わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわた
 しをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、
 地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出
 会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。
                ――創世記4・13〜14










 教会の裏手、車のドアに持たれかかって腕組みをしながら、大男はリズィを
待っている。
 いらだたしげにまだ火のついたタバコを投げ捨てる。
 少し、遅い。彼女が教会の中へ足を踏み入れて、それから銃声がして、五分
以上は経つ。
 銃声の後の五分、それはひどく長い。
 リズィは選択を迫られた結果、自分で始末をつける道を選んだ。
 彼に止める権利はないし、止めようとも思わなかった。
 ただ、まあ昔馴染みの友人が――こういうことに巻き込まれてしまったこと
に、哀れみを覚えた。
 彼女とは彼女の兄と同じくらい長い付き合いだったから、ブレイドは本当に
哀しんでいた。そして吸血鬼に対しての憎悪で心が奮い立つ。
 ふと空を見上げた、雲が立ち込めているせいで月の光も届かず、星の光も瞬
かず。
 だだっぴろい真っ暗闇だ。
 真っ暗闇の中、彼は一人――否、自分は人なのか――? 人でも匹でもない、
だから彼は自分を一つと数えた。

 ――それはほんの一瞬。

 キラリと何かが光り、膨大な殺意がブレイドの肌に鳥肌を立たせた。
 殺意のあまりの凄さに、ブレイドは自分が殺されたと勘違いしてしまうほど。
 伏せることができたのは本当に弾丸が彼の頭を撃ち抜く寸前だった。日頃鍛
えぬかれた洞察力と経験によるいち早い殺気からの反応が彼を救った。
 弾丸は車のサイドミラーを突き通し、地面に弾かれた。
 ブレイドは耳を澄ました、そうするまでもなくヘリコプターのローター音が
見る見る内に迫ってくる。
「ちっ、外れか」
 ライフルで狙撃した男はぺっと地面に唾を吐き出した、唾はあっという間に
空を下降していく。
 男はパイロットに言った。
「おい、接近しろ!」
 ヘリコプターのパイロットは、例によって幸運から見放されたらしいあの男
――だ。
 男は脇の冷や汗を感じつつ頷いて、黒人と、彼の車へ接近する。

「――来るか」
 黒人の男はアサルトライフルを構えた。
 弾倉を木製の破砕弾――吸血鬼相手には大変な効果がある――から、爆裂鉄
鋼弾に切り換える。ヘリコプターがどれだけ頑丈な装甲をしているか知らない
が、これなら装甲を貫通し、燃料に引火させることができるはずだ。
「さあ来い蚊蜻蛉、ヘリコプターごと叩き落としてやる」
 男はアサルトライフルを構えて、深呼吸をし、安全装置を外して、照星を前
方のヘリコプターへ重ねた。
 ヘリコプターは見る見る内に迫ってくる。

 突然。
 ヘリコプターの扉が開いて、そこから墓場のど真ん中に一人の男が降り立っ
た。
「……何?」
 驚いて頬にくっつけていたライフルを離して、男を見る。
 男は、墓石の上に道化師のように立っていた。
 そして、狂ったようにギターをかき鳴らしていた。
 陶然としながら、ハイになりながら、アドレナリンの分泌で極度に筋肉を硬
直させながら。
 そう、ジグムンド・ウピエルは彼は久々に出会えた強敵の存在に酔いしれて
いた。

 すばらしい、わざわざアメリカまで出張った甲斐があったというものだ。こ
んな場所でこんな男に逢えるとは。
 思いがけない幸運に、ウピエルは神に――信じられないことに、神に感謝し
た。
 この黒人については旧友であるフロストからよく聞いている。
 男は吸血鬼と人間のハーフ。
 ただし吸血鬼と人間の――ではなく、妊婦が吸血鬼に噛まれたことによる遺
伝子変化で産まれたダンピィルの変種。
 日光の下をダンピィルよりも遥かにいきいきと活動できる、中国の体術と日
本の剣術をマスターした世界でもトップクラスの吸血殲鬼。
 黒い防弾コートに身を包み、愛用のチタニウム合金を酸で食刻した“カタナ”
から取られたその名は、

「いよう、お前がブレイド……だな。逢えて光栄って言っておくぜ」

 ブレイドといった。
 彼は、降り立った男を静かに観察し、姿形からすぐに情報を引き出した。
「ウピエルだな。ヴァンパイア組織イノヴェルチのトップ三人、通称ヴァンパ
イア三銃士の一人。……貴様こそ、何故こんな場所にいる?」
「俺達にも色々あるってことさ」
 ウピエルはとぼけた様子で肩を竦めて言った。
「そうかい」
 ウピエルの返事を待たず、ブレイドはショットガンを素早い動きで取り出す
と、銃口の下から白木の杭が放たれた。
 だが、ウピエルは恐ろしい反射神経でギターの銃剣を振り回し、それを叩き
落す。
「人の話は最後まで聞けよ」
 そしてまた、ギターをかき鳴らした。まるでこちらをからかっているような
音に、ブレイドは眼を剥いて怒りの表情を見せた。
 ウピエルはちょいちょいと手をかざしてブレイドを挑発する。

