イコンの闇

 
 夕闇に初冬の風が頬を撫でていった。
 妙にふさぎこんだ心の底を、また、暗く沈んだ影がひろがっていき、自分ながらいかようもなくやりきれない。
 地下鉄の階段を上がって、銀座四丁目の交差点の門口に出ると、通りは歩行者優先の人々であふれていた。車の喧騒もなく、そには週末のやすらぎのようなものが漂っている。カジュアルないでたちの若者たちの一群れが、なにか声高に話しながら通りを足速くに渡っていく。銀座三越のティファニーが人気を呼び、六本木に厭きた筋の若者たちが銀座のブティックやディスコに集まろうとしている、と風評されているところだった。
 私は、また、いつものように物憂く疲れていたのだ。
 指定された五丁目ギャラリーは、銀座通りに面しているはずであった。
「イラク・クルドの亡命画家の個展です。ずっと会場にいます。お待ちしております」
 その朝見粧子の案内状と若干の資料を郵便で受け取ったのは、十日前のことだった。
 資料によれば、亡命画家、モハメッド・イズマイルは、一九五〇年イラク領キルクック生まれ、ということだった。彼は少年の日、村をおとずれた風景画を描く老人に会い、いつしか画家になることを夢見るようになる。しだいに、ゴッホ、ゴヤ、ゴーギャン、ヴァラスケスらの作品に魅せられていく。
 やがて、バグダッドのイラク国立美術学校を経て、スペインに行き、マドリッドのサン・フェルナンド美術大学に留学。いくつかの展覧会に出品した作品は好評を博し、美術教師として故郷へ帰る。折りしも、イラン・イラク戦争の真っ最中であった。大虐殺がはじまっていた。化学兵器によるクルド族掃射作戦が展開されようとしていたのである。
 悲劇の民といわれるクルド族は、ゾロアスター教を信仰し、第一次世界大戦までオスマン・トルコ支配下に独立国家を保っていた。その後、流浪の民として、今日までイラク、イラン、トルコ、シリア、ソ連にまたがる山岳地帯に住み、人口千四百万人といわれ、各地で自治、分離運動をつづけてきている。
 戦火にまみれ、モハメッド・イズマイルは故国を捨てる。
 彼は走った。
 親、兄弟とも離れ離れになり、何日も国境をさまよう。
 荒地を、山を、砂漠を走る。 
 逃げた。
 隠れた。
 飢えと疲れは極限に達した。
 その果てにスペインを経て、スェーデンに滞在。運よくそこで市民権を獲得し、芸術家として活動を開始するが、国籍はない。
 朝見粧子から私の勤め先の元赤坂のオフィスへ電話があったのは、朝からの打ち合わせが終わり、ちょうど社を出ようとするところだった。
「ご無沙汰しています」
 そのどこかくぐもった粧子の声が懐かしかった。
 確か、父親は中近東史が専門の私立の大学教授ということだった。思えば、日比谷のプレスセンターで行われた中堅の広告代理店の入社試験にパスし、慎重に繰り返された面接に首尾よくパスして、入社が決まったその年の四月から、彼女は私の担当セクションに配属されてきたのだった。
 匂いやかなその若さが私には眩しかった。
 仕事は多忙だったが、彼女の口から不満の声を聞くこともなく、仕事に打ち込んでくれているようだった。だが、三年後、まったく何の前触れもなく、辞表を出した。理由はいくら聞いても「一身上の都合で」ということだった。役員会では担当上司の管理責任が上がったが、それも当節の若い娘の生き方の一つかもしれない、と私は周りを説得したことをよくおぼえている。その後、すぐ追いかけるように、S高原に設立された高原美術館の学芸員として勤務、東京事務所のほうにも毎週のように顔を出しているという便りを、粧子から私は受け取った。それから、早くも、また三年たっていたのだ。
「元気にやっているようだね」
 と私はゆっくり答えた。
「お陰さまで、わたしは元気ですわ。その節はご迷惑、おかけしました」
 明るい声だった。
「おい、おい。もう、過ぎたことだね」
「いろいろ勉強になりました」
 雑駁で、多忙極まりないのが取り柄の広告代理店稼業で、この娘(こ)は、いったい何を勉強したというのか。
「一度、そちらの美術館へも行こうと思っているんだがね」
 とさりげなく言うと、
「ええ。お待ちしていますわ。部長もお元気で?」
「いや。もう、部長はないだろう」
