ジャングルで一番平和な場所を知ってるか?
 ライオンの背中の上だよ。
 そこで暮らしている蚤が、一番平和を享受している。
                    ――「修羅雪姫」

















 
「神なんていないさ。少なくともこの街にはな」
 誰かのぽつりと漏らした呟きは、あっという間に街を伝わり、絶望の呷きが
優しく彼等を包み込む。
 夜のけばけばしいネオンサインは一部を除いて立ち消え、代わりにあちらこ
ちらに禍禍しいサイン――勿論、吸血鬼たちの領土を指し示すサインが芸術的
だった様々な落書きの上に無造作に描かれている。
 ――ニューヨークは今や吸血鬼たちの魔都だ。
 昼間こそ人間が闊歩し、ごくごく平凡な会話を囁き合う日常が支配している
が、ひとたび夜ともなれば蝙蝠が空を飛び交い、道行く人間の血を啜り、肉を
食い荒らす。
 蝙蝠でなくば、人のようで人でない吸血鬼がハイエナのように獲物に群がり、
凄まじい勢いで八つ裂きにしていた。
 何しろ死体すら残らないので、警察も対処の仕様がないし、そもそも警察上
層部にまで吸血鬼は広がり始めていた。
 ウィルスのように広がるそれは、昼間のニューヨークすら変えつつあった。
 仕事に行かない夫。
 家事をしない妻。
 だのに夜毎徘徊する子供たち。
 昼間から頻繁に起きる強盗・強姦・誘拐・殺人――。
 わずか一ヶ月でニューヨークの行方不明者は通常の三倍のレベルにまで達し
ていた。
 新聞記事には「カルト宗教団体の仕業か」「正体不明の猛獣?」(恐らく地下
水道の都市伝説に影響を受けたのだろう)など無責任な文面が舞い踊っている。

 勿論、人間とてただニューヨークの荒廃を緩慢と観察しているだけではない。
 ニューヨークにはヴァチカンの名を受けたホワイトハウスによって密かに隔離
政策が取られ、あらゆる他都市への道には警察・軍隊が待ち受けている。
 ヴァチカンのスイス傭兵団、ヴァチカナンガーズや第十三課も密かにニューヨ
ークへ潜り込み始めている。
 勿論、そのことが報道されることはない。
 報道されない以上、自分達の身に何が降りかかっているのか、何が起ころうと
しているのか、普通の人間には知る術はない。
 まるで腐った食べ物の上に強引に卵の衣を広げて食い物だと自称するような惨
い状況だった。
 しかも、それを食べさせられるのはただの善良な市民達だ。

 ――どうやら震えながら朝を待つ善良な隣人達に、救いは来ないらしい。

 では、ニューヨークの内に在る人間の中で、震えながら朝を待つ以外の者たち
はどうしているのだろう。
 惑わず、震えず、恐れず、夜に立ち向かうべき人間達は――。


                ***

 ティーンエイジャーの少女――彼女は不幸にも家出中だった――が見るも無
残にズタズタにされ、レイブのテンションはどんどん昇り続けていく。
 一人の歳若い吸血鬼(何しろついこの間まで人間だった)が若干の戸惑いを
見せながら、狂乱の宴に参加していた。
 その歳若い吸血鬼は田舎者で、ひどい訛りがあった。その事を彼は気にして
いたし、散々罵倒されたりもした。
 しかし、今やそのことで彼をからかうものはいない――正確に言うといなく
なった。
 そう、この世から彼をからかう存在は軒並み消し飛んでいた。
 ――それは彼が吸血鬼であるが故に起こり得た事象であり、その点からすれ
ば彼にとって吸血鬼になったということはおおよそ全ての面において歓迎すべ
き事柄であった。
 吸血鬼となってからのパワフルな力は、彼のお気に入りだった。素手で人の
首をへし折った時の感触ときたら――。

 ぶるるっと彼は興奮で震えた。

 素晴らしく充実した日々だった、今日に至ってはとうとう生まれて初めて―
―既に死んでいるが――女性をダンスに誘うことに成功していた。
 勿論、人間である。
 それも人間であった頃には考えられない美女が、彼の誘いにすんなりOKし
てくれたのだから、彼が浮かれるのも無理はあるまい。