「……お前のお得意な接近戦で来いよ、ブレイド。ヴァンパイアとヴァンパイ
アの出来損ないの格の違いってやつを教えてやる」
 ウピエルはそう嘲ると、ギターを独特の構えで持ちながらゆっくりと間合い
を詰めていく。
 ブレイドはからかいを黙殺し、自身の名の由来である刀を背中から抜いた。
 切っ先で地面に円を描くようにゆっくりと動く。
「――行くぞ」
 ブレイドは頭を狙って刀を振り下ろす、と見せかけて手首を捻って横薙ぎで
彼の首を狙った。
「ハ!」
 だが、それをあっさりと見抜いていたウピエルは銃剣を縦にしてそれを防ぐ
と、くるりと回転してブレイドに鞭のようにしなる蹴りで襲いかかった。
 普通の人間なら首がもげただろうその蹴りをブレイドは堪えると、ウピエル
の体の隙間から鳩尾を狙って拳を叩き込んだ。
 筋肉の脆弱さと反比例するような、恐ろしい腹筋の硬さにブレイドは舌打ち
した。おそらく大して効いてはいないだろう。
 その予想を裏付けるかのように、ウピエルはうずくまることもなくそのまま
銃剣でブレイドの頚動脈を狙った。
 一瞬、銃剣が煌いて彼の喉を掻っ捌いたかに見えたが、ブレイドはほとんど
ギリギリでその攻撃を受け流すと、一歩踏み込んで刀でウピエルの喉を突いた。
 それは既にコンマ1秒以下の世界の動きだった。
 ごぶり、とウピエルの喉を貫いた感触がして、ブレイドはニヤリと笑った。
 ウピエルの口から血が溢れ出す。
 そのまま横薙ぎにすると、ウピエルの首は今やほとんど千切れかかっていた。
 頚動脈から派手に血が噴き出し、ブレイドの顔にべたりと付着する、その血
のせいで一瞬視界が奪われた。
 次の瞬間、ステアーAUGの弾丸が超接近状態でブレイドに五発撃ち込まれ
た。
 防弾チョッキ越しとはいえ、恐ろしい勢いで打ち出された弾丸はブレイドの
肉体に食い込み、筋肉と中の内臓をこっぴどく痛めつけた。

 もんどりうって転がりながら、ブレイドは腰に挿したサブマシンガンを引き
抜いて弾丸をばらまいた。
 ガーリックエキス入りの銀弾(シルバーブリット)をウピエルは慌てて避け
ると、手一本でくるりと宙空を回転しながらこちらもステアーAUGで弾丸を
筋肉で微妙な調整を加えながら連射する。

 カチリという音がしてブレイドのウージーの弾丸が切れた、
 カチリという音がしてウピエルのステアーAUGの弾丸が切れた。

 弾倉を装填しなおすかそれとも接近戦に切り換えるか。
 双方ともにしゃがみこみながら、わずかに迷った。
 弾倉を装填するには空の弾倉を取り外して懐に手を突っ込んで弾倉を取り出
してそれを挿し込んで遊底を引いて引金に指をかけて引く。
 接近戦に切り返るなら後ろの方に落としたカタナを視認して手を差し出して
握り締めて斬りかかる。
 接近戦だ。

 そう判断すると同時に、ブレイドの背中を何者かが蹴りあがったかと思うと、
空から地上に向けて無数の剣――黒鍵を叩き込んだ。
「何ィ!?」
 ウピエルは反射的にギターで己の身を護ろうとする。
 ギターの弦に黒鍵の刃が食い込み、二本が体に突き刺さった。
「てっめぇ……誰だッ!」
 ギターを壊された怒りに震えながら、ウピエルは闖入者を恐ろしい瞳で睨み
つけた、にも関わらず彼女は平然とその殺意を受け止め、むしろ睨み返した。
「神罰の地上代行者――ですよ」
 シエルはそう言った。

 ブレイドは起き上がると、シエルの隣に立って囁いた。
「人を踏み台にするな」
 シエルはブレイドを見て悪びれる風もなく、ぺろりと舌を出した。
「すいません、ちょうどよい踏み台だったもので」
 全然反省してないなコイツ――ブレイドは頭が痛くなった。

 じり、とウピエルは体を後退させた。
 シエルは黒鍵を両手に抱えながら、ゆっくりと間合いを詰める。
「2対1が卑怯――だなんて言いませんよね? 三銃士さん」
 シエルの嘲笑うようなその台詞を聞いて、ウピエルは完全に切れた。
 壊れかけたギターを片手に飛びかかる。シエルはまるでダーツのように黒鍵
を飛ばした。
 ウピエルは投げられたそれを掴んだ――呪刻による発火など気にも留めない。
 むしろ痛みが怒りと力を倍増している感すらあった。

 ウピエルの爪が溶けたバターのように大地を裂いた。
「後退だ」
 シエルはバックステップし、ブレイドが代わりに前へ走り出た。
 ウピエルの空振って宙空に無防備な形でさらけ出されている片腕に刀を振る
い――切り落とした。
 ウピエルは悲鳴をあげた――はずが、舞い戻ってきたヘリコプターの音でか
き消される。
 シエルはヘリコプターの扉からちらりと覗いた紅の影を視認して青ざめた。
「まさか……そんなのって」
 ウピエルもその影を視認し――牙を剥いた。
「手前ェ、引っ込んでろ! こいつらは俺が片をつけてやる!」
「ふん、その割には苦戦しているではないか、楽師。
貴様こそ引っ込んでいろ」
 ウピエルは牙を剥き出しにして、ヘリコプターに向かってがなりたてた。
「うるせぇ! このクソ堅物ヤロウ! わざわざこんなとこまで出張ってきや
がって!」
 影はがなり立てる声を黙殺した。
「――ヴァチカン第十三課、埋葬機関の“弓”シエル。
それに、“昼歩く者”ブレイド。相手にとって不足なし」

