味方』を観察
した。
 身長は170センチと少し、体重は70キロ前後だろうか? 背は高くない
が肉は厚いようだ。それでいて肥満している印象は受けず、むしろ均整が取れ
ていると見える。
 服装は、袖のない黒いシャツに濃紺のズボン。そろそろ本格的に秋へ突入す
るこの時期には、いささか涼しげに過ぎる格好だ。幸い、店内の他の客たちか
ら奇異の視線を集めるほど時期外れではないようだったが。
 顔立ちは、まあ、美形とは言えない。記憶にある幾つかの顔と比較して、茅
女はそう判じた。だが心持ち垂れた目元と、やや丸っこい鼻は、愛敬があると
言えば言えた。歳はおそらく二十歳前後、十八の自分よりは一、二歳上か。
 総合的に見て『ヒーロー』というイメージではないが、これが現実というも
のだろう。そう思うと、茅女は胸中にたゆたっていた、何やら三文芝居の登場
人物にされたような居心地の悪さに収まりをつけられた。
 五分前から目の前に置かれていたレモンティーに初めて口をつける。ノンシ
ュガーのため、少々苦い。その苦みが頭を刺激したのか、茅女は重要かもしれ
ないことに気が付いた。
 まだ、礼を言っていない。
「あの」
「え?」
 既に、こちらが無口な人間だということは理解していたらしい。声を掛けら
れて、男は驚いた風で顔を上げた。そこにどういう言葉をぶつけたものか、咄
嗟に思いつかない自分の口下手さに僅かな苛立ちを覚える。数瞬悩み、彼女は
結局、芸のないごく標準的な言葉を選択した。
「……ありがとうございました」
「え。ああ……うん。いや、大したことじゃないし」
 遅れ過ぎた礼に、男は少なからず面食らったらしい。大きく瞬きした後、こ
ちらに合わせたかのような芸のない応えを返してきた。
 沈黙。
 今のやり取りでペースが崩れたのか、男は視線を宙に舞わせている。話題を
探しているようだった。茅女は会話が得意でなく、また沈黙を苦にしない質な
ので、こういう時に自分から話題を振ることはない。が、このまま男を困らせ
ておくのも義理を欠く気がしたので、少しばかり、考えてみた。
 すぐに、気付く。重要かもしれないことが、もうひとつ。
「……お名前、聞いてよろしいですか?」
「え」
 男は、絶句したようだった。自己紹介もまだだったことを、やはり失念して
いたらしい。三秒ほどのタイムラグを経て、照れた笑いがその顔に浮かぶ。
「いや、ごめん。忘れてた。
 俺の名前は、グレイソン・ベベリット。アラビア帰りの傭兵だ」
「七条茅女と言います。大学の、一回生です」
「七条さんか。俺は二十歳だから、年上になるのかな。ところで、その」
「何です? ベベリットさん」
「すいません。俺が悪かったです。木崎明と呼んで下さい。ちなみに専門学校
生です」
 何故かがっくりと、敗北感を全身から滲ませて言ってくる男に、茅女は小さ
く頷きを返した。別段、グレイソンでも問題ないような気もしていたが。
「……まー、その。何だ……」
 気を取り直してか、アイスコーヒーを片手に彼、木崎が呟く。
「最近、増えたな。ああいう連中」
「……?」
 最近に限ったことでは、ないだろう。ナンパ、引っ掛け、ガールハント。言
葉こそ変われ昔から尽きたことはない筈だ。おそらく、人類種が滅亡するまで
存在を続けるに違いない。
 こちらが首を傾げたのを見て、彼は察したようだった。違う違う、と手を振
り、
「女の子に暴力振るうような馬鹿が、さ。
 全く、恥ずかしくないのかねえ。男として……」
「…………」
 それは、黙って聞き流しておく。
 夫による妻への家庭内暴力を弱者虐待だと断定し、その一方で女性にも相撲
の土俵に上がることを許せと騒ぎ立てるような自称男女平等主義者たちと、茅
女は間違っても精神的に同居していない。男女差別だか区別だかのために女性
が虐げられてきた部分の改善を目指すのなら、保護されてきた部分も放棄する
のが当然だと思う。それが出来ないのなら、差別待遇とやらもある程度割り切
って受け入れるべきだろう。茅女はそう考えているが、実際に口に出して分か
り易く正確に伝える自信がなかったので、言うのは止めておいた。というより、
そんな話には彼女自身が興味ない。女性が差別されていようが区別されていよ
うが保護されていようが、七条茅女は七条茅女として生きていくのみだからだ。
 紅茶に視線を落としつつ、そんなことをつらつら思う自分は傲慢なのだろう
と、茅女はふと自覚した。特に反省はしないが。この傲慢さが顔に出ていれば、
妙な趣味の男達を刺激することもないだろうに、とも思う。
「やっぱり、廃都の影響なのかな?」
 木崎は暫く茅女の反応を待っていたようだが、口を開く様子がないのを見て
諦めたようだった。ちらと観葉植物に眼をやりながら、言葉を続ける。
「幾ら半封鎖状態にあるっつってもさ。国内にああいう場所があれば、やっぱ
他のとこにも悪影響は出るよな」
「……木崎さんは、東京に行ったことが?」
「まさか。んな度胸ないって」
 笑って首を振る木崎。
 東京。
 この都市の首都としての歴史に終止符が打たれたのは、十年前のことになる。
日本の中心は上古へ還るが如く京都に遷り、打ち捨てられた東京は外国人に解
放された。非日本人の在国が、東京都改め東京府内に限り、制限無しの自由と
されたのである。
 そして、特別指定地域限定治安維持回復法――俗に言う廃都封鎖令が施行さ
れたのが今から四年前。治安が極度に悪化した地域を一時的に封鎖し、他地域
への波及を阻止すると共に、封鎖地域内の速やかな治安回復を図る……という
御題目のこの法律で、具体的に治安が極度に悪化した地域、つまりあらゆる人
種・あらゆる経歴の持ち主が住まう地となり、必然的にあらゆるトラブルの発
生地ともなった東京は、周囲をバリケードで閉ざされた。外国人の出府は基本
