おもちゃの王国だ
               ギルバート・チェスタートン
















「え?」
 彼女の第一声はダークマンの予想通りそれだった。
「そんな、でも、まさか」
 彼女が尚も続けようとするのを、手を振って遮った。
「事実だ」
 彼女はしばし茫然としていたが、すぐに気を取り直して彼を睨み付ける。
 これもまた予想通り。
「信じられません。あまりにも出鱈目すぎます」
「だから、これを見れば分かると言っている」
 包帯でぐるぐる巻きにされた手が――包帯が裂けて、骨が覗いているところ
もがあった――MOディスクを差し出す。
 彼女はじぃ、と明らかに疑惑の篭った眼差しでそれを受け取った。
 ダークマンは彼女の立場からすれば無理もあるまい、と考える。
「ウィ」
「ウィルスは入ってない、チェックしてから見ればいいだろう」
 開きかけた口が途中で止まる。少々気まずそうにした視線を逸らした後、こ
ほんと咳払いして気を取り直した。
「ともかく、預らせていただきます」
「ああ……」
 そして男の躰も伝えるべきことを伝えた安心感からか、ようやく眠気が襲っ
てきた。
 ヘリの隅、光が当たらないところで躰を壁に押し付ける。無理な態勢ではあ
るが、すぐに眠気が訪れた。余りにも疲れた、たっぷり三日は眠れそうだ。
 眠りに堕ちる直前、彼は様々なことを思い返す。キャルやモーラのことも彼
にとって極めて重要な事柄だったが、今の彼に一番重要なことは、次の目覚め
の刻であった。
 ――もし、次に目覚めた時。もし、自分の推察が正しいのならば。
(覚悟しなければいかんな)


 彼は眠りに落ちた。


 シエルは受け取ったMOディスクをじっと見つめる。勿論磁気のデータが読
み込める訳はない。ラベルにべっとりと血の指紋がついているが、既に乾きき
っているらしく、赤茶色に変色していた。
「はぁ」
 彼――ダークマンと名乗っていたが、あからさまに本名じゃないだろう――
の言動は余りにも常軌を逸していた。しかし、彼の瞳は正気そのもので狂人独
特のおどおどとした様子はどこにも見られなかった。
 また、彼女の知己でもあるモーラがイノヴェルチにさらわれた、という情報
も見逃せなかった。彼によれば、その計画もこのMOディスクに記載されてい
るらしい。
 全て、予め定められていた計画であり、所業であると、彼は言った。
「大方、お前がニューヨークを訪れるのも計算通りなのだろうさ」
 確かになるほど、彼女は少し思い当たることがあった。メキシコでキメラヴ
ァンプを始末したとき、アレは何かを偵察しているようだった。そしてその時、
件の彼女――モーラがあの場にいた。
 おまけにここのところ、吸血鬼の動きが余りにも活発化しすぎている。
 イノヴェルチ・イノヴェルチにも所属できない雑魚を含め、各地で吸血鬼騒
ぎが勃発し、マスコミを抑えるのもギリギリといったくらいだ。
 法王猊下も、何やら怨敵である英国王立国教騎士団――即ちヘルシング機関
の上に立つ存在である英国王室とコンタクトを取っているらしい。
 彼等が中心となり、共同でマスコミの対策を打たなければ、ニューヨーク市
に新種のエボラウィルスが蔓延しているという壮絶なまでの与太話を信じさせ
ることはとてもできなかったろう。
 いくら何でも血を吸おうとする喰屍鬼を「熱病と集団ヒステリーに浮かされ
た狂人の群れ」とするのは、相当無理があるとシエルは思ったのだが。
 高名な学者たちが総出で難解な専門用語を交えつつ言い張ると、何となく納
得できるから恐ろしいものだ。

 だが、何より現状で一番異常な情報は“あの”アルクェイド・ブリュンスタ
ッドがイノヴェルチの吸血鬼に敗北し、何処かへ連れ去られたらしい――。こ
れが最大級の爆弾だった。
 もっともこれはイギリスの対吸血鬼機関であるヘルシングからの情報だった
ので、真実と虚実が半々といったところだろう、とシエルは見当をつけている。
 ただ、アルクェイドが行方不明というのはほぼ間違いない、確実な情報だ。
「イギリス……か」
 嫌な思い出がある。
 シエルは第十三課に所属したての頃、イギリスへ派遣されて大層痛い目にあ
ったことがある。こちら側の領域と聞かされていたアイルランドの地方都市で、
ばったりヘルシングの鬼札――そう、アーカードと出会ってしまったのだ。
 黒鍵程度で仕留めることができる相手ではなく、みすみす目の前の獲物を掻
っ攫われてしまった。挙句に、完全復活に一ヶ月はかかってその間の食事はパ
ンと水で凌いでいた、カレーを一ヶ月食べなかったのは後にも先にもあの時だ
けだ。
 マクスウェル局長にも、「もしかしたらばったりあのアーカードに逢うかも
しれないぞ」くらいのことは言って欲しかった、つくづくそう思う。
 ついでに言うと、これは職務中に起こった事故なのだから、労災手当くらい
は出して欲しかったと思う。
 ――言ってくれれば、それなりの準備くらいはできたのに。
 もっとも、あの時の彼女は第七聖典を持っていなかったので、結果的には同
じようなものだっただろう、下手に黒鍵を打ち込んで彼の拘束制御が解放され
なかっただけ助かったともいえるのだが、勿論シエルにそんなことは判らない。
「今度逢ったら第七聖典三千発叩き込んでやる……ッ」
 右拳をぱんぱん左手に打ち込み、シエルは余計な闘志を燃やしていた。

