ブレイドシティ「ディープレッド・クルスェイダー」(後編)



                ***


 すなわち、世界は二つの選択肢のみを我々に提示する。裏切りに怯えながら
生きるか、絶望に身を沈めて生きるか。どちらであれ、この世界における我々
の生は苦痛によって支配される。

 十字の戦士。
 お前は正しい。


                ***


 その日の木崎は、最初から、表情に靄をかからせていた。
 挨拶を交したきり、口も開こうとしない。不機嫌なような、それでいて浮つ
いているような、不明瞭な空気を纏って、黙々と歩いて行く。
 物思いに耽っているのだろう、かなりの早足になっていることにも気付いて
いないようだった。少なからず苦労して、後を追う。
 木崎の足は、郊外へと向かっていた。
 進むにつれて段々と、風景が寂寥感を増してゆく。視界の中で人間の数が減
少し、アスファルトとコンクリートは剥き出しの地膚と緑の草木に取って代わ
られる。茅女には、その方が心地良かったが。
 唐突な声は、刈り入れ前の田圃の脇を歩いている時に掛けられた。
「なあ」
 一瞬だけ、迷う。辺りに他の人間の姿はないのだから、木崎以外のものでは
有り得ない。そうでなくとも聞き慣れた響きで明らかだ。だが彼は、茅女の方
を向いていなかった。相手のことを知り尽くせるほど付き合いは長くないが、
こんな話し方をする男ではなかったように思う。
 しかし彼は背を見せたまま、顔を見せないまま、続けた。
「俺のこと、好きか?」
 ただ一言。
 それが、本来の彼らしく――と茅女が思える――形としては冗談めかし、そ
の中に本気をちらつかせてのものであったなら、茅女はまず「いいえ」と即答
し、彼が田圃に転がり落ちてから「……冗談です」と告げたことだろう。二人
は出会ってからずっと、そんなやりとりばかりを繰り返してきたのだ。光景を
想像しようとすれば、高画質映像で脳裏に思い描ける。
 だが木崎の声は、真剣さを孕みつつも何処か投げやりで、まるで彼らしい物
言いではなかった。敗者の悪あがきのような。そんな声に言葉を返すことが出
来る筈もなく、茅女は沈黙を守る以外になかった。
 木崎はそれを返答と受け止めたのだろう。そうか、とだけ呟き、彼もまた口
を閉ざした。
 その後はもう、ただ歩いてゆくのみだった。茅女もただ、着いてゆく。胸中
に困惑の煙をくゆらせながら。
 田圃が左右から消え、今度はまばらに木々が立ち並ぶ林の中に入る。茅女は
脳裏に地図を広げて、大まかな位置を把握した。街の中心部から見て北西の方
角、市街地からは離れた辺りだ。以前は工場が幾つか建っていたらしいが、現
在はこれと言って何もない地域だったと記憶している。まあ道場とかいうもの
は、大抵がそんな辺鄙な場所にあるものなのかもしれないが。
 行く手に、黒い建物が見えてきていた。古びたコンクリートの壁で周囲を囲
まれた、二階建ての家屋。あれが木崎の空手道場、ということはないだろう。
遠目にもはっきり分かるほど、手入れがされていない。窓ガラスにはひびらし
きものがある。廃工場か何かのように見えた。
 近付いてみれば、その印象は一層強まった。壁の汚れ具合は、この建物が年
単位の時間放置されてきたことを雄弁に語っている。窓ガラスは、ひびどころ
か割れているものが少なくない。放棄された工場のひとつとみて間違いないだ
ろう。
 だがその廃工場に、木崎は向かってゆく。
「……明さん?」
「こっちだ」
 不審の念を込めた呼びかけにも、彼は振り返ることなく、ぼそりと答えたの
みだった。足を止めることなく、開いたままの門を潜る。仕方なく、茅女もそ
れに続いた。
 ここが道場なのだろうか。経営不振のためとしても、もう少しましなところ
がありそうなものだ、と茅女は思った。これでは弟子も通いたがるまい。
 見るからに立て付けの悪そうなドアを開き、木崎が建物の中へ姿を消す。数
歩ほども遅れて、茅女も入り込んだ。
 中は、暗い。かなりの広さがあるようだが、随分と色々なものが詰め込まれ
ているのだろう。闇の中に無数のシルエットが林立していた。それらの詳細は
電灯がつかねば分かりそうにない。窓から日光が差し込んでいる筈だが、それ
も物体で遮られてしまっているようだ。
「明さん……?」
 姿が見当たらない。何処にいるのか、手近な闇に向けて呼びかけてみた、そ
の瞬間のことだった。
 ――がしゃん、と。
 背後で轟音が響き、同時に周囲が完全な闇に落ちる。
「……!?」
 ドアが閉ざされたのだ。それはすぐに分かった。しかし、誰が。自分より先
に行った木崎以外に、誰かいるとでもいうのか。
 風で閉じたのかもしれない。そう思って、茅女は慎重に、這うような足取り
でドアに近付こうとした。慌てて動くと危ない。ゆっくりと……
 どす。
 数歩も行かないうちに、茅女は肩に衝撃を受けて足を止めた。痛みはない。
硬いものではなかったからだ。むしろ柔らかい――人の体のように。
「!」
「つーかまーえたー!!」
 そう思った刹那、嬉しげな声と共に、何かが体に絡み付いてくる。腕だ、と
腹部に回されたものの感触で察せられた。すぐに振り払って逃げようとしたが、
それは圧倒的な力で茅女を押さえつけ、背後から抱きすくめた。
「やっ……!」
「よーしよし。いいぜー、電気つけろ」
 かちん、と小さな音が鳴り、頭上から光が降り注ぐ。黒から白へ、急激な視
界の変化に、茅女は目を眩ませた。痛みと、白さ。ごく僅か、茅女の意識を支
配して、それらはすぐに薄れゆく。白に埋め尽くされていた世界が、少しずつ
色を取り戻し、紫を経て――人間になる。
 人間。復調した目に、最初に映ったものがそれだった。林立する器材の中に
ある空き地、茅女から5メートルほど離れて、床に腰を下ろしている男。こち
らを見上げた、その顔は。
