最初の二十四時間が決する時となる。その日こそ、連合軍に
とって一番長い日(The Longest Day)となるだろう
       エルヴィン・ヨハンネス・オイゲン・ロンメル
















 その日はこの忌々しい殲争に携わった人間達にとっては、あるいは人間以外
の者達にとっても、一生涯忘れることができないに違いない。
 その日は玲二が武器弾薬を購入した翌日であり、エレンが名も知らぬ少女と
出会った翌日であり、第十三課が入り込んだ吸血鬼を始末した翌日であり、シ
エルとキャル、そしてダークマンが墜落した飛行機から装備品を掻き集め、一
路ローマ、ヴァチカンにひた走っている日であり、ヘルシングがヴァチカンま
で間近に迫っている日であった。
 天気は晴れで降水確率はゼロ、日本人ならば布団を干したくなるであろう日。
 気温は暑くもなければ寒くもなく、ローマに住んでいる人間の大部分が今日
はいい日になる、と確信していた。ヴァチカンを訪れた観光客や敬虔な信者の
大部分が今日は絶好の観光日和だと思っていた。
 戦闘が開始されたのは世界中の全てが幸せで温かなような、そんな日だった、
そんな時の昼日中からだった。

 異変に最初に気付いたのは、エレンだった。今は観光シーズンではない、だ
からエレンもさほど苦労せずにヴァチカンの名所を何度も見て回ることができ
たのだが、今日に限っていつもよりわずかながら観光客が多い。
「……」
 周りを見る。カレンダーを頭に思い浮かべ、今日は何かしらのイベントがあ
ったかどうか考える。何もなかった、イベントらしきものは何も。法王の説教
もないし、そもそも彼は今、ヴァチカンを遠く離れてフィリピンを慰問中のは
ずだ。
 ――何かおかしい。
 観光客が多い、というだけならばエレンも気のせいとして片付けていただろ
う、多くなるということはさして珍しいことではない、問題は増えた観光客と
いうのが明らかに異質である点だ。いや、果たして彼等は観光客と言えるのだ
ろうか? 少なくとも、ヴァチカンを訪れて数々の芸術品に驚嘆する人間、神
にもっとも近い場所、神聖なこの土地の空気に触れて厳かになる人間、何であ
れ観光名所という訳でやってきた人間、いずれにせよそういう類の者でないこ
とは確かだ。
 嘲笑。
 愚弄。
 憎悪。
 そんな感情をこのヴァチカンに持ち込んでいる。そういう負の感情がもっと
も相応しくないこの土地この日に、だ。エレンは最早ヴァチカンを巡る気を無
くしてしまっていた。テロリストだろうか? ならばあの第十三課に伝えるべ
きだろうか、それともこのまま引き返すべきか。
 考えるまでもないだろう、目立つのは願い下げだがこのヴァチカンがテロリ
ストに穢されるのはもっと悪い、最悪だ。
 そんなことを考え込んでいたせいか、一瞬エレンは周囲の状況から注意が逸
れた、そのせいで袖を何者かに掴まれるまで近寄られたことに気付かなかった。
 驚いたエレンは素早くその腕をねじり上げようとしたが、思った以上にか細
いそれに動きを止めた。
「あなたは……」
 昨日アイスクリームを奢ってもらった少女だった、だがあの時の快活さがど
こにも見られない、顔は青ざめていて表情は凍りついていた。
「ママ……パパ……」
 エレンは目線を彼女に合わせるためにひざまずく。子供の場合、上からの目
線には萎縮しがちだ。
「どうしたの?」
「いないの……」
 彼女の発したわずかな単語で、どういう状況かはおおまかな見当がついた。
「迷子になったのね?」
 こくり、と少女が首を縦に振る。エレンはしばし逡巡した、彼女の手を振り
払うか否か。彼女の困った様子を感じたのか、少女は目に涙を溜める。
 正直に言うと、エレンは一刻も早くここから抜け出したかった。第十三課の
