古の都にて

 太正十七年、一月六日。
 大神一郎とマリア・タチバナは鎌倉の街を歩いていた。
 二人が向かっているのは鶴岡八幡宮。
神社仏閣の多いこの街の中でも中心的な存在だ。

「やれやれ、三が日過ぎても結構混んでるなぁ。」

 人ごみにそって参道を進みながら、大神は溜息をつく。
彼にとっては巴里から呼び戻されて以来、最初の新年である。
この時期は普通なら休みとなるのだが、米田から帝国華撃団総司令の職務を引き継いだ彼は、政界・財界・軍関連の各方面への挨拶回りに追われていた。
ようやくプライベートな時間を持つことが出来たこの日、少々遅い初詣に来たというわけである。
 そんな様子を隣で見ながら、マリアはくすっと笑った。
傍らに立つ彼女は鶸色の和服姿で、少し伸びた金髪は結い上げられている。

「それでも元旦の浅草よりは空いていると思いますよ。
去年は皆で行って大変なことになりましたから…。」

 苦笑しながら彼女は昨年の正月を思い出す。
帝国歌劇団花組と三人娘を加えた、総勢十二名で浅草寺まで初詣に繰り出したのはよかったのだが、ファンに見つかってちょっとした騒ぎになってしまったのだ。
仕方なく散り散りになったものの、その後も寄った参拝客に絡まれるなど、新年早々大変な一日であった。

「まあ、とにかくお参りを済ませてしまおう。」

 大神の言葉にマリアも頷いて、参道をさらに進んでいく。


 参拝を終えた二人は、表参道から道ひとつ外れたところにある茶店で休息をとることにした。
席に通されて腰を落ち着けると、店員に餡蜜を二つ注文する。

「今日はどうしてここへ来ようと?」

 マリアは尋ねた。
初詣に出かけるだけならもう少し帝劇に近いところでよかったはずだ。
帝都内だけでも相応しい場所が数多く存在する。
それなのにわざわざ汽車で一時間あまりのこの地を選んだのだから、きっと何か理由があるに違いない。

「…うーん、好きだからかな。」

 大神は少年のように目を輝かせながら言う。
彼は海軍士官学校時代、休暇のたびにあちこちの港や街を見て歩いた。
横須賀の軍港から程近いこの街には偶然立ち寄ったのだが、街の持つ独特の雰囲気に魅了されてしまったのだという。

「マリアと二人で歩いてみたかったんだ。
きっと気に入ると思って。それに…」

 何か言いかけて、大神は言葉を継ぐのをやめた。

「それに…何ですか?」

 言いかけたのを途中で止められると、かえって続きが気になる。
問いかけたマリアに対し、彼は慌てたように答えをはぐらかした。

「い、いや…やっぱり後で言うよ。
それより、食べたら出発しよう。
他にも見せたいところがたくさんあるんだ。」

 そんな様子に若干の疑問を持たないでもなかったが、彼の言うようにマリアはこの街をもう少し歩いてみたい気持ちになっていた。
ここ鎌倉には鶴岡八幡宮のほかにも大仏で有名な高徳院など、寺社や名跡が数多く存在する。
普段からそうした場所へ好んで足を運ぶことが多い彼女にとっては、確かに興味を惹かれる街であった。

「ではひと休みしたら出かけましょうか。」

 マリアはにっこり笑うと、店員が運んできた餡蜜をゆっくりと口に運んだ。
大神はこのときまだそんな彼女の様子に気づいていなかった。


 北鎌倉、大仏、長谷観音と歩いて回った二人は、稲村ヶ崎に出ていた。
東に三浦半島、西に七里ガ浜海岸・江ノ島が望める景勝地だ。
陽はだんだん傾き始め、赤みを帯びた空がシルエットの富士山を映し出す。
 大神は懐から風呂敷を出すと芝生の上に広げた。
その上に二人で腰を下ろす。

「足、大丈夫?」

 隣で足をさするマリアに、大神が心配そうに尋ねる。
履き慣れない草履で長い距離を歩いたため、鼻緒の当たる部分にまめが出来てしまったのだ。

「ええ、少し休めば何とか…」

 そうは言うものの、苦痛に顔をゆがめるその表情は穏やかでない。

「ごめん、調子に乗って歩かせすぎたね。」

 なぜもっと早くに気づいてやれなかったのだろう、大神は唇を噛み締める。
我慢強い彼女の性格から考えると、かなり前から痛みは出ていたはずだ。
彼は自分の配慮が足りなかったことを激しく反省した。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。
正直に言うと、いろいろ見て回っているうちに楽しくなって、足の痛いのは先程まで忘れていたくらいですから。」

 微笑もうとするマリアを大神は制し、腕を伸ばして彼女の肩をぐっと引き寄せた。
彼女は驚いて一瞬だけ身を固くするが、その肩に身を預ける。
肩に掛けられた手が温かくて心地よい。

「まったく、俺の前でまで無理をするなと言っただろう?」

 脳裏に巴里から帰還した直後再会したときの、包帯だらけの愛しい人の姿が甦る。
あんな痛々しい姿はもう二度と見たくない、大神は思う。

「去年はいろいろなことがありましたね…。」

 大神の肩にもたれながら、マリアがぽつりと言った。
花組解散の危機、長安との戦い。
すべてを終えた後、大神は米田より帝国華撃団総司令および大帝国劇場総支配人を引き継ぐ。
そして引継ぎの一段落した昨秋、二人は大神の実家を訪れ、その後正式に婚約を交わした。
今彼女が着ている訪問着は、大神の母親がマリアのために手ずから仕立ててくれたものである。