「明さん……」
「……ああ」
 感情を殺した声。茅女を見ながらも目を合わせようとはせず、木崎はそこに
座っていた。
 なら、自分を捕まえているのは誰なのか。首を回そうにも、がっちりと押さ
えつけられていては無理だ。腕の太さから見て、かなりの大男だということは
分かったが。
「おっと、妙な動きはするなよ」
 野太い、耳障りな声だった。すぐに気付かなかったのが不思議なほど、木崎
には似ていない。だが、何処となく、聞き覚えがあるような気がしなくもなか
った。
 すい、と。
 それが視野の中に割って入る。薄汚れているが、それでも銀色の輝きを失っ
てはいない鉄。自分を向く、鋭利な刃。
 日本刀、だった。
「おとなしくしてろよ。顔に傷がつくぜ」
「そーそー。俺たちゃ随分待ったんだぜ? んでよーやくヤれると思ったら顔
ずったずたなんて、そんなのやだよ俺は」
「ははは。俺はそーいうのも嫌いじゃないけどねー」
 背後の声に続いて。
 左右の物陰から、男が二人。赤いシャツの男と、ピアスが目立つ男と。同じ
ように、愉しげな笑みで口元を歪めている。
 見覚えが――あった。
「……貴方たちは」
「覚えていてくれたかい。えーと、カヤメちゃん?」
 ピアスの男が、喜悦の声を上げる。
 彼らは……彼らだ。あの日、茅女に絡んできた三人組の男達。
「……なぜ」
「なぜかなー? 分からないかなー?」
 捕らえた獲物をいたぶる者特有の、嗜虐性に満ちたねっとりとした声音で、
赤シャツの男が問い掛けてくる。
 なぜ。
 なぜ、彼らが木崎と一緒にいるのか。分からない。分かりはしない。
 だが。茅女は胸中に冷たいものを感じた。分かることがある。分かりつつあ
ることがある。
 自分は――裏切られたのではないかと。
「どーする、アキラ。お前から説明するか?」
 赤シャツ男は、木崎に水を向けた。茅女もつられて、再び彼を見やる。
 木崎は、応えない。どうでも良さそうに、鼻を鳴らしただけだ。男に目を向
けることもなく。茅女と視線を合わせることもなく。
「んー。つまりね」
 得意の絶頂という表情で、ピアスの男が指を振る。
「俺たち、『ふじょぼーこー』グループなのよ。四人組のね」
 婦女暴行。
 四人組。
 ……数えれば、木崎を含めて、四人。
 茅女の視線を頬に突き刺されても、彼は何も言わない。何も。
「手口は、だ。まず三人で目をつけた女に手を出す」
 男が続ける。
「そこに残り一人が割って入って、女を助ける。
 んで信用させたとこで、ここに連れ込んで」
「いただきまーす♪」
「そーそー」
 だはは、と木崎以外の三人が揃って笑った。
 木崎は何も言わない。憮然としたような、不貞腐れたような、そんな顔をあ
さっての方に向けている。それだけだ。首を振ることもなく、否定の声を上げ
ることもない。
 否定、しない。それはつまり――肯定だ。
(…………あ……)
 感じる。
 胸の奥に。疼くモノの存在を、感じた。
 これ、は。
「でも普段は、こんなに時間掛けないよな」
「ああ。アキラが勿体ぶるからよー」
 男達の喋りは止まらない。
「溜まっちまったぜ。この女は、もう使いもんにならねーしさ」
 ピアスの男が、足元のそれを足で小突く。
 ――それ。
 茅女はその時、初めて気付いた。
 この場にいる、第六の人間……倒れ伏す、裸の女に。
「う……あう……」
 呻いて、女がよろよろと上体を持ち上げる。
 おそらく、かつては美しかったのだろう。だが今は見る影もなかった。長い
髪は埃にまみれ、瞳は焦点を合わさず、体は肉を失いげっそりと痩せ細ってい
る。動かなければ、死人だと言われても信じたに違いない。
「いや……助け……もう…………」
「うるせえよ」
 どか、とピアスの男が蹴り飛ばす。
 大して強い蹴りとも見えなかったが、女はあっさりと転がり、そのまま動か
なくなった。辛うじて背中だけが、呼吸の存在を示して微弱に揺れている。
「そろそろ死ぬよな。どーする? こいつ」
「いつも通りでいいじゃん。ドラム缶にセメント漬けで」
「あー、またあれやんのかよ。めんどくせえんだよなー。おいアキラ、今度は
お前やれよ。前回フケたろ?」
「ん、ああ……」
 赤シャツの男に再び声を掛けられ、木崎が初めて、口を開く。
 いかにも億劫そうな、憔悴した女のそれとさして変わらないような声音だっ
た。赤シャツの男が、不審そうに眉根を寄せる。
「どしたんだよ、お前。さっきから変だぜ。元気ねえじゃんか」
「おいおい……まさか、この女に本気になっちゃいましたー、なんて言わねえ
よな?」
 背後から茅女に刀を突き付けている男のおどけた声に、木崎がゆっくりと重
い動きで顔を振り向かせた。男を、いや茅女を見る。
 数秒、沈黙して。
「……驚かないんだな。茅女」
 そう、ぽつり、と呟いた。
 男達が一瞬きょとんとする。
「……そー言えば、そーだな。暴れねーし、騒がねーし」
「ま、いくら騒いだって無駄だけどな。ここ、人来ねえから」
「ああ。警察にも見つかってねーくらいだし」
「俺はさ」
 彼らに構うことなく、木崎は言葉を繋いだ。
「結構、悩んだよ。お前のことは、気に入ってたからさ。
 正直、見逃してやっても良かった」
「おい、おい」
「でもな……」
 うろたえかけたピアスの男を手で制して。
 木崎が口元を、歪める。
 大きく。
 何かを塞き止めていた何かが消失し、何かが溢れ出したかのように。
 ――形相が、一変する。
「やっぱ、駄目だわ。
 こーいうコトの味を覚えちまうとね……もう、女をそーいう風にしか見られ
ないんだよ。
 ずっと考えてた、お前といる間……どーやって犯してやろうか、犯したらお
前はどーいう感じで泣くんだろうか、ってさ。我慢出来ないんだよ。無理なん
だよ絶対。
 だから」
 そう、言って。
 にぃ……と。
「悪いな、茅女」
 木崎は……嗤った。