誰かに言付けをして、鋼鉄の武装でもって身を固め、安全なところに篭りたい
と願った。
 だがしかし、それは所詮ただの予感というものであり、目の前の彼女を振り
払って逃げるだけの抑止力は持っていない。
 エレンは観念して手を握り返した。
「パパとママ、探してあげる」
 少女は泣き顔のまま無理に微笑む。
「……うん」
 視界が突然暗くなった、空を見上げる。
「うわぁ!」
 少女が歓声をあげた、だがエレンは顔面蒼白になる。
 視界が暗くなったのは、雲が空を覆った訳ではない。空を覆ったのは無数の
輸送機と、一隻の巨大な飛行船だ。明らかに軍用である輸送機の膨大な数も問
題だが、一番の問題はその飛行船に逆鉤十字(ハーケンクロイツ)の紋章が誇
らしげに掲げられていることだった。


                ***


「ジャック! 由美子!」
 時を同じくして寺院の窓から、彼等の姿を視認したハインケルが手当たり次
第にドアを開いていく、のんきにお茶を飲んでいた由美子を見つけて腕を引っ
掴み、窓から見える飛行船と輸送機の大群を瞼に焼き付けさせる。
 ポカン、と由美子の口が開いた。
 わなわなと震えながら窓の外を指差す。
「な……な……な……にあれェ!?」
「糞!」
 ハインケルは腹立ち紛れか窓の縁に手を叩きつけた。甘かった、まさかあの
与太話――人工皮膚によって吸血鬼の陽光下での活動に制限がなくなった――
が真実だったとは!
 おまけに速さも問題だった、シエルがニューヨークに派遣されて、チェルノ
ボグ事件についての報告を届けてからわずか一週間。
 一つの国に攻め入るにしては余りに速すぎる。
「シエルの馬鹿野郎、戻ってきたら後でブン殴ってやる!」
 自分もほとんど信じていなかったことを棚に上げて、ハインケルの怒りの矛
先は人工皮膚について懐疑的な報告を出したシエルに向けられた。
「ちょ、ハインケル! そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
 由美子がおどおどとした目つきでハインケルを見つめる。
 ――そうだった。
「……私はアンデルセンとヴァチカナンガーズに連絡する、こんな時に限って
アンデルセンのやつ孤児院に居るんだからもうっ……!」
「私は局長に連絡するわ!」
 二人は頷き合ってお互い反対方向に走り出した。。
 ハインケルは走りながら携帯で連絡を取ろうとした、が、数度コール音がな
ったところで突如ぶつり、と回線が切れる。見ると、携帯電話が圏外であると
主張していた。くそ、携帯電話の電波を抑えられたらしい。
「ならば」
 飛び込んだのはマクスウェル局長の執務室だった。通常ヴァチカンに張り巡
らされている電話回線とは全く別、第十三課、聖ヨハネ騎士団などの拠点に直
接繋がった回線から電話をかける。
 孤児院のアンデルセンの部屋に直接電話をかける。
 コール音が三回、四回、五回……ハインケルは早くも苛々し始めた。
「はい、もしもし」
 たどたどしい幼稚な声。ハインケルは以前二度、三度と寄ったところだけに
その声には聞き覚えがあった。
「ちょっとマルコ! アンデルセンは! そこにアンデルセンはいる!?」
「えっと……ちょっと待ってください」
 受話器が置かれる。
 とたとたと走る音が聞こえる。
 だが、戻ってきたのはやはりとたとたという足音だ。少なくとも壮年の男の
足音ではない。
「今、いません。さっき、でかけちゃったみたいです」
「そうか……ありがとう。あ、マルコ!」
「はい?」
「いい? アンタ達今日はどっかに出掛けたりしたらダメよ? 中で遊ぶこと」
「えー」
「口答えしない! 分かったら皆にも伝えること、いいね!?」
 そう言って彼の返事を待たず、ハインケルは受話器を叩き付けた。
