俺の連隊には標語(モットー)がある、と彼は言った。
 どんなモットー? 彼女が訊ねる。
 敢然と戦う者が勝つ。
                        ――「カーラのゲーム」










 走る、走る、走る。
 膝に力が入らないため激しく揺れる、大腿筋が痙攣を起こし始め、荒い呼吸
は脳に酸素の供給が行き届いていないことを示している。
 それでも、突き動かされるように走り続ける。
 後ろを見た。
 彼女は全力で疾走しているつもりだった、少なくとも並大抵の人間相手なら
三十秒でその視界から離脱する自信があった。
 今やその自信は木っ端微塵に打ち砕かれようとしている。
 ――しかし、もう一つの恐ろしい事実に比較すれば幾分マシな出来事か。

 彼女は覚悟を決めて振り返り、追いすがる二人の男に手持ちの拳銃――スミ
ス&ウェッソンを突きつける。
 後はいつものように標的の急所に狙いを定める、一発必中の眉間・内臓器官
が詰まった腹、全ての運動を司る脊髄、どこでもいい。
 どこでも、初速200m以上の弾丸は表皮を削り、肉体を抉り、神経を粉砕
し、人を死に至らしめる。
 ――人、ならば。
 躊躇無しに引き金を引く。いつもと同じ運動、同じ動作、同じ感触。
 しかし。
「ちくしょう、当ったはずなのに!」
 当っている、確かに弾丸は精密に命中している。
 だのに、彼女を追う二人は怯むこともしない。弾丸が当った瞬間、躰が幾分
仰け反ったが、それだけだ。
 では彼女を追っている二人は例えば――麻薬中毒者か?
(……違う! アタシに追いつく脚力の麻薬中毒者なんて、いるはずない!)
 麻薬中毒者の中には確かにドラッグの副作用で、無痛感覚を得る場合がある
が、代償として不健康な肉体と胡乱な脳髄を得ることになる。
 そんな状態の肉体で、全力疾走することはまず不可能だ。
 第一、彼女が当てたのは急所、人間として致命的なまでに運動機能を停止さ
せる箇所だ。
 それを何発当てただろう、二発では足りない。恐らく最初に眉間にヒットさ
せたものも含めて六発は当てている。
 にも関わらず、彼等は笑い声すら立てながら(幻聴であって欲しいと彼女は
願ったが)追いかけてくるのだ。
 だから、彼女はまた走る。
 絶望的な“鬼ごっこ”というやつだ。
 恐怖。
 久しぶりに出会った、剥き出しの恐怖。
 足がもつれそうになる、体力の限界を測ることも忘れ、無我夢中で彼等から
離れようと努力する。
 背中が総毛立ち、全身の汗が恐ろしいほど彼女の躰を凍えさせた。
 路地裏を離れ、道路をひた走り、人気のない民家の群れを駆け抜け、辿り着
いたのはちっぽけな公園だった。


                ***


「……どうした?」
「んー、そーいや、アンタとアタシが出会ったのも、こんな公園だったかなっ
て、思い出してただけ」


 反吐が出そうなくらいな血のぬかるみに、それは立っていた。
 黒白の死神。
 手に持っているは、ただの鉄棒。
 後は心を毟り取られたような強烈な憎悪。
 ただ、それだけ。
 それだけ。


                ***


 左肩を掴まれたかと思うと、ぐいと引っ張られる。
 背中を強かに打ち付けられ、息が一瞬止まった、咄嗟に受身を取らなければ
意識不明となっていただろう。
 服を引き裂かれ、豊かな乳房が剥き出しになった。
 「このっ……離せよ!」
 彼女の顔が赤らんでいるのは胸を晒された羞恥よりも、怒りの方が先行して
いるのだろう。
「この糞野郎! 離せって言って……」
 怒鳴る彼女の頬を、男がパチンと叩いた。
 極めて手加減して、軽く叩く。
 しかしそれは人間の彼女にとっては、気が遠くなるほどの衝撃。
 頭蓋骨が振動し、脳味噌がシェイクされる。
 ぐらりと世界が揺れ、目の前の男の顔すら覚束ない。
「んあっ……」
 もう彼女は無駄な抵抗をする気が失せていた。
 ただただ、頭の中でずっと渦巻いていた疑問――この男たちの正体だけを、
淀んだ脳で思考し続ける。
 男が乳房を無造作に掴み、こねくり回す。
 彼女の痛覚をわざと刺激するように、力を入れて握る。
「……っ!」
 だが彼女も用意には屈しない、奥歯を噛み締めて痛みを堪える、それどこ
ろか空いた手で何とか転がった拳銃を掴もうとする。
 けれど月の頼りない光のもと、彼女の顔と動きは凍りついた。
「牙(Fang)……?」
 月が照らす男の歪んだ唇には、紛れもない牙が有った。
 いや、牙だけではない。
 眼は極めて赤く充血し、乳房を掴んでいる手は恐ろしいほど冷たい。
 牙の間から涎が滴っているが、意にも介さない。