的に不可、日本人であっても出入府にはパスポートとビザの発行が必要となっ
たのである。東京は、それ以前から広まっていた『廃都』という呼称のほか、
新たに『国内外国』とも呼ばれるようになった。
 だがそこまでしても、木崎の言うように、日本の他地域への悪影響を完全に
抑えることは叶わなかったらしい。人や物の流通は制限出来ても、情報の流通
には手を出せなかったからだ。
「でもテレビで見たことはあるよ。酷いもんだったなー」
 木崎が話を続ける。要は、そういうことだ。他人の不幸は蜜の味という言葉
があるが、荒廃した東京という存在はマスコミにとって視聴者を確実に捕まえ
ることの出来る格好のネタだった。最近は落ち着いたようだが、少し前まで幾
つもの特番が組まれていたことを茅女は覚えている。木崎も、それを見たのだ
ろう。
「道端に死体が落ちてても、通行人は誰も見向きしないわ、ガキどもに至って
は棒で殴って遊んでるわ。それでぐちゃぐちゃに……あ」
 隣でスパゲティをつついていた女性が迷惑そうな眼を向けているのに気付き、
木崎は慌てて口を閉ざした。聞こえよがしに鼻息を洩らして、中年女性が視線
を外す。
 彼は女性に謝罪しようか迷った風だったが、逆効果だと踏んだのだろう。代
わりにこちらを向き、申し訳なさそうに苦笑しつつ頬をかいた。
「悪い。喫茶店でする話じゃなかったな」
「いえ、わたしは別に。見た感じ大腸を連想させるうねうねしたものを食べて
いたわけでもないですし」
 がっしゃん。
 皿をテーブルに叩きつけたかのような音にちらと目を向けると、皿をテーブ
ルに叩きつけた女性が噛みついてきそうな形相で茅女を睨んでいた。特に気に
はせず、ティーカップを口元へ運ぶ。鼻孔をくすぐる心地良い芳香を楽しんで
いる間に、女性は椅子を蹴って立ち上がると、伝票を握り潰しながら荒々しく
歩き去っていった。
 木崎を見ると、彼は絶句し、呆然とその後ろ姿を見送っている。女性がドア
ベルを限界音量で打ち鳴らしつつ店を出て行くまで律義に見続けた後で、こち
らに向き直った。何を言うべきか暫く迷った様子を見せてから、
「あー……スパゲティ、残していっちゃったな」
「ダイエット中だったようですね」
「ええと。何だか聞くのが恐いんだが、それ本気で言ってる?」
「苛立っていたようですし。そうなのではないですか?」
「いや、その。論理に欠陥はないようだけど。根本的に何か違わないか」
「……そうですか?」
「えーと、だからさ。それって本気なのかな……」
 何やらもごもごと呟いてる彼をよそに、茅女はレモンティーを口に含んだ。
最初は酸味が、酸味に舌が慣れた後は暖かさが、この飲み物は良い。砂糖を入
れると、その辺りの良さが全て甘さに押し潰されてしまうように感じられて、
茅女は好きではなかった。甘いものが嫌いなわけでは決してないが、甘さを楽
しみたいなら他に幾らでも適当なものがある。
 ふと顔を上げると、独り言に飽きたのか、木崎もこちらに目を向けていた。
何かを言いたそうな顔をしている。
「……?」
 無言で促すと、彼は興味の色を瞳に湛えつつ唇を動かした。
「んー、さっきからずっと考えてたんだけどさ。分からないから、本人に聞く
けど」
「……はい」
 何だろうか。茅女は心持ち、身構えた。
 人差し指をぴっ、と立て、木崎が問うてくる。
「七条さんて、何?」
「人間です」
 迷う必要がなかったので、即答した。
 一拍の間を置き、何故か木崎の方が逡巡を顔に浮かべる。
「……笑うところか?」
「わたしが人間ではないと?」
「いや、そーでなくて……すまん、俺の聞き方が悪かった。……だけか?」
 はっきりしないことを言いながら、彼が首を傾げて唸る。だがすぐに気を取
り直した様子で、問いを続けてきた。
「ええと。どんなことやってる人なのか、聞きたかったんだが」
「職業ですか?」
「うん……って、社会人なのか? さっき学生って言ってなかったっけ?」
「はい。神道学科です」
「しんとう?」
 木崎は、その単語がピンと来ないようだった。珍しい反応ではない。大抵の
人は、もっと身近な言葉で語られないと分からないものだ。
「んー、キリスト教のなんか?」
「いえ、日本古来の……神社の」
「ああ、なるほどなるほど」
 神社という言葉に、彼が大きく頷く。経験から、これが一番簡単な説明だと
茅女は知っていた。
「神社かあ……ってことは、将来は巫女さんとか?」
「……ええ。そんなところです」
 厳密には違う。茅女の生家は神社であり、兄弟がいないので将来はおそらく
彼女が神主になるのだが、それを指して巫女とは呼ばない。あくまで女性神主
であり、巫女とは似て非なるものだ。だが、それを木崎に説明したところで仕
方がないだろう。
 代わりに、こちらから質問を向けてみる。
「……木崎さんは、何を?」
「ん、ああ。専門学校生って、さっき言ったっけ。
 コンピューター関係のことをやってる」
「それだけですか?」
「うん?」
 こちらの意を測りかねてか、木崎が表情に疑問符を浮かべる。茅女は少し言
葉を探してから、口を継いだ。
「……先程の……あれは、格闘技か何かなのでは?」
「あー。あれは、ただの空手だよ。
 ガキの頃からやっててさ。清流塾ってとこなんだけど……知らないか」
「……はい」
 確かに、聞いたこともない。
「じゃあ、帝拳会は?」
「それなら……」
 聞き覚えはある。国内最大の、いや世界にも支部を持つ一大空手道場の名前
ではなかったろうか。
「そこの支流……分家みたいなもんだよ。
 元は親父がそこの門下生でさ。言われるまんま俺もやり始めて、えーと、ぼ
ちぼち十年近くになるのか」
「そうですか……それで、あんなに強かったんですね」
「え? そう?」
 何気なく言った一言に、彼は破顔した。満面に喜色を浮かべて、頤を反らす。
