銃なんぞ撃ったってムダだ。吸血鬼は銃なんかじゃ死なん!!
 “ただの”銃ならな。
               ――平野耕太「ヘルシング」










 玲二は抱き上げたエレンをベッドにゆっくりと横たえた。
 体のあまりの冷たさが、一層玲二を暗くさせる。
 医学的に言えば、エレンは昏睡状態だった。
 パワーを与えられることなく、ただただ純粋なエネルギーを根こそぎ吸い取
られた結果だ。
 吸い取られるだけなら、それでもいいが――クロウディアはわずかに残った
エネルギーを吸い取ることも、精神を支配することもできる。
 吸血鬼として生かされるか、それともグールになってどこまでも腐り果てて
いくか。
 どちらにせよ、最悪の選択といえた。
 モーラは簡易結界をかき集めてエレンの回りに敷き詰め、聖餅を彼女の肌に
乗せていく。
 それから最後にガーリックエキスを首筋に注射した。
 これならば、クロウディアがエレンを操ろうとして念波を送ってもそうやす
やすとは行えないだろう、吸血鬼化の進行も多少遅れるはず――しかし、半ば
祈りに似た気持ちだった。
 モーラは他人が、吸血鬼化するのがこれほど不安になるのは初めてだった。

 フリッツとモーラはハマーに乗りこみ、玲二が最後に部屋を出た。
「ご主人、一人連れが疲れて眠っている。俺達はしばらく出掛けるから、起こ
さないでやってくれ」
「はいはい、解りましたよ」
「……それから」
 玲二が振りかえって老人を見る。
「もし、彼女が目覚めても俺が戻らなかったら、彼女を養子にしてやってくれ
ないか? ……いい子、だから」
 老人は目を丸くして玲二を見た。
「冗談でしょう?」
「ああ」
 玲二は、背中を向けて呟いた。
「冗談だ」

               ***

 ひっそりと静まり返った街をハマーはどこまでも突っ走っていく。
 空から見れば、それはまるで地図に一直線に罫線を描くようなものだったに
違いない。
 無骨だが信頼のおけるエンジンが猛り狂い、口から悲鳴の白煙をあげて機械
の体を震わせ続ける。
 それでも運転手であるフリッツは決して彼への鞭を休めない。
 アクセルを限界まで踏み込み、ハマーはどんどん加速される。
 彼ら三人の目的地は廃墟と化した教会。
 そこに、彼女がいる。

 玲二は、先ほどモーラに手渡された拳銃を慎重に点検していた。
 その銃はこれまで玲二が見て、手に取り、使用してきた拳銃とは全く次元の
異なる凶悪な代物だった。
「吸血鬼が使っていた拳銃だ、名前は『レイジング・ブル』」
 フリッツは手渡す時にそう言った。
「心配するな、お前さんだったら扱えるさ」
 手に取る、これまで握り締めたどの拳銃よりずっしりと重い、それはきっと
先端に取り付けられた飛び出しナイフのような銃剣のせいに違いない。
 おまけに銃口の先端はイカれている奴がイカれたまま作ったとしか思えない
くらいに豪快にカスタマイズされていた。
 それでも二度三度握り、構えることを繰り返すことで次第に玲二の体とその
拳銃が一体化していく。
(先端の重さは、もうどうにもならない)
 玲二は考える。
(反動を覚悟することだ、撃つ前も後も腕を緊張で硬直させないように――)
 そうしなければ、まず間違いなく腕がヘシ折れる。
 まともな撃ち方をするべきだろうか?
 両手でしっかりと拳銃を構え、態勢を崩さず、覆い被さるような感じで撃つ。
 アメリカの警官がよく構えるスタンダードな射撃態勢だ。
 しかし――。
(クロウディアのスピードを考えると、そんな悠長な態勢が取れるとは思えな
い)
 腕がヘシ折れることを覚悟の上で、撃たなければならないかもしれない。
 とにかく慎重に、だ。