 ところでシエルは、アルクェイド・ブリュンスタッドに無理矢理連れて行か
された遠野志貴もイノヴェルチの手の内にあることは知らなかった。
 今もシエルは、遠野志貴は日本で平穏な生活を送っていると信じている。
 ふと呟きが漏れた。
「日本に……戻りたいなぁ」
 ため息をついて、シエルは窓の外の朝陽を眩しそうに見つめる。
 光り輝く朝陽が彼女に幻影を見せた。あの形、あの色。今の彼女には朝陽が
それ以外に考えられない。
 ――よし、今日の朝食も絶対にカレーパンにしよう。
 シエルはそう固く決心した。


                ***


 最後に自分、アルクェイド・ブリュンスタッドが論理的な思考をしたのは、
いつだったろうか――?
 あの刺激的な毎日からすれば、無限とも思える延ばされた時間。疑問はいつ
になっても解消されず、何をどう切り取っても最悪の考えしか思い浮かばない。
 この濁った沼地のような色をした液体に浸り続けるのもすっかり慣れてしま
い、最初に感じた息苦しさもどこかに消えてしまった。
 この液体がどうやら彼女の神経に何らかの作用を及ぼしているらしく、全身
にどことなく力が入らない。
 時々、好奇心にかられてか明らかに吸血鬼らしい男達がニヤニヤ笑いながら
自分を見つめていることがある。裸体でなかったのは不幸中の幸いと言える。
 ――こっから出たら、絶対にブチ殺してやるんだから……。
 そういう物騒なことを考えていた時も確かに存在したが、今では何の反応も
ない彼女に見飽きたのか、見物に来る吸血鬼もほとんど存在しない。
 そうなると、待っているのは途方もない長い時間だけだ。長く活動し続けた
吸血鬼は時折猛烈な欝病めいたものに襲われることがあるが、今のアルクェイ
ドもやや特殊なケースとはいえ、その類だったことは間違いない。
 虚ろな目で、思考を停止する毎日。体力は次第に回復しているが、微々たる
ものだ。全身に浸かっている液体が、彼女の超回復を遮っていた。
 そしてこの日、精神の病を吹き飛ばすような男が訪れた。