 不意に大神がマリアの身体を起こし、その両肩に手を掛ける。
眼前の翡翠の瞳を覗き込みながら、いつになく真剣な表情で彼が言った。

「これから先もいろいろなことがあると思う。
それでも俺は必ず君を守って見せる。
…ついて来てくれるね? マリア。」

 辛い事もたくさんあったけれど、二人が育んできた思いは確実に実を結ぼうとしている。
この人を信じてよかった、そう思えることが彼女は嬉しい。

「はい。」

 短い返事を待ったかのように、大神の顔が近づいてくる。
 マリアもそのまま黙って目を閉じる。
 夕暮れの中、二つの影がひとつに重なる――。



「さて、そろそろ帰ろうか。」

 口付けの余韻の後、大神は立ち上がり、マリアの手をとって立たせた。
敷いてあった風呂敷をたたんで懐にしまうと、裾を整えていた彼女をそのまま抱き上げる。

「きゃっ!? 何するんですか、大神さん!?」

 突然の出来事にマリアは慌てる。色白の彼女の頬が、見る見る赤くなっていった。

「だって足が痛いだろう?
近くの駅までは十分近くあるからね。
背負ったら裾が乱れちゃうし、こうするしかないよ。」

 抱き上げられている側の狼狽ぶりを余所に、抱き上げる側は至って平然としている。

「だ、大丈夫です、自分で歩けますから。
それに…誰かに見られたら困ります…。」

 恥ずかしさのあまり今にも消え入りそうな声でマリアが言う。
本当はすぐにでも降ろしてもらいたいのだが、大神がそれを許そうとしない。

「大丈夫、夕方だからそんなに人はいないよ。
もしいたとしても、みんな“こけし”だと思えば気にならないよ。」

 “こけし”って言われても…、マリアは思った。
ときどき大神のセンスが分からなくなるときがある。
どこをどうすればそんな喩えが出てくるのだろうか。
 その後も何度か抵抗を試みたのだが、大神のペースに乗せられ、とうとう駅まで抱えられて来てしまった。
幸いなことに途中で人と遭う事はほとんどなかったのだが。

「…もしかして、怒ってる?」

 駅舎の長椅子に腰を下ろすと、大神は隣に座るマリアに恐る恐る訊ねた。
答えがない代わりに静かな怒気が伝わってくる。
こういうときはしばらく黙っていた方が懸命だと、彼は経験的に知っていた。
待っていれば彼女から話しかけてくる筈だ。
 夕方遅い時間のせいもあって、次の列車が来るまでにはかなり時間がある。
暫くの間沈黙が続いたが、大神の予想通り最初に沈黙を破ったのは、マリアの方だった。

「街中であんなことをされては困ります。
芸能記者にでも知られたら、どうなるとお思いですか?」

 それを言われると返す言葉がない。
女優の彼女は勿論のこと、劇場の支配人になった彼自身も軽はずみな行動は慎まなければならなかった。
おまけに二人の婚約は世間にはまだ発表されていないのだから尚更である。
大神は少々調子に乗りすぎたことを詫びた。

「ごめん、悪かった。
…あ、でも、さっきキスしたときは何も言わなかったよね?」

 返す刀で大神に突っ込まれ、不意を突かれたマリアは言葉に詰まる。

「あ、あれは…その…知りません!」

 答えに窮した彼女は、そっぽを向いてしまった。
髪を結い上げているおかげで、耳まで赤くなっているのが分かる。
そんな様子を見て彼は苦笑した。
照れる姿が可愛くてついからかってしまうのだが、悪い癖だと自分でも思う。
 再び沈黙が続く。膠着した状態を打破するために、大神は話題を変えることにした。

「そうそう、さっきの答えの続きだけど…」

 その言葉はマリアの関心を引くのに十分だった。
鶴岡八幡宮近くの茶店で訊ねた、初詣に鎌倉を選んだ理由である。
尤も、彼女自身も今まですっかり忘れていたのだが。

「ここまで来れば誰にも邪魔されないだろうと思ってね。
今日くらいは君と二人で過ごしたかったから。
…華撃団の総司令としては不謹慎なんだけど。」

 留守中のことはかえでと加山に託してある。
休暇を願い出るとき彼は怒られるかと思ったのだが、休息することも必要だと二人とも快く承諾してくれた。
だから今日は敢えて携帯キネマトロンも置いて来ている。
支配人として、総司令として忙しく日々を過ごしている彼だからこそ、一日限りの休日をゆっくり過ごしたかったのかもしれない。
マリアはようやく彼の意図を理解した。

「それで、休暇はいかがでしたか?
 総司令殿。」

 とげとげした口調のマリアが取って付けたように使った敬称に、大神はげんなりする。

「頼むから休暇のときくらい、その呼び方はやめてくれよぉ…。」

 さっきのお返しです、そ知らぬ振りでマリアは言った。
けれども彼女は大神の様子を横目で見ながら、くすくすと笑っている。
どうやらもう怒ってはいないようだ。

「何はともあれ、今年もよろしくお願いします、大神さん。」

 あらためてそう言った彼女の口調は、先程とは違ってとても優しかった。

「ああ、こちらこそよろしく。」

 大神が答えたとき、遠くで列車の到着を告げる踏切の音が聞こえた。
やがて、レールの軋む音とともに列車が駅に滑り込んでくる。

「では帝劇へ、私たちの家に帰りましょうか。」

 マリアの言葉に大神も頷いて、長椅子から立ち上がる。
扉が閉まり、二人を乗せた列車が動き出す。

 二人の新しい一年がようやく始まろうとしていた。

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