 ――あぁ。
 胸の疼きが増す。
 これは、痛み。痛みだ。
 苦痛。傷が生む苦痛。
 ――わたしは、傷つけられている。

「驚かすなよ。マジでその女に入れ込んでるのかと思ったじゃんか」
「全くだぜ。ま、今更一人だけ逃げようったって、そうはいかねーけどな」
「そーそー。一蓮托生だぜ? 俺達は」
「ふん……分かってるよ、んなこたー……」
 木崎は、仲間――そう、仲間だ。彼の――に苦笑気味の表情を見せると、再
び茅女の方に目を戻した。
 もう、目を合わすことを避けようとは、しない。
「ほんとに、驚かないな」
 こちらの表情を見て、肩を竦める。呆れたように口を尖らせて、
「表情の乏しい奴だとは思ってたけどよ。限度があるだろ。まさか、全部分か
ってましたとは言わないだろうな?」
「……まさか」
 小さく、かぶりを振る。
「思ってもみませんでした。貴方が、そういう人だとは」
 そうだ。そんなことは、考えもしなかった。一度も。一度たりとも。
 自分は、裏切られた。騙されたのだ。なら、彼の言う通り、驚いてもいいの
だろう。
(……でも)

 知っている。
 そんなことは――とうの昔から、知っている。
 世界が裏切りに満ちていること。
 世界が、自分を傷つけるものだということは。

「だったら、なんかないのか?
 なんかあるだろ……泣くとか、なじるとか。拍子抜けしちまうぜ」
 それが不満だとでも言いたげな、木崎の言葉。
(……泣く? なじる?)
 違う。

 違う。
 そんなことではない。
 傷つけられた時にすべきことは――そんなことではない。

「へへ。ま、いいじゃんか。おとなしくしてんなら、そっちの方がやりやすい
だろ」
 そんなことを言い、背後の男が顔を近付けてくる。
 ……臭い。
 ……臭い……。

 瞬き、する。
 一瞬の闇の中に、閃くものがあった。
 ……これは、記憶。


 最初は、匂い。
 アルコールだ。酒の匂い。
 ……臭い。
 酒臭い。嫌な匂い。
 次に、影。
 黒い大きな影。
 のしかかってくる、巨大なもの。
 そして――痛み。
 それが、全て。世界の全て。

「痛いか」
 ……痛い。
 殴られているのだから――痛い。
「痛いだろう」
 殴られる。
 痛い。
「それが、私の味わったものだ。お前が生まれたことで味わった私の苦痛だ」
 殴られる。
 痛い。
「知れ。お前は私を傷つけたのだ。今も傷つけている。お前がいる限り、私は
傷つき続ける」
 殴られる。
 痛い。何故。
「疑問を抱くな。私は絶対者だ。お前の神だ」
 神。
 貴方が。
「そうだ。お前が逆らうことは認めない。甘受しろ。この苦痛を」
 殴られる。
 痛い。
「甘受しろ」
 痛いのです。とても痛い。こんなにも痛くては、壊れてしまいます。
「壊れろ」
 痛い。
 嫌です。壊れるのは恐い。
「ならば、私の傷を癒してみろ。お前が――したものを蘇らせてみろ」
 痛い。
 壊れる。恐い。
「それとも、逆か……私をも、――してみろ。それでもいい。罪をもって罪を
贖え。生まれながらの罪人め」
 恐い。壊い。恐い。壊い。
「出来ないか。出来まい。ならば苦痛を甘受しろ。それだけが、お前の神が許
すお前の生だ」
 嫌。嫌。嫌。
「黙れ。嫌なら――」


 背後の男に、無遠慮な手で胸を掴まれる。
「おー、やわらけーなー。小さいけど」
「そこがいーんじゃねーか、そこが。おい、俺にも触らせろ」
「ちょっと待て。さっき順番決めたろ」
 ……痛い。
 苦痛だ。自分は傷つけられていると、茅女は自覚した。今も。今も。


 神なるかた。
 空であり風であり大地であり海である神なるかた。
 わたしを生み育て教え支配した神なるかた。
 わたしは貴方を傷つけてしまいました。
 わたしは謝りました。ですが貴方は許して下さらない。
 貴方に傷が残る限り、わたしは貴方に許されない。
 傷には、癒しを。でもその術をわたしは知らないのです。
 だからわたしには、これしかありません。
 傷には傷を。
 わたしは壊れたくないのです。
 わたしが与えた傷に、わたしはもう一度刃を突き入れ引き裂くのです。
 傷が貴方の全てを呑み込み、全てが傷と共に消失するまで。
 貴方がわたしを傷つけることをやめるまで。
 貴方の命じるままに。

「――殺してみろ」

「母を殺したように。この私をも、殺してみろ」


 木崎と視線が合う。
 茅女をか、自分自身をか、嘲るように歪んでいたその口元が――ぎょっ、と
引き攣る。
 見開いた双眸を凝固させてこちらを見つめ……やがて、唇を震わせて声を絞
り出した。
「おい……お前……」


 神なるかた。
 わたしは貴方を傷つけて生まれてきました。
 その傷にかけて、貴方はわたしを傷つける。
 傷には傷を。
 でもわたしは傷つけられたくない。痛みは恐いのです。痛みはわたしを壊す
のです。
 だから――

 き、ず、に、は、き、ず、を。

 神なるかた。世界なるかた。
 わたしは貴方を傷つけます。
 いつか、貴方が許して下さるまで。


「なんで……笑ってんだよ」
 木崎の呟き。
(……笑う?)
 何を馬鹿なことを、と茅女は思った。
 自分はこんなにも傷付いているのに。こんなにも苦しんでいるのに。
 笑うことなど出来よう筈がない。

 
 傷には――

 今また、貴方はわたしの前に立つこの者たちとなり、

 ――傷を。

 わたしを傷つけるのならば、

 傷には傷を傷には傷を傷には傷には傷を――

 わたしは、この貴方を、刃をもって切り裂かなければならない。


 ちろり、と舌で唇を舐めた。
 乾いた皮膚を僅かに湿らせる。
 意味などはない。ほんの些細な、自分への合図のようなものだ。
 ふと、呟きを洩らす。
「ここは、人通りがない……どんなに騒いでも誰も来ない。でした、ね」