「あはは、そーか。強いかあ。
 んー、確かにそんなことはあるんだけどな。道場でも俺に勝てる奴っていな
いし、喧嘩でも負けたことないし。そーか。強いか。あっはっは」
 臆面もなくそんなことをのたまいながら、実のところ彼は照れていたらしい。
頬を緩ませたまま、話題を唐突に変えてきた。
「しかし、そーか。七条さんは巫女さんの勉強してるのか……なんかすごく見
てみたいぞ。どこの大学?」
「……この近所ではないですよ」
「あ、そうなの?」
「はい。電車で二時間は掛かります」
「へー。それじゃ、通学は大変じゃないか?」
「……いえ。この街の住人ではありませんから。
 親戚の神社が人手不足でして、今月の末まで手伝いに来ているんです」
「ふーん……何処の神社?」
 特に他意のない様子でそう聞かれて、しかし茅女は答えに迷った。自分を助
けてくれた人間ではあるし、それを抜きにしても不快な男ではない。だがそれ
でも、初対面の相手に滞在場所まで教えることは躊躇われた。いきなり押し掛
けて来られでもしたら、はっきり言って迷惑である。そんなことをする男では
ないように思えるが、一方であっさりやりそうな印象も拭い去れない。彼がこ
ちらに興味を抱いていることが明白であるだけに。
「……いや、悪い。今のは無しな」
 茅女の困惑を見て取り、木崎はばつの悪そうな顔で頭をかいた。
「会ったばっかで、いきなり住所なんて聞くもんじゃないか。
 そうだな……この街には月末までいるんだっけ?」
「はい」
「じゃあ、もしもう一度会えたら、その時に聞こう。いいか?」
「……はい」
 そのくらいの約束は、してもいいだろう。
 茅女が頷いたのを見て、木崎は嬉しそうに笑うと、伝票を掴んで立ち上がっ
た。
「んじゃ、今日はこれで帰るわ。ぼちぼち日が暮れるしな」
「あ……ここの払いは、わたしが……」
「いい、いい。女に払わせるなんてかっこ悪いだろ。ここは俺に持たせといて
くれ。
 じゃ、な」
 言うだけ言うと、木崎はさっさとレジへ歩いていってしまった。呼び止める
暇もない。追いかけようか、と一瞬だけ考える。だが、あの様子ではこちらの
言うことを聞きそうにないし、伝票を奪って先に払うということまでやるのも
何だか馬鹿馬鹿しい。
 一つ嘆息し、諦めて椅子に座り直す。助けられた分の借りをここの払いで帳
消しにするつもりだったが、失敗してしまった。他人に貸しを作るのは愉快で
はない。だが、たまにはこんなこともあるだろう。それに、貸し借りの関係も
あの男と自分がまた会うことがあるとすればの話だ。この街は決して大きくな
いが、偶然の出会いを期待出来るほど狭くもない。
 と。
 それを見つけて、茅女は眉を顰めた。すぐにレジの方を見やるが、木崎は既
に店を出てしまったらしく見当たらない。その素早さは、それが故意の産物で
はないかという疑いを否応なく助長した。
 口を引き結んで、考える。不本意極まるが、この場で結論を出さねばならな
かった。
 向かいの席に置き忘れられた電子手帳。所持者の連絡先くらいは記してある
のだろうそれを、果たして拾うべきか否かを。


「恋の始まりね」
 目の前に座る女性に、きっぱりとそう言い切られて。
 不要なほど自信が満ち満ちたその顔をまじまじと見返しながら、茅女は取り
あえず、先刻済ませた夕食の献立てを思い出してみた。
 今日は茅女が滞在しているこの家の主、茅女の叔母は町内の寄合とかで留守
だったので、夕食はその娘である眼前の彼女と二人きりだった。白いご飯、豆
腐の味噌汁、海草のサラダ、カレイの煮付け。あと、食後に叔母の手製のゼリ
ーを頂いたか。
 大丈夫、鮮明に思い出すことが出来る。自分の記憶力は正常だと、茅女は確
信した。元々記憶力には自信がある。突発性痴呆症の可能性を考慮して確認し
てみたまでのことだ。
 だが確信は疑問を同伴した。ならば何故自分は、たった今まで何の話をして
いたのかを思い出せないのだろうか。
 正確に言えば、彼女の一言に繋がるような会話をした覚えがない。
「……何の話をしていましたっけ?」
「かやちゃんの恋の話よ」
 茅女の問いに、彼女、茅女の従姉であるところの七条瑞穂は、一縷の迷いも
ない眼差しで再び断言した。その声には揺らぎすらない。
 何となく花崗岩を丸めた新聞紙で殴っているような気分になりつつ、一応反
駁してみる。
「……覚えがないです」
「照れているのね。分かる分かる」
「いえ。本心なのですが」
 うんうんと頷く瑞穂に呟きを返したものの、それが届いたとは思えなかった。
居間の中心に鎮座し、彼女と自分とを1メートルも隔離してはいない卓袱台が、
あたかも絶対に越えられない障害であるかのように感じる。
 ベルリンの壁とは、きっとこういうものだったのだろう。茅女は感慨をもっ
て、古びた木製家具を眺めやった。
「衝撃的な出会いを果たした男と女……」
 うっとりと歌うように、瑞穂が呟く。
「運命よね。運命で恋よね」
「……わたしは、危ないところを助けてもらった恩はあるものの、どうもそこ
につけ込んでこちらをナンパしようとしているらしい男性について相談してい
たと思うのですが」
「ええ。そこから当然の推移として、恋が始まるのね」
「…………」
 相談の仕方を間違えたのかもしれない。軽い嘆息と共に、茅女はそれを認め
た。しばし頭の中で考えをまとめ、簡潔に尋ね直す。
「……この電子手帳、どう思います?」
「恋の橋渡しよ」
「…………」
 相談する相手を間違えたのかもしれない。深い溜息と共に、茅女はそれを認
めた。取りあえず彼女は放っておくことにして、手の中の物品に目を落とす。
 メタリックブルーの電子手帳。特に高級品とも思えないが、電子手帳とはそ
もそもが安い品ではない。少なくとも、それが曲がりなりにも義理がある人間