 扉が開いたという刺激を感知し、アルクェイドが焦点の定まらなかった眼を
そちらに向けた。一瞬の沈黙の後、余りにも見知った顔に眼が見開いた。
「志貴……!」
 何日かぶりに口を開いて叫ぼうとしたが、ごぼごぼと口に得体の知れない液
体が入り込みそうになり慌てて彼女は吐き出した。
 遠野志貴は――彼を知るものには驚いたことに――煙草を口に咥えていた。
 部屋の隅にあった椅子をアルクェイドの前に動かすと、そこに腰を据える。
 アルクェイドが封じられているのは半透明で細長い円筒形の物体で、そこに
は並々と麻薬と聖水と水銀、そして細胞の活動停止を促す化学薬品の混合物が
注がれている。
 アルクェイドは確信した。
「あなた……志貴じゃないわね」
 志貴じゃない、と言われたその男は不敵に嗤った。
「いいや、志貴だね」
 志貴ではない男が否定する。アルクェイドはますます不快さが募る。
「ただし、苗字が違う」
 彼は椅子の背をアルクェイドに向けており、そこにもたれかかりながら煙を
ふうっと彼女に向けて吐き出した。
「俺の苗字は七夜だ」
 ――ナナヤ?
「そのへんに関しては、説明好きのあの方から詳しく聞くことだな」
 あの方、という言葉に眉をひそめたアルクェイドは続いて部屋に入ってきた
男を見て、今度は顔全体をしかめた。
 最高に胸糞悪い男だ。
「そう睨むな、真祖の姫君よ」
 困ったような顔をしてナハツェーラーが肩を竦めた。七夜が同時に椅子から
立ち上がる。
 近付いたナハツェーラーは七夜の頭をぽんぽんと叩くと、椅子をくるりと逆
にして背筋を伸ばして座る。七夜は逆にアルクェイドから遠のくと腕を組んで
壁に持たれかかった。
「説明が欲しい……という顔をしているな」
「当然でしょ」
 ぎろり、と殺意の篭った視線で射竦める。なり立ての吸血鬼なら脱兎の如く
逃げ出すだろうな、とナハツェーラーは苦笑した。
「まず、彼の言っていることは本当だ。
 彼は遠野志貴ではなく、七夜志貴という名前の男だ」
「双子……って訳じゃないわよね」
「無論違う。彼は遠野志貴の躰を借りているだけだ」
「いいや、この躰は俺のものだね」
 七夜が口を挟んだ。
「さて、どこから話したものか――。そうだな、まずは遠野志貴という人間の
特性について話しておこうか」
 ナハツェーラーは前のめりに姿勢を崩し、肘を両膝にくっつけて手を絡めた。
「君も知っての通り、遠野志貴は我々のような“人外の物”に出会うと、自動
的に戦闘に適した精神に変化することができる。
 君が彼と出会えたのも、それによるものだ。違うかね?」
 わずかにアルクェイドは動揺した、なぜ自分と志貴の出会いを彼が知ってい
る。ナハツェーラーはどこまで知っているのだろうか?
「我々の同志は世界中にいる、日本も例外ではない」
 もっともこれはナハツェーラーの見栄のようなものだった、彼は単に遠野志
貴の記憶に最も鮮烈に留まっている記憶を観察したに過ぎない。
「夜魔の森の女王に滅ぼされたくせに?」
 アルクェイドがやり返す。む、とナハツェーラーの表情が明らかに不快を示
すものになる。自分がかつて滅ぼされたことを思い出したからだろうか。
「……まあそれはいい。ここで重要なのは、遠野志貴の精神が変化するからと
いって、別に七夜の人格が今まで潜んでいた……要するに二重人格だった訳で
はない。
 そうだな、夢の中なら彼が表層に出てくるかもしれないが……現実において、
七夜は著しく不完全だ。都合の良い部分だけ表にあればいい夢の世界と違い、
現実では様々なことに人格という精神が対処しなければならない。
 恐怖・感動・驚き・悲哀……そういう感情によってな」
 アルクェイドは、彼の話を頭の中で纏める。
「じゃあ、今私の目の前にいるのは――誰?」
「だから七夜志貴さ」
「七夜という人格は“無かった”んでしょう?」
 七夜が顔を伏せてくっ、と笑った。
「真祖の姫ってやつは随分と論理的な思考が苦手なんだな」
「お前は黙ってろ。……姫君、その通りだ。七夜という人格は“無かった”。
 だから、私が七夜という人格を“作った”」
 アルクェイドは思わず息を――してもいないのに――呑んだ。
「人格を――作った?」
「そうだ。私が遠野志貴の奥底に潜んでいた七夜というものに、人格を作った
のだよ。
 ベースとなるのは当然遠野志貴の人格だが、そのままでは彼と一緒だ。
 だから、ほんの少し七夜は性格を矯正させてもらった」
「……それを、あのわずかな時間で志貴に叩き込んだ訳……」
 わずかな時間、ネロ・カオスが彼を連れ去ってからアルクェイドが千年城の
玉座に辿り着くまで、だ。
「その通り。遠野志貴は元々七夜という本能レベルで根付いたものがあったか
らな。
 一から人格を作り上げるよりははるかに楽だった……以上で、君が背中から
分割された理由についての説明は終わりだ」
 ぱん、ぱん、と授業を終わらせる教師のようにナハツェーラーが手を叩いた。
「まだ君は聞きたいことがあるはずだね」
「……志貴と、それから私をどうするつもり?」
 ナハツェーラーは立ち上がると、彼の望みを口にした。
「君と、それから夜魔の森の女王の力で、我々の神――カインを蘇らせる」

 その言葉とほどんど同時にどやどやと白衣を着た吸血鬼と、軍服を着た吸血
鬼たちが部屋に乱入し、アルクェイドを封じているカプセルの移動準備を始め
る。
 あまりにも機械的で整然とした動き、誰かが彼女のカプセルに繋がったスイ
ッチを押すと、カプセルの中に象を3秒で眠らせる麻酔薬が浸透し始める。
 猛烈な眠気の中、アルクェイドは無我夢中で叫んだ。
「志貴―――――ッ!」
 その叫びを耳にしたナハツェーラーが近寄って囁く。
「言うまでもないことだが、暴れないでくれたまえ。
 さもないとまだ人間である彼の肉体と、それから恐らく眠っている遠野志貴
君の精神は保証できんよ?」
 にんまりと嗤う嫌味ったらしい笑顔を最後に、アルクェイドの意識は闇に堕
とされた。
 忙しく動き回る一人の吸血鬼の首を捕まえる。
「夜魔の森の女王の様子はどうか?」
「はっ、身体ダメージが極めて深刻なため、処女の血を五百倍に薄めた液体に
浸して再生能力の補強を行っております。
 現時点での身体再生率は五十六パーセント。指定された日には、九十六パー
セントまで蘇生できる見込みです」
「上出来だ」
 ナハツェーラーは立ち去ろうとしたとき、ちらりと七夜志貴の様子を窺った。
 彼は凍りついたようにアルクェイドのカプセルを見つめていた。
「どうかしたかね?」
 ナハツェーラーの言葉に、七夜は慌てて首を横に振った。
「何でもありません……部屋に戻ります」
 ナハツェーラーの返答を待たず、逃げるように七夜は部屋を出た。真っ直ぐ
与えられた部屋に向かい、ベッドに潜り込んでシーツに包まった。
 ナハツェーラーはふむと呟いたっきり、彼を追おうとはしなかった。