 ここに至って、彼女――日本においてインフェルノの命令を無視して独断専
行し、今や彼等から追われる身と化していたドライは心底恐怖を覚えた。
 なぜって、牙があり、興奮しているのに手は冷たく、眼の異常な充血とくれ
ば答えは一つだ。
「吸血……鬼……」
 彼女の呟きに、男は同意するように頷いた。
 噂だけは聞いていた。
 伝説の怪物、吸血鬼――それは確かに実在すると。
 ひっそりと何処かの街で人知れず数を増やし、血を吸い続けている。
 五年前のキャル・ディヴェンスならば、信じたろう。
 教会に行き、洗礼を受け、十字架に縋っただろう。
 しかし、今のキャル――ドライはその噂を一笑に伏した。当たり前だとも言
える、それが普通の人間の通常の反応だろう。
 今、ドライは自分の思い違いを心底後悔した。
(――チクショウ、タダなんだから洗礼くらい受けておけば良かった)

「ヒヒ」
 吸血鬼が彼女を嘲笑う。
 忌々しく、そして恐ろしく底冷えのする笑い声。
 それでもドライは震えたり、小便を漏らしたり、命乞いをしたり、悲鳴をあ
げることだけはしなかった。それは多分ドライの意地であり、プライドだ。
「殺すんなら……とっとと殺るんだね」
 そんな憎まれ口すら叩く、叩いて彼を笑う。
「言葉、解るのかい? アホヅラ野郎」
 男の笑いが消え、代わりにあからさまに怒気を含んだ顔になる。
「いい度胸だ」
 男がそう言った。

 ――男?

 ちょうど同じ台詞を吐こうとしていた男――ドライに馬乗りになっている吸
血鬼は思わず背後を見た。なぜなら今の言葉は少なくとも自分が発したもので
はなく、そして見知った顔の後ろに居るはずの友人の声でもないからだ。
 はたして友人は、その場に有った。
 一瞬の安堵、それから驚愕。
 何故ならば、彼はこちらに顔を向けているにも関わらず……背中を見せてい
たから。
 彼の首が異常な方向に捻じ曲がり白目を剥き出し、舌を突き出しているから。
 痙攣を続ける彼の躰は、明らかに苦痛を訴えている。

「な、に……?」
 誰かが友人の両頬に手を寄せていた。
 惨く優しい手つきで、彼は首をもう一回転捻じ曲げる。
 表皮がゆっくりと千切れる、ぐちゅぐちゅと不快な音を立てて零れ落ちるの
は表皮と筋肉の奥に詰まった血液だろう。
 さらにもう一回転、引っ張りながら首を回していくせいか、彼の首は滑稽な
ほど長く、だらしなく伸び続ける。
 ずるりと脊髄が抜き出され、途中で千切れた。
「な……あ、え?」
 一体いつ、どうやって目の前の“ナニカ”は吸血鬼を始末したのか。
 ドライも、自分の置かれた立場を忘れて――この状況では当たり前とも言え
るが――茫然と目の前のソレを見つめた。
 ゆっくりとソレが立ち上がる、黒い服を着込んでいるのだろうか、それとも
闇を纏っているのか、躰とコートの境界線があやふやだ。
 そして、白い仮面(ペルソナ)のような――顔。
「包帯……黒いコート……闇……」
 曝け出された乳房のことも忘れて、ドライは呆然と月夜に佇む男を視た。
 男は地面に転がっていた鉄の棒のようなものを拾い上げる。



