Shangri-La
第42話
強制された人殺し
2010/12/12 UP




  甚目寺 霞(じもくじ かすみ)と言う名のその少女は

 しなやかな黒髪を束ね、甘いシャンプーの香りを漂わせている。

 シャンプーには、たいてい匂いがあるのだが

 女性の長髪にはその香りが多く含まれるため

 横を通り過ぎるだけでもその香りは残される。

 もっとも、それが周りの者に良い印象を与えるかどうかは

 その人次第ではあるのだが。

 また、霞は紺色のセーラー服を清楚に着こなすその姿から

 学園の風紀委員でも任せられているかの様でもある。

 その甘い香りは決して周りの者を裏切る事が無いと

 言っても言い過ぎにはならないほど、霞の顔立ちは綺麗である。

 彼女は不思議なタロット占いで、いくつかの事件を解決してきた。

 しかしそれには証拠になるものは一切なく

 あくまでも猫柳警部の推測でしかなかった。

 行方不明の老人の発見や立て籠もり犯人の投降

 そのいずれもタロット占いが絡んでいると猫柳は睨んでいる。

 『真実を見る事が出来る』と言われたタロットカードの存在を

 猫柳は確かめたかったのだ。

  謎の武装集団の共犯者の一人である少年『悟』は

 命令とは言え、罪も無い人々を手にかけてしまった。

 そして、犠牲になった者の魂が霞の所に

 『残された弱き命を救いたまえ』と依頼があり

 霞はそれに答えるべく魔力の込められたタロットカードを行使するのであった。

 この魔力を秘めたタロットカードが何時、何処から甚目寺家に伝わったのかは不明であるが

 霞は占い方を祖母より受け継いでいた。

 魔力と一言で片付けてしまうのは簡単であるが

 その目玉の紋章とゴシック調の模様が施されたタロットカードには不思議な力が秘められていて

 決して良い結果ばかりではないが、占いの後に様々な事柄が起きる。

 カードの内容で『偶然の出来事』にしてはあまりにも出来すぎていて

 それ故に『真実を見る事が出来る』と言う伝説が残されたのであろう。

 そして少年『悟』が引いたカードとは

 タロットカードの中でもジョーカー的存在の『FOOL』愚者であった。

 何も、この占いは罪を犯したものに対する罰則でも極刑でも無く

 対象である罪人の心情に今一度、自分のしてきた事を見つめなおす機会を与えるだけのものであった。

 『FOOL』と言うカードも決して最悪のカードではなく

 今の現状を打破し、良い方向へ持っていけるかどうかは本人次第である。

 少年『悟』は精神だけが次元を超えて別の世界へ転送され

 そこで命の尊さを学ぶチャンスを与えられたのだ。

 
  「ど、どういう事なんだっ?」

 悟は意味が解からなかった。

 怪我をしていた所を馬車で運ばれ、冷たい石で造られた暗い部屋に放り込まれ

 かび臭い中で生臭い水を飲み、虫を食し、そして嘔吐を繰り返し

 やっと外に出られたと思えば、何故か相対する所に武器を持った男が

 殺気を放ちこちらを睨んでいる。

 後ろを振り返ると出入り口は既に鉄格子が下りていて脱出は不可能で
 
 地響きにも似た観衆の声、周りを良く見ると、やはりここは紛れも無く闘技場である事を確信せざるを得ない。

 闘うしかなかった。

 十九番の男が最後に言っていた言葉

 「生き残りたければ相手を殺せっ!」

 が脳裏をよぎった。

 彼も人を殺した事に後悔していた様子であったが

 まさかこの様な状況下での出来事とは、さすがに想像も出来なかった。

 数え切れないほどの観衆の声が沸き立つ中、悟は目が回りそうである。

  そんな状況下の中、かすかな記憶がよみがえる。

 「兄さん……」 兄の記憶であった。

 前方から殺気だった男が大きな剣を振りかざして来た。

 悟はこれをかわす。

 いつの間に接近されていたのか?

 極度の緊張が判断を鈍らせる。

 出口の柵が下ろされた時点で闘いは始まっているのだ。

 「冗談だろっ!?」 悟は半信半疑のまま自分の手にしている剣を見る。

 それは使い古されてはいるが、鋭利な刃先が光を放っている。

 少しでも肌に触れようものなら、綺麗に切り裂かれる事、間違いない。

 殺気だった男もまた同じものを持っている。

 「や、やられる……」

 悟は現時点で生死の狭間に立たされているのだ。

 ここで死ねば『悟』と言う人間は、その人生の幕を閉じる事になる。

 今まで悟が生きていた事は、悟の事を知っている者の『心』の中だけに存在する事になるだろう。

 「お……思い出した……」 

 こんな極限の中だからこそなのか?