 ――アンデルセンは、こっちに向かっている。
 孤児院からローマ、ヴァチカンに辿り着くまでは車を飛ばしてもかなりの距
離がある。アンデルセンがイノヴェルチの攻撃開始までに間に合う可能性はほ
とんど無いと見てよかった。シエルも飛行機が墜とされて以来消息が杳として
知れない、こちらに向かっていることは確実だろうが何時辿り着くか分からな
い、不確定過ぎる。
 マルタ騎士団、聖ヨハネ騎士団なども未だ到着には至っていない。予定では
今日中に辿り着くはずだったのだが今のところ連絡はない。念の為、彼等の拠
点地にもかけてみたが、留守番していた人間の回答は「既にヴァチカンに向か
っている」の一点張りだった。当然のことながら盗聴や留守番の人間の尋問・
洗脳を警戒して留守を預かる人間との接点は断っているらしい。
 結局のところ、今ヴァチカンに残っている中で頼りになりそうなのはヴァチ
カナンガーズ四百五十名と聖遺物管理局第三課マタイ、そして第十三課所属の
自分と由美江、ジャックくらいのものだ。
 総兵力は五百に届くか届かないか。
 一方、相手は二千匹だろうか、三千匹だろうか、いずれにせよ楽な仕事では
ない。
 だが。
 それでもハインケルは武器庫に行って装備を確認し、ベレッタM93Rに銀
の弾丸が詰まった弾倉を装填する。
 今回は、さらに背中に銃身を切り詰めたレミントンM870ショットガンを、
腰のホルスターにベレッタM92FS二丁を、更にガンベルトを両肩に交差さ
せて引っ掛け、一方にはショットガン用の弾丸を、もう一方にはベレッタの弾
倉をありったけ挿し込んだ。
 両手で髪を額から掻き上げる。
「パンにはパンを」
 ポケットから取り出したサングラスを賭け直す。色鮮やかな世界が、陰影の
ついた黒のみの世界と変化する。
「血には血を」
 ハインケルの戦闘準備は完了した。

 何処に行っても携帯電話は圏外のままで、局長への連絡はつかなかった。仕
方ないのでハインケルと合流しようかと踵を返すと、偶然ジャック・クロウと
出会った。
「ジャック!」
「ユミ……ユミコだな?」
 由美子は頷いた。
「ハインケルは?」
「アンデルセンに連絡を取るって」
 ジャックはああ、と頷いて窓の外を睨んだ。思っている以上に素早い。シエ
ルを載せていた飛行機が墜とされたことといい、こちらは後手後手に回ってい
る。
 それだけではない、間違いなくヴァチカンの高位の司祭レベル、吸血鬼のこ
とや第十三課のことをよく知っている人間の中に情報を流している人間がいる。
 だが、それが誰なのかすらまだ見当がついてはいなかった――もっとも、今
となっては瑣末な問題だろうが。
「局長と連絡しようとしたんだけど……」
「電話線とパラボラアンテナが破壊されたらしいな……ファック!
 肝心な時にはジジイの萎びたペニスのように使えねぇ」
 ジャックは怒りに任せてポケットから取り出した役立たずそのものの携帯電
話を床に叩き付けた。画面を表示する液晶が飛び散る。
「ヴァチカナンガーズは?」
「もう対吸血鬼用の装備の交換を始めている。対空用のスティンガーも揃えて
おいた。後は増援が来るまでこちらが持ちこたえられるかどうかだな」
「勝てると思う?」
「オフクロのケツを蹴り飛ばしてでも勝つ」
 ジャックはそう言って不敵な笑みを浮かべた、こんな状況下でも笑える彼は
凄い、と素直に賞賛する。自分はダメだ、今も足が震えている。
 ――潮時かな。
 由美子は目を閉じ、いつものように自分の心の暗闇で眠り続ける由美江を起
こしに向かった。
「ユミコ? おい、ユミコ――」
 ジャックが不信がって声をかけた。
 ぱちり、と目を開いた由美江がまずしたことは眼鏡を外すことだった。それ
でああ、と彼は納得する。
「ユミエか?」