 七夜という人格は基本的に恐怖という感情をなるべく抑えることができるよ
うに形成されている。だから、今味わっている恐怖は、彼には恐らく始めての
ものに違いなかった。
 ――怖い。
 怖いのはカプセルの中のアルクェイド・ブリュンスタッドでもなければ、主
人であるナハツェーラーでもない。
 彼が今一番怖がっているのは、ナハツェーラーが七夜を表層に出す代わりに、
彼の奥底に閉じ込めた遠野志貴という人格だった。千年城から出る、というス
イッチを切欠にして七夜が表に出て、遠野が封じ込まれた時、彼は七夜の奥底
で眠っていた。
 しかし、先ほどの彼女の叫びがどうやら遠野を呼び起こしてしまったらしい。
 彼は牢獄の中に押し込められながら、七夜志貴という人格をじっと見つめて
いる。
 静かに座り、ただただ彼を見つめ、ひたすら解放されるチャンスを窺ってい
る。
 もしちょっとでも牢獄の錠を緩めようものなら、ただちに遠野志貴は自力で
そこを突き破り、七夜という人格を完全に消し殺すだろう。

 かちかちと七夜の歯が鳴る、自分の奥底に潜んだ遠野志貴という存在にたま
らなく恐怖する。
「これは俺の躰だ!」
 たまらず七夜は叫んだ。
「これは俺の躰だ! 貴様などに譲るものか!」
 沈黙。答えるものはいない。遠野志貴は無言を守る。
「これは、俺の、躰なんだ」
 繰り返し自分に言い聞かせるように呟くと、七夜志貴は自分の躰を抱き締め
て布団に潜った。目は開いたままだ、つむるとアイツが、遠野志貴が、牢獄の
片隅でひたすら見つめ続けてくるから。


                ***


 会議は実に滞り無く終了した。
「皮肉なものだな」
 忠実な老執事に彼女――ヘルシング機関の長、インテグラは呟いた。
「皮肉?」
「一千年かけても永遠に分かり合うことがなかったであろう、こちら側とあち
ら側が、こんな事態に陥ってようやく雪解けできるとはな」
 こちら側は言うまでもなく王立国教騎士団であり、所謂プロテスタントで、
彼女の言うあちら側とは、当然第十三課であり、カトリック派のことだ。
「事前はそうでも、事後はそうなるか分かりませんぞ。
 そういう連中です、こんな共同戦線など全てが終わったその瞬間に崩壊しか
ねません」
 老執事ウォルターが甘い考えだ、とばかりに彼女に警告を発する。
「確かにな」
 インテグラのその甘い考えは、彼女が第十三課はともかく、カトリック派そ
のものについてはさほど憎んではない、という事に起因しているのかもしれな
い。
 彼女が信仰するのは国教であり、英国の実質最高権力者である女王陛下であ
り、英国という存在そのものである。だが同時にその信仰はイコール他宗教の
排除に結びつくことはない。
 要は向こうがこちら側の領域に踏み込んでこなければいい話だ。大英帝国の
領域以外で、誰が何処で何をしようが何をされようが、彼女にとっては知った
ことではない。
 あちら側は違う。彼等は自分達と違うもの、異なるものを徹底的に排除しよ
うとする。
 屍山血河を築き上げることに躊躇はない。
 緩衝地域の、明らかにこちら側の領域でも平気で入り込む。
 一千年経とうが二千年経とうが、あの連中は絶対に変わることがないだろう。
 それは自分達と違って、国そのものの機構は最低限のものでしかなく、彼等
の領土は全世界へ散らばるカトリックの信者だ、というヴァチカンの構造その
ものが理由なのではないか……。
 ――世界の全ては我等の物、か
 彼等が自分達の縄張りに平気な顔で侵入してくる理由は、そんなところなの
かもしれない。
「だが今回は例外だな」
「はっ」
 ともあれ、今回のケースだけは縄張りがどうこうなどと呑気なことを言って
いる場合ではない。
 何しろ計画が真実だとするならば――インテグラは、猟犬のようにその計画
の本気っぷりを嗅ぎ取っていた――事はヴァチカンが、イギリスが、どうこう
とかいう問題ではない。
 生き残るのは人間か、それとも吸血鬼か。
 そういう次元の問題だ、聖書にある最終戦争(ハルマゲドン)のような。
 ――勿論、我々だ。
 インテグラは防弾武装を施されたリムジンに乗り込んだ。
 運転席に座ったウォルターに「出せ」と命令し、自分は車内電話をイギリス
の“頼まれ屋”にかけた。
「もしもし、ペンウッド卿? インテグラです。
 ……少々、お頼みしたいことがあるのですが」
 受話器の向こうで、「ひいっ」と息を呑む音がする。
 また無理難題を吹っかけられるのではないか、という恐れが電話線を通して
こちらに伝わってくるようだ。
 ――彼もまた、十年経っても二十年経っても変わらぬだろうな。
「話はついた。飛行場で待ち合わせだ」
「はっ」
 ウォルターが車のアクセルを踏み込んだ。


