控えめな甘さ

 太正十五年二月十四日、早朝。
 世間的には聖バレンタインデーとされるこの日、大帝国劇場ではとんでもない一日の幕が開けようとしていた…。


 朝の訪れを告げる小鳥たちのさえずりが耳に届いてくると、ベッドでまどろんでいたマリアは少々けだるそうに身を起こした。
昨晩遅くまで起きていたせいか、まだ眠気が抜け切っていない。
身支度をしようとベッドから下りたとき、彼女は部屋の様子がいつもと違っているのに気がついた。
フリル使いのカーテンに天蓋つきのベッド、そして大小さまざまの縫いぐるみ達。

(アイリスの部屋? でもどうして…)

 そう、ここはどこからどう見てもイリス・シャトーブリアンの部屋であった。
しかし、不思議なことに部屋の主はどこにも見当たらない。
外はまだ薄暗く、既に起き出しているとは考えにくかった。
夢でも見ているのだろうかと目を擦りかけたとき、手元辺りにピンクの袖口が視界の隅に映る。

(袖!?)

 彼女には普段寝るとき衣類を身につける習慣がない。
しかし今、確実に布が肌に触れる感触がある。
恐る恐る下を向いて確かめたところ、彼女が身に纏っているのはピンクのネグリジェであった。
確かアイリスがよく着ているものがこんな色だったことを思い出す。

(アイリスのネグリジェ?
 いや、まさか…)

 どう考えたってサイズ的に無理があるのだが、不思議なことに窮屈な感じはまったくない。
そういえばさっき下を向いたとき、いつもより床を近くに感じた気がしたのだ。
考えるほど恐ろしい結果が待っていそうだったが、彼女は思い切って壁の鏡を覗いてみる。

「うそぉっ!?」

 鏡の向こうに立つ姿は、紛れもなくこの部屋の主のものだ。
思わず口を突いて出た叫び声も、彼女のものによく似ていた。
普段聞いている声の通りでないのは、顎の骨を通して耳に入ってくるためだろう。
つまり彼女は今アイリスそのものだった。
あまりのショックに呆然と立ち尽くす。
一体何をどうしたらこうなってしまうのか、全く訳が分からない。

(…そうだわ、私がアイリスになっているのなら、私の身体は!?)

 暫く経って、ようやくそこに思い至る。
確認しようと手早く身支度を済ませ、慌てて部屋を出たところで、本来の自室から同じく慌てた様子で出てきた自分の身体と出くわした。

「「あっ、私(アイリス)!?」」

 目が合った瞬間、ほぼ同時に発せられた言葉のおかげで、互いの身体が入れ替わっているのだと分かった。
つまりアイリスの身体にマリア、マリアの身体にアイリスがいることになる。

「ね〜、マリア、いったいどうなってるの?」

 訳がわからないといった様子でアイリスは尋ねてきた。
その口調はアイリスのままなのだが、声は記録に残されている自分のものと相違ない。

「残念だけどこっちが聞きたい位だわ…。」

 お手上げといった様子で、マリアは額に手を当てる。
その手の小ささが、どこか心もとなく感じられた。
一方のアイリスもどうしてよいか分からず、きょとんとしている。
 やがて他の皆も起きはじめたのか、廊下に面した各部屋から悲鳴やら叫び声やらが聞こえてくる。
どうやら他のメンバーたちにも同じようなことが起こっているらしい。
まず向かいの部屋からレニが現れた。
青ざめた表情をしており、やはりいつもと様子が異なる。

「あっ、マリアさんにアイリス…。
どうしましょう、私、朝起きたらレニになってたんです…。」

 その口調からして、中身はさくらのようだ。
自分たちも入れ替わってしまったことを彼女に説明すると、彼女はただうろたえるばかりだ。
中身が違うと分かってはいても、レニの姿が激しく動揺している様子は見ていて不思議である。
 次いで隣の部屋からさくらが出てくると、三人の方を見ながら言った。