「ああ」
 由美江は頷いた。
 鞘袋から愛刀を取り出して、ほんの少し鞘から刀を引き抜く、箒に仕込んだ
刀とは輝きと、そして強度が明らかに違う。
 島原抜刀流に、吸血鬼の躰を切り刻むに耐え得る刀など数少ない。この刀は
その数少ないものの一つだった。
 彼女が陶然として刀を見る姿を、ジャックはどこかエロチックだな、とこっ
そり考えた、バレたら斬られるに違いない。
 刀を再び鞘に収め、それから彼女の窓の外の雲霞のような飛行機を見る。
「アタシとハインケルは好き勝手にさせてもらうよ」
 言うなり窓を開くと、逆上がりの要領で彼女は屋根にするりと登っていった。
 ジャックは姿の見えなくなった由美江に何か言葉をかけようとしたが、何を
言ってもどうしようもない、ということに気付いて諦めた。

 由美江が屋根に登るとはたして予想通り、ハインケルもその上で佇んでいた。
「よっ」
 気軽に声をかける。
 ハインケルは由美江の声と姿を認めると、片手を挙げて返礼した。咥え煙草
でサングラスをかけ、全身を銃器類で固めたその姿はどこからどう見ても立派
なテロリストだと由美江は思ったが、もちろん口には出さない。
 兇悪そうな面相で、日本刀を肩に担いでいる由美江を見て、どっからどう見
ても立派な異常犯罪者だとハインケルは思ったが、もちろん口には出さない。
「さってと、それじゃあお仕事といきますか」
「降りてこなきゃ仕事にならないんじゃないの?」
「……そうでもない」
 屋根からヴァチカンを見下ろした、溢れかえった観光客の中から一人、また
一人と一箇所に集まり出した。ああ、と由美江は納得した。
「入り込んでいたか……」
「まあ、アレよ。吸血鬼の癖に人の職場にのこのこ入り込んで、堂々と観光さ
れるってのはムカつき度三割増しだわ」
「違いない」
 由美江が鉄拵えの鞘から刀を抜いた。陽光に刀が照らされ光輝く。許せるも
のか、この太陽を吸血鬼ごときが克服したなどと許せるものか。
 彼女はそう強く念じた。
「ヴァチカン第十三課機関所属、高木由美江――」
 嗤った。
 そして屋根から飛び降りる。
「推して参る!」
 一目散に駆ける、もう彼女の眼には人に化けた吸血鬼以外、何も映ってはい
なかった。


                ***


 シシリー島に存在するシゴネラ空軍基地。
 その日はとても穏やかで最良の一日になるとサンドロ・コンティ空軍少将は
確信していた。まず、雨が降っておらず、気候も快適。前日早めに寝ついたせ
いで朝はパッチリ目が醒めた。通勤途中に立ち寄ったカフェで飲んだカプチー
ノは芸術的な味で、飲みながら読んだ新聞記事には珍しく犯罪らしい犯罪が載
っておらず、ウェイトレスの尻を撫でても穏やかに微笑を返されるだけだった。
 さらに車は一度として渋滞に引っ掛かることなく職場へ辿り着くことができ
た。
 着いた職場では日頃鉄仮面を被っているような彼の秘書ステンカが、生まれ
て初めてというような輝かしい笑顔を見せてくれ、仕事もさほど忙しいとは言
えず、結局午前中で全てが片付いてしまっていた。
 秘書が淹れてくれたカプチーノはカフェのそれよりは味が落ちていたが、既
に午後をどうやって過ごそうか考えていた彼には些かも気にならなかった。
 腹の虫が鳴った、彼は今日の昼食は何にしようかという幸せな悩みを抱えて
椅子から立ち上がろうとした。が、ノックもせずにドアを叩きつけるように飛
び込んできた秘書に驚いて、椅子から転げ落ちそうになる。
「緊急警報です! アビアノ空軍基地が襲撃を受けました!」
 一拍置いて、サンドロは彼女の言葉を認識した。
 そしてその言葉が堰を切ったかのように、シゴネラ空軍基地が騒然となり始
めた。
「馬鹿なっ! 何だ? 何者が襲撃しているというのだ!?」