 紅の塊がヘリコプターから舞い降りた。
 ずん、と地面に落ちてきたその塊はアスファルトにひびを入れ、朱色の鎧が
耳障りな金属音を立てる。
「ギーラッハ……ヴァンパイア三銃士が……一度に二人も?」
「いかにも」
 ギーラッハは自分の背丈以上はあるはずの大剣をまるで子供用のバットでも
担ぐように楽々と上段に構えた。
 それほど軽いのか、とブレイドは考えたがすぐに思い直した。
 あの大剣が軽そうなどとはとても思えない。
 となると答えはシンプルで、あの大剣を抱えている男が単に凄まじい剛力だ
というだけだ。
「面倒だ……二人まとめてかかってこい」
 ギーラッハの顔はどこまでも余裕に満ちていて、自身の勝利を一片たりとも
疑っていなかった。

 シエルが突進しようとするのを、ブレイドが手で押しとどめた。
 彼女は強引に振り払おうとするが、ブレイドは決して離さない。
「離してください!」
「おい、落ち着け。……お前は、向こうのウピエルを頼む」
 見ると、ウピエルはギーラッハに敵意を剥き出しにしながら壊れかけたギタ
ーをと切り落とされた腕を抱えて彼の横に並んでいた。
 切り落とされた腕を切断面にねじ込み、強引に結合させる。
 数秒で神経と筋肉と骨が融合し、ウピエルはなじませるように腕を振った。

「2vs2。ちょうどいいじゃないか、だろ?」
 ブレイドはそう言ってギーラッハと対峙した。

「楽師。私の闘いに絶対に手出しするなよ」
 ギーラッハは冷静な目でブレイドの力量を測るように見据えた。

「それも、そうですね……まごうことなき公平です」
 シエルは冷静さを取り戻してそう応じ、ウピエルと対峙した。

「五月蝿ぇぞ。手前は手前の命の心配でもしてやがれ」
 ウピエルは誰でも構わない殺意を篭めた兇暴な視線でシエルを見据えた。

 相手を見据える。
 武器を構える。
 殺意を叩きつける。
 ゆっくりと間合いを詰める。
 そして、

 剣舞奏鳴曲がスタートした。

 シエルは無数の黒鍵を鉄甲作用で振り投げ、ウピエルはそれを絶妙かつ精妙
な射撃で一本一本を銃弾で叩き落した。
 それでも彼女はめげずに、二本の黒鍵を構えるとそのまま接近戦を挑む。
「ハッ! いいぜ、テンションが上がってきた!」
 まるで輪舞のような体捌きで、ウピエルは彼女の黒鍵を避け、ギターの銃剣
で的確に彼女の急所を狙っていく。
 喉を狙われ、それを避けた拍子に肩を貫かれた。
 苦し紛れに放った黒鍵で、ウピエルの脚を止めるとシエルは間合いを広げ、
回復法術を素早く唱えて傷を修復しようとする。
 だが、何か特殊な呪刻でも施してあるのか、傷が膿んで修復がなかなか追い
つかない。
 クロウディアとは段違いのスピードとパワーにシエルは真の吸血鬼の強さを
まざまざと見せ付けられた気がした。

 ブレイドは大剣の嵐のように猛烈な斬撃(しかもそれは休まることを知らず、
巨大さとは不相応なまでなスピードだった)を懐に入ってかいくぐり、カタナ
でギーラッハの首を切り落とそうとした。
 だがギーラッハは片手を剣から離し、懐にはいったブレイドをしたたかに殴
り付けた。よろめいたブレイドに大剣を振りかざす。
 咄嗟にブレイドはカタナで大剣を受け止めるという無謀な試みをし、代償と
してチタン製のカタナを根元から叩き折られることとなった。

「へっ」
「フン……」

 二匹の最強の獣は自分の力と相手の不様さに満足そうな笑みを浮かべた。
 シエルは空を見上げた、ぱらぱらというローター音と共にヘリコプターが近
づいてくる、勿論先ほどギーラッハを投下したあのヘリコプターだ。
「ギーラッハ様! ウピエル様! ナハツェーラー様より無線伝達!
『我島国へ到着、姫も無事』! 『我島国へ到着、姫も無事』! 大至急二人
もこちらに向かうようにとのことです!」
 ギーラッハとウピエルの瞳がギラリと光った。
 ギーラッハは姫の無事に安堵し、ウピエルはこれから行うはずだった虐殺に
水を注されたことに憮然としていた。

「どうやら……貴様等と遊んでいる暇はないらしいな。
どのみちもう戦る気も失せた。楽師、帰還だ」
 ギーラッハがウピエルにそう声をかけたが、憮然とした表情のまま、ウピエ
ルはそれを撥ね付けた。
「うるせぇ、俺に指図すんじゃねぇ。殺すぞ」
「ふん、元気がいいな……しかし、あれに乗らんと島国へ行くのにまたぞろ苦
労せねばならんぞ」
 ギーラッハはいきがる子供を嗜めるような笑みを見せた。
 結局、相手の脆弱さに既に戦意を失いつつあったウピエルもヘリコプターへ
乗り込むことに渋々同意した。
「ところで楽師、ナハツェーラーの頼まれ事は?」
「ああ、インフェルノっつー組織の幹部の死徒化だろ?
やっておいたぜ」
「あやつもいちいちつまらぬ小細工に頭の回る男よ」
「それには賛成だね」
 ウピエルは珍しくギーラッハに賛同の意を表明した。
 ヘリコプターが大地に降り立ち、まずウピエルが乗りこんだ。
「待ちなさい……ッ!」
 背中を向けたギーラッハに立ち上がったシエルがありったけの黒鍵を投げつ
けた。
 だが紅鎧の騎士は振り向きもせずに、襲いかかる無数の黒鍵を大剣を一回転
させるだけで全て地面に叩き落した。
「……くッ!」
「止めておけ、鉄甲作法の使い手よ。
 我とて十字軍にこの身を一度は委ねた身。お主らヴァチカンの業などとうの
昔に見切っている」
 シエルは己の技を完全に打破された侮辱に身を震わせた。
「今度逢う時こそ決着をつけよう。それまでにせいぜい腕を磨いておくがいい」
「雑魚は雑魚らしく、部屋の隅でお祈りでも捧げてな」
 ギーラッハとウピエルはそう言い残して、ヘリコプターで飛び去った。