の持ち物だと知った上では、喫茶店に放置してもおけない程度には。
 中の情報は見ていない。茅女がこの手の機械を苦手にしている、というわけ
ではなく、単にその必要がなかったからだ。挟み込まれていた一枚のメモ。そ
こに携帯の番号が木崎の名前と共に記されていた。これでは、「連絡先を調べ
ようにも慣れない機械だったので出来ませんでした」と言い訳も出来ない。そ
のメモは最初から挟んであったのか、それとも自分の目を盗んでこっそり用意
したものかは知らないが、どちらにしても行き届いたことだ、と茅女は呆れな
がら感心した。
 ここに連絡して欲しい、ということなのだろう。つまりは。
 微かに苛立ちを覚えて、手帳の表面を指先で叩く。何かを押し付けられると
いうことが、好きではない質なのだ。自由を至上のものと思っているわけでも
ないが、他人の指示を受けて動くよりは、自分で考えて動くことを茅女は好む。
 だから、木崎の希望には応えない。それが自分らしい行動だ。
 ……とは、分かっているのだが。
「連絡、するんでしょう?」
 茅女の近親とも思えない大柄な身体を縮め、上から覗き込むようにして瑞穂
が囁いてくる。にんまりと笑ったその表情から逃れるように眼を背け、茅女は
可能な限り不愉快そうな声を作って答えた。
「……警察に持っていくのが一番だと思っているのですが」
「またまた」
 嘘おっしゃい、照れちゃってもう、と目付きで語る従姉は、確かにこちらの
内心の一端を見抜いてはいるようだった。完全に誤解しているようでいて、肝
心なところは理解する。彼女はそんな人間だったことを、ふと思い出す。
 今日何度目かの溜息をつくと、茅女は諦めてその事実を受け入れた。木崎が
茅女に興味を抱いたように、茅女も彼に関心を持っている。それは否定出来な
い。もう一度会ってみたいという衝動があることも。
 だからと言って、それが恋だの何だのに繋がるとは信じなかったが。
「……でも、はい。助けられたことは事実ですから」
「うんうん」
 降伏したかのようなこちらの言葉に、瑞穂が満足げに頷く。と思うと、それ
じゃあ、と呟いて立ち上がり、居間の端にある小さな本棚を漁り始めた。県内
プレイスポット一覧、おトクなデートコース、女性に人気のホテルベスト10。
そんな見出しが踊る雑誌を次々と発掘していく。それをどうするつもりなのか、
尋ねる気にもならなかったので、茅女はそちらに背を向け、備え付けのテレビ
のスイッチを入れた。
 灰色の画面に無数の色彩が浮かび上がる。結ばれた像は、装飾はあるものの
全体として無機的な印象を受ける部屋と、その中央のデスクで何かを読み上げ
ている眼鏡の男だった。ニュースだろう。使用歴十年を超過している古ぼけた
テレビはまだ音声を発していないが、この独特の様相だけで明白だ。よもやク
イズ番組ということはあるまい。
 やがて流れてきた声は、こうだった。
「――所持等取締法違反の容疑で逮捕されました」
 麻薬、か。茅女は聞き損ねた部分を労せず推測した。あるいは銃砲刀剣類か
もしれないが。どちらにしても、珍しいことではない。
 ニュースは続いて、住宅地での放火事件、行方不明の未成年少女の捜索状況、
繁華街裏で起きた刃物による連続殺人事件、犯人の逮捕と人質の遺体発見をも
って終了した誘拐事件、等々を報じた。十分ほども、焼け落ちた建物や目撃談
を語る市民、タオルを被せられて連行される犯人といった映像が、冷徹なニュ
ースキャスターと交互に現れる。
 これも、そう。珍しいことではなかった。
「こういう事件、増えたねー……」
 声に振り向くと、瑞穂が本のページをめくる手を止めてテレビに目を向けて
いる。幾分憂鬱そうに、その眉はしかめられていた。
「嫌だよね。身の回りでこういうことばっかり起きるのって。いつ自分や家族
が巻き込まれるか、知れたものじゃないし」
 彼女が洩らした言葉に、相槌は打たない。茅女にとっては今更なこと、どう
でもいいことだ。社会の荒廃は着実に進んでいる。ずっと以前から。これから
も、進み続ける。それは、茅女にはどうにも出来はしない。するつもりもない。
嫌がったところでどうにもならないのなら、どうでもいい。そう、思う。
 ――だが、茅女とて、それで済ませられないことはある。
「……瑞穂さん……」
「そう言えば、かやちゃんも今日危ないところだったんだよね。気をつけてよ、
今日は助けが入ったから良かったけど、そうそう幸運は続かないんだから」
「瑞穂さん……」
「危ないと思ったら、すぐ逃げないと。それが無理なら大声を出すとか。かや
ちゃんはか弱いんだし、恥ずかしいなんて思ってちゃ駄目だよ。場合によって
は命にも……」
「瑞穂さん」
 きっぱりとした声音で彼女の長舌を止めると、茅女はぴっと指を立ててそれ
を指し示した。
「……何ですか、それは」
「え? これ?」
 目をぱちくりとさせて、瑞穂は手にした本を見下ろす。
「タイトル通りの内容よ。『彼氏を虜というか奴隷にするベッドテクニック・
厳選100』。かやちゃん奥手だから、こういうのに詳しくないと思って」
「…………」
「あ、大丈夫よ。これはあくまで上級編。初心者用のテキストもちゃんとある
から。ええとこれこれ、『ザ・床上手』。初めての時はどうすればいいかとか、
詳しく書いてあってとっても便利。あと――」
「…………」
 幸いなことに。
 茅女が卓袱台の脚を外して素振りを開始した時点で、瑞穂は本を書棚へ戻し
てくれた。


                ***


 喜びは、いかに望もうと永遠では有り得ない。
 だが絶望は永遠たり得る。望みさえすれば。おそらくは、望まずとも。
 喜びは人を裏切るが、絶望は裏切らない。
 ならば、どちらが友人とするにふさわしいだろうか?