 神なるかた。
 貴方の御言にかけて、
 わたしは殺戮を行います。




「気をつけろ。そいつ、ナイフかなんか持ってるぞ!」
 木崎が叫ぶ。
 声の内容より、その大きさに驚いたのだろう。赤シャツの男とピアスの男が、
慌てて足元に転がるものを拾い上げた。……金属バットと、木刀を。
「はい……持っていますよ」
 それと同じタイミングで、茅女は左手をスカートのポケットに突き入れた。
想定していた通り、硬質のものが指に触れる。が。
「おーっと」
 背後の男に、その腕をがっしりと掴まれた。
「危ねえもん出すなよ。痛い目見たくねーだろ?」
 ぎり、とその手に力が篭もる。
 試すまでもなく、筋力が違い過ぎる。引き剥がすことは不可能だ。
 だが、構わない。この位置ならば、問題ない。
 茅女はポケットの中のそれを握り込み……トリガーを、引いた。
 ――ぱんっ、と。
 ごく軽い、乾いた音が鳴り響く。
「……え?」
 耳に流れてくる、ぽかん、とした声。
 茅女は男から身をもぎ離した。男の腕は既に力を失っていたから、逃れるこ
とは造作もない。刀に顔が触れないように注意して、一歩の距離を取りつつ振
り返る。
 日本刀を手にした、大柄な男。茅女はすぐに思い出した。あの日、茅女の胸
座を掴み上げた男に間違いない。
 その男は今、ただ、呆然としている。
「な……なん、で?」
 己の左足を見下ろしながら、そんな声を洩らしていた。
 左足の、太腿。そこに開いた小さな穴から、大量の血液が噴き出している。
おそらく、動脈にまで達したのだろう。青いジーンズの左半分が真っ赤に染ま
っていた。
 男にその傷を与えたものは、茅女の手の中にある。のろのろと顔を持ち上げ
た男はそれを見ることは出来たろうが、果たして理解するだけの余裕があった
かどうか。
 デリンジャー・ハイスタンダードD100――茅女の小さな手にも不自由な
く収まる小型拳銃は、あと一発の弾丸を残していた。
「さようなら」
 囁いて、引き金を引く。ダブルアクションのハンドガンは、それ以外の動作
を必要としない。
 炸裂音が、もう一度。男の右眼が弾けた。ただの穴になった眼窩から、血と
脳漿とそれ以外のものの混合液を吐き出して、男がのけぞり、声もなく倒れゆ
く。
 弾を使い切り、武器としての意味をなくした銃を、茅女は適当に投げ捨てた。
仰向けに倒れて、びく、びく、と痙攣する男に歩み寄り、その右腕を踏みつけ
る。手首から先だけが動きを止めた。そこから日本刀を取り上げて、重さを確
かめてみる。
 重い。1キロ強というところか。茅女本来の得物とは重量が違い過ぎる。使
いこなすのは無理だろう。だが、今はこれで我慢するしかない。
 刀を肩に担ぎ上げて、茅女はくるりと身を翻した。残る三人の男は身動きも
せず、ただ真っ白な表情で凍りついている。
 養豚場で黙って死の訪れを待つ、三匹の豚。彼らの姿は、茅女にそんな連想
をさせた。最も近くにいる豚、金属バットをぶら下げた赤シャツ姿の男に向か
って、軽く一歩を踏み出す。
「かっ……」
 びくん、と男は身を震わせた。意味があるとも思えない掠れ声がその口から
漏れる。更に意味なく左右を見回して、その間に茅女にもう一歩踏み込まれる
と、ようやく危険を理解したようだった。金属バットを振り上げ、打ち掛かっ
てくる。
「かあああああああっ!?」
 勢いだけなら、それは充分な威力を備えていたと言えたろう。だが攻撃とし
ては無駄が多すぎ、しかも目測を誤っていた。茅女は小さく一歩退いただけで、
バットの軌道から体を完全に外させる。がんっ、と虚しく床を打つ音が、その
一瞬後に反響した。
(傷には傷を)
 刀を振り下ろす。茅女の手には重過ぎるそれは、必ずしも疾風のような速さ
を有してはいなかった。だが疾風であろうとそよ風であろうと、固い床を叩い
た衝撃で腕を麻痺させていた男には、等しい意味しか持たなかったろう。刃は
容易く彼の左肩を抉り、胸の中央までを切り裂いた。僅かな間を置き、噴き上
がった鮮血が天井にまで到達する。
「ひがぁぁぁぁあああああああーーーーーーーーーーーーっっっ!!!???」
 絶叫が上がった。裂けんばかりに口を開き、男がよろよろと後退る。そのた
めに刀が抜け、出血を更に激しいものにした。がくりと膝をつき、男はもう他
に何も出来ることはなく、既に蒼白な顔を一瞬毎に更に白くしながら、自分の
体に生まれた欠損を凝視していた。意識を失うまでの数十秒を彼はそうして過
ごし、そして死んでいくのだろう。
 血を浴びまいと、茅女は噴水と化した男からサイドステップで離れた。自然、
残る男の一方、ピアスをした木刀の男に近づく。
「ちっ……!?」
 彼がとった行動は、赤シャツの男よりも理性的だった――あるいは全く逆と
もとれた。足元の女の首を掴んで引き起こすと、茅女に向かって突き飛ばした
のである。
「え……なに……」
 状況を理解していないのだろう。裸の女はよろめき、ふらふらと近付いてき
た。その頭越しに、木刀を振りかぶって駆け寄ってくる男の姿が見える。
 ――邪魔、だ。
 この女性も、わたしを傷つけようとしている――
 致命的な間合いに入られる前に、茅女は刀を腰溜めに構えた。障害物となる
女は、もう息を吐けば届きそうなところにまで来ている。だがまだ距離はあっ
た。殺傷を許す距離は。
 体重を乗せて、一気に踏み込み、刀を突き出す。
 切っ先は女の鳩尾から入り、首の付け根辺りから抜けた。そこで止まらない。
勢いの乗った刃が更に走り、背後の男の顎を下から縫い通す。先端が男の後頭
部から飛び出し、鍔が女の胸に押し当てられて、ようやく疾走は終わった。ご
ぼ、と男の口から溢れた朱液が、刀身の上を這う。
 遅滞なく、茅女は即座に動いた。このまま放置すれば筋肉が凝固し、刀が抜
けなくなるからだ。女の腹に右足で蹴りを入れ、同時に柄を思い切り引く。若
干の抵抗のみで、刀は引き抜かれた。反動で茅女がたたらを踏み、女と男は折
り重なって倒れる。
 二人とも、即死のようだった。頭を貫かれた男は当然として、胸を刺された
女が苦しまずに済んだのは、既に憔悴しきっていたからに違いない。不運な女
性の、ささやかな最後の幸運というところか。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、最後の一人に目を向ける――
 刹那。
 視界の中央に煌くものを捉え、茅女は右腕を跳ね上げた。
 ぱしん、と音が鳴ると共に衝撃が腕に走り、何かが弾けて壁に激突する。床
で二、三度バウンドし、茅女の足元にまで転がってきたそれは、一つの道具だ
った。
 錐だ。鋭い先端を持つ工具。微かに、血が付着している。
「あぁ……」
 茅女は呻いた。
 腕に、小さな裂傷が生まれている。鉤裂き状の、惨たらしい傷痕。
「痛い」
 ちゅぷ、と唇を押し付ける。鉄錆の味が口腔に満ちた。
 まただ。また、自分は。
「傷つけられている……わたしは、傷つけられている」
 腕を下ろし、顔を持ち上げる。
 視線の先に、彼がいた。
 錐を投げつけた姿勢のまま、立ち尽くしている。表情は強張っていた。信じ
難いものを見る眼差しで、こちらを見つめている。
 暫く。言葉もなく、視線を交換し合う――
「…………あのさ」
 赤シャツの男の出血が終わり、息絶えたと見えた頃。
 ようやく、木崎が口を開いた。
「おまえ、何?」
「人間です」
 迷う必要がなかったので、即答する。いつかと、同じように。
 木崎も忘れてはいなかったろう。笑みと引き攣りの中間じみた形に唇を歪め、
口を継いできた。
「嘘つけよ。人間ってのは、もうちっとおとなしい生き物のことを言うんだ。
 何だよこれは、おい……いきなり銃なんぞ使いやがって。あっさり殺しやが
って……挙句に、罪もない女までよ……。
 化け物、だ。お前みたいのは、化け物って言うんだよ……」
 言いながら、木崎は視線を周囲に走らせる。
 彼が求めた疑問の答えは、すぐに与えられた筈だ。望まない形で。この室内
には、出入り口は一つきり。そしてそこに達するには、茅女を突破しなくては
ならない。
 それでも足掻くように彼の視線はあちこちへ飛び、しかし最終的には、茅女
のもとへ戻ってきた。
「……試してみてはどうです?」