「本当に吸血鬼にしてくれるのかい?」
 少々蓮っ葉な声を出して、その女は夜の道を平然と歩く。闇にさらりとした
金髪が煌いた。
 勿論だよ、と男はキツい訛り混じりに嘘をついた。
 これから向かう場所に必要なのは新たに加わる仲間などではなく、単なる生
贄の羊なのだから。
 ――するってえと、おいらは羊飼いってとこだ。
 男は女――恐らく、二十歳を越えたか越えてないか程度の横顔をチラリと見
た。
 バイク用の黒いレザースーツに、紅のジャケットがよく映えている。
 よく目を凝らさないと見えないほどのそばかすが無ければ、まあ完璧な美女
だと言えよう。
 夜道にたむろしている吸血鬼がちらちらとこちらを窺っている、人間の匂い
に惹かれているのだろう、中には既に牙を剥き出しにしている者までいる。
「しっしっ!」
 男は手で追い払う仕草を見せた、この女は自分の獲物であるということを、
たむろしている馬鹿どもに誇示した。
 何事か捨て台詞を吐きながら、吸血鬼たちは路地裏に引っ込んだ。
 それでいい。
 今夜、この女はおいらたちの――いや、おいらのモノだ。
 まず、女が騙されたことに気付いて絶望的な表情を浮かべる。
 ――暴れるかもしれない、だが吸血鬼の力でそれを強引に押さえつけ、嫌が
る女の血を――いやいや、その前に服を切り裂いて、さんざ辱めを与えて輪姦
して、それから血を吸ってやろう、勿論吸血鬼にならないようにカラカラに、
だ。
 ――ところで自分が連れてきたんだから、当然自分が一番沢山吸う権利があ
るよな。
 彼女が涙を浮かべながら自分に向かって哀願する仕草を妄想する――男はそ
れだけで、股間が盛り上がった。


                ***


 女はちらりと男の顔を見た、何とまあだらしのない笑みだ。
 涎を垂らしているその様は飢えた狼――というよりも、ただの駄犬のようだ。
 ともあれ、わざわざ案内してくれるというのだ。それに従わない訳にはいく
まい。
 女は媚びる笑みを見せて、彼の腕に自分の腕を絡めた。
「ねえ、早く行こうよ、あたい、子供の頃からの夢だったんだよ」
「ああ、んじゃ行こうか……」

 それは、待ちくたびれている仲間たちにとって、非常にマズいことだろう。
「行こうか」
「うん、ベック。楽しみだよ」
 女はからからと快活に嗤った。


                ***


「――ハン」
 あの田舎者のクソ間抜けの吸血鬼が運の良いことに獲物をかっさらってきた
らしい……冷凍室で退屈極まりない見張りをしていた吸血鬼は、欠伸を噛み殺
してこちらに向かって歩いてくる一匹の吸血鬼と一匹の餌を目視した。
 くん、と鼻で匂いを嗅ぐ。処女だろう、と彼は見当をつけた。
 少なくとも彼女の躰からは香水と男の匂いが入り混じった何ともいえない不
快な匂いを漂わせるような娼婦ではないことはハッキリしている。
 吸血鬼になる前からそうだったであろう筋肉質の躰が、彼女の肢体を思う存
分貪ることができると思うと歓喜で疼いた。
「アモン、入れてくれ!」
 小生意気な表情で、若造の吸血鬼が言った。
 不承不承、扉を開けてやる。
 ――くそ、今日はおこぼれにも預かれねぇらしいや。
 アモンは今日に限って見張りになった自分の運命を呪いたくなった。