 悟にとっては嫌な記憶を苦痛とともに思い出した。

 悟には兄が居た。

 良く出来た兄で、悟はいつも比較されていて

 学校生活と家族、人間関係

 そのいずれもが、うまく行っておらず

 生きて行く事にすら嫌気が差していた。

 いわゆる『心が折れた』状態であった。

 出来る事なら全てを『リセット』したいと思い続けていたのだ。

 そんな時に出会ったのが武装集団のボスだった。

 悟は褒められた事が無かったが、このボスは悟るが良い仕事をすれば

 必ず、ねぎらいの言葉をかけてくれた。

 「俺は……死にたくない……」 

 悟は力いっぱい剣を振り回した。

 さすがに人に致命傷を与える事ができる鋭利な刃物には重量があり

 そう簡単に相手を捕らえる事は出来ない。

 悟の繰出す攻撃は空を切る。

 武装集団の仲間に入ったのは偶然だったが、大きな事をすると言うボス達が格好良く見えた。

 世の中の全てが見えていなかった少年にとっては仕方が無い事かもしれないが

 軽い引き金を簡単に引く事で、うるさい大人達を黙らせる事ができると言う快感は

 あの時の悟にとっては最高の甘味だったのだろう。

 闘技場のど真ん中で息を切らしながら命の駆け引きを行い

 悟も殺気立ったその男もお互いに決着が付かない事に苛立ちを覚え始めた。

 二人とも肩で息をしている。

 どちらかが動けなくなるまで、いや死ぬまで闘いは終わらない。

 タロットカードで『FOOL』愚者のカードを引いてしまった悟は

 死と言う命の終着点を味わう事になるのだろうか?

 『死にたくない』と言う気持ちがどんどん込み上げて来て

 『死んでたまるか』と言う心情に変って行った。

 相手との睨み合いが続き

 お互いに間合いを取る。

 「攻撃の手が少なくなった……」

 今まで男から猛攻撃を仕掛けて来ていたのだが

 その回数が急激に減った。

 「ならばっ!こっちから」

 悟から攻撃を仕掛ける

 男は必死に攻撃を防ぐ

 決定打が無く、お互いの力量が均衡している。

 しかし、ここで差が付いたのは『若さ』だった。

 男は体力の回復が悟よりも遅かったので

 先行して攻撃が出来なくなり後手に回るようになり

 つづいて悟の攻撃を防ぐ体力すら無くなり

 とうとう決着が付いた。

 悟は剣を男の胸元に差し込む事に成功したのだ。

 観衆のどよめきが沸きあがる。

 「あぐううっ!」 男は吐血しながら突き刺さった剣を必死で抜こうとするが

 悟の力を押し返す事が出来ない。

 「お、俺だって殺したい訳じゃないんだっ!」

 「がっ!ごほぅ!はああっ!」 男は必死で何かを悟に伝えようとしているが

 悟は理解できない。

 それどころか、悟は男の動きが止まるまでは反撃が怖くて油断が出来ないようである。

 命乞いなのか?最後の罵声なのか?

 どちらにしても物凄くショックで、悟の心に刻み込まれた。

 強制された人殺し。

 『心が折れた』時の悟は銃の引き金を引く事にためらいは無かった。

 がしかし、この時の悟は記憶を断片的に欠落してた状態であったがために

 人を殺す事に抵抗を感じたのだ。

 これが普通である。

 常識をわきまえる事が出来る人間であれば、他人の命を奪う事は出来はしない。

 とは言え、その過ちを『心が折れた』せいにすれば済むと言う問題でもないはずだ。
 
 男の死に際の記憶が、十九番と同じように頭の中を渦巻く。

 「き、気が狂いそうだ……」 突然襲い掛かる吐き気に悟は成す術も無く嘔吐するのであった。

 男の死体に悟の嘔吐した汚物がかかる。

 何ともおぞましい光景であった。

  大観衆の声が響き渡る中、闘技場の最上段で一部始終を見ていた霞は小さくうなずいた。

 ここまではタロットカードの筋書き通りと言う事だ。

 ただ、この後、想像も出来ない者達の介入が無ければの話であった。

 「さて、俺たちも一汗流すとするか」 モラとクバードが闘技場へ向かっていた。

 

つづく

 



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