 ステンカは口篭もった。その様子を見咎めたサンドロは再度何に襲われたの
か尋ねる。
 テロリストか、他国か、あるいはただの麻薬常習者か。
 彼女がしどろもどろに言葉を繋ぎながら言う。
 そんな狼狽した表情も、サンドロは初めて見た。
「それが、その……あの……通信によれば……『空飛ぶ悪魔』と……」
 あまりにも気まずい沈黙。
 当然のことながらサンドロはからかわれているのだと思い、憤慨した。
「馬鹿馬鹿しい! ジョークにも程があるぞ、大方酔っ払いの兵士が幻覚を見
て通信したのだろう!」
「ですが! ですが、アビアノ空軍基地は……その……」
「はっきり言え!」
「全滅……した模様……です」
 立ち上がりかけていたサンドロは再び椅子に座り込んだ。
「ぜ、んめつ……だと?」
「これを最後に、アビアノ空軍基地からの通信は途絶えました。
 通信室では再度応答を試みていますが、未だ向こうからの連絡はありません。
 それから、基地に一番近い民間人から警察に通報があり、アビアノ空軍基地
に火の手が上がっているのは間違いない模様です」
 穏やかな一日をぶち壊されてしまった、という恨みがましい思いがサンドロ
の脳裏を一瞬掠めた。
 ――いや、それどころかこれから当分ぶち壊されつづけるかもしれないぞ。
「一番近くの兵士たちを向かわせ、詳細な報告をさせろ。大至急!」
「はい!」
 ステンカが頷いた直後だった、突然建物がぐらりと揺れた。一瞬地震かと二
人は思ったが、それを否定するかのように爆発音が鼓膜に叩きつけられる。
 ステンカは床に這いつくばって悲鳴をあげた。
 サンドロはしばらく椅子にしがみつき、恐怖で悲鳴をあげようとするのを必
死で堪えた。
「くそ…一体……な……だ…」
 窓の外から悲鳴が聞こえる、いや、嬌声だろうか。とにかく耳障りな音だ。
 サンドロは窓から恐る恐る様子を見て、目を見開いた。
「なに……が…あったの……ですか……」
 ステンカの声も耳には届いていなかった、彼は腰が抜けたようにへなへなと
床に座り込んだ。
 まっさらな真実が、其処にあった。
 翼を持った悪魔が、其処にいた。

 サンドロは自分が発狂したのか、それとも麻薬でも投与されたか、どちらか
だと思いたかったが、どうやら秘書の様子を窺う限りそうでもないようようだ
った。
 彼等は、ボーリングのような爆弾を手に抱えては基地に待機している戦闘機
に放り投げ、爆破していく。一つ戦闘機を破壊するたびに、きいきいと耳障り
な叫びをあげる。サンドロは狂いそうになる頭でああ、喜んでいるのだな、と
思った。
 我知らず、向こう側にいる悪魔たちを威嚇するかのように両拳をガラスに叩
きつけて叫ぶ。
「やめろ! やめろ! やめてくれ!」
 悪魔達――キメラヴァンプ・バットタイプの中の一匹が彼に気付いた。背中
から再び爆弾を取り出す、レバーを外してキャリングハンドルを持ちながら二
度、三度と右腕で振り回し、ボーリングのようにそれを放り投げた。
 狙い違わず、ガラスを突き破ってその向こうのサンドロの顔面に爆弾が命中
し、そのまま首から上を刈り取る。爆弾の勢いで躰が仰け反ったせいで、ちょ
うどサンドロの首から上に爆弾がすり替わったように見えた。手を叩いてキメ
ラヴァンプは大笑いする。
「しょ……」
 サンドロの躰は頭が吹き飛んでも痙攣を繰り返していた。まるでぜんまい仕
掛のおもちゃが倒れたようだな、とステンカは思った。
 悲鳴も出せない。
 圧倒的な恐怖に凍り付いていた。
 しばらくして、ステンカはサンドロの顔を吹き飛ばしたそれが爆弾であるこ
とにようやく気付いた。
 慌てて逃げようとするが、腰が抜けて立ち上がれない、這いずり回りながら
なんとかドアのノブに手をかける。
 だが、全身の力が入らないせいでノブを回してドアを開くという行為ができ