 という次第で年若く、そして田舎者の吸血鬼であるベックと女はダンスに興
じていた。
 ダンスミュージックがガンガンとスピーカーから鳴り響き、話し声も余程大
声でないと打ち消される。
 あちこちでチラチラとこちらを見ているのが判る、ベックはもう絶頂だった。
 ああ、彼女のすぐ後ろで牙を剥き出している、踊りに夢中らしい彼女は気付
いてなさそうだが。
 ベックは人差し指を立てて見せた、後ろの吸血鬼は心得たとばかりに後退る。
 女は踊りに夢中。
 今、自分が死んでいたかもしれないということに気付かない。
 ――そう、これだよ。これ。
 彼女の命を自分たちの掌で弄んでいる、生かすも殺すも――勿論、殺すつもり
――自分次第、その事実が彼には何よりの快感だった。
(さあ、もうすぐ血のシャワーだ。人間のお前には生臭くてしょうがないだろう
がな)
「さあ、もうすぐシャワーだ。これでお前は吸血鬼になれるズラよ」
「へえ、そうなんだ! シャワーを浴びるだけで吸血鬼になれるなんて、手軽
になったもんだね」
 自分の嘘をあっさりと信じ込んだ馬鹿な女に、ベックはほくそえんだ。
「さあさあ、もうすぐもうすぐ――」
 ベックは上を見上げた、もうまもなくあのスプリンクラーから赤黒い甘美な
液体が零れ落ちて――。
 と、突然女が踵を返して、入り口の地上への階段へ走っていった。
 ベックはあんぐりと口を開けた。
 数秒のタイムラグで立ち直ると、彼女の背中を追いかける。
 階段のところで、彼女の肩を掴んだ。
「ど、どういうつもりズラ? 吸血鬼になりたくないのか?」
 彼女は振り返って、ニッコリ微笑んだ。
 何ともこれは、先ほどの媚びた笑みとは比較にならない極上の笑みだ。
 さながら女夢魔(サキュバス)を思わせる悪戯っぽい笑みを浮かべて、懐か
ら素早く二挺の拳銃を取り出した。
 ベックは単純に、驚いた。
「おあいにくさま。あたしは吸血鬼って虫が好かないの」
 乾いた銃声が狭い階段で鳴り響いた。
 銃弾を撃ち込まれて思わず仰け反ったベックに、女が足で押すように蹴りを
入れる。
 ドアを突き破って、ベックはダンスルームへ転がる。
 既にテンションが最高潮まで達していた吸血鬼たちは銃声と、倒れこんでき
たベックを不思議そうに見た。
 ベックは寝っ転がったまま天井を見上げる、ぽたりと馴染みの雫が落ちて、
一瞬自分の置かれた状況を忘れるほど歓喜した。
「さあ、お待たせ! 血のシャワーだ!」
 DJが叫び、スプリンクラーから赤黒い液体が降り注いだ。
 歓声、歓声、歓声。
 ……。
 ……。
 ……。
 一瞬の歓喜の絶叫、それからすぐに絶叫は戸惑いを秘めたざわめきに代わる。
 変だ。
 何か変だ、この血は。
 いつもの血の味ではなかった、鼠の血を啜るよりさらに最悪な血の味と匂い
がした。
 ベックは戸惑いながら、階段の上に立つ女を見た。
 彼女は笑いながら、タバコを吹かしている。
 もう、ベックの少ない知能の許容範囲を越える出来事が立て続けに起きてい
て、何をすればいいか、理解することすらできなかった。
 どんどんシャワーは彼らの躰に降り注いでいく。
 シャワーを浴びて、数秒後、その中の何人かが同時に気付き、悲鳴をあげ、
それから叫んだ。

「ガソリンだ!」

 ベックが目を剥いた。
 ――あ、あ、あ、そんな、駄目だ、駄目駄目駄目駄目駄目ダメダメダメダメ
だめだめだだだだめ。
 女はにっこり笑って、火がついたままのタバコをこちらに投げ捨てた。


                ***


 ダンスルームはあっという間に地獄の炎で包まれる。
「こんがり吸血鬼ロースト、一丁あがりってね」
 そんな軽口を叩いて、悲鳴をあげて逃げ惑う――あるいは、逃げ惑うことす
らできずに焼け焦げた吸血鬼を見た。
 阿鼻叫喚の其処からの熱風に、彼女は顔をしかめた。
 ――こりゃ、急いで脱出しないとヤバいかも。
 女は一気に階段を駆け上る、慌てて見張りがドアを開いたのを見計らい、
「ありがとさん」
 銃弾を打ち込む。
 顔と心臓。
 二発ずつ。
 デカい図体の男がきょとんとした顔で崩れ落ちた。
 きっと自分の顔に空いた孔も理解できぬまま、男は死ぬだろう。
 肉の冷凍室を急いで駆け抜ける。追い縋るような炎が彼女の背中を舐めた。
「――うわ!」
 本能的に跳んだ次の瞬間、背後で小規模な爆発が起きた。
「あいたたた……映画じゃもうちょっと上手くいったんだけどな……」
 腰を摩りながら、女は後ろを振り返った。
 口笛を吹く。
 其処はまさに阿鼻叫喚の火焔地獄が広がっていた。


