誕生日の記憶
朝、マリアはガラス窓を叩く雨音で目を覚ました。
梅雨真っ最中の帝都には、昨夜からの雨が降り続いている。
「今年も雨…か。」
軽く苦笑いすると、手早く身支度をして部屋を出る。
六月十九日――彼女が日本に来てからというもの、この日が雨でなかった例がない。
雨自体は嫌いではなかったが、この日の雨だけは自身の気持ちを表現しているようで、少々憂鬱になる。
一階へ降りた彼女はとまっすぐ食堂へ向かい、厨房の薬缶を火に掛ける。
昨年の冬頃から日本茶に目覚めた彼女は、朝食前にお茶を飲んで過ごすのがこのところの習慣になっていた。
お湯を沸かす間に、手際よく湯呑みや急須、茶葉を用意する。
湿気を含んだ厨房の空気が炎で熱せられ、独特の匂いを放つものの、薬缶が細かな振動を伝える頃にはあまり気にならなくなっていた。
「よっ、おはよう、マリア。」
薬缶がコトコトと音を立て始めた頃、カンナが食堂に姿を現した。
彼女は日課であるランニングを既に終えてきたようで、風呂上り特有の石鹸の香りがする。
「おはようカンナ。
ちょうどこれから淹れるところよ。」
おう、という短い返事のあと、カンナは手近のテーブルを拭き始めた。
その一方でマリアは予め用意された二つの湯呑みに茶を淹れる。
大抵の場合マリアの次に食堂に現れるのはカンナであったため、二人で茶を飲みながら談笑することが最も多かった。
向かい合って席に着き、まず最初の一口を啜る。
緑茶のやさしい芳香が湯気とともに立ち上った。
何口か啜ったあとでカンナが切り出す。
「マリア、誕生日おめでとう。」
太正十六年六月十九日。
この日は彼女にとって24回目の誕生日であったが、誕生パーティーの予定は何故か入っていない。
これは今日一日マリアが大神と二人で過ごせるようにという、花組一同からの誕生日プレゼントである。
もちろん宴会好きの彼女たちがそれで終わるわけはなく、代わりに昨日、盛大なパーティーを開いてもらったばかりだった。
「ありがとう。
…でも実を言うとね、自分の誕生日ってあまり好きじゃないのよ…」
マリアは少し考えるようにしてから重い口を開いた。
アイリスやレニの年頃ならともかく、マリアくらいの年齢になるとひとつ歳をとったからといって、身長が伸びるなど身体的に成長しているというわけでもない。
精神面で成長することはあってもそれは経験に由来するもので、歳とは関係ないものだ。
「…それに私、誕生日にはあまりいい思い出がなかったし…」
シベリアにいた頃、流刑地生活での僅かな食糧は普段からマリアに多く分け与えられていたが、誕生日となると両親はさらに自分たちの分すらも彼女に与えた。
誕生日を祝ってやれないからせめて、と。
空腹を満たせる喜びの反面、自分が多く食べる分だけ父と母が痩せ細っていくことを彼女は知っていた。
両親の優しさがわかる分、悲しかった。
革命軍にいた頃は誕生日そのものを祝う習慣がなかった。
行軍や戦闘に明け暮れる日々の中それどころではなかったし、明日の自分の生すらわからない状況下では、いつ死ぬとも知れない同志の誕生日を祝う気になれるものはいなかったのである。
そして紐育時代、自暴自棄に生きていた彼女には自分の誕生日などどうでもよかったし、やがてはその日の存在さえも忘れていった。
日本に来て六年余り、皆が祝ってくれる気持ちは嬉しかったが、甦る思い出があまりにも辛すぎて、誕生日を迎えるという事実を心の底からは喜べずにいた。
こんな気持ちを話したらカンナは怒るに違いない、そう思ったマリアの声がわずかに震える。
「…バカだなぁ、マリアは。」
茶を飲みながら彼女の話を黙って聞いていたカンナは、ひとつ溜息をつくとあっさりと言ってのけた。
「誕生日っていうのはその人の生まれた日を祝うものじゃねぇのか?
生まれてきてくれてありがとう、って感謝を込めてさ。
…ほら、クリスマスだってさ、キリストが何歳になったとか関係ないと思うんだけどな。」
カンナの言葉にマリアは目を丸くする。
今までそんな風に考えたことがなかった。
そういえば誕生日のたび父も母も、生まれてきてくれてありがとう、と言っていたのを思い出す。
「まぁ、思い出は消えないだろうけどさ…
これから楽しくなるようにすればいいだろう?
そのために隊長やあたいたちがいるんじゃないか。」
マリア自身過去は振り返らないと決めていたのに、結局自分は過去に囚われたままだったことに改めて気付かされた。
そう、大事なのはこれからなのだ。
「カンナ、ありがとう。大切なことを忘れるところだったわ。」
マリアがありったけの感謝を述べると、カンナは照れくさそうに笑うと、そそくさと話題を変えた。
「…と、ところでさ、今日、隊長と出かけるんだろ?」
予定では二人で横浜へ行くことになっている。
一応蒸気タクシーを手配してはあるが、日中は雨足が強くなるとの予報が出ているだけに、遠出は避けたほうがいいかもしれない。
「その予定だけど…、この天気ではどうなるかわからないわ。」
まずは朝食を終えたら大神と相談すべきであろう。
すべてはそれからだ。
「まぁ、どうなるにせよ楽しんで来いよ。」
カンナがやさしく微笑む。
いつも自分を支えてくれるこの親友が、マリアにはとても愛しく思えた。
同時に、彼女が与えてくれるだけのものを自分は返すことができているのだろうか、とも。
彼女が困難を迎えたそのときにはきっと力になろう、固く心に誓う。
カンナのやさしさに報いるためにも、まずは今日一日を楽しく過ごそうと思った。
この先何十回と迎えるであろうその日を振り返ったとき、楽しい思い出が一杯であるように。
今日から第一歩を踏み出していこう。
今年の六月十九日はまだ始まったばかりである。
終
あとがき
山崎あやめ様の主催される「マリア生誕100年祭」に初投稿した作品です。
昨年誕生月間の存在を知って以来、サイトを持ったら自分も参加したいと思っていました。1年越しに念願叶って嬉しいです。
けど出来上がってみたらなんだかよく分からない話で…(・_・、
こんなのでよかったのでしょうか?
時間の設定は「4」の直後になってます。
テーマは「外出前のひととき」。
大神と二人でデートに行くのはいいとしても、他のメンバーとの絡みも書いてみたかったので敢えて外出前という設定にしてみました。そんなわけで今回のパートナーは大神ではなくカンナさんです。
さて、この後マリアと大神は雨の中デートに行くんでしょうかね?
その辺りの話をもう一本書きたいと思っているのですが、時間的に間に合うかはわかりません。
でもどうしても書きたいので、誕生月間が終わってからでもサイトにUPすると思います。
ご興味を持たれた方は、しばらく経ったら覗いてみてくださいね。
ここまでお読み頂き、誠にありがとうございました。