 玲二は思う。
 人間にはこの拳銃はあまりに兇暴すぎるのかもしれない。
 吸血鬼の吸血鬼による吸血鬼のための兇器。
(けれどこの拳銃をあえて使おう。彼女が捨て去った人間というものがどれだ
け吸血鬼の力に近づけるかどうか、人間として彼女に挑んでやる)
 そう考えると玲二の体に凶悪なデザインも、鈍い光を放つ銃剣も、何もかも
が馴染んできた。
(そうだとも、この拳銃は人間が使ってこそ初めて意味がある)

               ***

 ――朽ちた教会は元ホームレス達の棲家だった。
 クロウディアは噛み付いた瞬間の醜悪な臭いにおぞけがしたが、幸いにも一
人噛み付いただけで後はそれが連鎖してゆくのを待つだけで済んだ。
 今は、グールと成り果てたホームレス達が血に餓えながらも、彼女の命令に
従って渋々周りをうろついている。
 彼女は、意のままに従う兵隊を抱えた権力者となっていた。
 だのに――クロウディアは寂しかった、ひどく、とても。
 これまで何度も孤独を噛み締めてきた。人ごみの中不意に感じる一人ぼっち
の感覚や、豪奢な屋敷のベッドで隣で寝ている男は結局自分の体目当てでしか
ないと感じた時や、あるいは隣で寝ている男すら居なかった時。
 そんな時はいつも寂しかった。
 しかし、そんなものなどとは比較にならないほど今の孤独は極めつけといえ
た。
 もう人ごみの中へ溶け込むことすらできない、何故なら今の彼女には人ごみ
が即ち自分の食料であり、自分とは異質の物――そう感じてしまうからだ。
 隣に男を寝かすこともできない、今の彼女は、きっと喉笛を食いちぎって血
を飲み干してしまうだろう。
 手当たり次第に噛み付いて、グールを増やしたところで彼女の途方もない孤
独は癒されるはずもなかった。
 だからクロウディアは寂しかった。

 ああ、私は何で吸血鬼を選択したのだろう――。
(それは永遠の命に憧れたからかそれとも死を越えたかったからか)
 誰でもいいから、私と、話して――。
(居ない、吸血鬼と喋ってくれる“人間”など)
 私を見て、私としゃべって、私に笑いかけて――。
(私はそれを棄てたのだ)

 彼女は自分がこれほど寂しがり屋だとは思っていなかった。
 膝を抱え込んで、クロウディアはしばらく泣いた。

               ***

「教会が近いぞ!」
 フリッツが悪路で跳ねるハマーを押さえ込みながら、そう二人に声をかけた。
 何かが車に叩き付けられ、フロントガラスにべったりと血と肉片が付いた、
それが人間であることに玲二はしばらくして気が付いた。
「おい、これ……」
「喰屍鬼だ、ほっとけ」
 ワイパーとウォッシャーで血を拭き取るが、喰屍鬼は後から後から車に突っ
込んでくる。
 骨が折れる音、肉が弾ける音、脳みそが潰れる音、それらは不快極まりない
ものだが、フリッツはまるで楽しむようにわざと車の前面に彼らを次々とブチ
当てていく。
「ハッ! コンボボーナスだぜ!」
 景気付けとばかりにフリッツはクラクションを鳴らしまくった。

 懐かしい匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。
「!」
 この匂いは――この、温かい匂いは。 
 彼、だ。
 いてもたってもいられず、クロウディアは教会の扉を開けた。

 教会は鉄柵で囲まれていた、ハマーは勢いよくハンドルを切って横付けに停
止した。
 フリッツは飛び出すと、近寄ってくる喰屍鬼達に片っ端から銀の弾丸をばら
撒く。
 玲二は近くにいた喰屍鬼に向かって、両手でしっかりと握り締めたレイジン
グ・ブルの撃鉄を起こし、引金を引いた。
 一瞬玲二は腕が吹っ飛んだと思うような感覚に襲われた、物凄い反動だ。
 喰屍鬼の眉間を狙ったはずの銃弾が肩口に当たり、胸肉ごと吹き飛ばした。
(多少外れても関係ない……か)
 呆れたように玲二は自身の手のレイジング・ブルを見た。
「レイジ! 貴方は先に教会に行って!」
 モーラが次々と喰屍鬼を屠っていく。
 突進し、脚を殴って喰屍鬼を停止させ、心臓あるいは頭を叩き潰す。
 疾風のように動き、独楽のように回り、喰屍鬼どもを文字通り薙ぎ払ってい
く。
 フリッツはちらりちらりと彼女を窺うが、その表情にはモーラに対する全面
的な信頼が存在する。
 玲二が安心して教会の柵を越えた時、朽ちたドアが弾かれるようにばたん、
と開いた。