                ***


 ――何だ、
 ――何だ、
 ――何なんだ。
 ――撃たれた、
 ――炎が、
 ――熱い、
 ――畜生、
 ――何が起きた、
 ――爆発だ、
 ――痛い、
 ――焼ける、
 ――あの糞アマ、
 ――俺俺俺俺を、
 ――銃で、銃で、そうだ、撃ったんだ、アイツだ、アイツアイツアイツ、
 ――殺さないと、殺す殺す殺す、畜生、アイツだ、殺す、殺す殺す殺す!

 思考はそこまで。
 後は本能に付き従うのみ。


                ***


「あら、ら」
 女は素っ頓狂な声を出して、瓦礫から這い出てきた吸血鬼の姿を見る。
 あの健康的な肌の色からてっきり人間だとばかり思っていたのだが……どう
やら吸血鬼だったらしい。
「参ったな……」
 ぶつぶつと呟きながら、弾倉を交換する。
 カチリという心地いい金属音、交換された弾倉の中には特製の弾丸が――。
「あれ?」
 もう一度弾倉を引き抜いて確認する。
「……これ、普通の弾だ」
 弾倉から見えているのは、特製の銀の弾丸ではなく、市販されているただの
鉛弾だ。
 銀の弾丸でないと、吸血鬼相手に効果は薄い。
 自分が唐突にピンチに陥ったことに気付いて、じりじりと後退する。
 幸い、目の前の馬鹿吸血鬼はこちらに構っている暇はなさそうだ。
 ならば。
「――逃げよっと」
 背中を向けて、彼女は全力疾走でそこから離脱した。
 しばらく走ると、ギィィッという吸血鬼独特の奇声が辺りに響いた。多分、
あの筋肉達磨の吸血鬼は怒りに打ち震えているのだろう。
 武器の乏しさを考えると、こちらの不利は明らかだった。
 なぜ、銀の弾丸であろうがなかろうが吸血鬼を物理的に損傷させることが
可能なショットガンくらい持ってこなかったのか――彼女は自分のミスに歯
噛みした。
 勿論、それは当たり前だ。
 どこの世界にディスコに行くのに、あんなゴツいモノを持って行く人間がい
るというのか。ましてや自分は、ただの生贄の羊という設定だったのに。
 そんな不自然なことはできなかっただろう、だから空しい仮定の話だ。
 ――とにかく、走ること。
 彼女の走る速度は非常に早く、しかも一定の間隔を保つ高度に訓練された走
り方だ。
 しかし、吸血鬼。それも怒りに震えた吸血鬼の疾走には通用しない。
 焦燥の念にかられて振り返る。
 ――速い!
 走っているなどという生易しいものではない、地面を踏み込んで跳ぶ、ボー
ルのように跳ねて、彼女へ追いすがる。
 純粋ともいえる殺意を躰に漲らせて、吸血鬼は彼女を狙い続ける。
 

                ***
                

 ――トンプキンズ・スクエア・パーク。
 1988年にホームレスや不法占拠者を排除しようと警官達が暴力を加えた
事件により、長い間閉鎖され続けていたが、近年になってようやくその縛が解
かれたという些か乱暴な過去を持つ公園である。
 しかし今。
 公園は1988年に戻ったのか、夜中の公園には人っ子一人、犬一匹存在し
ない。否、犬どころか鼠のような小動物さえ存在しなかった。
 そんな公園に彼女はたどり着いて、ようやく呼吸を落ち着ける。
 ゆったりと、散歩するように歩く。
 すぅっと夜の空気を吸う、冷気が躰の中に入り込み、煮えたぎるような熱さ
を持つ臓腑と脳髄を急速に冷却する。
 高鳴っていた心臓は、リラックスした躰に呼応してゆったりと落ち着き始め、
後方に吸血鬼が迫っていることもまるで意に介さない。
 走っている間に、わずかながらの理性を取り戻したのか動きを止めた彼女の
背中を疑惑の目で見据える。