               ***

 しばらくしてブレイドが自身の折れたカタナを見ながら呟いた。
「完全敗北……か」
 ギーラッハの大剣はブレイドの想像を絶するパワーを秘め、
 ウピエルの戦闘能力はシエルの想像を凌駕していた。
 まるで、問題にならなかった。
「無様ですね、私達……」
 がっくりと膝を突いて、シエルが萎れた表情で言った。
「まったくだ」
 ブレイドはさしたる感慨も見せずに同意した。
 彼にとって戦闘の敗北は屈辱であるが、生きてさえいるならば屈辱なだけだ。
 屈辱を胸に刻み、次の闘いに勝利すればいい。
 それでもどうしようもなく溢れ出る怒りを無理矢理心の内に押し込めて、ブ
レイドは立ち上がった――多分、これから何度でも彼は立ち上がる。
 やがてシエルも法服の埃を手で払って、まだ使えそうな黒鍵を拾い始めた。
 十数本の地面に突き刺さったりギーラッハやウピエルに叩き落された黒鍵の
内、数本を回収するとシエルはブレイドに声をかけた。
「あなたはこれからどうするつもりですか?」
「友を待つ」
 ブレイドは乗ってきた車を親指で示した。
「……本当に動くんですか、あれ?」
 シエルがわずかな沈黙の後、呆れたように声を出した。
「フロントガラスが銃弾で破壊され、右ドアがぶつかった勢いで完全に凹んだ
上に屋根が丸ごとギーラッハの大剣で吹き飛ばされたが、まだ動く」
 ブレイドはキッパリとそう言い切った。
「オープンカーみたいなものだと思えば何とでもなるさ」
「はぁ、まぁ、それならいいんじゃないかと思いますけど」
「……ところでお前はどうするんだ?」
「私も、友人に頼まれたことがあります」
 シエルはモーラの顔を思い浮かべた、今ごろどんな形にしろ決着がついてい
るはずだ。できれば、幸せな結末であることを願おう。
「そうか」
「それじゃあ、さようなら」
 シエルがそう言うと、ブレイドは片手を挙げた。
 どうやら、さようならという事らしい。
「ああ。――あいつの行く手に」
 ブレイドの台詞にシエルが後を繋いだ。
「茜と山査子がありますように」
 彼女が去り、入れ違うようにリズィが戻ってきた。
 彼女の表情は哀しみに満ちていたが――どこか、晴れ晴れとしているように
も見えた。
「終わったか?」
「うん、何もかも」
「そうか、ならいい」
「……ねえ、ブレイド。アタシが間違っていたのか? クロウが間違っていた
のか? それともファントム?」
「誰が間違ってなくても、結果的に間違った答えになる時だってある」
 答えなど出ない、否、出たとしてそれが何になろう。
 ブレイドはそういう理不尽さをよく知っていたが、リズィにそれをくどくど
説明する気はなかった。
 だから、ブレイドはこう言うだけにした。
「お前が間違っていたかどうかは、お前が決めることだ」
 ブレイドはリズィの答えを聞く前に、車に乗り込んだ。
「さあ、帰るぞ。お前の兄貴にお前をちゃんと届けるように頼まれている」
「この車、本当に動くのかい?」
 訝しげな瞳でリズィは車を見た。
 ブレイドはサングラスを外して、彼女の瞳を見つめ――。
「俺を、信じろ」
 そう言って再びサングラスをかけ、車のキーを捻った。
「解ったよ、アンタの言葉を信じる」
 リズィが彼の言葉に頷いて飛び乗ると、ブレイドはアクセルを踏み出し、や
ってきた時と同様の激しさで車を発進させた。
 リズィは最後に教会を振り返った。
 さようなら、クロウディア。この世で一番大事な私の親友。
 彼女はオープンカーであったことを感謝した、これなら泣いても目に埃が入
ったと言い訳ができたから。