                ***


 セラスは夜空を見上げ、ほぅ、と冷たい息を吐いた。屋上で両手を広げ、星
の観察に精を出す。吸血鬼の利点の一つである、良く視える目はこういう時に
大変便利だ。
 ひんやりとした冷気が頬にじわりと伝わる。
 解放感。ヘルシング家に住み込みで“働いている”彼女にとって気の休まる
時というのはそう多いものではない。こういう風にだらける為には四つの障害
をクリアせねばならない。
 一番目の障害、セラスの上役にあたる鋼鉄の女、インテグラ。
 二番目の障害、そのインテグラに付き従う忠実(そして堅苦しい)執事、ウ
ォルター。
 三番目の障害、セラスのマスターである最強の吸血鬼(そして戦闘狂)、ア
ーカード。
 四番目の障害、先の戦いで殉職したヘルシング機関の隊員に代わって雇われ
た傭兵軍団、ワイルドギースのリーダー、ベルナドット。
 今回、セラスがこうやって夜空の冷気を味わってのんびりすることができる
のも、一番目と二番目が何処かヘ飛び立ち、三番目が夜も早々に棺桶の中に潜
り込んだためである。四番目は一緒にいない限り害はない。
 という訳で思う存分夜空を眺めて陶然とすることが可能なのである。
「あ、星の解説本でも持ってくれば良かったかなー」
 そんなことを考える、が、いちいち本を見ながらあの星はどれそれで、あの
星はこれこれで、というのもいささか風情に欠ける気がする。
 やっぱりこのままでいいや、とセラスは思い直した。
「ぐわはははは!」
 どこからともなく、家の中から下品そのものの笑い声が聞こえてくる。言わ
ずとしれたワイルドギースだ。
「う」
 セラスは彼等が苦手だった。
 無論嫌いではない。命を預け合う同士なのだから、好き嫌いの感情が存在し
たら困る。
 しかし、享年十九歳の彼女にとっては下卑た冗談はこれっぽっちも笑えない
し(顔面が引き攣るだけだ)、ちっとも吸血鬼らしくないから、ということで
やたらとからかってくるのも勘弁して欲しかった。
「好きで吸血鬼になった訳じゃないのになあ」
 呟く。
 ――そうかな? 自分で選んだ道じゃないの?
 即座に打ち消す。
 頭を振って、自分の余計な思考を振り捨てる。何だかんだ言って結局こうし
て生き長らえているのだから、望んだ望んでないというのは些細な問題だろう。
 彼女は、なぜか急に夜空を見るのがつまらなくなった。そうかといって、棺
桶に潜り込むほど眠たくもない。大体、セラスは棺桶で眠るのが極めて苦手な
のだ。
 棺桶が苦手、という言葉に彼女は一人の吸血鬼を連想した。そう言えば、彼
も棺桶で眠るのは苦手――というより、棺桶で眠ったことが一度もないらしい。
「土の中で寝るのは好きなんだけどな」
 そう言って恥ずかしいことでも言ったかのように鼻をぽりぽりと掻いた伊藤
惣太という名の吸血鬼。
 現在彼は諸事情により、当ヘルシング邸のとある部屋に軟禁状態だった。
 部屋で軟禁というのもつまらないだろう、ということでセラスはたびたび彼
の部屋へ出向いて、色々な話をした。何しろ恐らくこの館で唯一彼女の話をま
ともに聞いてくれそうな男だ。こんなに喋るのも久しぶり、というくらい山ほ
どセラスは彼とお喋りに興じていた。
「……あれ?」
 なにか、忘れている気がする。セラスはウォルターに何か頼まれたことを思
い出した。
 だが、その「何か」が何なのか、思い出せない。
「何だったっけかなぁ……」
 そう言えばインテグラとウォルターがヘリコプターに搭乗し、それを見送っ
た後、忘れないように、と机でメモを書いたような気がした。
「メモは確か……このポケットに……」
 かさり、と手に紙を感じて一気に引き上げる。
 そこには明らかに自分らしい文字でこう書かれてあった。


 ――惣太くんに、食事用の輸血パックを届けること。


 セラスは顔面蒼白になった。


「……ん? おーい、お前等。今なんか悲鳴が聞こえなかったか?」
 金髪の美女が大股を広げて微笑んでいるグラビア雑誌を片目でまじまじと見
つめながら、ベルナドットが言った。
 トランプ遊びをしている部下たちの一人が応じる。
「聞こえましたー」
 おおよそ危機感の感じられない声。
「敵かー?」
 反射的に懐のホルスターに収まった拳銃に手をかける。
「悲鳴をあげたのは、セラスお嬢ちゃんですー」
 危機感の感じられない声で応じる男。
「そうか、なら放っとこう」
 いつものことか、とベルナドットは拳銃から手を離し、目下の最重要事項で
あるグラビアの美女の観察に専念し始めた。


