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見えない壁





太正十五年・初夏

“カツン…カツン…”
大帝国劇場の地下格納庫にマリアの足音が響く。
先程まで光武改の整備をしていた紅蘭の姿も今はなく、辺りはひっそりとしていた。
「ここも異常ないわね…」
非常灯以外の照明を落とし、格納庫を後にする。
ゆっくりと階段を上がった彼女が行きついたのは、地下一階。
二階、一階、地下格納庫と夜の見回りを終え、残すはこのフロアのみだ。
通常彼女が見回りをするときは、一階から始めて地階を終えてから最後に二階を回るのだが、今日は違っていた。
一通り異常がないか確認を終えた後、マリアは更衣室へと向かう。





プールサイドへ出ると、特有の水の匂いが鼻腔を刺激する。
大帝国劇場・地下プール。
劇場で暮らす花組隊員たちの訓練用あるいは娯楽用の施設としてつくられたもので、蒸気エネルギーの排熱を利用しているため、一年中温水が利用できるのが特徴だ。
時折すみれやレニが機雷を浮かべて訓練しているようだが、今日はそれらしき気配はない。
「お待たせ、遅くなってごめんなさいね。」
マリアの声に、水際で足を浸していたレニが振り返った。
「問題ない。
準備がよければ始めるよ。」
そう言って立ち上がった彼女と一緒に軽い準備運動をして、シャワーを浴びる
水際に腰かけて、足の先からゆっくりと水の中へ降りた。


“水泳の練習をしておきます。いつか一緒泳いでくださいね。“
大神が巴里へ発つ直前にしたためた手紙に、マリアは付け足した。
書いたからには実行すると決めたものの、泳ぎはおろか水にさえほぼ無縁だった彼女には、何をどうしたらよいかさえわからない。
先達を求めてカンナに頼んでみたところ快諾してくれ、そして二人で始めた特訓であったが、たまたまプールに居合わせたレニも加わることになり、以後はカンナとレニが交代で水泳指導を行っている。
この訓練は『泳げないことを公にしたくない』マリアのため、三人だけの秘密にされていた。
だからこそ、消灯間近のこんな時間にひっそりと行われているのだが。
ちなみにマリアが着ている水着はハイネック長袖タイプの上着と膝上まであるスパッツの組み合わせといった感じである。
彼女にまず与えられた課題は「水に慣れること」だった。
そのため、水への恐怖心を抑えるべく、水着もできるだけ肌の露出が少ないものを選んだ。
水の中を自由に歩き回る、プールの水を手に掬って顔を洗う、そして頭まで潜る。
ここまでは比較的スムーズに出来たのだが、ここから先が進まない。
水中で息を堪えることができないのだ。
熱海で溺れかけた記憶がそうさせるのかはわからないが、とにかく3秒と顔をつけていられない。
まるで見えない壁に阻まれているかのように。
「だめだわ、どうしても苦しくなってしまう…」
水から顔を上げたマリアの息は荒い。
2.5秒、とストップウォッチを止めたレニは冷静に言う。
「水中ってことを意識しすぎるんだ、きっと。
水に入らない状態で息を止めることはできるでしょう?」
試しにやってみて、と言われるがままにマリアは軽く息を吸い込んでから呼吸を止める。
それはストップウォッチの制止音がなるまで続いた。
「今の感じで、水の中でもやってみよう。
準備ができたら…行くよ。」
スタート、の声で再び潜る。
同じようにしているつもりなのだが、どうしても苦しくなってしまう。
水中であることを必要以上に意識してしまっているのは間違いない。
だからここは水中じゃない、と自分に言い聞かせても、やはり苦しさは変わらない。
堪らなくなったマリアが浮上したと同時に、ピッ、とストップウォッチが鳴る。
「3.8秒、少し伸びたね。
じゃあ、今度はボクとどちらが長く潜っていられるか競争しよう。」
途端にマリアの顔色が変わる。
泳ぐも潜るも自在にコントロールできる彼女に勝つなど、絶対にありえないというのに。
「ボクが勝ったら、この特訓のことをみんなに話す。」
淡々とした様子の彼女が冗談を言っているようには見えない。
しかしこの秘密を他の皆に知らせるなど、今更恥ずかしくてできなかった。
ということは、この勝負に勝つしかないのだ。
逃げ出したいような気持と板挟みになりながらも、マリアは覚悟を決める。
「わかったわ、真剣勝負ってことね。」
傍から見れば小さなことなのかもしれない。
しかし今の彼女には命がけと言っても過言ではないくらい必死だった。
呼吸を整えたのを見計らって、レニが合図する。
「用意、スタート!」
掛け声と同時に二人が水中へ潜った。

固く目を閉じ、時間が過ぎるのを待つ。
1,2,3…とはじめのうちこそ心の中でカウントしていたものの、だんだんそれすらも辛くなってくる。
レニはまだ潜っているだろうか、そもそも彼女はどのくらい息を止めていられるのだろう?
一瞬そんな疑問が頭をよぎったが、今は自分のことで精一杯だった。