               ***

 エレンは目を開いて周りの環境を視認し、それからすぐに状況の解明と対応
を考察し、最後に過去に何があったのか原因を探り出そうとした。
 起き上がろうとしたが、躰がとても疲れていた――眠っていたはずなのに。
 だが起き上がらないことにはどうにもならず、とにかく少々苦労して半身を
ベッドから引き剥がし、それから椅子の背にもたれかかったまますやすやと寝
入っているパートナーを見て思わず微笑んだ。
 エレンはそんな笑みを浮かべることができた自分自身に少し驚いていた。
 彼女がベッドから起きあがった音で、はっと玲二が目を覚ました。
「エレ……ン?」
「玲二、おはよう」
「ん、あ、ああ……おはよう」
 玲二は戸惑ったように挨拶を返した。それから、エレンが目覚めたというこ
とに気付いてその顔が喜びに満ちる。
「エレン! よかった……体は、大丈夫か?」
「ええ、ちょっと体がだるく感じるくらいね」
 エレンは無意識に首のうなじを摩った。
 刺し込まれた牙の痕は既にない、クロウディアが死んだとき、彼女の吸血の
烙印も消え失せたのだ。
 玲二は、これであのクロウディアがこの世にいたという証明が、全て消えた
のだと実感した。
 今や彼女は一欠片の塵に過ぎず、塵は空をどこまでも漂っていくのだろう。
「……あの後、どうなったの?」
 玲二はちょっと躊躇った、全てを話すということは自身のあの出来事も話さ
なければならないということだ。
 ――話したくない。
 恥ずかしいとか、情けないとかそういうレベルではなく――吸血されたとい
うことをエレンに話したくなかった。
 だがエレンはその躊躇を素早く読み取って、少し厳しい眼で玲二を見た。
「全部話して」
「……分かった」
 玲二は、エレンが気を失ってからの全ての出来事を喋り出した。
 己の感情をなるべく交えずに、淡々とした事実のみを口に出そうと思ったが、
クロウディアの話になると奇妙なくらい心が揺らいだ。
 まだ、彼女のことを落ち着いて語ることができるほど玲二は強くなかった。

 エレンを攫ったクロウディア。
 クロウディアと屋根で戦った少女。
 自分の油断から少女を傷つけたこと、そればかりかエレンが吸血されるのを
傍観していたこと。
 それからクロウディアを追い詰め、殺そうとしたところでリズィに防がれた
こと、リズィがクロウディアに止めを刺したこと。
 クロウディアが最後は正気を取り戻し、自分達に謝罪したこと。

 玲二は洗いざらい喋った後、エレンの顔をちらりと窺ったがその表情はまる
で能面のようで、そう、初めて出会った時の表情だ――彼はそう感じた。
「大丈夫さ、エレン。君が生きてる。……だからハッピーエンドなんだよ」
 玲二はそう言ってエレンを安心させるように微笑んだ。
 エレンはしばらく押し黙っていた、が、突然弾かれたように玲二の肩を抱き
寄せ、彼の背中に手を回した。
 大きい背中だ、エレンはそう思った。
 もし、父親というものが自分にいたとしたら、きっとこんな背中を持ってい
たのだろう――。
「あなたは、正しいことをしてくれた」
「……エレン?」
「ありがとう」
 玲二は耳元でそう囁かれ、温かい吐息が妙にくすぐったくて恥ずかしいと思
った。
「だから、」
 エレンは続ける。
「だから、泣かないで……」
「え? な、ん、だっ、て?」
 エレンは何を言っているんだ? と玲二は思って、それからようやく。
 自分が泣きながらクロウディアの最後を話し、泣きながら微笑んだいたこと
に気付いた――。
「うわ、ぁぁ……うわあああっ!」
 玲二は衝動的にエレンのか細い背中に抱き潰すように手を回し、それからよ
うやく安心したように泣き続ける。
 広い世界、どこまでも寄り添って生きていくしかないつがいの鳥は。
 お互いの存在を確認するためにずっと抱き合っていた。
 いつまでも、いつまでも。

               ***

 エレンが、少しよろめきながら――玲二が手伝おうとしたが拒否した――部
屋のドアを開くと、モーラとフリッツ、それに彼女が初めて見る眼鏡をかけた
法服の少女が待っていた。
 モーラはドアの前に逡巡するように立っていて、フリッツは壁にもたれかか
り、法服の少女はフリッツと向かい合うように立っている。
 エレンは彼女が玲二が言っていた吸血鬼ハンターの少女だろうと検討をつけ
た。でも何故こんなところに?
 エレンは嫌な想像を巡らせた。
「調子はどう?」
「少し、だるいくらい……大丈夫、だと思う」
「そう……よかった」
 モーラが彼女にとっては珍しいくらい軽快な声を出した。
 クロウディアを倒したことは間違いないが、それでも体力が持たずに逝く者
もいる。モーラはようやく安堵のため息をついた。
「運が良かったな、お嬢さん」
 フリッツがこの上ない嫌味な笑い――多分、本人は自覚してない――を浮か
べて彼女の快気を祝った。
「ああ、モーラにフリッツ。見ての通りだ、エレンは無事だよ」
「そうみたいね」
「よかったな、日本人。自分のケツは自分で拭けたんだからな」
「うるさい、訛り男」
 玲二は言い返したが、そんな中にもどこか余裕らしいものがある。
 きわめて和やかな雰囲気だといえた、ただし、一人を除いては。
 法服の少女――シエルだけが「なんで私が」「犯罪者の仲間入りだなんて」
などと文句らしいものを呟いている。
 場の雰囲気とモーラの必死さに説得されて、あの場では承諾したが、よく考
えれば自分がわざわざそんなことをする必要はこれっぽちも無いはずだ――と
シエルは思った。
 いまさら、そんなことを言い出せないと思うところがシエルの便利屋と呼ば
れる由縁かもしれない。

「この人が――シエル。ヴァチカン公認御用達の吸血鬼ハンターというやつね」
 モーラが手短に、かつ解りやすくシエルを紹介した。
「……よろしく」
「よろしく」
 何故モーラはわざわざ彼女を紹介するのだろう、玲二は訝しげに思いながら
シエルに挨拶し、エレンがそれに続いた。
「あなた達、これからどこか逃げるあてはあるの?」
 玲二は、しばらく考えて首を振った。
 次の連絡先であった村が全滅してしまった、偽造パスポート、旅券、身分証
明書などを手に入れるには一度アメリカに戻るより方法はない。
 しかし、今自分達が持っている様々な証明書はとっくにアシがついていた。
 道行く人間の旅券を奪うことも考慮したが、それはかえってリスクが大きす
ぎる、もしモーラとフリッツに出会わなければ今ごろ頭を抱えていたかもしれ
ない。
 モーラは予想通りだ、と微笑んだ。
「彼女が貴方達の逃亡を手助けしてくれるわ」
「え?」
「?」
 玲二と、それからエレンも珍しく驚いていた。
 フリッツは玲二の驚いた顔が実に嬉しかったようで、チェシャ猫のようなニ
タリニタリとした笑いを見せた。
 そんな中、シエルだけが憮然とした表情を浮かべていた。