「……レイジ?」
 クロウディア。
 彼女を見た瞬間、血が逆流するように躰がカッと熱くなった。
 玲二は、これほど彼女を憎めるとは思わなかった。
「レイジ! レイジ! 嬉しい、来てくれたのね!」
 それなのにクロウディアの顔は、彼が来てくれた喜びに輝いている、その表
情はまるで無邪気な少女のようだった。
 でも、肌は青白く口元から牙が覗いている。
「ああ、貴女に逢いに来た」
 玲二は彼女にレイジング・ブルを向けた。撃鉄を起こす音が酷く耳に触る。
「殺しに、来たんだ」
 クロウディアはちょっとびっくりしたようだった、既に今の彼女は自分が玲
二とその相棒にどんなことをしたかなど、まるで頭に思い浮かばない。
 だから、殺しに来たと言われて彼女はひどくショックだった。
「……どうして?」
「アンタがエレンを殺そうとしたからだ」
 はぁ、とクロウディアはため息をついた。
「またその話? いい加減忘れなさいよ、死んだ女のことなんか」
「エレンはまだ死んでない!」
 玲二の怒鳴り声にクロウディアはビクリと躰を震わせた。
「やだ、なんでそんなに怒ってるの、レイジ。
 わたし、そんなにひどいことした?」

 来る途中、モーラが呟いた言葉が思い出される。
「――人間が吸血鬼になって最悪なことは、何だと思う?」
「……さあ」
「それは堪らない血への渇望でも、陽の下を歩けない悲しさでも、凶悪な力で
もないの。……一番最悪なことはね、心が歪むのよ」
「心が……歪む?」
 玲二には、いまいち理解できなかった。
「例えば、私達人間は他愛ないことで人を憎むわ。肩がぶつかったり足を踏ん
だりジュースを零した時に」
「だけど、普通は憎んでも殺さないわ。そりゃあ、諍いがエスカレートすれば
殺さないとは限らないけど。でもぶつかったくらいで人は人を殺さないわ、け
ど吸血鬼は違う。彼等は肩がぶつかったというだけで人を殺せるのよ」
「つまり、吸血鬼になると……理性の抑えが効かないってことか?」
「そう、理性やモラルや道徳といったものから解き放たれ、人を殺しても何と
も思わなくなる、姿形、それに性格まで人間とあまり変わらないけれど、だけ
どやっぱり吸血鬼は違うのよ」
「玲二、繰り返すかもしれないけど、姿形、それに口調や性格まで彼女は人間
の時の彼女そのもの。だけど、吸血鬼になった以上、既に人間とは違うの、解
ったわね?」

 今なら解る。
 クロウディアは、人を棄てたのだ。
「話すことはない。……さようなら」
 引金を引いた。
 だが、玲二の意志とは無関係に弾丸はほんのわずか軌跡がズレて、彼女の左
肩上部を弾いただけに留まった。
「きゃああっ!」
 肩を抑えて蹲る、玲二に裏切られたという事実が彼女の肉体に怒りをもたら
し――純粋な殺意がふつふつとクロウディアの脳に沸きあがる、誰が相手だろ
うともう止まることはない。

 ころしてやるころしてやるころしてやるころしてやるころしてやるころして
やるころしてやるころしてやるころしてやるころし――。
 この怒りを解消するにあたり、実に単純な結論がクロウディアの頭の中で導
き出される。
「レイジ! 来るわよ!」
 モーラの叫びより迅くクロウディアが宙を舞った。