ない。彼女が絶望の悲鳴をあげるとほぼ同時にキメラヴァンプの放った爆弾が、
部屋を含めた一区画、綺麗に吹き飛ばした。

 空軍基地のパイロット達は上からの指令がないために身動きが取れず、逃げ
ることも戦うこともできずにパニックに陥っていた。空からは伝説に出てくる
ような悪魔、地上にはついさっきまで同僚だったはずの連中が虚ろな目で、全
身から血を滴らせながら自分達を食い殺そうとしている。発狂しない方がどう
かしているといえよう。
 何人かは必死で撃ち返す、だが拳銃の弾丸では脳天に撃ち込まない限り、喰
屍鬼を倒すには至らない。
 パニックになっていた彼等に、それはほとんど不可能といっていい行為だ。
 大部分の人間は逃げた。必死で逃げて逃げて逃げ続けた。
 とうとう誰かが――ほとんど同時に他の連中も――外に出さずに格納してあ
る飛行機があることに気付き、手当たり次第に逃げ惑っていた全員がそこに殺
到し始めた。
 その中には食堂のコックまでいた、狂気にかられた彼はつい先ほどまで豚肉
を捌くのに使っていた肉切り包丁を使ってパイロットたちの腕や足を切りつけ
ながら格納庫へひた走る。
 だが、腕を切られたパイロットの一人が怒りに燃えて彼を背中から撃った。
 狂気の表情で肉切り包丁を振るっていたコックが見えない何かにつまずいた
かのように床に倒れる。
 開いた孔から血を噴き出させながら、コックはもがいて絶叫する。
「痛い! 痛い! 痛いよォ! 助けて! 助けて!」
 彼の悲鳴は、むしろ生存者達の狂気を掻き立ててしまった。
 この時、全員の頭に芽生えたのは相手を殺さなければ自分は戦闘機に乗れな
いという至極当然かつ狂った論理だった。一緒に逃げようとしていた相手を睨
む、手持ちの拳銃の安全装置を外す。
 足を切られたパイロットは床に伏せたまま、コックの躰に銃弾をありったけ
撃ち込んで彼を黙らせた。
 それがきっかけとなって、格納庫付近において怒号と悲鳴が入り混じる壮絶
な殺し合いが開始された。
 一人は腹に銃弾を受けながら相手の脳天に弾丸を撃ち込み、一人は頭に銃弾
を受けた瞬間、握り締めた拳銃から弾丸が発射されて無関係な人間の脊髄を破
壊した。一人は死体から拳銃を掠め取って両手に二丁の拳銃を持ち出鱈目に撃
ちまくったたせいで、床や天井に弾丸が跳ねて大量の死傷者を出した。その代
償として彼は弾丸の雨から生き残った人間に無数の銃弾を浴びせ掛けられた。
 やがて、生き残りがわずかになった頃、笑いながら同僚を撃ち殺していた男
が、唐突に口に拳銃を咥えて引金を引いた。弾丸は上顎を貫通し、脳味噌を破
壊する、男は自決したように前のめりに突っ伏して動かなくなった。
 唐突な静寂。
 かくして三人が生き残った。彼等は比較的冷静だったことと、向かう先の格
納庫には二機の戦闘機があることを知っており、殺し合いをしなくても済むと
いうことが分かっていた。
 まだ生きていて呻き声をあげる同僚達を無視し、格納庫へ辿り着く。二人が
それぞれ戦闘機に乗り込んで機体のチェック、一人が格納庫の扉を開ける役目
を負った。
 機体は整備して外に出そうとしていた直後らしく、燃料も充分あった。二人
が親指を突き出し、居残った彼に扉を開くよう合図を送る。
 男が格納庫の扉を開くレバーを引いた。その瞬間、開いた扉から殺到してき
た喰屍鬼に、彼は全身を引き裂かれた。
「ちくしょう!」
 パニックになった一機が喰屍鬼を跳ね飛ばしながら、一目散に扉の外に出よ
うとする。
 だが外に出た途端、三匹のキメラヴァンプが戦闘機のキャノピーに張り付い
た。あまりにも異形の表情を間近で見たパイロットは悲鳴をあげた。
 咄嗟に腰の拳銃に手を伸ばすが、慌てていたせいか落としてしまい、操縦席