「えー、本来はこういうこと専門外ですし、そもそも私は聖職者です。
従って犯罪者の仲間入りだなんて持っての他なのですが」
 ここまで言ってシエルはモーラを恨めしい目で睨んだ。
 モーラは涼しい顔でその視線を受け流して言った。
「という訳でレイジ、エレン。あなた達ヴァチカンへ行ってみない?」
「ヴァチカン……ねえ」
「別に聖職者にしてあげる訳じゃないですよ」
 シエルが口を挟んだ。
「いや、そりゃそうだろ」
「ヴァチカナンガーズに連絡を取っておきました、今日か明日中に偽造のパス
ポートが届くはずです」
「ヴァチカ……なんだって?」
「ヴァチカナンガーズ、スイス傭兵団です。私が連絡を取ったのはこういう裏
方作業に比較的手馴れている人達なんで、その点は安心してください」
 ふむ、と玲二は以前本で見たベレー帽を被ってハルバードを手に持ったさえ
ない男を思い浮かべた。
 あんなのも、吸血鬼を相手に戦うのだろうか――ちょっと想像ができなかっ
た。
「もしかして、ヴァチカンで門の見張りをしている人達なんかを想像してませ
んか?」
 玲二の考え込む様子を見て、シエルは鋭く察知した。
 うっ、と玲二はうめいて尋ね返す。
「違うのかい?」
「あれは表側の傭兵団、私がコンタクトを取ったのは裏の人達です。
 マクナマス兄弟っていうんですけど。彼らは異端審問と異端弾圧の為に世界
中を飛びまわっていますから、そういう作業はお手のものなんです」
「異端審問と異端弾圧? そんなもの、まだあったのか?」
 世界史の教科書の中盤あたりで見掛けた語句がいまさら出てきたことに、呆
れたように玲二は声をあげた。
「日本人の貴方には分からないかもしれないですけど、私達カトリックは未だ
に異端に対しては容赦ないですよ、勿論いまさらイスラム教だの仏教だのと戦
う訳ではありませんが」
「それじゃあ、誰と戦っているんだ?」
 はぁ、とシエルはため息をつき、モーラとフリッツはかすかに笑った。
「私は何の為にここにいるんですか?」
「何の為って吸血鬼を退治するため……ああ、なるほど」
 つまり、現代の異端というのは即ち吸血鬼のことか。玲二はようやく合点が
いった。
「そう、吸血鬼という夜の一族(ミディアン)は、善なる信者が死ぬと天国に
召される、罪人は地獄へ堕ちるというカトリックの教義の基本中の基本をバリ
バリに破っている論外異端ですから。
 だから私みたいなのが存在するんです」
 もっともシエルにはかつて別の目的が存在していた――今となっては果たせ
なかった目的だ。――最近、ようやく余裕を持って無くなった目的を振り返る
ことができるようになっていた。
 勿論こんなことは彼らに言おうとは思わなかったが。
「まあ、マクナマス兄弟は吸血鬼退治兼私達ヴァチカンに公然と逆らうテロリ
ストや、異教徒みたいなのの始末も任されてますけど――」
「……聞いたことあるわ」
 エレンが口を挟んだ。
「以前、イスラム急進派がパレスチナ難民キャンプに慰問にきた神父やシスタ
ーを人質に取って現金要求をしたとき、神父とシスターの格好をした殺し屋が
皆殺しにしたって」
 ああ、と玲二も思い出した。
 さすがにその手のニュースは玲二もよく覚えている。神父が泣き喚きながら
マスコミのインタビューに意味不明といってもいいほどの言動をしていた。
「あ、それそれ、その事件です。
 もっともその二人はしばらくして人事改定で吸血鬼対策専門の部署に異動し
ましたけど――で、マクナマス兄弟はその後任なんです」
「まあ、とにかく信用できるってことだ。俺達の偽造パスポートよりは確実だ
と思うぜ?」
 フリッツが咥えタバコでニヤリと笑った。

 玲二は少し考えて、これが思ったより上手い策であることに気付いた。
 何せイタリア、しかもその中でも年間何千何万という観光客の大群が押し寄
せるヴァチカンである。紛れ込むにはうってつけといえた。
 エレンをちらりと窺う、彼女は無言で頷いて賛同の意を表明した。
 そう言えば。
 玲二はふと日本でエレンが熱心に神に祈っていたことを思い出した。勿論、
彼女は神の哲学的なものだけに引かれていることを知っていたが、それでも、
ヴァチカンに行って礼拝堂を見学するのも悪いことではなさそうだ。
「分かったよ、シエル。よろしく頼む、迷惑はかけないつもりだ」
 玲二は微笑んで手を差し出した。
 シエルは玲二のにこやかな表情を見て「え?」とちょっと躊躇ってから、ご
しごしと法服で手を拭いて、
「こ、こちらこそよろしく……」
 わずかに手を震わせて玲二の手を握り締めた。
 エレンは、シエルの頬が赤らんでいることに気付いていた――多分、玲二は
そんな事に全然頓着してないだろう――そういう男だし。
「ええと、それじゃあもう少しだけこのモーテルで待っていてくださいね。
すぐ、パスポートが来ると思いますから……」
 やってきた時と正反対に、シエルは浮かれてスキップをしながら帰っていっ
た、玲二はその後姿を不思議そうに眺めていた。