 反吐が出そうなくらいな血のぬかるみに、それは立っていた。
 黒白の死神。
 手に持っているは、ただの鉄棒。
 後は心を毟り取られたような強烈な憎悪。
 ただ、それだけ。
 それだけ。
 
 

「あああああああああああああっ!」
 ドライに馬乗りになっていた男が怒気を含んだ咆哮をあげる、しかしその咆
哮にはわずかに自分を奮い立たせようとする――即ち、恐怖からの逃避も確実
に混じっている。
 果たしてそれを理解しているのか、包帯男がゆっくりと鉄棒を振りかぶった。
 そんな鉄棒で自分は死なないと確信している吸血鬼は、嗤った。
 包帯男は無言を返答の証とする。
 吸血鬼がさながら愚劣な猛牛のように突進した、包帯男は空の手で向かって
くる吸血鬼の勢いを止めようとする。
 ――普通なら、吸血鬼の突進を止めようとした包帯男の腕は、ぐしゃぐしゃ
にへし折られるところだろう。
 しかしどのような豪腕をしているのか、彼の掌が吸血鬼の頭を掴み、わずか
ばかり前にその掌を押し出す。
 そのままわずかばかり勢いを殺し切れずに後退した。
 包帯男は無傷。
 吸血鬼も無傷だが、こちらはまたもや自分の自信を喪失させる事実に混乱し
ていた。
 なぜ自分の突進が苦もなく止められたのか、それに合点がいかない。
 なぜ自分の頭がめきめきと音を立てて押し潰されそうなのか、納得いかない。
 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ――。
 
 暴力的な感情が次第に薄れ、後に残るのはおぞましい恐怖だけ。背中がひん
やりと冷たいのは汗か、それとも血液が凍ってしまっているのか。
 めき、という音が躰の内部から聞こえる。骨が鳴っている、掴まれた頭を無
理矢理上げさせられようとしている。
「げ……ごぁ……」
 抵抗する前に吸血鬼は素早く顔を上げられてしまった、咄嗟に両手で包帯男
の腕を掴んで引き剥がそうとする。

 そしてその時、吸血鬼は月光と、抱え上げられた鉄棒を視た。
 
 鉄棒は開いた口から捻じ込まれ、喉を通り、胃袋を貫いた。
「げ……ひ……あ……」
 包帯男が手を離し、今や吸血鬼兼奇妙なオブジェと化したソレはじたばたと
もがき、苦悶する。
 包帯男はコートの中からするりと注射器のようなものを取り出した。
「吹っ飛べ、吸血鬼(Vampire)!」
 振りかぶったその注射器が吸血鬼の心臓に寸分たがわず突き刺さり、包帯男
が回し蹴りを放った。
 彼の言葉通り、吸血鬼は吹っ飛び。注入された血液凝固抑制剤が彼の肉体の
赤血球を刺激して――。
「ぅぇ」
 やはり、言葉通り四散した。

 ドライは最早吸血鬼に対する関心や哀れみもそこそこに、月下に照らし出さ
れる包帯男のことしか頭になかった。
「ダーク……マン」
 ポツリと呟いたその言葉に、当事者である包帯の男が反応した。

 ダークマン。
 吸血鬼と同等の都市伝説の一つ。
 
 全身を火傷に覆われたために、包帯を巻き、地下道に住んで道行く人間を引
きずり込んで材料にしてしまう。
 彼は有能なデザイナーだったが、火傷を負ってしまったせいで顔が二目と視
ることができないほど醜くなってしまい、心もそれに合わせて歪んでしまった。
 だから彼は人を殺し、顔の皮を剥ぎ、その皮を被って地上に現れているのだ。
 だから、地下道の彼の住処には何十何百もの顔の皮が連なっている。
 そしてそれを眺めながら、今日はこいつの顔にしよう明日はあの顔にしよう
とダークマンは一人低く嗤うのだ――。

 数ヶ月前から急に流布され始めた噂だった。
 そんな荒唐無稽の記事が、タブロイド誌に何度か掲載され――元々その手の
話が好きなドライも、それを読んだことがある。
 勿論ドライはその手の話が好きなだけであって、信じてはいない。
 第一、人の皮は死んだ瞬間収縮して、とても変装に使えるようなシロモノで
はない、レザーフェイスだってそうじゃないか――。
 タブロイド誌にはなかなか上手い絵で、黒いコートを着たミイラが美女を連
れ去っているところが描かれていた。
「おー、怖い怖い」
 読み終わって新聞を屑篭に放り投げる。
 それっきり、ドライは彼を空想上の怪物と認識し、忘却していた。
 