「異常事態発生。
解決方法、不明…。」

 この少々機械的な話し方は明らかにレニのものだ。
戸惑っていると思いきや、さほど動揺した様子はない。

「ねぇ、レニはこんなことになっても慌てたりしないの?」

 アイリスが尋ねると、黒髪に袴姿のレニは淡々と答えた。

「別に。
肉体が機能すれば問題はない。
ただ…慣れてない分、居心地はあまりよくないね。」

 そういうものなのかしら…、マリアは首を捻る。

「おい、どうなってんだ、これ!?
 なんか悪いモンでも食べちまったのかなぁ…」

 目が覚めたらすみれになっていたというカンナ。
げんなりした様子の彼女の姿は、どこから見てもすみれのものである。

「ちょいとカンナさん!
 わたくしの声でそのような下品な言葉遣いするのやめてくださらない!?」

「んだとぉ!?
 このサボテン女!」

 すみれの言葉をカンナが受けて、いつもの如くケンカが始まってしまった。
それ自体はいつものことなのだが、今朝に限っては双方の身体が入れ替わっており、すみれ言葉のカンナとカンナ言葉のすみれという恐ろしい取り合わせになっている。
その異様な光景を場にいた四人は呆然と立ち尽くしたまま見つめており、言い争う二人を止めることすら忘れていた。

「おいおい、朝からどうしたんだい?」

「いったい何の騒ぎなの?」

 騒ぎを聞いてか、大神とかえでも駆けつけた。
大神は事務局で朝の一仕事を終え、食堂で花組の皆が来るのを待っていたが、なかなか降りてこないので様子を見に来たのだという。
ちょうど階段で作戦司令室帰りのかえでと会い、一緒に二階に上がってきたところだった。

「お・に・い・ちゃ〜ん!」

 状況を説明しようとするマリアの目に飛び込んできたのは、大神に抱きつく自分の姿であった。
意外すぎる目の前の光景に一同の動きが止まる。

「マ、マリア!? どうしたっていうんだ?」

 飛びつかれた大神は慌てたが、明らかにいつもと様子が違うのは感じ取れた。
ただ、抱きついているのが自分の恋人だからか、戸惑いながらも何となく顔がにやけてしまう。

「違うよ〜、アイリスだよ。
アイリスね、朝起きたらマリアになってたの。
ほら、お兄ちゃんより大きくなったんだよ!」

 早く大きくなりたいと日ごろから言っていたアイリスは、マリアの身体を得て嬉しそうである。

「た、確かに…」

 身体はマリアでも、話し方やこのじゃれ付くさまは間違いなくアイリスのものだ。
混乱する頭でもそれは妙に納得できた。

「と、とりあえず朝食の席で詳しい話を聞くことにしましょう。
私は先に行ってるから。
誰か紅蘭と織姫も起こしてあげてね。」

 そう言い残すと、かえでは一足先に階段を下りていく。
そこでようやく一同は我に返り、あるものはかえでに続き階下へ、またあるものは未だ部屋で沈黙したままの二人を呼びにいくなど、それぞれに動き出した。




「それじゃあ、今回の件はあなたの実験によるものかもしれないのね?」

 かえでの言葉に紅蘭は頷いた。
皆があらかた食事を終えたところでこの話は切り出されたのだが、食堂は何とも気まずい雰囲気に包まれている。

「何でこうなったんかはウチにもよう分からへんのやけどな。」

 昨夜彼女は部屋で霊力増幅装置の実験を行っていた。
これは気分によって不安定になりがちな光武乗組員たちの霊力を安定させる目的で開発したものなのだが、その実験の途中で爆発が起こったのだという。
そのまま彼女は気を失い、今朝レニの姿をしたさくらに起こされるまで眠っていたのであった。
紅蘭の部屋は花組隊員たちの居住区の中央近くに位置するため、他の者にも実験の影響が及んでしまったようだ。
もちろん実験をしていた本人も例外ではなく、緑の瞳に長い黒髪、浅黒い肌という見た目はソレッタ・織姫に他ならない。
一方、三つ編みに丸眼鏡の紅蘭の身体に閉じ込められた形の織姫は頭を抱えていた。

「どうして私の口が変な関西弁を話してるですか〜。
アンビリーバボーで〜す…。」

 織姫だってあやしい日本語を話していると思うのだが…、場にいた皆が同時にそれを考えたが、口に出すものはさすがにいなかった。

「じゃ、一度整理しよう。
アイリスとマリア、さくらくんとレニ、すみれくんとカンナ、紅蘭と織姫くんがそれぞれ入れ替わっているってことでいいのかな?」

 大神が確認すると、不本意ながら全員が肯く。
一人を除いて皆どこか不安げな様子なのが気の毒に思えたが、彼には如何ともしようがなかった。

「とりあえず今日の稽古は中止にしましょう。
それと、トラブルが起こるといけないから外出は控えた方がいいわね。
帝劇から出ない限りは各自の好きにして構わないわ。
ただし紅蘭は原因の究明と解決方法を探すのに専念してちょうだい。」