 モーラがちょっといたずらっぽい笑みを浮かべてエレンに言った。
「あなたも大変ね」
「何が?」
 エレンの声は冷淡で、平然としていて、まるで氷の女王のようだ。
「言わない」
「そう」
 フリッツは顔を伏せて噴き出しそうになるのを堪えていた。

「わ、よく似合ってますよ」
「……ありがとう」
 シエルは偽造パスポートと一緒にシスター用の法服と、神父服を携えてきた。
 彼女と一緒であることを不自然に思われないように、という配慮である。
 もっともシエルには別の意図が存在していたが。
「玲二さんは、まだ着替え終わらないんですか?」
 そこはかとなく胸を躍らせながらシエルはドアの向こうの玲二に尋ねる。
「ああ、悪いけどもう少し待ってくれ」
 それなりに鍛え上げられた玲二の肉体に、神父服のカラーは少々きついもの
があった。
「待たせた、それじゃ行こうか」
 ドアを開けた途端、シエルは嬌声をあげた。
「きゃあ、思ってた通り! やっぱり玲二さん、神父の格好似合いますよ!」
 あまりにもストレートに誉められて、玲二は頬を赤くして照れながら、
「そ、そうかな?」
 と言って頬をかいた。
「あっと、忘れちゃいけない……はい、玲二さん」
 シエルはにっこりと眼鏡を手渡した。
「はい、って俺は別に目は悪くないけど」
「いやですね、変装ですよ変装」
 強引といっていいほどの押しの強さで、シエルは玲二にその眼鏡をかけさせ
た。どうやらレンズに度がない、いわゆる伊達眼鏡というものらしい。
 玲二は今まで眼鏡をかけたことがなかったので、自分の顔がどんなものなの
か想像がつかなかった。
「どう……かな?」
 おずおずとシエルとエレンに問いかける、シエルがきゃーきゃーと歓声をあ
げる一方で、エレンは無関心そうに眼を逸らした。
「似合います、すっっごく似合いますよ! うん、やっぱり私の見立ては間違
ってなかったな」
 浮かれるシエルと照れる玲二。
 エレンはひどく焦燥を感じた、日本の時は燻った焚火のようなものが、今は
どんどん熱くなっていく。
 シエルに悪感情は持っていない、だのに彼女が玲二と話しているところを見
ると、ひどく心が騒ぐ。
 興味深い現象――と、エレンは理知的に判断しようとするが、心の動揺はそ
んなものでは静まらない。
 モーラが彼女の様子を見て、友人らしく助け舟を出すことにした。
「もう出発しましょう、飛行機に乗り遅れるわ」
「……そうだな、行こう。シエル」
「そうですね、それでは出発しましょう。
モーラ、フリッツ。飛行場までよろしく」
「どうでもいいけどな、もう少しさっさと来てくれるとありがたいんだが」
 フリッツはぶつぶつ言いながら、車を発進させた。

「……本当に大変ね、あなた」
「……別に」
 その返答でエレンは既に大変であることを認めていた、それがひどく可笑し
くてモーラはくすくす笑った。

 空港に到着した。玲二・エレン・シエル・モーラはハマーを降り、フリッツ
だけが車を駐車しに向かった。
 玲二はせめてさようなら、とフリッツに言おうとしたが彼はほとんど無視し
て車を走らせていった。
「そういう人なのよ」
 憮然とする玲二にモーラはそう言った。
 空港の中は騒々しく、英語やらスペイン語やら日本語やら多種多様な言語が
飛び交っていた。
 受付でシエルが予約済みのチケットを差し出し、三人のパスポートをぞんざ
いに調べられ、拍子抜けするほど簡単に彼等は飛行機に搭乗できることになっ
た。
「すいません、電話をかけに行きますね」
 シエルがそう言って中座した。
 ざわめきの中、玲二とエレンはモーラと向かい合った。
 別れが間近に迫っている、その気まずい沈黙を、まず玲二が切り開いた。
「モーラ」
「……うん?」
「色々、ありがとうな。感謝してる」
「ふふ、それが私達の仕事だもの」
「仕事――って」
 君の仕事は吸血鬼を始末することじゃないのか、と言おうとした玲二の機先
を制するようにモーラが言う。
「私の仕事は、吸血鬼を始末することと……吸血鬼に関わった人を救うこと」
 ああそうか、と玲二は納得した。
 それと同時にただ殺すことしか能のない自分より、救うことをも成そうとす
るモーラの方が立派なのではないか――と、少し前にモーラに持っていた偏見
がひどく恥ずかしくなった。
「今回は、あなたと……エレンを救えた、死んだ人間が一人もいないって訳じ
ゃないけど、でも二人救えた、それが嬉しいの」
 いつも沈着冷静を旨としていたモーラは、珍しいくらいひたむきに喋り続け
た、それはエレンとの別れが辛いものだと漠然と理解しているからだった。
「モーラ」
 エレンが、しゃがんで真っ直ぐモーラを見た。
「貴方に何かあったら、どこにいても駆けつける。
それが私にできる精一杯のお礼、ありがとう……モーラ」
 モーラは泣きたくなった。