 アーカードが伊藤惣太が軟禁されている部屋を訪れた時、彼は極度の飢餓状
態で床にへたり込んでいた。
「生きているか?」
「……何とかね」
 アーカードは懐から輸血用血液パックを取り出した、くん、と匂いを嗅ぎつ
けた惣太は跳ね起きる。
 アーカードはそれにストローを差し入れて、投げてよこした。
 下品な音が立つのも構わず、三秒も経たずに飲み干す。
「満足かね?」
 正直、惣太はまだ物足りなさを感じていたが、これ以上血に溺れてはなるま
い、と自分を戒める。
「いや……もういい」
「質素だな」
 放っておいてくれ、とばかりに惣太は顔を背けた。実際、彼はアーカードと
あまりお喋りしたくはなかった。お喋りしている内に気付いたらこちらに拳銃
を突きつけていそうな男だ。セラスからあまり愉快とはいえないエピソード―
―彼がどうやって、どういう風に吸血鬼を殺害しているか――を披露してくれ
ていた為、ますます警戒心が募る。
「取って食おうって訳じゃないさ」
 惣太のあからさまな警戒心に楽しそうな笑みを浮かべながら、アーカードは
手近な椅子に腰を下ろした。
 惣太は顔を背けるのを止めた。しっかりと、アーカードを見据える。
「ちょうどいい、俺も聞きたいことがある」
「ほう、何かね?」
「アンタ、リァノーンと逢ったことがあるのか?」
 以前リァノーンがアーカードを語ったときの恐怖の表情、あれは間違いなく
実際に出会ったことがあるからだ。
 アーカードの眼がわずかに細まる。
「昔、一度だけな。その時はお前のような若僧ではなく、真紅の騎士を引き連
れていたが」
「……で、どうなった?」
「首をもがれた、首をもぎ返してやったがね」
 ぽんぽん、と首に手を当てながら事も無げにアーカードは語る。
「聞きたいのはそれだけか?」
「こっちが本題だ。何度考えても分からない。 一体――今、何が起こってる
んだ?」
 ふむ、とアーカードは顎に手を当てて呟いた。
「そいつはちょうどいい、私もそれをお前に聞かせてやりたくて来たからな。
 まずは、数ヶ月前の話からだ」
 アーカードが語り出す。
「アメリカ合衆国ニューヨーク州、ここは吸血鬼兼ギャングであるドラゴネッ
ティという産まれついての吸血鬼たちが支配していた土地だ」
「産まれついての吸血鬼……真祖か?」
「真祖というほど大層な力を持った連中じゃない。実力的にはそこらの死徒と
大差はない。ただ長く生きているだけの吸血鬼だ。
 ところがだ。事件が起こり、突如その真祖たちが残らず皆殺しにされた」
「吸血鬼ハンターにでも殺られた?」
「いいや、ドラゴネッティが殺されたのは自分の継嗣にさ。
 つまり、殺したのは死徒だ」
 惣太は首を傾げた。
「なんだそれ、死徒が自分の親に当たる連中を殺したのか?
 ……まあ、不思議なことじゃないか」
 子が親を殺害する、というのは吸血鬼にとって当たり前の感情だ。
 ある者は「自分を吸血鬼なんかにしやがって」という恨みの感情で、ある者
は「お前より俺の方が実力は上だ」という事を示したいが為に血を吸われた者
は血を吸った者を殺したがる。
「正確に言うと、その死徒――名前はフロストと言うが。
 フロストは殺したのではなく、捧げたのだ」
「捧げた? 誰に?」
「神に、だよ。人間に神がいるように、我々にも神が存在する。
 昔昔、人間の神に滅ぼされた神がな」
 アーカードが聖書でも読み上げるような厳かな口調で言った。
「汝、カインの末裔なり」
「俺達の――神」
「結果から先に言うと、フロストの企みは失敗した。
 フロストの躰に降臨したのは、神の紛い物だった、そして一人の吸血鬼ハン
ターが彼を粉微塵に叩き潰した……それでこの事件は終わりだ」
 アーカードが言葉を切る、はぁ、と惣太は納得したともしかねるとも取れる
ため息をついた。
「ああ、その事件については大体分かったよ。
 で、それがリァノーンと何の関係があるってんだ」
「ここからが本題だ。儀式が失敗した原因が、方法が間違っていたとして。
 誰かが、儀式の正しい方法を知って、そいつがこともあろうに我々の世界で
は相当な権力の持ち主で、更に自分が神を降臨させよう、この世を地獄に変え
ようと思ったら――どうする?」
 ごくり、と惣太は唾を呑んだ。
「まさか」
「そのまさかだ。イノヴェルチ、お前もよく知っている連中だと思うが、そこ
の最高権力者が率先して走り回っている」
「じゃ、リァノーンは――!」