                ***


 人間は、望まないことを能動的にはしないものである。
 突き詰めれば、そうだ。如何に不本意な行動であっても、それを為した者は
自らの意志でその行動を望み、選択し、実行したことには違いない。眠気を抱
えて登校する者も泥水を啜る者も首に縄をかける者も、遅刻するよりは渇き死
にするよりは苦痛の生を続けるよりはと、その行動を選んだのだ。
 人は本当に望まないことはしない。
 ならば自分の行動も、全ては望んだものである筈だ。そうなのだろうと、茅
女は思う。思うがしかし、彼女は今、若干の疑念をもって自らの行動を振り返
らずにはおれなかった。
 順序立てて、思索を巡らせてみる。
 木崎に連絡し、会う約束をした。これはいい。
 そして今日会って、彼に電子手帳を返した。それもいい。
 しゃあしゃあと感謝の言葉を述べ、お礼にお茶でもと誘ってくる木崎に、白
い目を向けながらも仕方なく応じた。これもまあ、いいとしよう。
 ……で、だ。
 茅女は区切りをつけるように、一度思考を止めた。ぐるりと周囲を見渡し、
改めて考えてみる。
 これは果たして、自分が望んだ結果だと言えるのだろうか。
「いやー、参った参った」
 隣の座席で、憂いのカケラもない笑いを表情に満たした木崎が、白々しい声
を上げている。
「まさか喫茶店で偶然学校の先輩に出くわして、期限が今日までの映画のチケ
ットを売りつけられるとはなあ。でも良かった。七条さんのお陰で有効利用出
来て」
「……偶然、ですね」
「うん、ラッキーだねえ」
 北風じみた茅女の声にも、彼は動じることなくにこやかに頷くだけだった。
声からも笑顔からも作為的なものがにじみ出ているのは、あらかじめすっとぼ
けた態度で誤魔化すことを期して準備していたからだろう。練習までもしてき
たものか、何もやましいところはないと無言で語る木崎の厚顔は、冷たい台詞
の一つや二つでは崩せそうにない。
 やれやれ、と口にはせずとも呟くような気持ちで、茅女は小さく息をついた。
木崎と出会って以来、妥協と諦観の選択ばかりを重ねているような気がする。
そういう状況は良くない、打開すべきだ、とは思うのだが、この男の前でその
ように肩肘を張ろうとすることが、何だか馬鹿馬鹿しくもあった。そんないさ
さか複雑な心境で、スクリーンを眺めやる。
 いま広大な画面上で展開されているものは、上映前恒例のCMだった。恋愛、
ホラー、サスペンス、アニメ。様々な映画の予告ムービーが、絶えることなく
始まり終わりまた始まる。この時間が映画館の醍醐味の一つだという人もいる
らしいが、そもそも映画好きではない茅女にその辺りの感覚など分かろう筈も
ない。ただ退屈に、上映開始までの時を過ごす。
 と、これから上映される映画が何であるのか、それも知らないことに茅女は
気付いた。チケットを見ても、英字でタイトルが記されているだけの地味なも
ので、内容は窺えない。
 ここまで状況を整えられた以上、べたべたの恋愛モノという辺りが妥当であ
ろうが。茅女は隣の男に尋ねてみようとして、
「木崎さん……」
「明」
 いきなり、出鼻を挫かれた。
「……?」
「明、だよ。七条さん」
 慎重に一歩を踏み込むような、そんな声音で木崎は繰り返し、こちらに顔を
向けてくる。
 意味は明白だった。名前で呼べ、ということだろう。
 馴れ馴れしい。そう、思わずにはいられない。だが思いながらも、茅女は拒
絶しなかった。小さく頷き、望み通りに呼んでやる。
「はい。……明さん」
「うん、うん。あー、やっぱ嬉しいね。名前で呼んでもらえると」
「分かります。『木崎』って、微妙に舌が回り辛くて嫌だなと、わたしも思っ
ていましたから」
「…………いや、まあ、いいんだが。
 で、七条さん」
「はい」
「その、だな……七条さん」
「はい」
「いや、だから……こーいう場合はふつー……」
「はい」
 お預けを食った犬のような顔で要領を得ない訴えを繰り返す木崎に、お預け
をする飼い主のような態度で相槌を繰り返す。
 焦れたのか、こちらに真意が通じていないと思ったのか。木崎は暫く迷った
末、単刀直入に言ってきた。
「あのさ、俺も君を名前で――」
「駄目です」
「……うぐぉ…………」
 皆まで言わせず。
 即断の拒絶に、彼は苦悶の声を上げつつ突っ伏した。
「胸でも痛むのですか?」
「……ああ、痛え。すごく。理由分かるよな? 治療法も!?」
「結核ですか。取りあえず、わたしに移さないようあっち行って下さい」
「ほんとに血ィ吐くぞ畜生っ!!!」
 がばと起き上がって、木崎が喚く。幸い客はまばらなので、さして注視を集
めてはいないようだが。それでも幾対かの非難と好奇の視線を受けて、彼は慌
てて体を小さくした。
 筋骨逞しい男が何ともいたたまれない様子で身を縮めているその姿に、思わ
ず口元が緩む。
「……冗談ですよ」
「え?」
「茅女と呼んで下さって結構です。……わたしも、名前の方が好きですから」
 笑みはすぐに引っ込めて、しかし言葉でそう告げた。一度拒否して見せたの
は、簡単に懐へ入らせる人間だとは思われたくなかったからだ。玄関へ通すと
そのまま寝室まで踏み込んでくるような鬱陶しい人間も多いことを危惧しての
保険というところか。その意味では別に拒否したままでも良かったのだが、何