 玲二は大地を蹴って後ろに跳ねた、一瞬遅くクロウディアがそこに落下した。
 玲二は拳銃を構え、引金を弾いた。
 まるで野球のボールが壁に弾かれるような勢いでクロウディアは傍の柵を蹴
り、その反動で弾丸を避ける。
 二発の弾丸は柵を破壊し、教会の壁を突き破った。
 がくん、と肩が揺らいで痛む。
 痛みを堪える暇もなく、玲二は動き回るクロウディアにさらに弾丸を放った。
 一発、足を掠めた。
 二発、空の彼方へ消えた。
 三発、教会の尾根にある十字架を吹き飛ばした。
 玲二はクロウディアを狙って体を動かしている内にいつのまにか教会を背中
に向けていた。
 クロウディアは足を抑える、普通の弾丸なら即座に再生するはずの傷はいつ
までも膿み、それどころかじわじわと躰を侵食し始める。
 銀の弾丸はそれほど吸血鬼である彼女に劇的な威力を加えていた。

 しかし今クロウディアは、絶対的有利な立場に立っていた。
 玲二の後ろ、たった2メートル。
 そこに彼女はいた。

 玲二はごくり、と唾を飲んだ。
 後ろを取られている、振り向くより先に彼女の爪が自分を切り裂く、あるい
は牙が喉笛を食い破るだろう。
 モーラとフリッツが助けてくれないだろうか? 一瞬そう思った
が、しかし玲二は二人に頼ろうと思うのは止めた。
 どの道、彼女とは自分で決着をつけねばならない。

 彼女の動く気配、違う、動こうとする気配を感じ取る。
 指を楽しそうに動かし、にんまりと笑みを浮かべている。

 玲二は落ち着いて、拳銃を下ろした。
 クロウディアは勝利を確信した。

 クロウディアは飛びかかった。
 玲二は拳銃を脇に挿し込んだ。

 玲二は引金を引いた。
 クロウディアは腹を吹き飛ばされた。

「かっ……はっ……はっ」
 茫然とクロウディアは穿たれた自分の腹を見る。
 玲二は、不自然な状態でレイジング・ブルを撃ったせいで、酷く腕を痛めて
いた。
「くっ……」
 大地に臥せ、痛みを堪える。
 まだだ、まだ死んでない…!
 クロウディアは足を引き摺り、ずり落ちる腸(はらわた)を無理矢理手で抱
え込んで、教会の中へ逃げ込んだ。
「待て……!」
 玲二ははいずるように彼女を追った。

               ***

 まるで小山のように長椅子が積み上げられていた。
 傾いだ木製の十字架がいやがおうにも廃墟であることを示している。
 神父の説教台を背中にして、彼女は座りこんでいた、傷の修復は遅々として
進まず、苦痛と疲労が激しかった。
「いたい、いたいよ、ひどいよ、レイジ。
どうしてこんなことするの? わたし、あなたがすきなのに」
 顔を手で抑えて、クロウディアは泣きじゃくった。
 玲二はそんな泣き顔を見ても、否、見れば見るほど脳髄が凍り付いていく奇
妙なものを感じた。
「もう、止めだ。クロウディア――」
「レイジ、おねがい、たすけてよ、レイジ、レイジ、レイジ……!」
 玲二は無表情に彼女に拳銃を向ける。
「泣き真似はもう止めだ、クロウディア。
 だって、クロウディアは、ずっと――泣いていたんだから」
「……? わたし、が、ないて、いた?」
 クロウディアは惚けたように玲二の顔を見る。
 玲二の能面のような顔が――苦しそうに歪んだ。
「だから――もう、泣き真似はしなくていい。
 俺はエレンの為に貴女を殺す」
 玲二はレイジング・ブルを振り上げ――。

 弾丸が放たれた。

「フリッツ、後ろを頼むわよ!」
「おう!」
 フリッツは後ずさりしながら、ありったけの弾丸をうじゃうじゃいるグール
達に撃ちこんだ。
 モーラは教会のドアを開いて中に入り――見た。