『マリア、自分の力を、仲間を信じて――』

一瞬、大神の声が聞こえた気がした。
(自分を…仲間を信じる…)
心の中で唱えると、不思議なほどに緊張がスーッと退いていくのがわかる。
すると今まで怖いと思っていた水の揺らぐ音がとても穏やかに感じられるようになってきた。
それでも限界は着実に近づいてくる。
(もうダメ…)
どうにも苦しくなり、観念したマリアがついに水面から跳び出すと、そこには先に顔を上げていた様子のレニがいた。
「どうして…!?」
どう考えても勝ち目はなかったはずだ。
信じられないといった様子でレニを見る。
「ゴメン、嘘なんだ。
みんなに話すって言ったら、必死でやれると思ったから…」
彼女はすまなそうに眉を下げている。
「そ、そう…」
安心したマリアがホッと胸をなでおろした途端、足の力が抜けて崩れ落ちるように彼女は沈み込んだ。
すんでのところでレニに支えられ、事なきを得る。
「大丈夫?
あまり水の中で気を抜かない方がいい。」
彼女の言うことは尤もだ、とマリアは強く実感する。
「ごめんなさい、安心したらつい…」
流石に驚かなかったと言ったら嘘になるが、不思議と今までのような恐怖は全然感じなかった。
そのことにマリア自身も驚いている。
「壁、越えられたみたいだね。」
レニが優しく微笑む。
この時点でやっとマリアは自分が克服すべき課題をこなせたことに気がついた。
「けどマリア、ボクが顔を上げたときに気付かなかったでしょ?
次からは水の中で目を開ける練習をするから、一緒に頑張ろうね。」
じゃ、そろそろ上がろう、とレニは付け加える。
確かに時刻も遅いため、今日はここまでということになった。
水から上がり、簡単に後片付けをする。
それにしてもレニもかわったものだ、とテキパキと動くレニの後ろ姿を見ながらマリアは思った。
花組にくる以前の彼女なら、こんな風に誰かに何かを教えるなんてことはおそらくなかっただろう。
彼女に起こった変化、それはとても好ましいものだ。
花組で大神やアイリスと出会って、いや、花組みんなの影響があってのことに違いない。
かつての自分がそうであったように。
だから彼女が困難にぶつかったときには、出来る限り力になりたい。
「どうかした?」
視線を感じたのか、レニが振り返る。
「ううん、何でもないの…ありがとうね、レニ。」
慌てたために取って付けたような言い方になってしまったが、感謝しているのは事実だ。
「別に。
このくらいなんでもないよ。」
レニも特に気に掛ける様子はない。
(本当に、仲間には感謝しないとね…)
マリアにとって今日の一歩はとても小さなものではあるが、遠いと思っていた目標に向かって前進できたことで、心がずいぶんと軽くなった。
これから先、またつまづくことはあるかもしれない。
けれど共に歩んでくれる仲間がいるから、自分は頑張れるだろう。
仲間に恥じない自分でありたいと、固く心に誓うマリアだった。





“コンコン”
ノック音に快く応じる声に応え、レニは部屋の中へ歩を進めた。
「課題、クリアできたよ。」
レニの言葉にカンナは、そっか、と快活な笑みを浮かべる。
まるで今日の成功がわかっていたかのように。
「どうして…カンナがやらなかったの?」
課題がクリアできなければ、秘密裏に行っている特訓のことを皆にばらす――これはそもそもカンナの発案であった。
もちろん、上手くいかなかった場合でも公表する気は全くなかったのだが。
レニの問いにカンナは照れくさそうに答える。
「なんつうか、向き不向きってやつだな。
アタイはすぐ顔に出ちまうから、隠し事とかはかりごととかどうにも苦手でさ。
それに、この役割はレニがやった方が説得力がある気がしたんだよ。
まぁ、上手くいったんだし、結果オーライってことでいいじゃないか。」
おそらく彼女は、マリアの性格を理解したうえでこの作戦を考えたのだろう。
付き合いの長さだけではない、二人の間に存在する強い絆のようなものを感じ取り、レニは少しだけうらやましく思った。
「…ボクで役に立てたなら、よかった。」
安堵したように微笑む彼女に、カンナもつられるように笑みがこぼれる。
「ありがとうな、マリアに付き合ってくれて。」
カンナも正直、レニが手伝ってくれるとは思っていなかった。
しかも彼女の指導はとても丁寧で的確だ。
おかげでマリアもかなり水に慣れ、じきに浮くこともできるだろうし、さらに泳ぐへも繋げていけるに違いない。
「このくらいなんでもないよ。
いつもマリアが花組のために骨を折っていることに比べたら、全然。」
隊長である大神の留守を預かったマリアは、日々花組を守るために尽力している。
もちろん大神と同じように出来るわけではないが、温かく見守ってくれているのをカンナやレニも感じていた。
困ったことがあれば、さりげなく手を差し伸べてくれる。
そんな彼女だからこそ手助けがしたい、二人は常に思っていた。
「なんだかね、最近マリアが大神隊長に似てきたような気がするんだ。」
レニの思わぬ言葉にカンナ吹き出した。
「確かに、違ぇねぇや。」
深夜の部屋に二人の笑い声が響く。

「じゃぁ、ボクはそろそろ部屋へ戻るよ。」
消灯時間を大幅に過ぎたこの時刻。
明日の訓練や稽古に支障をきたしては元も子もない。
「おやすみ、また明日な。」
手を振るレニが見えなくなると、ドアを閉めたカンナは布団を広げて横たわる。
(さあて、明日も…頑張らない…と…な…)
規則正しい寝息とともに、大帝国劇場の一日が終わろうとしていた。


                                  《終》

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