となく口を滑らせてしまっていた。それに、その言葉も嘘ではない。
 茅女。かやめ。意味としては茅――茅葺き屋根の茅だ――を摘む女、もしく
は茅のような女か。大して趣深いとは言えない。だがその響きは好きだった。
カヤメ。柔らかさの中にどこか硬いものがある。そんな音だと、耳に感じる。
 隣で、一転して嬉しそうに顔をほころばせた木崎が、さっそく許された呼び
かけを実行しようとしていた。彼のごく太い声音でも、おそらくその名は心地
良く響くだろう。
「よっしゃ。じゃあ、えーと、茅女……」
「……はい」
「なんか照れるな。……で、なに?」
「はい?」
「いや、さっき、何か聞こうとしてたろ」
「……ああ」
 そう言えば、すっかり失念していた。
「どんな映画なのか、聞こうとしていたのですが」
「あ、そーいや俺も知らん。……でも、もう始まるみたいだぞ」
 木崎の言う通り。
 長かったCMがようやく終わり、暫時の沈黙を経て、スクリーンにロゴが現
れる。三角形の内側に文字。日本映画界を代表すると言っても過言ではない、
有名制作会社のものに似ているが、違う。外国の会社のようだ。
 そしてようやく、映画が始まる。
 最初にスクリーンから飛び出してきたものは――声だった。
「ハァァァァァィィィイヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」
 ダチョウの鳴き声のような。ダチョウがどう鳴くのかなど茅女は知らないが、
とにかくそんなものをイメージさせる奇声が。一拍置いて、たららんらんらん
らんらんらーん、と軽快な管弦楽のBGMが流れ出す。
 それに合わせ、画面に映像が浮かび上がった。
 汗にまみれた裸の上半身、黒いズボン、揃いの格好をして、セイヤセイヤと
揃って掛け声を上げ、パンチやキックを揃って繰り出す、何人もの男、男、男
――
 そこまで見れば、既に疑問は完膚なきまでに氷解していた。
「……カンフー映画ですね」
「……そう、だね」
 男と女が連れ立って見に来るものとしては、ややセオリーから外れているの
ではないだろうか。いかにもカンフー的な雄叫びをぼんやりと聞き流しながら、
茅女はそんなことを思った。木崎も、これは計算外だったらしい。呆然として、
右手でつまんだポップコーンを鼻に突っ込みかけている。
 どうやら舞台は、中国の山奥深くにある拳法道場という設定のようだった。
冒頭の修行風景に続いて、主人公なのだろう男、ライバルらしき男、師匠と見
える老人などが次々と現れる。そしてヒロインと思しき娘が現れたと思った瞬
間、彼女は馬に乗った男達に拉致されていた。
 山賊らしい。
「……えーと……」
 開始十分弱でそこまで進行した映画から目を離して、木崎が引き攣った表情
を茅女に向けてくる。辛うじて笑顔を作っているあたり、いっそ立派と言って
いいのかもしれない。
「こういうのって……やっぱり、興味ないかな?」
「嫌いではないです」
「あ、はっ、はっはっはっ。社交辞令でも、そう言ってくれて嬉しいよ」
「そうですか。無理をした甲斐がありました」
 その返答で、彼が正面の椅子の背もたれに顔面を激突させるのが見えたが、
敢えて気にしなかった。山賊団と拳法使いたちとの戦いが始まったスクリーン
を見続ける。
 実際のところは、そう酷い作品でもなかった。ストーリーの薄さ短絡ぶりは
ともかくとして、演出にはなかなか凝っている。セットや小道具が見るからに
ハリボテなどということはないし、主に敵役が使う刀剣類もちゃんと刃のある
真剣を使っているようだ。俳優たちの演技力とも相俟って、戦闘シーンはかな
りの迫力を醸し出している。雰囲気に沿った音楽も悪くはない。
 とはいえそれでも、根本的に何処かズレたシナリオをフォローしきれるもの
ではないのだろう。むしろフォローしようとして失敗し尚更奇妙になったと見
えるシーンも幾つかあった。例えばこのシーン、敵の集団とディスコで戦い始
めたのはいいとして、主人公は何故わざわざポップスを歌いながら相手の剣を
躱しているのだろうか。歌に合わせて刃をくぐり、刀身を両手で挟んで投げ飛
ばす。リズミカルな動きと言えば言えたが、それよりは単調と言った方が良さ
そうだった。その主人公の歌というのがまた、さして上手くないのも影響して
いるのかもしれない。
「ああいうのってさ」
 木崎も同じような感想を抱いていたらしい。欠伸を噛み殺したような顔付き
でこちらを向くと、小声で話し掛けてきた。
「アクション映画では良くあるけど、実際はそううまくいかないもんだよ。…
…あ、真剣白刃取りのことだが」
「……そうでしょうね」
 同意して、頷く。素手で剣と戦った経験など茅女にありはしないが、それが
至難の技であろうことは想像に難くない。敵の攻撃に反応する反射神経、剣の
軌道を把握する動体視力、遠心力の乗った刃を挟み込める腕力。どれを欠いて
も成功しないだろう。
 木崎は続けた。
「でもさ、そもそもあんなことする必要はないんだ。もっと簡単な方法がある」
「……それは?」
 主人公に対抗してか、今度は敵の首領がロックをがなり立てつつヌンチャク
を振り回す場面に突入している映画よりは、まだしも興味を引く話題ではある。