 手を抑えてがっくりと膝を突いたレイジ。
 驚いたようにそれを見るクロウディア。
 そして、

 小型の銃をレイジに構えた黒人の女。

「リ、リズィ……どうして」
「黙ってな、ツヴァイ」
 リズィは冷たい眼で彼に拳銃を向ける。
 モーラは身構えたが――この距離では相手が拳銃を持っている限り、どうに
もならなかった。
「リズィ! 嬉しい……やっぱりあなたは私の、親友よ」
 クロウディアの顔が喜びに輝く。
「そうだね、クロウディア……」
 リズィは哀しそうに微笑んだ。
「リズィ! 眼を覚ませ、そいつはもうクロウディアじゃない!」
「ね、レイジったらひどいこと言うでしょ。だから、殺して。
 大丈夫、人間だから頭を狙えば一発で死ぬわ」
 無邪気なくらいはしゃいで、クロウディアは言った。
「クロウディア……」
 リズィはやれやれ、というように頭を振って銃を下げ、クロウディアに近づ
く。
 クロウディアは、眼を丸くして
「どうしたの?」
 と尋ねた。
 リズィはそれには答えず、倒れこんで腹を抑えるクロウディアの両肩をそっ
と抱き寄せた、そして頭を彼女の肩にもたらせかかる。
「リズィ! やめろ!」
 玲二が必死に叫ぶ。
(まさか、リズィ。お前、自分の血を)
「あら、リズィ。血をくれるんだ、うん、ありがとう」
 嬉しそうにそう言ってクロウディアは口を開いて牙を彼女の首に突きたてよ
うとする。
「このッ……!」
 玲二は間に合わないと知りつつ、レイジング・ブルを手に取った。
「クロウディア」
 リズィが呼びかけた。

「さようなら」

 クロウディアは、先ほどと同じようにびっくりした顔で自分の親友を見てい
た。
「り、ずぃ? なに……これ?」
 怒りより憎悪より何よりも、疑問がクロウディアの頭を支配した。
「ごめん、ね」
 リズィの表情が苦しそうに、哀しそうに、歪んだ。

 ――クロウディアの心臓に深深と白木の杭が突き刺さっていた。

「……そ」
 茫然と、彼女は自分の胸に咲いた白木の杭を見た。
「そ、ん、な」
 がくがくと全身の力を抜かし、クロウディアは地に臥した。
「あ、あ、あ、やだっ、体が変!」
 クロウディアは恐怖で叫んだ、心臓に杭が突き刺さった途端、体が崩れてい
くこの感覚。
 崩壊、
 滅亡、
 自壊、
 腐食、
 瓦解、
 それは。
 つまり死。
「いやだっ! ……リズィ! どうして! やだ……体が、体が崩れちゃう!」
「クロウディア、ごめん……」
 リズィはクロウディアの手を握り締めた。
「ひどいよ、どうし、て……」
 クロウディアはその手を振り払おうと――あるいは、引き千切ろうとしたが、
そんな力は既に遠くへ消え去っていた。
「ああ、私は酷い奴だよ……でも、アンタはもう死んでるんだ。
 アンタはアンタじゃなかったんだよ、クロウディア」
 リズィの言葉に、クロウディアは反論しようとして思い出した。

 無関係だった人間の血を吸った。
 無関係だった人間の命を弄んだ。
 かつての仲間だった人間の血を吸った。
 かつての仲間だった人間を殺そうとした。

 かつて、愛した男を殺そうとした。

「あっ……りず、ぃ、そっ、か、わたし、」
 吸血鬼が吸血鬼でなくなる時――それはすなわち滅びの刻だ。
 クロウディアは、死を前にして体の崩壊より先に自我を取り戻した。
 人間の時の記憶が、感情が、理性が彼女を人に戻す。
「ああ、そっか……わたし、死んでたんだっけ」
 あっけらかんとクロウディアはそう言った。
 自分は何という酷いことをしてきたのだろう、彼女は悔やんでも悔やみきれ
なかった。
 怖くなって眼を閉じようかと彼女は思ったが、それは勿体ないと思い直し、
玲二の方を向いた。
「ね、玲二……ごめんね、許してくれって言わないから、私の傍にきて」
「……ああ」
 玲二は、彼女の瞳を見て、かつての理性あるクロウディアに戻ったことを理
解し、傍へ近寄って彼女の頭を抱き起こした。