 とにかく原因が分からない以上、おとなしくしているしかない。
花組のメンバーたちは力なく席を立っていく。
大神も立ち上がろうとしたそのとき、食堂に震撼が走った。

「お兄ちゃ〜ん、デートしよっ!」

 衝撃的な発言に、食堂を去ろうとしていた全員が振り返る。

「いいっ!?」

 にっこり微笑んで大神の腕にしがみついてくるのはアイリスだ。
彼女のこの行動はいつものことでも、今朝に関しては傍から見るとマリアがじゃれ付いているようにしか見えない。
中身が違っているとはいえ、普段の彼女が落ち着いている分、その姿がとっている行動は周囲の者を凍りつかせるのに十分だった。

「アイリス、今日は劇場内にいないと…」

 普段やりたくても出来ないことが可能になってアイリスは喜んでいるようだ。
こうなった彼女を説得するのは結構難しい。

「ほら、腕だって組めちゃうんだよ。
ねぇ、デートしようよぉ。」

 無邪気な彼女を尻目に、大神は溜息をつく。
何とか説得しなければ、そう思いつつも意識は腕に絡みついているマリアの体の方に行ってしまう。
今の彼女は自分の恋人であって恋人でない。
それは十分承知しているのに、ついデレデレしてしまう。
一方で背後からの突き刺さるような視線も感じる。
この状況を今のマリアはどんな気持ちで見つめていることだろうか。
その心中を察すると胸が痛む。

(ごめん、マリア…)

 大神は心の中でこっそり詫びた。

「アイリス、いいかげんになさい!
 隊長が困っているじゃないの。」

 やり取りを見ていたマリアがついに止めに入る。
怒気を含んでいても幼いその声で少々迫力に欠けていたが。
そして思い通りにならないことに腹を立てたアイリスは頬を膨らませる。

「マリアのバカ〜!
 意地悪〜!!」

 やがて捨て台詞を残すと、止めるまもなく彼女はテレポートで姿を消してしまう。
残されたものたちはただ彼女の消えた虚空を見つめるしかなかった。


 午前中で仕事を終わらせた大神は、昼食後の隊員たちの様子を見ることにする。
この日の帝劇では皆が混乱する中、各所で珍しい光景を目にすることが出来た。

食堂には怒りながら食べまくるカンナがいる。
食べても食べてもお腹が空いてしまうカンナの身体に、すみれは怒りながら半ば呆れていたようだ。

音楽室ではピアノを前にする紅蘭とバイオリンを手にするさくらの姿があった。
演奏を試みようとするものの、弾きたいイメージどおりに指が動かせないというジレンマに陥っている。

大道具部屋では折角お休みだからと鼻歌交じりで掃除をするレニの姿を、鍛錬室では修行に勤しむすみれの姿を見ることが出来た。
アイリスとマリアは部屋に閉じこもっているのか、姿を見かけない。

 それぞれの技能はほとんどが体の動きを伴うものであるため、入れ替わった先で中身の能力を発揮するのは難しいようだ。
アイリスのように肉体を介さない能力だけが“移転先”でも問題なく使うことが出来るらしい。
一方、器である肉体の体質が欲求を生み出し行動を起こす元になっていることから、“移転先”でも心と体は同調しているのが分かる。

「…という具合だね。そっちはどうだい?」

 紅蘭の部屋。
大神がひととおりの状況を報告すると、彼女は腕を組みながら深く息をついた。

「せやなぁ。
装置によって増幅された霊力がトランス状態になって、一種の幽体離脱を引き起こしたらしいんや。
それが爆発のショックで、それぞれ戻る体を間違えたんやろな。」

 これまでの調査でおよその原因は掴むことが出来たようだ。
後は増幅装置の調整を行って、全員をもう一度トランス状態にして元の体に戻れるように誘導すればよいらしい。
何とか夜までには調整を終えてみせると彼女は言う。
 普段あやしい関西弁を使う紅蘭と、何故か英語交じりのヘンな日本語を話す織姫。
もっとも話し方に特徴のある二人が互いに入れ替わってしまうというのも、偶然とはいえ妙な話だ。
聞き慣れない分ある意味新鮮ではあるが。話を聞きながら大神は思った。
 説明を終えた途端、紅蘭から大きな欠伸がこぼれる。

