早起きの特典



 七月下旬のとある早朝。
 鳥たちのさえずりが聞こえ始めた頃、マリアは目を覚ました。
(今日も暑くなりそうだわ…)
 まだ窓もカーテンも開けてはいなかったが、彼女は自らの体にまとわりつく汗の具合から、その日の暑さの大まかな予想がつく。
そして大抵の場合的中してしまうのだ。
これはロシア育ちの彼女が蒸し暑い帝都で暮らして数年、不本意ながら身についた能力である。
 少々うんざりした様子でベッドから降りると、彼女はバスローブを身に纏って浴室へ向かった。
起きてすぐシャワーを浴びるのがこのところの彼女の日課となってしまっている。
起床時間前に浴室を使用することには少々ためらいがあったが、そうでもしないと帝都の蒸し暑い夏を乗り切ることは出来そうになかった。

 暑い湯で汗を洗い流すと、目覚めた直後の不快感からはひとまず開放された。
気分もさっぱりしたところで、マリアは一度部屋へ戻って衣類を整える。
今日は午前・午後とも特別公演のための稽古があり、日中は相当体力を消耗することになるだろう。
ならば涼しい朝のうちはゆったりと過ごすのも悪くはない。
何しろ朝食の時間まであと二時間以上もあるのだから。
そういう結論のもと彼女が選んだのは、白地に細かい青のストライプ柄が入った木綿素材のサンドレスだ。
足元には白のラインサンダルを合わせる。
ちなみにこの服は去年の誕生日に花組の皆がプレゼントしてくれたものだ。
太めの肩紐を首の後ろで結ぶようになっているが、絞ったウエストとくるぶし近くまである裾というデザインのためか、子供っぽさは感じられない。
そのあたりが送り主たちのこだわりといえよう。

 着替えを終えた自分を姿見に映した彼女は、自分も変わったものだとつくづく思う。
数年前の自分ならこういった服を着ることはなかっただろう。
帝都の暑さに屈したとはいえ、それが堕落だとは少なくとも思わない。
日本に来て花組の仲間や大神と出会い、自分の中で少しずつ何かが変わっていった。
日々の緊張感を失ってしまったわけではないが、もうあの頃には戻れないだろう。
氷の仮面で心を閉ざしていたあの頃には…。

「さて、と」

 考え込むのをやめるとマリアは部屋のカーテンを開け、つばの大きめな麦藁帽子をかぶって部屋を後にする。



 一歩外へ出ると、朝の空気がすがすがしい。
日中のうだるような暑さは苦手だが、マリアは早朝の過ごしやすい時間に中庭へ出るのは好きだった。
出入り口近くにある水道の傍に置かれたブリキ製のじょうろを手に取り、蛇口を捻って水を注ぐ。
たっぷりと入ったところで水を止め、そのまま彼女は花壇の前まで移動した。
花壇ではサルビアや松葉牡丹など、夏を彩る花たちが渇きを訴えている。
マリアはそれらの一つ一つに丁寧にじょうろの水を与えていった。
途中水がなくなるので何度か水道と花壇を往復しなければならないが、彼女にとってそれはあまり苦にならない。
水を遣りながら花々の様子を眺めることが、最近では楽しみとなりつつあった。

 花壇から少し離れた一角には支柱に蔓を絡ませ、高く背を伸ばした朝顔が数本あり、今朝も数多くの花が咲いていた
。おそらくまだ蕾が開いたばかりで、ひとつひとつの花がみずみずしさを保っている。
昼過ぎには萎れてしまうこの花は、開いた直後が一番きれいだとマリアは思う。
そしてそれを見ることが出来たとき、彼女は早起きのご褒美をもらった気がして嬉しくなるのだ。

(そういえば去年は、この花を見て違うことを考えていたわね…)

 去年の朝顔は鉢植えがひとつだけで、それは大神と出かけた入谷の朝顔市で購入したものだった。
彼女の脳裏に去年の二人のやり取りが甦る。



 まだ薄暗いうちに帝劇を出た甲斐あって、露店に所狭しと並べられた鉢植えには見事に花が咲き揃っていた。
よく見るとそれぞれ花の色や形などが微妙に異なる。
通りの露店を隅から隅まで見てさんざん迷った末に、数ある中から青と桃色が印象的で蕾のたくさんついた四色盛りの行灯仕立てのものを選んだ。
 帰りの道すがらこの花の置き場所を相談した二人は、帝劇内で最も日当たりのよい中庭にに置くことに決める。
帰ると早速それを実行した二人だが、持ち帰り用の袋から鉢を取り出したマリアがわずかに表情を曇らせた。

「花が、傷んでしまいましたね…。」

 細心の注意を払っていたつもりだったが、柔らかな花弁には折れたような筋が入っていた。
そういえば買った時よりも何だか色褪せているようにも見える。
時間が経つにつれ萎れていくのがこの花の宿命であるとはいえ、少し寂しい。

「心配いらないよ。ほら…」

 マリアの心中を察したのか、大神は蔓の途中にある蕾を指差しながら言う。
「これは明日咲く蕾、こっちは明後日…。
確かに今日咲いた花は昼過ぎには萎んでしまうけど、花は今日で終わりじゃない。
夏の間は次々と咲き続けて、秋になったら種が出来て…来年の春その種から芽が出て、そしてまた夏に花を咲かせるんだ。
朝顔は割と簡単に育てられるから、来年、再来年と花はどんどん増えていくんじゃないかな。
そう考えると、長く楽しめる気がしないかい?」

 だからそんな寂しそうな顔をしないで、と彼は付け加える。
大神の言葉にマリアは目から鱗が落ちる思いがした。
この人は何と長期的な視点を持っているのだろう。
花を選んだとき、少なくとも来年のことなど考えていなかった。
まったく、彼の独自の発想にはいつも驚かされてしまう。

「言われてみればそうですね…」

 言葉少なに、でも表情のちょっぴり明るくなった彼女に大神はにっこりと肯いた。
場の空気が和んだところで、彼はさらに付け加える。

「それに、マリアにはこの花はぴったりだと思うんだ。」

 マリアは今度の言葉には首を傾げた。
この日本的な花が自分にぴったりとはどういうことなのだろう。
大神に尋ねてみたが、そのうち分かるさ、と笑って言うだけで答えてはくれない。
 この疑問は解消されないまま、夏は慌しく過ぎていった。





 あれから一年。
再び朝顔の花を前にして、マリアはようやく去年の夏の答えを見つけた気がした。
この季節、不本意ながら彼女は誰よりも早く目が覚めてしまう。
朝顔の花はあたりが薄暗いうちから開き始め、ちょうど彼女が起き出す前後に美しく咲き揃うのだ。
だからこれはきっと、早起きの自分が少しでも朝の時間を楽しく過ごせるようにという、大神ならではの配慮なのだと彼女は思う。

(みんな、ありがとう…)

 まだ他の誰も起きていない時間。
多分もう少ししたら、カンナやさくらが朝稽古をしにここへやって来るだろう。
それまでは朝の心地よい空気とこの風景を独り占め。
少し優雅な気分になれる。

 今年の夏は特別暑いけれど、仲間たちや大神のおかげでずいぶん気分よく過ごすことができそうだ。
そのことに感謝しつつ、マリアの一日が始まろうとしていた。

小説の間へ

Topへ