茅女が先を促すと、彼は眼差しと声を心持ち得意げなものにした。
「蹴っ飛ばせばいいんだよ。剣なり、腕なりをさ」
「…………」
 今度は首肯せず、軽く首を傾げる。そんなことが簡単に出来るとは納得し難
い。門外漢には分からない、彼なりの成算というものはあるのだろうが。それ
でも暫く考えてみて、茅女は木崎の心算におおよその見当をつけた。落ちてく
る剣を蹴り飛ばすなどというのはウルトラCだ。おそらく木崎は、敵が攻撃し
てくる前に剣か腕を、攻撃してきてからなら避けながら腕を、蹴り上げればい
いと言っているのではないだろうか。それなら、あながち絵空事ではないよう
な気がする。……茅女にはやはりピンと来ないことではあったが。
 彼女が物思いから覚めた時には、既に木崎はスクリーンに視線を戻していた。
つられて見やると、いつの間にかシーンは教会になっており、主人公は両手に
拳銃を持った男と何やら昔話をしている。
 ……映画はその後、主人公が全ての黒幕だった恋人と決闘して倒し、そして
実は女で主人公のことを想っていたライバルと結ばれてエンディングとなった。


 そう言えば、と木崎がわざとらしい口振りで呟いたのは、映画館から出て数
歩ばかり歩いた時のことだった。
 はい、と彼の横顔を見上げる。
「ほら、約束があったろ」
「…………」
 空々しい笑顔を見せる木崎。茅女は黙って、聞き流した。
 何のことだか分からなかった、わけではないが。
「ほら……次に会ったら住所」
 じろ。
 精一杯恐そうに眼を眇めてみせ、彼の言葉を封じる。さほどの迫力があった
とも思えないが、意図は理解されたろう。木崎は慌てて視線を外し、あはは、
と空虚な笑いを洩らした。
 数歩分の、沈黙。
「……じゃあさ」
 気持ちを切り替えてか。彼が、今度は何事かに挑戦する意気を込めた声を掛
けてくる。それは空々しくもなく空虚でもなかった。
「また遊ばないか? 四日後にさ、市民公園でちょっと面白いイベントがある
んだ」
「…………」
「頼む。今日の失敗の埋め合わせをさせてくれ」
 そう言って、木崎がぱしん、と芝居めいた動作で手を打ち合わせる。
 その懇願に、どう応えるべきかは、分かっていた。
 すっぱりと拒絶する。それが正しい選択だろう。そうしなければ、彼は更に
茅女の領域の内へと踏み込んでくるに違いない。それは、望ましいことではな
い筈だ。
 答えは決まっていた。
 人は本当に望まないことはしない。だから、茅女はそれを望んだのだろう。
心の何処かで、何かを理由に。
「……はい」
 そう答えて、木崎を大仰に喜ばせてしまった理由がどんなものか、単純なよ
うにも思えたし色々なものが複雑に混じり合っているようにも思えた。好意、
と言えばそうなのだろうが、何だか四捨五入しているような感も否めず、どう
にもはっきりしない。はっきりしないが、何にせよ茅女の心は拒否という回答
を導かなかったのだった。
 ――もう一度くらい、なら。


 このやり取りを、四日後の別れ際にも二人は交すことになる。
 そしてその後、茅女が街を去る前日までに、同じやり取りを更に三回繰り返
し、四度の逢瀬を重ねたのだった。

 ――それは。
 ずっと後になって思い返した時、茅女は認めた。
 ――楽しい時間では、あった。


                ***


 あらゆるものはやがて風化し塵となる。
 愛情も歓喜も享楽も、生まれた瞬間から消失を約束されている。
 永遠の不変を誓約するものがあるとすれば、それは最初から何もない、全き
虚無のみだ。
 そして虚無は人にとり絶望に他ならない。


                ***


「恋の終局ね」
 目の前に立つ女性に、きっぱりとそう言い切られて。
 こぼれ落ちてゴミを増やしてはいないかと危惧したくなるほど、無駄に自信
が満ち満ちたその顔に一瞥だけくれると、茅女は取りあえず、黙殺して掃き掃
除を続けた。
 時刻は朝。表通りを通勤もしくは通学する人間が、無数に行き来している時
間帯である。神社においては、清掃の時間だ。
 茅女と瑞穂は、共に白衣に朱袴――極めて表意的に呼べば巫女さんルックと
いうことになろうか――の姿で、鳥居から本殿前まで続く石畳、そして境内を、
竹箒で掃き清めている最中だった。……もっとも瑞穂の方は、先程からすっか
り手が止まっているが。
 茅女が心に耳栓をしていると知ってか知らずか、例によって恍惚の色を双眸
に満たし、瑞穂は夢見るような声音で呟いた。
「恋が終わって、そのまま儚く消えるのか。それとも愛に昇華するのか。
 ああ、まさしく人生というドラマのクライマックスなのね……」
「…………」
 努力することに無駄を感じて、掃除の手を止める。意味がない、と茅女は声
なく独りごちた。耳栓は耳にはめてこそ実効があり、心にはめても意味がない。
気にすまいと思い込む時点で、既に気にしてしまっているのだから。
 それでも降伏はしたくなかった。何やら雰囲気でも作るかのように天を仰い
でいる彼女を横目に、ごく醒めた音調で告げる。
「……またですか?」
「まー」
 その一言に驚愕したと全身で伝えたいのか、瑞穂はゆらりとよろめいて箒を
取り落とし頬を両手で挟み込んで、更に声まで震わせた。
「また、だなんて。かやちゃん、そんなに男性遍歴が?