 けれど。
 今、自分の目の前に立ち尽くしているのは、こちらを観察しているのはまぎ
れもない噂通りの姿の男である――女という可能性も、わずかながらあったが。
 包帯男――ダークマンがこちらにつかつかと歩み寄り、しゃがみこんで無骨
な手をドライの首に当てる。
 一瞬絞め殺されるのかとも思ったが、彼は首筋をそっと撫でただけで離れた。
「……吸血痕は無いようだな」
 吸血痕? ドライにとっては聞き慣れない言葉だったが、何とはなしに想像
はついた。
「どうでもいいが、胸を隠せ」
 ダークマンの指摘で初めて自分の晒し出された胸を思い出したドライは、服
を寄せて睨みつける。
 けれど彼の虚ろな瞳を見て、その怒りは雲散霧消する。
 彼女はあまり信じたくなかったが――その虚ろな瞳に見覚えがあったのだ。
 会うたびに、少しずつ壊れていったあの虚ろな日本人に。
「アンタ……何者?」
「さあな、何者なんだろうな」
 ダークマンは惚ける。
「知ってるさ、ダークマンだろ。アンタ」
 それを聞くと彼は――顔をしかめたのだろうか、目尻が若干寄った。
「知っているなら、なぜ俺に問う?」
「信じられなかったんだよ」
 ふうん、と関心なさげにダークマンは呟くと、地面に落ちていた拳銃を拾い
上げる。
「お前の拳銃か?」
「返せよ」
 ダークマンは拳銃を放り投げた、ドライは片手で胸を抑えながら器用にそれ
を受け止めて、ホルスターに差し込む。
「やれやれ、今更だがニューヨークも物騒になったモンだ――お嬢さんみたい
なのが二挺の拳銃を振り回している」
「うるさいな、大きなお世話だよ」
 ジャケットのジッパーを上げて、何とか引き裂かれた服を誤魔化す。
「さて、じゃあ一つ聞いておきたい。
 お嬢さん――なぜ、襲われていた?」
 
 
 ――過去はここで途切れる。
 
 
                ***
                
                
 ――セコイア4519番地。
 其処は何もない区画として極めて有名だった。
 犯罪者は存在しない、犯罪を犯しようがないから。ホームレスも存在しない、
空き缶や役に立ちそうなゴミ屑ですらこの区画には存在しなかった、居るもの
といえば、野生化した野良猫や野良犬くらいのものだ(彼等は共食いすること
で、食料の循環を成功させていた)。
 死んだ街、死んだ区画、死んだ住宅。
 スラムと呼ぶに相応しい土地だ。


 ――ところでそう思われていた土地にわずかばかりホームレスが住み着きつ
つあることと、たまに此処に迷い込んだ吸血鬼が即座に行方不明になっている
という事実は、あまり知られていなかった。


 マンホールを押しのけて、二人が馴染んだ区画に戻ってきた。
 さてセコイア4519番地に立ち並ぶ工場の一つに、フレッシュ・スプラッ
シュ石鹸工場――1930年代の世界恐慌に巻き込まれて閉鎖された――があ
り、そこには三人の男女が住み着いている。
 そしてその工場にはこの区画の中でただ一つ電気が通っており、あちらこち
らに監視・警報装置がセッティングされ、最高のスペックのPCと医療器具、
武器弾薬などが詰め込まれていた。
 今や、古びた工場はちょっとした要塞と化していた。
 