「あかん、織姫はんの体は昼を過ぎると眠くなるよう出来とるようや。
すんまへんけど一眠りさせてもらいますわ。
手伝ってくれておおきに、大神はん。」

 言うが早いか、ベッドに倒れこんだ彼女はそのままシエスタに突入してしまう。
大神はすやすやと寝息を立てる紅蘭に毛布をかけると、そっと部屋を後にした。


 夕食の頃になると皆もこの状態に慣れてきたらしく、朝に比べるとかなり落ち着いていた。
紅蘭からの説明もあり、一様に安心した様子である。
もっとも織姫やすみれは半信半疑のようであったが、目下のところ紅蘭に頼らざるを得ない。

「…まったく、とんだバレンタイン・デーになっちゃったわね。」

 食事を終えた後、何気なくかえでが吐いた言葉に花組の乙女たちは顔色を変える。
バレンタイン・デーとは、本来はキリスト教の聖人である聖バレンタインにちなんで親しい人や家族とカードやプレゼントを交換しあう日。
しかしながら日本では何故か女性が男性にチョコレートを贈り、愛を告白する日となっていた。
花組の皆がチョコレートを渡したい相手はもちろん大神であり、この日のためにそれぞれが準備を進めてきたのである。
それなのに当日になってこんなことが起ころうとは…。

「え、えっと…じゃ、俺は先に部屋へ戻るね。」

 気まずい雰囲気を感じ取ったのか、大神は一人食堂を後にした。
彼の足音が事務局方面へ消えたの確認すると、マリアを除く花組の乙女たちは一斉に立ち上がり、我先に食堂を出てロビー側の階段を駆け上がる。大神が二階へ上がる前にそれぞれが自分の部屋へ戻ったのだから、その素早さも想像できよう。
 大神が部屋へ戻るとまもなく、入れ替り立ち代りで隊員たちがチョコレートを渡しに来た。
日頃の感謝を込めてとか、自分があげないと誰からももらえないだろうからとか、コメントはそれぞれであったが全員に共通していたのは“本来の姿で渡したかった”ということだ。
男である自分にはよく分からないが、年に一度のこの行事、女性には特別な思い入れがあるのかもしれないと大神は思った。

 訪問が一息ついた頃、彼は机の引き出しを開ける。
中には今しがた貰った色とりどりの包みが所狭しと詰まっていた。
その一つ一つを机の上に並べてみる。
日中貰った三人娘や薔薇組の分はともかく、花組からの分は届けに来たものの姿と名前が一致しないので、誰がどれをくれたのか確認しておく必要があった。

「…えーっと、すみれくんとさくらくん、カンナと紅蘭に織姫君、それからこれがアイリスとレニで…あれ?」

 ひとつ足りない。
それも一番大事な人からのものが。
入れ替わっているメンバーの組み合わせと先程部屋を訪れた面々とを記憶を頼りに照らし合わせても、やはり一人足りなかった。
どうしたんだろう、考えているとき、時計の鐘が九時を告げる。

「とりあえず見回りに出るか…」

 机に並んだ包みを再び引き出しへ戻すと、大神はカンテラを手に夜の帝劇内を歩き始めた。




(私は何故ここにいるのだろう…)

 脚立に腰掛けたまま、マリアは溜息をつく。
膝の上にあるのはリボンをかけた銀色の包み。
中身は甘さ控えめ、洋酒を効かせた大人の味のチョコレートケーキである。
昨晩、皆が寝静まってからこっそり焼き上げたものだ。
大神に渡そうと思って部屋を出たまではよかったが、何故か急に躊躇われて、結局この書庫へ来てしまった。
今の姿の自分がこれを贈ることが、ひどくアンバランスに感じられたのだ。
明日になれば元通りと紅蘭は行っていた。
だが戻らなかったら…。
そんな不安が胸をよぎる。
 書庫の扉をノックする音がしたのはそのときだった。
程なくして扉が開き、黒髪の青年が顔を覗かせる。