 この子ってば、まだまだ子供だと思ってたのに、いつの間にかこんな立派に
……」
 何故そんな器用なことが出来るのかは知らないが、感動の面持ちで瞳を潤ま
せる彼女に、じっとりとした視線を送る。どちらかと言えばその台詞より、倒
れた箒が掃き集めた木の葉の山を盛大に崩していることの方が気に掛かってい
たが。両方から目を背けることに決めて、茅女は掃除を再開した。
 今日は、茅女が実家に帰る、その前日。
 そしておそらくは、茅女が彼と会う最後の日。
 三日前。別れ際に、木崎は告げてきた。「最後にもう一度、自分の本当の姿
を見て欲しい」と。その意味は、少し考えれば察せられた――道場に来て、戦
う姿を見て欲しいということだ。
『なんかさ……かっこ悪いとこばっか見せてたから』
 ぽりぽりと頭を掻きつつ、苦笑する木崎の顔を思い起こす。
『もう一度、かっこいいとこを見て欲しいんだよ。……茅女に』
 聞くだけでも俯きたくなった台詞だ。口にする方の恥ずかしさは更に勝った
だろう。あの時の彼の赤面を思い浮かべると、思わず含み笑いをしそうになる。
 正直なところを言うなら、空手道場には興味を引かれなかった。行っても、
きっと退屈するだろうと思う。それでも暫く迷った末に承諾してしまったのは、
彼とこのまま別れたくないという気持ちが、茅女の内にもあったからなのか。
 ――もう一度くらい、会ってもいい。
 木崎と出会って以来、心中で何度も繰り返されたその声に、今度も茅女は従
ったのだった。だがそれも、これで最後だろう。
「どうであれ、ここで区切りをつけなくちゃなんないよね。うやむやは駄目よ、
うやむやは」
 あたかも彼女自身が当事者であるかのような意気込みを見せて、瑞穂がぐっ
と拳を握り込む。餌欲しげな鳩や雀を足元にまとわりつかせつつ、
「すっぱり別れるのか、それとも遠距離恋愛か。ここでエンディングか、第二
部へ突入か……。
 さあ、かやちゃんの選択は、どっち!?」
 びし、と人差し指を突きつけてくる彼女。
 急な動作に驚いた鳥たちが、ばさばさと逃げ散っていく。首を巡らせてその
様子を眺めながら、茅女は思ったことをそのまま口にしてみた。
「……別に、その二択と決まっているわけでもないと思いますが」
「それは……確かにそうね」
 意外にあっさりと、瑞穂が首肯する。他にはないと決めつけてくるものだと
ばかり思っていた茅女は内心で驚いた。表向きはふざけていても、その裏で真
摯に考える。彼女にはそんなところもあったことをふと思い出し、少しだけ申
し訳ない気持ちになる。
「そうよ。一気に結婚という選択もあるよね。ううん、お爺様に反対されて駆
け落ち、って可能性も考えないと。お金の用意が必要かしら」
 そして、真摯に考えていると見せて、180度ズレた解答を導くようなとこ
ろも。もう二度と忘れまいと、茅女はその情報を脳内にある彼女のページに太
字で記録した。
 だが、木崎とのことを中途半端にしたままこの街を離れたいとは、茅女も思
っていなかった。どういう形になるにしろ、すっきりさせておきたい。煮え切
らない関係のまま別れ、煮え切らない気持ちのまま帰り、煮え切らない思い出
として彼のことを胸の内にしまっておく。それは願い下げだった。
 茅女はどうしたいのか。それは決まっていると言えば、決まっている。
 これで、お別れ。それでいいと思う。虚勢ではなく本心のつもりだ。実際に
そうなっても、後になってくよくよ思い悩んだりはしない自信がある。
 しかし一方で、残念に思う気持ちがあることもまた茅女は自覚していた。お
そらく木崎という男は、この世界では数少ないだろう、社交性協調性を欠く茅
女と反発しない人間のひとりだ。どうしても別れたくない、とまでは思わない。
だが別れなくてもいい、とは思う。友人付き合いを続けても構わないとは思う
のだ。
 だから、木崎次第。彼がどういう意思表示をしてくるか、それによって決め
る。茅女はそう、思い定めていた。
 責任を押し付けてしまっている、という自省がないわけではない。が、出会
いは偶然として、その後で距離を詰めてきたのは木崎の方だ。その程度の責任
は負わせても、不当な扱いとは言えまい。
 彼はどうするだろうか。それは予測しかねた。これまでの彼のやりようから
すれば前に出る選択をしそうだが、この土壇場では迷うような気もする。迷っ
た末に退くか。それとも決断出来ずに終わるか。勝手だとは思いつつも、茅女
は少々楽しみだった。
 ……まあ、何にしても。
「後悔だけは、しないようにね」
 胸中で自分に言い聞かせかけたことをそっくりそのまま、ぽつりと傍らから
囁かれて、茅女は俯けていた顔を振り向かせた。何処か懐かしむような光を瞳
に湛えて、瑞穂が小さく微笑している。
「ちゃんと、気持ちに決着をつけてきなさい。かやちゃんが思うままに、ね」
「…………」
 茅女は逆らわず、こくり、と首を肯かせた。
 彼女は、自分よりも長い時を、より広い世界の中で過ごしてきたひとだ。だ
から、自分には見えないものが色々と見えているのだろう。それを知ることは
出来ずとも、そこからの忠告は、素直に受け止めておくべきだった。それが出
来ないのなら子供であり、自分はもう子供と主張出来る年齢ではないのだから。
 そんな茅女に、瑞穂がふふ、と今度は声に出して微笑む。
「実は、そのために必要なものも用意してあるの……これよ」
 右手で胸元を探り、彼女が取り出して渡してきたものは――ひとつの、箱だ
った。
「……?」
 眼を近付け、そこに描かれた文字を読んでみる。
「…………『明るい家族計画』…………」
「必要でしょ? あ、使い方はちゃんと教えてあげるから心配しないで。ええ
とね、まず――」
 ……確かに、役立ちそうだ。視線を箱から妙に嬉しそうな瑞穂へと移しつつ、
茅女は首肯した。
 何故なら、その箱は瑞穂の口に突っ込んで黙らせるために、丁度良さそうな
大きさをしていたので。




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