 道行く途中、道路に寝転がっていたホームレスが親指を立てる。
「異常ナシ」
 ホームレスはそう伝えた。
「ありがとう」
 ダークマンは頷いて感謝の意を示した。

 二人が石鹸工場に戻り、帰りを待ちくたびれていた一人に声を掛ける。
 椅子に座って仮眠を取っていたその一人は目を開くと、少し微笑み、それか
ら二人の内の一人を見て、少々厳しい表情を見せた。
 長い髪を無造作に束ねた白衣の黒人女性はため息をつき、そして言う。
「全く……吸血鬼退治に浮かれるのもいいけど、弾丸を確認してからにしなさ
いよ」
 呆れ顔でカレン・ジョンソンは彼女を叱責する。
 言われた女性――キャル・ディヴェンスは両肩を竦めた。どこまでも応えな
い性格である。
「全員吹っ飛ぶって思ったからさ、拳銃にまで頭が回らなかったんだよ」
「吸血鬼のことになると、貴方少し冷静さを欠け過ぎね。
 ま、私が言うのもおかしな話だけど」
 カレン・ジョンソンは元検死医である、血液学に関してならば学界でも多少
は名の通った女性だった。彼女もまたとある吸血鬼の屍体と二人の吸血鬼ハン
ターをきっかけにココに足を踏み入れてしまった人間の一人である。ただ、普
通の人間と違って彼女は犠牲者ではなく、抵抗者を選択したが。

 彼女を救った吸血鬼ハンターは、今ここに居ない。一人は憎むべき吸血鬼に
殺されてしまったし、もう一人はロシアか、さもなくばメキシコにでも居るの
だろう、あるいはヨーロッパあたりに顔を出しているのかもしれないが。
 ともあれ、旧友であるペイトン・ウェストレイク――今はダークマンだが―
―にコンタクトが取れたのは幸運だった。
 カレンは吸血鬼の研究を続けながら、彼等二人のアシスタントを受け持って
いる。
「ペイトン、例の血液凝固抑制剤だけど、血清を入れる注射器よりも、弾丸の
形で射出する方が良くないかしら?」
 カレンが前々から思っていることを言った。
「そうだな……確かにそちらの方がいいと思うが、しかし弾丸の形にするとな
ると専用の銃のようなものが必要だな」
 ダークマンは賛同と疑問を提出する。
「キャル、何かいいアイデアはない?」
 キャルはふむ、と鼻を鳴らしてしばらく思案する。
 
「グレネードランチャーを改良すれば、何とかなるかも」
「威力が強すぎて、抑制剤が割れちまうよ」
 あっという間にペイトンが却下した。
 キャルはめげずに、即座にアイデアを出す。
「じゃ、麻酔銃はどう?」
「それだと、抑制剤の量が少なすぎないか?」
「むしろ今の方が多すぎる気がするわ、派手に爆発しすぎよ、アレでは……」
 話は喧喧諤諤と続く。
 
 
                ***
                
                
 過去に戻る。


「……どうした?」
「一つ聞きたいんだけど、さっきのアレってさ、やっぱり吸血鬼?」
 吸血鬼、という語句があまりにも馬鹿馬鹿しくて、こんな状況にも関わらず
ドライはちょっと照れた。
 眼前の包帯男は照れもせず、
「そうだ」
 と言う。
 そのあっさりとした肯定の響きが、かえって真実を思わせる。
「ふぅん、アレは吸血鬼なんだ、まさか本当にそんなものが居るなんて、ね」
「……意外にあっさり信じるものだな、少しは驚いてくれないと、こちらも驚
かしようがない」
 残念そうな彼の言葉に、ドライは笑った。
「アタシはね、結構そういうの信じてみたいタイプだからね」
「そうか」
 それで、とダークマンが脱線しかかった話を戻す。
「お前はどうして狙われていた?」
「さあね」
 とぼけて肩を竦める、ドライは自分が狙われた理由を薄々感付いていたが、
それを喋るということは自分の正体をバラすということだ。そしてそれはあま
り褒められたことではない。
「貴様が殺し屋だからか?」
「なっ――」
 絶句はこれ以上ないくらい分かりやすい回答。
「……嘘が下手だな」
 ダークマンがかすかに咳き込んだ――否、あれは笑っているのだろう。
 ドライは怒りに任せて拳銃を突き付けた、ダークマンはつまらなそうにその
拳銃と、彼女の顔を見る。
「笑うな」
「そいつはすまない」
 ダークマンはのんびりとした口調で謝った。突き付けられた拳銃など意にも
介さない、もっともドライからすればそれは当たり前の反応であると思った。
 なぜなら、ドライは拳銃を取り出して突き付けたけれど、撃とうという気は
まるでなかったからだ。殺し屋だろうがドラッグの売人だろうが警察官だろう
が特殊部隊の隊員だろうが、プロでありさえすればそれに気付いたはずだ。
 彼女は彼を殺す気がない、撃鉄も起こしてない、そもそも――これがダーク
マンに知られているかどうかは微妙だが――安全装置が掛かっていた。
 沈黙。
 ドライは黙って拳銃をホルスターに仕舞った。
「達者でな。お前なら、この街で生き残ることができるかもしれない」
 ダークマンは背中を向けて歩き出す。
 