               ***

「――それで、どうなっている?」
 ナハツェーラーは目の前の二人の“学者”に尋ねた。
 一人は男、オールバックに纏めた髪が額の広さを強調し、白いスーツが清潔
感を漂わせているが、一方でその瞳は明らかに濁り、まるで死人のようだ。
 彼は、サイス・マスターと呼ばれていた。
 一人は女、眼鏡をかけ、理知的な瞳と常に冷笑を浮かべている。
 女は吸血鬼や他の色々な何かも、IQ200の頭脳にとっては興味深い研究
対象としてしか捉えていなかった――その女、諸井霧江がまず報告を始めた。
「“昼歩く者”計画(ディ・ウォーカー・プロジェクト)は、残念ながら研究
が進んでおりません。どうしても活動限界九十九分の壁を乗り越えることがで
きないのです。
 開発者……ペイトン・ウェストレイクの早急な発見が望まれます」
「あの男は死んだのではなかったか? お前が殺害したのだろう?」
 嫌味っぽい笑みをナハツェーラーは浮かべた。
 屈辱的な部分を突かれて、諸井霧江は感情を剥き出しにして言葉を続ける。
 そんな彼女の無様な姿を、サイスは哀れみと嘲笑をもって見続けた。
「つい先日、ウィコック群病院から、両手及び顔面に三度の火傷を負った重傷
患者が運び込まれ、手術の翌日脱走したそうです。
 拘束服を引き千切って窓からガラスを割って飛び降りる直前、『ジュリー』
と叫んだことが目撃者によって確認されています。
 ちなみに、ジュリーというのは彼の恋人で弁護士です」
「ふむ」
 ナハツェーラーは事件そのものについては特に関心を持たなかった。
「まあ、いい。早急に彼を発見することだな、もたもたするなよ」
「はい」
「それで、もう一方だが――」
 今度はサイス・マスターが前へ進み出る。
「“鍵”が見つからない以上、我々にはどうしようもありません。
 ただ、ウピエル様が吸血した死徒の調査役に派遣した鳥型キメラヴァンプか
ら、少し興味深い報告がありました」
「……ほう?」
「かねてから探していた少女のダンピィルですが――吸血鬼ハンターのダンピ
ィルを目撃したそうです」
「それで?」
 ナハツェーラーは思わず身を乗り出した。
「残念ながら、そこまで報告した時点でキメラが滅んだようで」
「それでは何にも解らぬではないか」
 サイスは肩を竦めた。
「私には如何とも」
「……もう一度、キメラどもにダンピィルの少女を探すように念を押せ」
「了解」

               ***

「報告は以上です、ではこれから帰投します。
 あ、それからちょっと気になることがあったんですが、ええ、鳥型キメラヴ
ァンプのことで、ちょっと」

 とりあえず、日本に来たのは成功だと言っていいだろう。
 あの方の言う通り、リァノーンが求めていた物、否、者……か? それは、
ここの国にある。
 もしかすると、それこそ我らが求めていた「鍵」かもしれぬ。
 目覚めるがいい、リァノーン。
 お前の騎士もそれを望んでいる。

「私が黒鍵で仕留めて、空から落ちてきた時には既に灰になっていたんですが。
 ええ、遠巻きに見ても戦う素振りは見られませんでした」

 目覚めろ、そして貴様の比類なき無限の力を再び蘇らせるがいい。
 殺戮も暴虐も凌辱も思いのままの、その力を。

「ただ――気のせいかもしれませんが、何か、調べていた気がするんです。
 ……あの場にいた、誰かを」

 触媒に必要なものを揃えなければならない。
 二つの扉と一つの鍵を。
 しかもそれは開かれた扉でなければならない。
 純粋な鍵でなければならない。

「あの場にいたのは、吸血鬼ハンターと、女吸血鬼、それに喰屍鬼くらいのも
のだったんですけど。
 ハンターの名前? ええ、モーラとフリッツ。例のコンビです。
 ……気にしても仕方ないですね、この報告は忘れてください。
 はい、それでは……父と、子と、精霊の御名において」

 揃えさえすれば、地獄の門が開く、まがいものでない血の神が復活する。
 屍体が動き出して肉を食み、この世は全て月光のない夜となる。
 そう、それこそまさに吸血鬼達の世界だ――。

 ナハツェーラーは、大声で笑う。
 深淵に在るような暗闇の部屋に彼の笑い声が反響し、まるで狂人があげるよ
うな嬌声となって部屋にこだまする。
「――素晴らしい! これこそ、まさに『終わりの始まり』だ」

「Amen」


               ***


「モーラ、日本人たちは?」
「もう行ったわよ」
「へん、不親切な奴等だぜ。俺に礼も言わないで行きやがって」
「あら、玲二からは貴方にプレゼントがあるわよ」
 モーラはそう言って、フリッツにレイジング・ブルを差し出した。
「『俺が持つより、アンタが持っていた方がいいだろう』ですって」
 フリッツは舌打ちした。
「っつーか、これは元々俺の物だろ」
 そう言いながらも、フリッツのどこか嬉しそうな表情を見て、モーラはくす
くす笑った。
「さ、私達も行きましょ。報酬受けとって、次はどこへ行く?」
「次か、次はな――ロードヴァンパイアを狙うってのはどうだ?」
「いいわね、一生遊んで暮らせるかもね」
「違いねぇ」
 モーラは飛行場の正面口を出て、振り返る。
 ちょうど轟音をあげながら飛行機が大地を飛び立っていた、もしかすると三
人が乗ったのはあれかもしれない。
「あいつの行く手に茜と山査子がありますように――」
 モーラはエレンと玲二の未来にささやかな祈りの言葉を捧げた。



                                Fin



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