 追い詰められた者の眼差しを受け、ふとそんなことを言ってみる。一人の男
を殺して奪い、三人の人間の血を吸った刀を、頭上へと振り上げながら。
「試す?」
 訝る木崎。彼もじりじりと動き始めていた。腰を軽く落とし、いつでも飛び
出せる体勢を整えて、慎重に間合いを計っている。
 距離――4メートルほどか。
「映画館で、言っていたでしょう……貴方の、素手で剣に対抗する方法」
 刀を上段にとる。
 腕が荷重で震えた。長くは保たない。速やかに決着をつけねばならない。さ
もなくば、敗れる。
 だが心はあくまで冷静に、間合いを詰めてゆく。木崎の力量は承知していた。
一度のミスが、敗北に直結する。この場において焦燥とは死神だ。
「……ああ。言ったな、そんなこと……。
 いいぜ。やってやる……やってやるよ、イカれ剣術女」
 茅女に呼応するかのように、木崎は両腕を持ち上げた。171か2センチ、
男性としては決して長身ではないが茅女よりは頭ひとつ分高く、厚さにおいて
は比較しようもない体躯が、その一動作で更に膨れ上がったように見える。錯
覚ではない。木崎は確かに大きくなり、変化したのだ。虚しく死ぬだけの豚か
ら、生きるために牙を剥く虎へと。
 じり……
 足元から音がする。砂利だ。靴底が砂利を踏み転がし、小さな音を立ててい
た。耳に障る音色ではあったが、今は気にならない。
 じり……
 彼の足元からも。退けば技以前に気持ちで負けると思い定めたのか、木崎も
また摺り足で間を詰めてくる。その顔は血の気を失ってはいたが、焦ってはい
なかった。胎を据えたのだろう。極限まで研ぎ澄まされた集中力を感じる。そ
れを見た時、やはりこの人は嫌いではない、と茅女は改めて思った。
 じり……
 あと3メートル。
 両腕が微弱に痙攣を始めていた。限界が近い。こうなるのは分かっていたこ
とだ。ただでさえ重過ぎる刀を、最も重さを誤魔化せない上段で構えているの
だから。だが他の選択肢はなかった。この、重さをそのまま攻撃力に転化させ
られる上段からの斬撃でなければ、彼の反応を超える速度は達成出来ない。他
の構えからの斬りつけでは、振りかぶるために必要な時間が長すぎる。正眼か
らの突きは、彼に刀を蹴り飛ばされるリスクが大きい。上段でしか、彼には勝
てないのだ。いや、上段ですら、どうか。
 じり……
 木崎はキックボクサーがよくそうするように、両腕を顔の左右で構えていた。
いざとなれば、腕を犠牲にして刀を止めるつもりなのだと見て取れる。木崎の
勝ち目は二つだ。こちらの振り下ろした剣を躱すなり止めるなりそれこそ蹴り
上げるなりして殺し、無防備にしたところを撃つのが一つ。でなくば、こちら
が切り掛かる前に懐へ飛び込んで撃つのが一つ。もし茅女と木崎の体格が同等
であれば、それは無謀以外の何物でもない。武器と素手、圧倒的な間合いの差
が木崎を殺すだろう。しかし女性の内でも小柄な茅女の射程距離は、刀の補正
があっても、木崎の蹴りが届く距離を大きく凌駕してはいなかった。彼の勝機
は、確実に存在する。
 じり……
 木崎の双眸を見て、茅女は直感し、そして戦慄した。この眼は確実に、間合
いを把握している。茅女の刀が何処まで届くか、己の蹴りが何処からなら届く
か、その差がどの程度のものか、理解しているのだ。彼は。同じものを茅女も
見ている。その差、その範囲内ならば茅女の勝ちが約束される域は、余りにも
狭い。扱いきれない刀を振り下ろし、その領域で彼を捉えられる可能性は五分。
いや、おそらくは五分を下回る。
 じり……
 あとひとつ。木崎を斬るにはあとひとつ、何かが必要だ。何か。殺傷を確実
なものにする何か。ある筈だ。それが無い筈はない。無ければ自分は壊される。
壊されるのは嫌だ。だが慈悲深き神なるかたは、必ず救いを用意する。世界は
茅女を傷つけようとするが、茅女が世界を傷つけて己の身を守ることも許すの
だ。だからそれは、ある。救いは在る。何処かに。何処かに。何処に。何処に。
何処に。何処に――
 じり……
 臨界点が近い。この空間における生命の存在許容量が限界に達する時が。こ
こはもう、二つもの生命を留めておけない。あと僅かで、生と死が交錯し、一
方の命が弾き出される。何処かへ、この世界ではない何処かへ。
 じり……
 何処に何処に何処に何処に何処に何処に何処に何処に何処に何処に――――
 じり……
 木崎が近づく。彼は己の有利を知り、しかしそれに気を緩めることなく、集
中力を維持したまま摺り足を続ける。茅女はふと疑問を覚えた。余りにも落ち
着いている。この人は、殺し合いの経験があるのだろうか? ……そうは思え
ない。これはおそらく才能。木崎明という男の、闘争の才能だろう。そうと認
め、感嘆し、だが同時に茅女は断じた。それでも彼は敗れる。この廃屋の床に
倒れ、命も才能も散らすことになる。予測ではなく、約束された未来だ。妥協
なき事実。何故なら、彼は七条茅女に傷痕を刻みつけたのだから。
 じり……
 ――――――――――――――――――――――――――――――あった。
 じり……
 二人の距離が、2メートルを割る――
 茅女は、そこで仕掛けた。
 大きく踏み込み、重心移動に腕力を乗せて、血刀を叩き下ろす。
「!」
 驚愕に見開かれた木崎の双眸が、網膜に焼き付いた。彼は予測していなかっ
たのだ。2メートルの距離、刀が届く筈のない距離で仕掛けられるとは。届く
筈のない距離。茅女のリーチでは遠すぎる距離。フェイントにもなりはしない。
それはただの自殺行為だ。そんなことを予測する筈がない。予測する必要がな
い。
 自殺行為ならば。上段に構えていた茅女が、そのまま刃を振り下ろしたのな
らば。
 ――片手一尺の利。
 その言葉を、木崎は知りはしなかったろう。茅女は右手を離していた。半身
になることを許された身体での、左手一本での斬撃は、一尺とは言わぬまでも
格段に伸び、標的を射程ぎりぎりで捉える。
 ぎりぎり、だ。刃先は木崎の顔を、胸を、ごく浅く切り裂いて、股下へと抜
けた。刀が床に激突しようとする。どうにもならない。最大限の勢いが乗った
鉄剣を、左手のみで引き止める術など茅女にはない。試みれば肉離れを起こす
だけだ。
 ぢゃあん、と酷い音を立てて、刀身が床で踊った。激しい衝撃を抑え込める
筈もなく、茅女の手から刀が跳ね飛ぶ。自由を得た銀色の殺刃は高く舞い、天
井を微かに叩いてから、遥か彼方へと転がっていった。
 木崎の傷は、致命傷にはほど遠い。皮一枚を裂いただけだ。ほんの一瞬もあ
れば、彼は立ち直ったろう。そしてもう一瞬で、突きなり蹴りなり、茅女の戦
闘力を一撃で奪える攻撃を繰り出せた筈だ。刀を失った茅女は、既にそれを阻
止する力を持ち得ない。
 しかし、彼に与えられた時間は、一瞬に満たなかった。
 茅女の右手が疾る。それはポケット――デリンジャーを納めていた方とは逆、
右のポケットだ――から飛び出し、最短距離を駆け抜けて、木崎の喉笛を一文
字に一閃した。肉を抉る感触が、命を斬る確実な感触が、茅女の指に、掌に、
心臓にまで伝わる。
「……言ったじゃ、ないですか」
 茅女は木崎に微笑みかけた。呆然とする彼の鼻先へ、右手に握ったものを示
して見せて。
「ナイフなら、持っている……って」
 甲高い音が鳴り響いた。ひび割れた笛のような。
 木崎の喉の傷、身体を縦に割る赤線と交叉して十字を描いている裂傷から、
鉄砲水にも似た血流が噴き出す。それは茅女の上体を紅く染め上げた。頬に、
胸に、彼の鮮血がねっとりと張り付く。
 噴出の反動か、木崎の身体がどう、と後ろに倒れ込んだ。衝撃の強さを連想
させる重い音が響いたが、既に彼の意識はなかったろう。木崎は、数秒前まで
木崎明であったものは、今はもう何を言うこともなく、光の失せた瞳で天井を
見上げている。いつまでも。いつまでも、ずっと。
 茅女は、背を向けた。ここにはもう、何もない。茅女を傷つけるものは、何
も。それ以外のものも。それ以外のものなど、この世界にありはしないが。
 歩み出す。
 一歩、二歩、三歩進み、一度だけ、足を止める。
「……素敵な時間でしたよ……明さん」
 それだけ、背中に囁いて。
 再び歩み出し、彼女は二度と、立ち止まらなかった。