 さて、どうするべきか――?
 ドライはしばし迷ってから、ダークマンの後をついていく。
 とにかく、彼は吸血鬼のことを知っている。そして弱点も知っているだろう
し、武器も持っているだろう。
 なら、自分の思いつくまま行動した方が良い結果に動くに違いない。
 ドライはそう考えると、ダークマンの後を堂々とついていった。
 五十メートルほど歩いただろうか、ダークマンが動きを止める。
 はぁ、とため息をつく。
 ダークマンは彼女のことに勿論感付いていて、五十メートル歩く間にありと
あらゆる策を練ったつもりだった。

 突然走り出す、
 弁舌を尽くして彼女を帰らせる、
 ぶん殴って大人しくさせる、
 エトセトラ、
 エトセトラ。
 
 ……結論。
「君さえよければ……ついてくるかね?」
「ありがと、ダークマン」
 彼女の提案を断ることはできない。
 彼はもう一度ため息をついた。
 
 
                ***
                

 ダークマンの帰りを待っていたカレンは、彼の連れに驚愕した。
(ついでに言うと、ドライがファントムだと知ったとき、再度驚愕した)
「あらまあ、何てこと!」
 これが、全ての始まりだ。


 いずれにしろ、紆余曲折を経て三人は共闘組織となった、彼等こそ吸血鬼を
打ち滅ぼす抵抗者達(Resistants)。
 ダークマンとペイトンが破壊し、カレンが思考する、あるいはダークマンと
カレンが思考し、ドライが創造する。
 三人の組み合わせは――少なくとも能力の相性的には抜群であった。
 思考し、破壊する男、ペイトン・ウェストレイク。
 思考し、創造する女、カレン・ジョンソン。
 破壊し、創造する少女、キャル・ディヴェンス。


「よし」
 ダークマンがごちゃごちゃと物が置かれたデスクの上を、腕を振り回して整
地し、そこに地図を置いた。
「これが奴さん達の最重要拠点だ。お前には……」
 チラリとキャルを見る、キャルは不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「お馴染みだな」
 詳細に描かれた部屋の数々、見張りと番犬の巡回ルート、武器弾薬の在り処。
 全てファントム・ドライである彼女には馴染み深い場所だった。
「連中の拠点、インフェルノ本部。
 ここを一気に叩き潰してやる」
 ヒョウ、とキャルが口笛を吹いた。


                ***


 トン、と苛立たしげに男は長いパイプを樫の木の見事なテーブルに叩き付け
た。夜から実に不愉快な報告を聞かされるというのもリーダーとしての義務な
のだろうか、自分はとてもそういう達観した考えには辿り着けない。
 吸血鬼はそんなことを思考した。
「また、やられたと?」
「はぁ……」
 目の前の男は恐縮している。
 それは無理もなかった、彼奴等に“遊び場”を潰されたのはこれで三軒目だ。
 しかも、いずれも生き残りはほとんど無し。あまつさえ遊び場そのものも、
当分の間休業するしかないくらいに破壊し尽くされている。
「……で、我々はまたも彼奴等の居場所も正体も掴めなかった、と?」
「申し訳ありません、ボス」
 その吸血鬼は低く唸り、机の引き出しから拳銃を取り出し、彼の胴体に二発
撃ち込んだ。
「――ぇ」
「次はないぞ、もう行け」
 立ち上がる。
 痛みに悶絶する男の頭をぐりっと踏み潰し、そこで気付いた。
 ああ、こいつは人間だったと。胴体に弾丸を喰らい、頭を踏み潰されれば死
ぬのだと。吸血鬼と勘違いしてしまった、済まないことをした。男だったモノ
は最早断続的に生きているときの名残である痙攣を繰り返すだけだ。時は既に
遅い。仕方ないので、吸血鬼はインターコムで部下を呼びつけ、部屋の掃除を
頼むことにした。
 全く運のない日だ、こういう時は散歩に限る。