 私は微笑った。
「そうですわね」
「ところで、今度の亡命画家の個展にまで、君が関係しているとは知らなかったね」
「ええ。イズマイルを招いたのは、同じスペインの美術大学に学んだ日本人のはからいによるものです。きて、くださいね。きっと」
「ああ。行くよ」
 と私は言った。
 粧子の一途さが、羨ましかった。
 何をして、こんなにまで危険なことに彼女は関わっているのだろう。
「いろいろたいへんなんです。妨害もあって。
「妨害?」
 私は言葉が詰まった。
 国家や組織の巨大な影が、すでにかよわい彼女の背後に忍び寄っているのかもしれない。
「いえ。きっときてください。待っています。イズマイルに会ってほしいんです」
 ひたむきな粧子の電話口の声に頷き、私は受話器を置いていた・・・・。
 銀座通りの明るいネオンの中を、ゆっくり歩いていった。
 その通りから婦人服の店内に入り際、襟幅の広い薄色の柔らかく波うつラインのソニア・リキエルを粋に着こなした化粧の乗りのいい女と擦れちがった。紅い口唇が濡れたように光っている印象的な女(ひと)だった。
 店の奥のエレベーターで七階に着くと、小さなロビーを挟んだ一角がギャラリーになっている。
 モハメッド・オズマイルの白と黒を基調にした木版画は、いづれも短冊状の細長い画面で、人物の顔や姿は力強くディフォルメされていながら、あたかもイコンのように悲しく、重々しい。受付で手渡されたパンフレットには、「ムンク、クリムト、キルヒナー、ノルデら表現主義の作家たちの影響が感じられる」と書かれている。
 確かに、そこには東方教会で礼拝の対象とした版画像の荘重な祈りと叫びがあった。
 それこそ、戦火をくぐりぬけてきた一人の男の悲しみであり、怒りなのかもしれない。そして、それら版画の一つ一つに釘づけになりながら、聖なるものへの意思や神話や詩のありかを、この目でしかと読み取っておきたいとも思った。深い闇の中で、それらイコンの像は、声を上げるのでもなく、静かに涙を浮かべているようだったからだ。
「大貫さん」
 その声に私は振り返った。
 朝見粧子が微笑んでいた。
 すっかり落ち着いたいでたちは、私の思い出の中のいつも気遅れしておどおどしている粧子ではなかった。別の成長した女が立っていた。
「お忙しいところ、よくきてくださいました」
 と礼儀正しく挨拶する粧子に、
「よくは分からないが、この版画を見ていると、何か祈りたくなってしまうような気持ちになるね」
「そうですか」
「敬虔な世界ともいうべきかな」
「イコンの悲しみですわ」
「うん。イコンの悲しみだ」
 と私は呟いていた。
 それにしても、彼女をここまで駆り立てた情熱とはいったい何なのだろう。
 仕事に打ち込む女の美しさだったか。いや、それは恋する女の輝きであったのかもしれない。
「こちら、イズマイルです」
 粧子はかたわらの小柄な男を紹介した。
「ハジメマシテ」
 とイズマイルはたどたどしい片言の日本語で言った。
「イロイロ、オハナシ、キイテイマス。ドウゾ、ヨロシク」
 それが、鼻の下にふさふさとした髯を生やし、いかにも人なつこそうに静かに微笑っている亡命画家の最初の挨拶だった。
 その眼差しのどこにも、死の戦火をくぐり抜けてきたという、開き直った豪胆さのようなものはなかった。
 ただ気弱な一人の芸術家の姿があるというふうだった。
 差し延べられたイズマイルドの手は、固く熱かった。
 私は強く握り返していた。

 年が明け、年初の仕事がいち段落ついた週末、一通の差出人のないハガキが舞い込んだ。
「年末、スウェーデンに帰れませんでした。海猫の鳴く北国の宿で二人でいます」
 それだけの便りだった。
 これは私には容易に読み取ることのできない、もっと深刻な別の暗号だったか。
 無力な私には、それを手繰る何のすべもない。
 だが、雪しぐれの中、なぜか、海猫の鳴き声を聞いたような気がしたのだ。
 そして、故郷を失った不幸な亡命画家の描いたイコン叫びを、そのとき、私はかすかに耳にしていた。

文藝季刊誌『月光』1999年10月号89年4月号掲載)

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