の下に滑り込んだ。
 取ろうとして身を屈めた矢先、彼はキャノピーから突き出た彼等の腕で心臓
を抉り出された。
 血を吐きながら、彼は無意識に操縦桿についているミニガンの引金を握り締
めていた。
 勿論キャノピーに張りついているキメラヴァンプには全く影響なく、屍とな
った彼の放つ弾丸は基地内のありとあらゆる建物を破壊した。
 派手な爆発が二度、三度。
 だが、その隙を突いて生き残った最後の一機が彼を横目に脱出した。絶望と
恐怖で彼は涙と小便をコクピットの中に垂れ流していた。だが、その臭気のせ
いで、彼はようやく理性を取り戻すことができた。
 ちらりと背後を振り返ったが、彼等がこちらに追いすがろうとすることはな
かった。安堵する。
 機体を上昇させる、宙に浮かぶという慣れた感覚がこの上なくありがたいも
ののように思われた。
 その安らかな気持ちを抱いたまま、彼は上空から一気に下降してきたリヒト
ホーフェンのガトリングガンに機体もろとも全身を粉々に破壊された。
 キメラヴァンプ達が歓声をあげたが、リヒトホーフェンは意に介さず、基地
のパラボラアンテナの上に着地した。そして彼と彼の部下達が成し遂げた成果
にほんのわずか頬を歪ませる。
 空軍基地は次第に広がっていく炎に包まれ、最後にキメラヴァンプが一斉に
火薬庫に放り投げた爆弾によって大爆発を起こした。
 後に残ったのは躰が半分に千切られても生きている喰屍鬼達のみ。
 キメラヴァンプ達は無線で空軍基地を全滅させたことを知らせる。どうやら
今夜はご馳走にありつけそうだという期待を胸に抱き、彼等はリヒトホーフェ
ンに率いられて、ローマに向かって飛び去っていった。


                ***


 ローマ。
 真昼間から突然現れた“軍勢”によってイタリア政府のほぼ全ての人間が非
常召集を受けた。
 通信省、国防省、外務省、内務省……だが、既にその中の一部は吸血鬼の魅
力に囚われてしまったか、無理矢理吸血鬼にされたか、あるいは殺されたかで
召集を受けたにも関わらず、半分も集まらなかった。
 目に見えなかっただけで、既に吸血鬼の、イノヴェルチの影はそこまでこの
イタリア、そしてヴァチカンに忍んでいたのだ。
「空軍基地と交信が取れません!」
「飛行船が一機、こちらに向かってきます!」
「ローマ警察署と連絡取れました、読み上げます。『当警察署、謎の敵と交戦
中、応援を送るのは不可能』!」
 イタリアベネト地区、国防省本部。
 その中の一室に、何とか集まった閣僚達が円卓を囲んでいた。
 ダン、と国防相が拳を叩きつける。
「なんだ、何も分からんのか! テレビ、ラジオはどうだ?」
「テレビ局及びラジオ局からも連絡が途絶えました。調査員を現地に向かわせ
ましたが、二時間前から交信がありませ……」
 男が飛び込んできた。
「調査員が帰還しました! 現在聖フランチェスカ病院にて治療中ですが、医
者の話では長く持たないと」
「で、何か分かったのか?」
「彼はメモを握り締めていました。血まみれですが、何とか読めそうです。
 ですが……」
 そう言うと、彼はまだ血が乾ききってないらしいメモをビニールに包んだま
ま、国防相に差し出した。
 国防相は受け取ったメモを読み進めると、次第にその表情を曇らせ始めた。
「まさか……いや、そんな……」
 彼は曲がりなりにもイタリアの国防相であり、当然のことながらヴァチカン
のトップとも親交がある。だから彼等が“何か”と戦っていることも当然のこ
とながら知っている。
 彼は卒倒したくなった、が、首相がベルギーに居る間は、彼がこの国の防護
の全権を委任されているのだ。
「至急、ヴァチカンに連絡を取れ!」
 一瞬部下達は「はぁ?」という間の抜けた表情を浮かべた。