 ――周りに人の気配はない。
 ――こちらを倒せるような武器を持っている訳でもないらしい。
 ――火薬の匂いやプラスチックの匂いはしないから、爆弾もない。
 ならば。
「一滴残らず吸い尽くしてやる」
 吸血鬼は脚のバネを最大限に活かして跳びかかった。
 そして気配・呼吸・地面を踏みしめる足の音を完璧なまでに察知し、吸血鬼
がどういう動きを行うか、容易く想像していた彼女はくるりと振り向くと同時
に手に持った二挺の拳銃を構えた。
 後に残ったのは救いがたいほどの単純明快なドラマだけ。


 撃鉄。
 起きる。
 跳びかかる。
 牙を剥き出す。
 銃弾が放たれる。
 不遜な笑み。
 眼球を吹き飛ばす。
 両方とも。
 横っ飛びに転がる。
 獲物を見失う。
 右往左往。
 
 
 ――そして、誰かが肩を叩く。
 吸血鬼は条件反射的に振り向いた、勿論誰が肩を叩いたかということは、彼
には判別できない。
 少し掠れた、けれど穏やかな口調で肩を叩いたソレは吸血鬼に尋ねた。
「おいお前、マンホールは好きか?」
 目が見えなくて、混乱していた吸血鬼であったが、それを考慮に入れても、
なお意味不明の質問であったろう。
 次の瞬間、彼の顔に鉄の塊がめり込んだ。
 ぐしゃりと彼の鼻骨が叩き潰され、安物のケチャップのようにドロリとした
血が地面にぼたぼたと零れ落ちる。
「うぐぇっ」
 果たして悲鳴なのか判らないような苦悶の声。
「わたしは好きだぞ!」
 再びマンホールを振り上げる――と言っても、吸血鬼には見えない。
 ただ、轟という風を切る音が聞こえただけだ。
 そして再び、今度は眼底を破壊された。
「どこにでもあるし!」
 三度、振り上げられる。
「ヒィッ!」
 悲鳴。
 身をよじって、背中を向けて逃げようとする。
 次に振り下ろされた場所はアキレス腱だった、腱が叩き潰されるぶちぶちと
いう音がたまらなく傍観していた彼女には不快で、思わず顔をしかめた。
「破壊力も凄い!」
 地面に這い蹲り、両手で必死にもがいて逃げようとする吸血鬼の脳天に、四
度目のマンホールが直撃した。
 さらにもう一度、腕へ。
 ついでにもう一度、喉へ。
 マンホールは何度も何度も振り下ろされたせいか、本来の用途である蓋の役
割を果たすことはできないほど変形してしまっていた。
「ふむ」
 そう呟いてマンホールをひょいと捨てると、男は吸血鬼の躰を蹴り転がした。
 そして呷く吸血鬼の躰を跨ぐ。
 吸血鬼の眼球はようやく修復しようとしていた、徐々に取り戻される視力で
先ほどから自分を破壊し続けた男の姿を視た。


 ――そしてその時、吸血鬼は、心の底から、こわいと、思った。


 月下に佇む男の姿は真っ黒で。
 躰があるのやら、無いのやら、黒いコートと躰が一体化しているかのよう。
 つばのついた帽子、カウボーイ? 死神のカウボーイ?
 だが、何より吸血鬼が怖いと思ったのは、
 顔と手に十重二十重に巻かれた真っ白い包帯、そしてわずかに露出した瞳か
ら覗く、憎悪と悪意と殺意に満ちた――。

「じゃあ――くたばれ」
 心臓に白木の杭を突き刺すでなく、銀の弾丸をぶち込むでもなく、男は吸血
鬼の躰に自分の手を突っ込んだ。
 それから心臓を掴まれ――何でこの男はこんなに力が強いのか、さっきのマ
ンホールにしたってそうだ、人間じゃない。くそったれ、痛い、人間の癖に。
 否人間ではなく、心臓を掴まれ、自分の命は相手に委ねられ、救いは求めら
れず、考えることもできず、ひたすら激痛が、激痛、助けて、俺は吸血鬼なん
だ、吸血鬼、何で殺される、俺が、血、血が欲しい、噛み付きたい、でもでき
ない――握り潰され、灰になる。