 ――崩壊は、既に脚を塵に変えていた。

「二人とも、ごめんね」
「謝るのは、わたしだよ」
 リズィは、クロウディアの手を握った。
 尖った爪は既に縮み、体温がないことを除けばまるで生きている時の彼女の
手そのものだ。
「何よ、たまには私から謝らせてくれたっていいでしょ」
 かわいく口を尖らせるクロウディアに、リズィは思わず微笑んだ。
 ――こんな、時に。
「ああ、うん、ね、リズィ。こんな話をしたこと覚えてる?」
「話って、なんだい?」
「――死ぬ時くらいはさ、惚れた男の胸で死にたいって私が言ったらさ、アン
タ大笑いしたでしょ」
「ああ、そんな事もあった」
 リズィは、子供の頃クロウディアと交わした他愛ない会話を思い
出そうとして――泣き出していた。
 そんな会話をしたなんて、全然思い出せなかった。

 ――崩壊は、下半身を塵に変えていた。

「レイジ」
 クロウディアは玲二の手を握った、玲二は少しためらったが、ぎゅっと彼女
の手を握り返した。
「いろいろ、あったけど。でも私、本当に貴方のこと愛してたわ」
「年下の、それもまだティーンエイジャーに本気になるなんて、ばかみたいだ
と思ったけど、でもやっぱり私、愛してた」
「……ありがとう」
 玲二は、何も言葉が思いつかなくて、ただそう言った。
「私……きっと、幸せなのよね。親友と、惚れた男に手を握ってもらってさ、
死を看取られるんだから」
「クロウディア……ちくしょう、そんな事、言うなよ」
 俺は、俺達は、お前を殺したんだぞ。
 俺は拳銃をお前に撃った。
 リズィはお前に杭を刺した。
 そう玲二は言おうと思った、しかし彼女の穏やかな表情に言葉を呑んだ。
 それは、まるで穏やかな眠りの表情。
 安らぎ――クロウディアは生まれて初めて安らいだ気分でいた。
 恐れることも哀しむことも怒ることも迷うことも羞恥に耐えることも寂しく
なることもなく――。
 そこには安穏とした空気しか存在しない。
 だからクロウディアは、心の底から幸せだった。

 かさかさと、
 かさかさと、
 かさかさと、
 躰は、次第に塵に変わってゆく。

「もう、握る手も、なくなっちゃった……」
 クロウディアは寂しそうに微笑み――首だけになったのにどうしてそんな声
が出せたのか――それがクロウディア・マッキェネンの最後の言葉になった。
 彼女の躰は、全て塵になった。もう二度と蘇らない。
「……」
「……」
 誰も何も言わず、誰も何も言えなかった。
 モーラはフリッツと共にそっと教会から離れた、それは彼女なりの気遣いな
のだろう、フリッツはうんざりしたというように頭を横に振った。

 しばらくしてようやく、玲二がのろのろとリズィに声を掛けた。
「なあ、リズィ……」
「ツヴァイ」
 リズィが厳しい口調で彼の言葉を遮った。
「悪いけどさ、しばらく一人にしてくれないか……」
「……ああ」
 玲二が教会の扉を締める直前、隙間からかすかな嗚咽が漏れた。
「……クロウディア」
(私……きっと、幸せなのよね)
 クロウディアの声がする。
 クロウディアの姿が見える。
 けれどこれは、
(もう、貴方はいない)
 玲二は頭を振って彼女の幻影を振り払い、代わりに生きているはずの彼女の
ことを思った。
(エレン……今、帰るよ。笑顔を見たいなんて言わないから、そこに居てくれ
るだけでいいから、生きていてくれないか――)
 このうんざりするような物語の終わりにただ一つ救いがあったと言うならば、
それは彼女の顔が見れるということだろう。
 そうだ、彼女が覚めたら何と言えばいいか――。
「おはよう」だろうか、「おかえり」だろうか、あるいはただ彼女の名前を呼
んでみるのもいいかもしれない。
「エレン」と。
「レイジ。……行きましょう、エレンが待ってる」
「……おい、ぼさっと突っ立ってねーでさっさと乗れ」
 ハマーに乗り込んだフリッツとモーラの声に、
 玲二は――本当に自分でも忘れてしまうくらい久しぶりに、
「ああ――悪いな」
 笑った。
                                              to be continued



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