「隊長…」

 彼は脚立の上のマリアを確認すると、安心したように中へ足を踏み入れる。

「部屋にいなかったから、きっとここじゃないかと思ってね。
何か探し物かい?」

 問われたマリアの表情が曇る。
大神は心配そうに見守りながら、彼女の言葉を待った。

「…不安なんです。
もしこの身体が元に戻らなかったらと思うと…」

 アイリスと体が入れ替っていても、彼女のように瞬間移動や念動力は使えない。
かといってこの幼い腕では銃の連射には耐えられないだろう。
光武にも搭乗できないかもしれない。
それはすなわち自身の花組における存在意義を失うということでもあった。
花組に、大神の側にいられなくなることが、今の自分には一番辛い。
 黙ったまま話を聞いていた大神は、ふぅ、と息をつくとマリアに近づく。
脚立の上の幼い肩に手を掛けると、にっこり微笑みながら彼は言った。

「心配いらないよ。
明日には戻れるって、紅蘭も言ってたろう?
もっと気を楽にして。」

 それでもマリアの気が晴れた様子はない。
伏し目がちの彼女に大神は続ける。

「俺や花組の皆には君が必要なんだ。
たとえ光武に乗れなくても、銃が撃てなくてもね。
…それにどんな姿になっても君は君さ。
俺が君を好きな気持ちは変わらないよ。」

 大神の言葉にマリアは頬を染めた。
目の前の黒い瞳を見つめていると、自分の悩みなどつまらないことのようにさえ思えてくる。
その真剣な中にやさしさの窺える眼差しの前には、自分の中の何者も敵わない。
大切なのは自分らしくあること。それを教えてくれた彼に恥じないためにも。

「ありがとうございます。
お話してたら少し気が楽になりました。
確かに考えても仕方ないことですよね。」

 ようやくマリアの瞳に明るさが戻る。
これで一安心といった様子で大神は切り出した。

「ところで、その包みは?」

 彼が視線を注いでいるのは、膝の上に載せたままになっていた銀の包み。
マリアは今日のためにこれを準備したものの、今の姿で渡すことに抵抗を感じてしまったことを正直に話した。
あらためて渡そうとしたとき、朝の食堂での出来事を思い出す。

「そういえば、アイリスに抱きつかれて随分嬉しそうでしたよね?」

 彼女の言葉に大神は慌てる。
彼にしてみれば、見た目は自分の恋人が抱きついていたのだから嬉しくなってしまうのも無理はないのだが。
しどろもどろに言い訳しようとする彼に対し、マリアは余裕の表情で笑みすら浮かべている。
まるで彼を困らせて楽しんでいるかのように。

「で、どうすればもらえるのかな?」

 すっかり降参という彼に、微笑みながら彼女は言った。

「そうですね、とりあえずここから降ろしてもらいましょうか。」

 はいはい、と口では言いながらも嬉しそうな大神は、要求どおりマリアを抱き上げて脚立から降ろす。
彼女の悪戯っぽい笑顔には少し赤みが増しているようだった。

「甘えるマリアも悪くないね。」

 マリアを床に立たせながら彼が言うと、それは自分がアイリスの姿だからだと彼女は言う。
しかし今、悪戯っぽく笑みを浮かべているのは間違いなくマリアなのだ。
彼女の知られざる一面を見たような気がして、大神は嬉しくなる。

「元に戻っても、たまには甘えてほしいな。」

 いやそれは…と、少し困った様子の彼女に、大神は二人だけの秘密だから、と提案した。
暫く考えた後、考えておきます、という答えとともに彼に手渡されたのは銀色の包みであった。

「よかった。
今年はもらえないんじゃないかと思って心配たんだよ。」

 満面の笑みで大神が言った。
マリアはそれを傍らで見ながら、くすっと笑う。

「どうしようか迷ったのですが、やはりこういうものはその日に贈ってこそかと思いまして。
では…」

 そろそろ休みましょう、というマリアの意見に大神も頷き、二人で書庫を後にする。

「紅蘭の実験、成功するといいね。」

 廊下を歩きながら大神は言う。
先の実験と条件を同じにするため、皆が寝静まってから実験は行われることになっていた。
マリアを部屋まで送った後、紅蘭に開始の指示を出すのが彼の役目である。
既に他の隊員たちはそれぞれの部屋で眠りについているらしく、廊下はしんと静まり返っている。
 おやすみなさい、そう言ってマリアが自室へ入ったのを確認し、最後に紅蘭の部屋へ立ち寄って準備の出来たことを告げた。
あとは成功を祈るのみである。
すべてを終えた大神が部屋へ戻った頃、ロビーの大時計が十時を告げた。
大騒ぎのバレンタインデーはあと二時間で終わろうとしている。
ともあれ、一日の終わりに彼はもっとも大切な人からの贈り物を受け取ることが出来たのであった。