 灰になる。
 
 
                ***
                
                
「お疲れさん」
「何がお疲れさんだ、キャル、お前弾丸を間違えるなんて初歩のミスだぞ」
「悪かったよ、ところで何度も言うがあたしはドライだ、キャルじゃない」
 キャル――ドライを自称する女は顔をしかめて抗議する。
 包帯の男は目を細めた、彼の心理を窺い知ろうとするならば、彼の瞳から読
み取るしかない。
 どうやら、彼は少々お怒り気味のようだった。
「大体、シャワーにガソリンを混ぜるなんて無謀もいいところだ。
 素直に爆弾で……」
 男は両手をパン、と叩いた。
「すぐに吹き飛ばせば済んだはずだった」
「そう言うなよ。ちょっとね、あの馬鹿達が何やってんのか、知りたかったん
だ、ちょっとだけ」
「好奇心は猫を殺すぞ」
「何だいそれ」
「……諺だ」
 ふうん、とまるで関心なさそうに呟いて、ドライは歩き出す。
「あーあ、またあの埃臭い工場へ戻らなきゃならないんだ」
「だったらカレンのようにあの住処の掃除くらいしてくれ」
「やだよ、面倒臭い。それに――」
 ――あたしは、やると決めたらとことんやるタイプだから。
 ――だから、やるんだったらあの工場を改装しちまうよ。
 ……と、ドライは言ってわずかに笑った。
 男はドライの後をつけるように歩き出す、無意識なのか、意識的なのか、足
音を立てることもなく。

 この二人、吸血鬼ハンターという訳ではない。
 勿論、糧を得るために吸血鬼の装飾品やら貴重品やらを強奪して、質に入れ
る時もあるが、目的はそれではない。
 彼等は、今や隔離された吸血鬼の都となりつつあるニューヨークのウィルス
のようなものだった。
 ウィルスは、対象者を汚染し、食い尽くし、果てることなく活動し続ける。
 吸血鬼達のウィルス、抵抗勢力(レジスタンス)とも呼べるだろう、それが
彼等だった。
 
 
                ***
 
 ――男の名はペイトン・ウェストレイク。
 元化学者、人工皮膚の第一人者としてその道では知らぬ者がないほど高名な
存在だった。
 後一歩のところで、研究が潰えなければノーベル賞すら不可能ではなかった
であろう。
 吸血鬼によって研究を潰されなければ。
 吸血鬼によって顔を破壊されなければ。
 吸血鬼によって恋人を殺されなければ。
 男はペイトンと呼ばれることは滅多にない、今や彼をそう呼ぶのは必要な品
物を注文する際のオペレーターか、さもなくば友人である元医者のカレン・ジ
ョンソンくらいのものだ。
 彼を知る他の人間、あるいは彼の前を歩く女、ドライはこう呼ぶ。
 
 
 ――ダークマン。
 
 
 それが、ペイトン・ウェストレイクを失った代わりに得た名前だった。


                ***
                
                
 彼女の名前はキャル・ディヴェンスといった。
 名前を呼ばれるのは、彼女にとってあまり愉快なものではない。
 それよりも、もう一つの通り名、周りの連中が畏怖してそう呼ぶ名前。そち
らの方が彼女には心地良かった。
 犯罪結社「インフェルノ」が誇る最強の暗殺者。
 一人目のファントム――アイン。
 二人目のファントム――ツヴァイ。
 そして、三人目。
 
 
 ――ファントム・ドライ。
 
 
 彼女はファントムの名を継いだ、三人目の人間。

 では、そんな彼女がなぜ吸血鬼を相手に殲争を仕掛けているのか?
 そもそも、なぜ彼女はペイトン……ダークマンと手を組んで戦っているのか?

 まずは彼と彼女の、偶然の出会いについて語ることをお許し願いたい――。





                            to be continued



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