「夜魔の森の女王は、必要な欠片の一つだ。真祖の姫君、アルクェイド・ブリ
ュンスタッドもな」
 惣太は愕然とした。自分とリァノーンが、まさかそんな世界を支配する云々
という馬鹿みたいなスケールの話に巻き込まれているとは。
「儀式は、いつ頃?」
「もう間もなくだろう、連中の動きが一点に集結しつつある」
「じゃ、止めなきゃ――!」
 惣太は立ち上がった。
「来るかね?」
「当たり前だ!」
「場所を知れば、躊躇うかもしれない」
「そんな訳あるか!」
「ほぅ」
 アーカードが口が裂けるような笑いを見せた。犬歯どころか前歯から全ての
歯が残らず尖っている。
「では、行こうか……婦警!」
「はっ、はっはっは、はいっ!」
 部屋のドアの前でそうっと様子を窺っていたセラスが、中に転がり込んでき
た。
「出発するぞ、装備をまとめろ」
「やっ、やっ、了解(ヤー)!」
 入ってきたときと同じく、セラスは部屋を転がるように飛び出した。
 惣太は苦笑する。自分もそうだが、彼女もまるで吸血鬼らしくない。いや、
自分は段々と吸血鬼に近付いてきている。彼女との距離は開いていくばかりだ
ろう。
「彼女、血を吸ったことがないんだって?」
 以前セラスにそのことを聞いた時は、信じられなかった。確かに、血を吸わ
なくても生きることができる吸血鬼は存在する。しかし、それは自分のように
吸血衝動を克服しても、何とか「周りの人間の血を飲まなくて済む」程度に抑
えられるくらいで、「血を飲まない」吸血鬼――死徒は存在しない、と惣太は
そう思う。
 アーカードが答えた。
「その通り、あれはまだ血を飲んだことがない。
 だが飲む、必ず飲む、。彼女(セラス)自身の意志によって必ずな」
「無理矢理にでも飲ませないのか?」
 不思議に思って惣太は問う。彼女は血を飲まない限り、どんどん弱くなる。
 なら、最初は強引に飲ませて血の味を覚えさせた方がいいのではないか、た
だの吸血鬼ならともかく、彼女は吸血鬼と戦うことを運命付けられた吸血殲鬼
だ。吸血鬼も泣きたくなるヘルシング機関にしては、随分とまあ甘い処置だと
彼は思った。
「無理矢理では意味がない、自分の意志で立って自分の意志で夜を歩く不死の
女王になるためには最初の一歩を自分で踏み出さねば始まらない」
「不死の女王(ノーライフクイーン)か……」
 惣太の頭の中で、ゴシック調の壮大な衣装を着込んで頬に手を当てて高笑い
するセラスがイメージさせる。
 物凄く致命的にこれっぽっちも似合っていなかった。
「……アンタ人選間違えたんじゃないか?」
「――それが存外そうでもないのだな」
 アーカードは笑いながら部屋を出て行った。扉は開けっぱなし。
「出て……いいのかな」
 そう呟きながら、扉から頭だけを出してきょろきょろと廊下を覗き込む。
 壁に粗野な服装をした片目の男が煙草に火をつけていた。
 ああ、と惣太は彼が誰なのか理解した。これもまたセラスに教えてもらった
人間だ。セラス曰く「セクハラ大魔王」こと、傭兵隊長を努めるベルナドット
という男。
「お」
 扉から顔を出した彼を見てベルナドットは声を出す。
「日本人、ついてこーい。飛行場まで案内してやるぜ」
「飛行場?」
 煙草を廊下に投げ捨て、ぎゅっ、と足で踏み消した。
 背中を向けると、右手でちょいちょいと惣太を誘う。躊躇いがちに惣太は
足を一歩扉の外へ踏み出した。窓の外を見る、久方ぶりに違う景色が眼に映る。
 とは言え、映ったのは相も変らぬあまり手入れの行き届いてない庭くらいの
ものだが。
「おい、日本人。ぼーっとしてると置いてっちまうぞ」
「悪い悪い、ところで飛行場って言ったけど」
「ああ」
「何に乗るんだ?」
「ジャンボジェットじゃないことは確かだと思うんだがなァ……」
 ぽりぽりと頭を掻く。
「ま、行ってみりゃ分かるだろ。アンタ達みたいな吸血鬼が実在するんだ。
 俺はもう車輪がアニメなB−51が出てきても驚かねぇぞ」
 ベルナドットは二本目の煙草に火をつけながら言った。
「どうでもいいけど……さっきの煙草、拾わなくて良かったのか」
 あの老執事がああいうものを見たら、絶対に怒り出しそうなのだが。
「大丈夫、おめーが吸ったことにする」
 彼の側頭部に軽いデコピン。
「いってぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
 ベルナドットの悲鳴がヘルシング邸に響き渡った。