 一ヵ月後。
三月十四日、午後。
 大帝国劇場では春公演「夢の続き」の公演の真っ最中だった。
もっとも今日は夜の公演だけなので、昼下がりのこの時間はまだそれぞれがのんびりと過ごしている。
 ホワイトデーと呼ばれるこの日、大神はバレンタインにチョコレートをくれた人全員にお返しなるものを配っていた。
薔薇組、事務方、花組七名まで配り終え、あと一人を残すのみとなったが、肝心の彼女が見つからない。
二階をひととおり探し終え、ふと中庭に目を向けたとき、探す人物がベンチに座っているのが見えた。
二階から一階へ、わずかな距離ではあったが、少しでも早く彼女の元へ行きたくて、階段を下りる足は自然と速まる。

「やぁ、ひなたぼっこかい?」

 振り返ったマリアの表情が綻ぶ。

「ええ、とても天気がよかったので。」

 彼女は傍らに置かれていた本を膝に乗せ、空いた場所に大神を誘った。
招きに応じ、彼はマリアの隣に座る。

「本当にいい天気だね。」

 穏やかな春の陽射しが降り注ぎ、風もなく暖かな午後は日向ぼっこにはちょうどよい。
あまりに心地よくて本来の目的を忘れてしまいそうになる。

「そうだ、これ。
バレンタインのお返しだよ。」

 大神は小さな包みをマリアに手渡した。
両の手のひらに乗るくらいのそれは、白い包装紙と水色のリボンに飾られている。

「ありがとうございます。
開けてみてもいいですか?」

 マリアの問いに大神は肯く。
現れたのは広口のビンに詰められた色とりどりの金平糖であった。

「あら、かわいい。」

 マリアから笑みがこぼれる。
普段の彼女からはあまり想像できない、無防備な横顔に大神は吸い込まれるように見とれていた。

「隊長? どうかしましたか?」

 急に話しかけられ、大神は我に返った。
翡翠の瞳が不思議そうにこちらを見つめている。
笑顔に見とれていたなどといったら、彼女は怒るだろうか。

「いや、何でもない。
それよりごめん、実はそれ皆にあげたのと同じなんだ…」

 本当はマリアにあげる分だけは特別なものにしようと思っていたのだ。
しかし具体的にどんなものがよいか思いつかず、結局皆と同じものになってしまった。

「…手作りケーキのお礼に今からでも何か贈りたいんだけど、その…」

「いりません。」

 何か欲しい物はあるかという問いかけは、キッパリとしたマリアの言葉に遮られる。
 いやしかし…、と困った様子の大神に、笑いながら彼女は言った。

「何もいりませんから、もう少しだけ側にいて下さい。」

 マリアは大神に身を寄せると、そのまま肩に頭を預ける。

「マ、マリア!?」

 驚いている彼をよそに、彼女はまもなく静かな寝息を立て始めた。
少々戸惑ったものの、その寝顔を見ているうちに大神の表情は緩んでくる。

(きっと疲れてるんだろうな。
公演続きだし…)

 自分に身を任せて安心しきって眠る彼女。
それだけ信頼されているということなのだろう。
その信頼に応えられる自分にならなくてはいけない、頭では思いつつも、自分を頼ってくれる恋人の姿が嬉しくてついデレデレしてしまう。

(それにしてもいい天気だなぁ)

 大神の口から欠伸が漏れる。
 暖かい春の陽射しに誘われて、いつしか彼も眠りについていた。

 公演前の帝劇に穏やかな時間が流れていく。



 その後、中庭での様子を目撃した花組のメンバーたちに二人が質問攻めにあったかどうかは定かでない。

あとがき
琉音様のリクエストで「甘えるマリアと結局デレデレ大神くん」ということでお届けしました。
どうにも私にはべたべたに甘えるマリアが想像できなくて、病気にしようかとか、演技の練習にしようかとか、いろいろ考えた結果こういう形になりました。
まさに「甘さ控えめ」ってことで(^^ゞ
体の入れ替った花組を書くのは結構しんどかったです。
お読みいただいた方も途中混乱したのではないかと思いますが、書いてる本人もわけが分からなくなって困りました(^_^;)
もう少し他の皆も動かしてあげたかったんだけど、それをやるととんでもなく長くなりそうだったので今回は省略しています。
ごめんね、みんな(・_・、
しかしバレンタインをテーマにしておきながら、書きあがったのがホワイトデー直前…遅すぎ(ーー;)

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