「どこへお行きに?」
 巡回していた警備員――勿論、彼は吸血鬼だ――が男に声を掛けた。
「気分転換、だな」
 今日は誰の、どんな血を吸おうか。そんなことを考えながらインフェルノの
長であるレイモンド・マグワイアはぶらりとインフェルノの本拠地を出た。
 警備員はやれやれ、とかぶりを振った。
 しょうのない方だ、あれだけ吸ってまだ吸い足らないらしい。男は自分が警
護する巨大な邸宅を見、その中の一角にある吸い尽くされた屍体が詰め込まれ
た部屋を思い出す。年端のいかぬティーンエイジャーたち、男女問わず限界ま
で吸い尽くされ、絞り尽くされて干からびたミイラと化している。そしてそれ
を一人貪り続ける一匹の喰屍鬼、彼はそのためだけに産み出された。要するに
ゴミ処理係だ。
 意地汚い彼は、骨・眼球・爪・髪問わず綺麗に舐め、噛み、しゃぶり、喰ら
い尽くす。
 果たして、昼夜問わず喰い続ける彼と、あそこに詰め込まれる屍体が増える
のとでは、どちらが早いのだろうか。警備員はそれをしばらく考え――犬の吠
え声で自分の役割を思い出し、巡回に戻った。


 しばらくして、番犬――そのシェパードはゾルタンという名前を持っていた
――がもう一度吠えた、今度は警備員の叱責ではなく、警告の為。

 全警備員へ、侵入者の通達を促す為。


                ***


 吸血鬼が犠牲者を見定める、というのはハンターが狩りで獲物を探すことと
似て非なるものだ。
 どちらかといえば、若い不埒な男が顔と躰だけで心地よい夜を過ごす相手を
選ぶことに似ている、愛情はない、高揚感も少しはあるが、それよりは劣情の
方が勝る。
 吸血鬼が犠牲者を見定めるときは大体がそんな感じだ。
 レイモンド・マグワイアはビルの屋上の端に腰掛けて、めっきり“人”通り
が少なくなったニューヨークを愉快そうに見下ろす。
 ああ、視るがいい。この街の夜は私のものだ――!
 そして、そんな事を考えた自分に驚く。吸血鬼になってから、元より強かっ
た権力志向という衝動が次第に強まっている。いずれ自分はニューヨークを、
アメリカを、そしてヨーロッパ、アフリカ、果てはロシアに至るまで権力を求
めるに違いない――それは人間であった頃、子供の頃から思い描いた夢であっ
た、叶えられるはずもない、莫迦げた、戯けた夢。
 だがそれは、この力さえあれば現実(Real)になるに違いない。
 その時の至福の快感を妄想するたびにマグワイアは震え、勃起し――射精寸
前にまで到達する。恐らく彼の妄想が現実として成立したとき、彼は思う存分
射精できるのだ。

 少女が一人、夜を歩いていた。
 おお、とマグワイアは歓声をあげた。遠目からではさすがに吸血鬼といえど
も顔までは分からないが、勘に従えばまず間違いなく極上の少女だ。
 そういう少女の血は凄い、吸った瞬間力が躰に満ち溢れる。レイモンドは一
度だけ家出したてのどこぞの金持ちの箱入り娘の血を吸ったことがあった。彼
女は処女だった、処女の血を吸ったのはあれっきりだ。その時はあまりの快感
に彼は射精しながら、娘の躰を掴んで引きずりまわし、踊り狂ったものだ。そ
れが落ち着いた頃、娘の躰は手が千切れ、勢いよく回し過ぎた為に脳が耳から
ずるりと垂れ流れてきて、美しかった顔は二目と見られぬ醜い形相になってい
た。
 ……にも関わらず、マグワイアは狂喜乱舞したまま彼女の血を吸い続けた。
 
 無我夢中で、マグワイアは屋上から飛んだ。
 背中から翼が生える、比例して腕の筋肉が倍化する、足は靴を突き破って鉤
爪が伸び、血を吸うための牙が唇の外へ突き出される。
 今や巨大な蝙蝠となったマグワイアはかつて美男子の域に在った顔を途方も
なく醜く歪ませて、少女に襲い掛かった。


 ところで、彼にとっては襲う少女の名前など些細な問題だったが、もし知れ
ばかようなまでに高揚することはなかったに違いない。

 その金髪の少女の名は、モーラといった。








                           to be continued.



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