 七条茅女は、帰っていく。
 彼女の街へ――廃都東京へ。












                ***


 ディープレッド・クルスェイダー。
 胸中に呟いて、比企十四郎はその名の所有者のことを思い浮かべた。
 ディープレッド・クルスェイダー。彼女は、そう呼ばれる。何故そう呼ばれ
るのか、十四郎はそれも知っている。だが殆どの者は、呼び名だけで意味まで
は知らない。
 おかしな仇名だ、と思う。
 この手の仇名、二つ名というものは、普通他人が付けるものだ。自分で名乗
る自己顕示欲過剰の輩もいなくはないが。しかし彼女はその類ではない。誰か
別の人間が、彼女をそう名付けたのだ。
 ディープレッド・クルスェイダー。紅い十字の聖戦士。
 誰か、いるのだ。彼女自身と十四郎の他に、彼女の本質を知る者が。素顔を
晒した彼女を目視し、それにふさわしい名を与え、密かに伝え広めた者が。
 受け入れ難い真実ではあった。彼女のあの、真紅に染まった十字の刃を前に
して、生き延びた者がいるなどということは。十四郎自身がそうではある。が、
それは十四郎の守護天使が死力を尽くした成果だ。幸運に定量があるものなら、
間違いなくあの時に使い切ったと確信出来る。なればこそ、他にもいるなどと
は俄かに信じられない。
 ディープレッド・クルスェイダー。その姿は、小太刀二刀を使う小柄な少女。
 彼女に、神代将人のような獣じみた剛力はない。斯波京一のようなスプリン
ター並みの俊脚もない。川村小夏のような器用さもテリーザ・カースルレイの
ような持久力もない。
 だが、天心館の同胞の中に、絶対の死の姿を十四郎に見せ得る者がいるとす
れば、それは彼女以外にはないと思えた。