                ***


「ん――」
 浅い眠りから覚醒する。ぽつぽつと水滴がガラスに叩きつけられる音がする。
 ――ああ、きっと今日は雨か。
 半身を起こす、予想通り空は灰色の雲に覆われている。降り方自体はとても
穏やかで、この分なら少し待てば止んでしまいそうだった。
 ただ、湿度が高いせいか妙にあちこちにできた傷が痛む。ふと気になった彼
はベッドから抜け出ると鏡の前に立ち、シャツを脱いだ。
 まだ二十年生きていない躰だとはとても思えないほど、あちこちに古傷がで
きている。一つ一つの傷跡に触れる、痛覚はとうに抜け落ちているがそれでも
過去がフラッシュバックし、その傷跡が形成された瞬間をまじまじと脳裏に浮
かび上がらせる。
 吾妻玲二は最後に脇腹にできた傷を見た、一番最近の傷、クロウディアに放
つ銃弾を撃ち込むためにできた傷だ。傷自体は大したものではない、今はまだ
火傷でもしたような痕が残っているが、いずれは消え行くだろう。
 ――クロウディアのように。
 今でも玲二は夢を見る。吸血鬼となったクロウディアがこちらに牙を剥き出
したり、爪を突きたてようとしたり、こちらの腸を抉る夢。
 だが玲二は幾度となく見たそれを一度たりとも悪夢と認識したことはない。
 それは夢の中で、彼女がいつもいつも、ずっとずっと泣いているからだ。悪
夢ではない、あれを悪い夢と決めつけるにはあまりにクロウディアが哀しすぎ
る。
「……」
 気配がしたので玲二は振り返る。既に着替え終わったエレンが開いたドアか
ら彼を見つめていた。
 一瞬、玲二の心のもっとも弱い部分が露呈した。
「コーヒー……入れておいたから」
 エレンは淡々とそう言うと、背中を向けた。彼女は玲二が脇腹に触れていた
ことを見て、すぐに彼が何を思い出しているのか理解した。ゆえに、玲二との
接触を必要最低限のことを口にするだけに留めた。
 誰だって、見せたくない顔がある。今の玲二のように。
「ありがとう」
 普段より、彼の謝辞には感情が篭っていなかった。

 エレンは窓の外を見る、雨音が次第に遠くなり、陽光が差し込んでくる。三
十分もすれば、傘がなくとも外を出歩くことができそうだ。
 今日は何処へ行こうか、と思いながらあのシスターから貰った古びたガイド
ブックを取り出す。昨日は絵を見た、なら今日は本を見てみよう……。
 ガイドブックと、それから真新しい――買ったばかりの聖書を携えた。心な
しか、心臓が高鳴る。
 玲二もエレンの変化に驚き、「こんなことならもっと早く来るべきだったか
な」と彼女に言った。
 玲二が「変わった」と思っているのなら、多分自分は「変わった」のだろう。
 今や世界で彼女を一番知るのは、彼一人なのだから。
 ――そうとも言えないか。
 もう二人、彼女をほどほどに良く知っている人間がいる。しかし、一人とは
もう二度と逢うことはないだろうし、もう一人は自分の心境の変化など気にも
留めていないだろう。
 藤枝美緒は、恐らく一年前とあまり変わらぬ生活を続けているに違いない。
 もう一人――三人目のファントムを名乗った、あの女はどうしているだろう
か。きっと逞しく生きているに違いない。ギラついた女豹のような瞳をエレン
は思い出していた。
 次に出会ったとき、玲二はどうするつもりなのだろうか。自分はどうするつ
もりなのだろうか。
 靴紐を結びながら、そんなことをぼんやりと考えた。
「ん……エレン、また出掛けるのか」
 彼の声の調子はいつもと変わらなかった。エレンはほっと息を吐いて言った。
「ええ。ちょっと図書館に行ってくるわ。
 玲二も来ない?」
「遠慮しておくよ」
 苦笑した。玲二は彼女ほど神学に熱心ではないし、そもそもクリスチャンで
もない。エレンの誘いを断るのも、いつものことなので別段彼女は気にしてい
なかった。
「そう。……じゃあ、行って来ます」
「ああ、気をつけてな」
「分かってるわ」
 エレンの生真面目な返答に、玲二はまた苦笑した。
 ドアを開けて、階段を軽快に降りる。雨は上がっていた、傘を差していた観
光客が次々とそれを閉じて行く。何人かはエレンのようにガイドブックや聖書
を携えていた。
 一年間に一千万人の観光客が訪れる、世界最小の国であると同時に世界最大
クラスの人口を持つ国。四十四ヘクタールの中に詰め込まれた何万という美し
い絵画と彫刻、古文書
 そう、吾妻玲二とエレンはヴァチカンを訪れていた。
 そして、





 もうすぐ此処が、戦場となる。
















『吸血大殲 Blood Lust』Last Parts







                           to be continued




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