「大至急だ、大至急! それからNATO軍に要請を……」
「それは困る」
 全員が虚を突かれた。閉めたはずの扉が何時の間にか開いており、肥え太っ
た小男が其処に立っていた。眼鏡をかけ、ニヤついた笑いを顔に張りつけてい
る。
「な、な……なんだお前は!」
「かつての同盟国に酷い言いぐさじゃあないか、君。
 せっかくわざわざ出向いて来たと言うのに」
 国防相はその言葉で彼の正体を看破した。椅子から立ち上がりかけていた躰
を再び元に戻す。
 彼の正体を知らない他の人間は戸惑いながらも、激しく怒鳴りつけた。
「貴様! ここを何処だと思っている! おい、誰かこいつを摘み出せ」
 扉の陰から、SPがひょっこり首を出した。白目を剥き、舌を突き出し、頭
は誰かの手に掴まれている。さらによく見ると、SPは頭と胴体が切り離され
ていた。
「ひぃ!」
 悲鳴。
 摘み出せ、と言った男が椅子から転げ落ちた。
 彼の目からは、いや、その部屋に居る全ての人間には分からなかっただろう
が、既に国防省は彼等が率いる百人のドイツ兵によって食い尽くされていた。
 SPの首は何者かが掴んでいた腕によって放り投げられた。そしてその手の
持ち主が扉の陰から進み出る。
 コートを纏った背が高い男だった。蒼い瞳、金髪、完璧なまでのアーリア人
だ。だが、彼の姿で一番目を惹いたのは、両腰に吊り下げられた恐ろしい銃身
の長さのモーゼルピストルだった、否、これをピストルと呼んでよいものか。
 そのモーゼルはそこらのアサルトライフルより遥かに長い代物だった。
 さらに、扉の陰からもう一人、血まみれの白衣を着たこれもまた背の高い男
が現れた。手にはビデオカメラ、顔にはレンズを三重にした奇妙な眼鏡。
 その場にいたイタリアという国を護るはずの男達は全員凍りついていた。
 国防相は彼等を知っているからこそ凍りついた。他の人間は彼等を知らない
からこそ凍りついた。
「かつての同盟国にして裏切り者の諸君! 残念ながらNATOなんかに連絡
させる訳にはいかないね。ここで大人しくしてもらおう」
 言うなり小男は国防相の向かい側、先ほど男が転げ落ちた椅子に勝手に座っ
た。テーブルの上で腕を組み、全ての人間の疑念と恐怖の視線を無視して、カ
ーテンの引かれた窓を見る。
「博士、時間は?」
 つかつかと進み出た“博士”がビデオカメラのデジタル表示で現在時刻を確
認する。
「午前十一時四十一分です、代行……もとい、少佐」
「後、十九分か」
「はっ、連中の予定ではそのように」
 小男が窓から視線を戻す。殺意も敵意も微塵も感じられないにも関わらず、
彼の視線に映る全員の肝が冷えた。
「今回、我々ミレニアムの役割はテロリストでね。という訳で君達には大人し
くしていてもらおうか」
 ミレニアム。
 最後の大隊。
 一個大隊の吸血鬼達。
 指揮者である少佐を含む百人の精鋭は、イタリアの軍事における中心を呆気
なく占領してしまっていた。
 少佐が背後にいた博士に声を掛ける。
「テロリストらしく、覆面でも用意しておけば良かったかな?」
 博士は肩を竦めた。
「我々にはあまり似合わないですな、我々に似合うのはテロリストの人質処刑
くらいのものでしょう」
「そうか、そうだな。ではこうしよう、我々の要求を飲まないと、人質を一人
ずつ殺して行くと伝えろ」
「ははあ! ……いやしかし、要求とは?」
「決まってるじゃないか、博士」
 少佐が嗤う。
「『戦争をさせろ』だよ、決まってる。『我々に戦争をさせろ』だ」














                           to be continued







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