 闘争が狂気の産物であるのなら。
 狂気そのものと化して戦いに臨む彼女は、戦場を支配する最強の闘士だ。

『……三島市の繁華街で発生した連続殺人事件の捜査は、行き詰まりを見せて
います。現在までの被害者は三人、凶器は全て鋭利な刃物です。警察では第四
の犯行もあると見て、付近の住民に注意を――』
「ねえよ……多分」
 テレビ画面から流れてきた地方ニュースに、何となく呟きを返してみる。誰
に聞かせるというつもりでもなかったが。
 そろそろ日が落ちるこの時刻、道場奥の茶の間でくつろいでいるのは十四郎
ひとりだけだ。将人とテリーザは所用で今日はいない。京一と小夏は、十四郎
と交替で先刻稽古を始めたばかりだ。一般門下生たちも二人の指導を受けてい
ることだろう。扉の向こうで元気な気合の声が轟いている。
 もう一人は――
 丁度、その時。道場から伝わる騒がしさが、別種のものに変わった。『おか
えりなさーい!』『お久しぶりですー!』といった挨拶の声が幾つも入り乱れ
て聞こえてくる。何があったのか、そこから想像するのは容易だった。
(……そう言えば、今日帰ってくるって言ってたか)
 程なくして、とてとてとてと軽い足音が近付いてくる。扉の前でそれは止ま
り、とんとん、と礼儀正しいノックの音に変わった。そんなことをする人間も、
ここには一人しかいない。
「いーぜ」
 十四郎が声を掛けると、戸が滑らかに流れ、少女がひとり顔を覗かせる。大
和人形を思わせる、小作りの繊細な容姿。予想通りの七条茅女がそこにいた。
 彼女は十四郎を見て、ぺこ、と頭を下げる。
「……ただいま帰りました。十四郎さま」
「おー」
 適当ないらえを返しつつ、十四郎は起き上がった。つけたままだったテレビ
を消し、取りあえず、お定まりの質問をしてみる。
「どうだった、三島は?」
「いいところでしたよ。……あ、これはおみやげです」
 合わせるように定型的な答えを返して、茅女が手にした箱を差し出してきた。
受け取って、箱の表面を見る。見覚えのあるものだった。思わず口元が綻ぶ。
「羊羹か……茶が欲しいな」
「……入れますね」
 くす、と笑って、茅女は立ち上がった。戸棚を開き、急須と湯飲みを取り出
す。手際良く準備を整えながら、彼女はふと尋ねてきた。
「将人さんとテリーザはいないのですね。……館長も」
「ああ。講習会だとかで田嶋道場に行ってるよ、将人とテリーザはな。館長は
知らん。どーせまたどっかの山奥で猿でも捕まえて食ってんじゃねーのか」
「早由李さんは?」
「死んだ」
「そうですか……」
 電気ポットから急須に湯を注ぐ。
 暫くそのまま待ち、頃合いを見計らって、茅女は湯飲みに茶を注ぎ始めた。
その傍らで、十四郎は羊羹の箱を開く。
 直後、がらがらどかんと遠慮会釈のない大音響を立てて入ってきた二人は、
余りにタイミングが良すぎた。
「あ、いーもの食ってる」
「ほんとだー」
「……これから食おうとしてたんだよ」
 稽古着姿の京一と小夏に、少しばかり憮然とした視線をぶつける。食い意地
の張った二人に見つかる前に、自分の取り分は腹に入れておきたかったのだが。
羊羹の箱の大きさからすれば、おそらくそれは無用の心配だったろうけれども、
この二人に対しては用心するに越したことはない。
「稽古はどうした?」
「休憩だよ、休憩。いーじゃんか、比企先輩だって、今日はロクにやってない
っしょ」
「あ、かやねーさん、手伝います」
「はい……じゃあ、湯飲みをあと二つ出して下さい」
 いつも通り生意気な顔をした京一が生意気に足を伸ばして座り込み、小夏が
ポニーテールをひらひらさせながら立ち回り始める。六畳の茶の間は途端に狭
くなった。そそっかしい小夏に足を踏まれたくはなかったので、羊羹一切れと
湯飲みを持って、壁際に退避する。
「んで、七条先輩。三島はどーだったの?」
「いいところでしたよ」
 茶も待たず、羊羹をがつがつ口に放り込みながら問う京一に、茅女は先刻と
同じ答えを返した。運んできた湯飲みを卓袱台の上に置き、小夏がその隣に座
る。京一の手をかいくぐって素早く羊羹を確保しつつ、彼女も話に加わった。
「何かいいこととかありました?」
「そう、ですね……色々ありましたから」
「なんですなんです? 恋人でも出来たとか?」
 茅女の、湯飲みに急須を傾けながらの答えに目を輝かせる小夏。ラジオペン
チ――どういう趣味なのか、彼女が常に持ち歩いているものだ――を握り締め
て、身を乗り出す。京一も、茅女の意味深と言えば意味深な言葉には興味をそ
そられたようだった。
 二人の注視を受けて、茅女がバリエーションを欠く表情に苦笑めいたものを
浮かべる。小さく左右にかぶりを振り、
「いえ。何度か、街で声をかけられたりはしましたし、ちょっとしたお付き合
いをした人もいますが……みんな、お別れしてきました」
「わー、かやねーさんてすごいですね」
「……三人か?」
 小夏の歓声から一拍置いて、十四郎はついと口にしてみた。
 茅女はまた、首を振る。
「いえ……合計すると、八人ですね。そのうち一人は女性でしたが」
「? どーして女の人が、かやねーさんをナンパするの?」
「ふっ……」
 小首を傾げた小夏に、京一が似合いもしない気取ったポーズを決めながら鼻
で笑ってみせた。小夏がむっ、と敵対の視線を向けてくるのにも構わず、髪を
かき上げなどしつつ口を繋ぐ。
「あれだな……子供には分からない大人の会話、ってやつだ」
「……問1。線形場の流束定理とは何か説明せよ」
「あーくそムカつくなこのガキは畜生っ!」
「うるさい、ばかきょー!!」
 がんがんがんがん、と菓子箱のフタとラジオペンチで乱打戦を展開しながら、
せわしなく転がり出ていく二人の後輩の背中を見送って、十四郎はふうと溜息
をついた。年寄り臭い行為だとは思うが、自分より若い連中と一緒にいれば、
どうしたところで老いを感じずにはいられない。生後十九年でそんなものを感
じたくはなかったが。
「十四郎さま」
「ん?」
 不意に呼ばれて、顔を向ける。茅女が湯飲みを両手に、じっと十四郎を見つ
めていた。内面にあるものを滅多に窺わせない瞳に、今は物問いたげな色があ
る。視線で先を促すと、彼女はおずおずと口を開いた。
「……あの」
「んー」
「…………わたしのこと、好きですか?」
「なんだよそりゃ」
 がく、と突っ伏す。
 ……まったく、どいつもこいつも。
 十四郎は脱力して、ごろん、と畳の上に寝転がった。畳はひんやりとしてい
るが、空気が温い。窓から流れ込む微風が、ぬるま湯の感触で肌を撫でてゆく。
 今日は残暑がきつい。寝苦しい夜になりそうだった。




                                (完)



 俺は私立探偵のハイドっ!  つう感じでフレンドリーにこんにちは。暑さが苦しくてつまりは暑苦しい中、 色々な意味で涼しげかもしれない作品を引っさげて再登場です。ちなみに前言 は何なのかピーンと理解した方、作中の某シーンはそれが元ネタっス。  しかし、なんで私立探偵なんスかね。街の掃除屋じゃ香港人には通じんのか。  今回はキラーマシン・七条茅女の話でした。外見は柏木楓アレンジバージョ ンって感じです。怒らんで下さい。楓が巫女さんルックを着るのです。喜んで 下さい。そしてムラサメ研究所で奪われた記憶を取り戻す為にサイコガ○ダム 乗って戦ってる訳です。石を投げないで下さい。おひねりは可。  ブレイドシティのストーリーは、十四郎と彼女が軸になると思います。軸と いうか、中心と言うか。世界の中心、その表に十四郎が、それと背中合わせの 裏側に茅女が、という感じですか。何にせよ、魅力的に描けりゃいいなと思っ てます。  次回作。 「かやちゃんの完全殺戮マニュアル」  なんつー誰も元ネタ分かりゃしねえパロは涙を飲んで焼却しておき。  多分、今回のラストでちょっとだけ顔を出した、剣術の天才であると同時に 反抗期のガキでもあり「色を知る年齢か!」と勇次郎に睨まれる時期でもある、 斯波京一の話になると思います。  秘剣にDCと、血生臭い話が続いたんで、今度は爽やか風味でいきたいなー と思ってます。廃都の連中だって年がら年中殺し合いばっかやってるわけじゃ ないですし。つーかンな街はイヤだ。  内容は、まだおおまかなところしか決まっていないので、ま、気長に待って いてつかーさいませ。  意見感想は、例によっていくらでも欲しいのでいくらでも下さい。カモン。 カモンカモン。  つうかですな。前回あれだけロコツに要求したにも関わらず、たった四通っ てのはどーいうことスか。その四通の内容はどれもソウルにズビシと来るもの だったのはいいとして、数がゲッターロボの操縦適格者並みに少ないのは何の 陰謀スか? 自由石工組合スか? 鸚鵡の地震兵器スか? 単にこれが分相応 てことスか? bの字に言わせりゃ感想なんてなかなか貰えるもんじゃないか ら、これでも上等らしいけんども。  俺のリアルな予想では、発表後三日にして感想メールの数は500を数え更 に口コミ効果によって広まったために殺到したメールによってサーバーが倒壊、 そして10を越す出版社から雑誌連載と単行本刊行の話が舞い込み北野武によ る映画化の話が持ち上がる頃にはファンクラブ会員が一万人を超えこのサイト はブレイドシティ公式ページとなっておりFrom以下略はその中の一セクシ ョンに没落しているはずだったのですが。  これはどーいうことなんしょかね。まあおそらく、感想メールが来ないのは 郵便事故、出版社から話が来ないのは業界内で誰がこの偉大なる素人(背中に 鐘を担いだシンシア【花右京メイド隊】の彫物アリ)を持っていくか談合の真 っ最中、ファンクラブは地下で結成されている、ってあたりが理由だと思いま すが。  とか何とか自己を欺瞞してられるうちに、ピンチに瀕した俺の自尊心と自己 顕示欲を満足させて欲しいと希望。俺にデカいツラをさせるために意見感想を サクっと書いて寄越して下さい。  スペシャルさんく。 「細かいミスと細かくないミスの指摘をありがとう、真実の友と書いて真友」 るーん、「アイデアをひとつありがとでした」久々野飛将軍、「お前を分類A 以上の足掛けこかせ男と認識する」YF−19しっぽさん、「HPでの宣伝、 どーもでした」夢幻アストン来夢さん及び鋼鉄戦鬼ジン同志及びDMLさん。  んで、前回に引き続き作品を掲載してくれた「原稿料払えと言ったらショバ 代寄越せと返されたよ畜生」bの字。  そして、この作品を読んで下さった全ての方々。  あーりがとーございましたー。  スペシャルシット。 「感想くれるんじゃなかったんかい」昂河さん。  とっとと送れー! みぎゃー!!  では、第三話でまた会いましょー。  蛇足。  木崎たちの犯罪は、実際にあった事件をモデルにしています。  遺体を発見された時、失踪前より20キロ痩せていたという被害者の女性に この作品を勝手に捧げて、勝手に冥福を祈らせて頂きます。 (01/07/12 ハイドラント) E−MAIL
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