北大路魯山人の朝飯会 |
| 沢桔梗が咲いていた。 北大路魯山人が朝飯会をひらいたのは、昭和八年(一九二三)八月二十三日のことだった。立秋はとっくに過ぎていたが、まだ暑かった。 朝飯会といっても、何もずっと以前からあれこれ考えていたわけではない。北鎌倉住まいの魯山人は、その頃、連日にわたって、四千点余のおびただしい古陶器の整理におおわらわだった。そのため二十人の助手が鎌倉の山房に寝泊りしていたのだが、そのやさきのとっさの思いつきだった。 「よし。諸氏を集めて、朝飯会をやってみよう」 閃きのようなものだった。 ことを決すれば、やることが早い。いつもの性分だった。手元のリストを照合し、湘南に避暑中の貴顕紳士や知人など五十人に通知を出し、確かな返事があって招ばれることになったのは四十人であった。いずれも魯山人に理解のある取り巻き連であった。 魯山人といえば、当時、美術、工芸、料理にわたる天才的な技をふるい、江湖の注目をいっせいに浴びる時の人だった。常に談論風発、舌端火を噴いた。その悪口は辛辣を極め、絶えず癇癪を破裂させた。舌鋒にやられた人間は二度と立ち上がれないといわれた。そして、まことしやかに伝えられる奇行の数々に、世人は思わず襟を引き締めずにはいられなかった。 その朝の湘南地方の日の出は午前四時五十八分。朝飯会は五時来窯とあった。 大船駅と北鎌倉の中間を五六丁ほど入り込んだ山懐に、魯山人は窯を持っていた。この日常の豪華な住まいと広大な庭園は“星岡窯”と名づけられていた。いわば、彼の「働き場であり、遊び場」であった。近隣の土地をつぎつぎに取得し、丘や水田、松山に囲まれた敷地は約一万坪。田圃には稲が稔り、畑には四季の蔬菜が育てられた。樹々や竹林のあいだに散在する建物は十一棟。 この閑雅幽寂の地に久邇宮邦彦王殿下の二度にわたる来訪を仰いでいたが、深い自然の地形を巧みに生かした山荘のたたずまいに、人々は、 「まるで、大雅の山水屏風のようだ」 「いや、水墨松鶴図屏風だ」 と噂しあっていた。 人々は三三五五に集まった。 東雲に家を出た片瀬からの車は、大船に通ずる自動車専用路を飛ばした。近くの者はぶらぶら歩いて行った。鎌倉山に来ると陽が登り、梶原、常盤の谷間には、朝霧が深く立ち込めている。露にしっとり濡れた小道を行くと、星丘窯に着いた。 邸内は朝の冷気に満ちている。凛とした趣だった。 箒目も新たな小路には清々しくやり水が打たれている。萱葺きの豪壮な慶雲閣の玄関に立つと、来訪者はいっせいに圧倒された。それは徳川家康が使い、明治天皇が行幸されたという由緒ある建物だった。 慶雲閣の横手には葭簀が回してあり、そこには染付けの大水鉢、もう一つは万歴製の大水鉢があった。いわゆる雅器風呂で、その赤絵の大水鉢にはかけ湯が注がれ、浴衣、駒下駄、手ぬぐいが用意されている。鎌倉八幡宮前の風呂屋からは、一日、男衆が雇われていた。 一浴すると、客陣はさっぱりした気分になる。そこへ、まず番茶が出された。 前日、準備がひときわあわただしい夕方になり、窯場の者にいいつけて板や道具を運ばせた魯山人は、いきなりその板に「浴室」の二文字を書いた。つぎに鑿を握ると、トントンと気軽に彫りはじめた。いつもの荒彫りだが、みごとなものであった。これまでも多くの書を揮托し、彫り上げた篇額は豪胆な刀跡を残して、しかも風格があった。 トンネル脇の急な坂を登ると詠帰亭がある。ここには染付けの直径三尺の大鉢に水が張られ、氷三貫が浮いている。水蜜、葡萄、無花果、西瓜を氷と一緒にギヤマンの皿に盛るという趣向である。千疋屋、万惣から寄贈された特別に新鮮な果物が鮮やかだった。 その果物を喫しながら、人々はなごやかに談笑した。 六時、来会者がしだいに揃うと、こんどは向かいの松山の中腹にしつらえられた五十畳敷きの急拵えの大露台に席が移る。青竹の欄干に青畳、丹波木綿の座布団が敷かれている。いわば、緑陰の桟敷の食堂だった。 靄が晴れ、小鳥が囀り、朝風がこのうえなくこころよい。人々の気分は晴れやかだった。期待に胸をふくらませた。冷えたビールが喉を潤してゆく。出てくるお膳は、すべて漆絵の変わり盆である。時代の重ね食籠に煮物、ぜんまい、高野豆腐、湯葉。取り皿は銘々で、瀬戸、志野、織部。向かいは青磁、古九谷。焼き物の鱧は、まるごと備前の大鉢に芭蕉の青葉を敷いて出される。 葛の葉を裏返す風が匂いたっていった。 まもなく、蓮めしが蓮葉に盛られてくる。こぶとろを黄瀬戸の片口から注ぐ雑魚、昆布、海苔の佃意。味噌汁は丸太にかけられた銀鍋でつくられたもので、大聖寺味噌に蜆の汁加減もいい。いずれも魯山人の独断場である。 魯山人は何かと気を配った。朝食抜きで、饗応に努めていた。それでなくとも、二十貫を超える巨躯はよく目立った。白い麻のスーツに白の綿のワイシャツ。汗が噴き出るので、上着をとると、幅広の黒のサスペンダーが印象的だった。 料理場はごった返していた。選り抜きの鮮魚が、築地から大量に搬ばれてきていた。 それに漆絵の盆、箸、取り皿各種二百枚。大鉢、中皿、お重、海苔箱。サイダー、ビール、清水を運ぶために、裏方の十数人が母屋からの道を、ひっきりなしに往還する。汗を拭きながらの戦いである。好きや道楽でできるものではない。 献立は次のとおりであった。 蓮めし |
| これは前夜から、腕によりをかけて仕込んだ料亭星岡(ほしがおか)茶寮の料理主任である武山一太の吟味したものである。彼は十二、三歳の頃より魯山人に手塩にかけて育てられてきていた。 関東大震災(一九二三)の直後、首都の復興とともに料亭星岡茶寮が開業した。東京・麹町区永田町、山王神社の深い森の際で現在の東京ヒルトンホテルの辺りである。「洋と日本間の田舎家」という茶寮付き庭園三〇〇〇坪。これは貴族院議長徳川家達の特別の賛同を得、多くの出資者を募ることができたからだった。 温厚な中村竹四郎との共同経営で、「書道篆刻北大路魯山人の包丁」というのが、この天下の料亭の触れ込みで、それが話題を呼んだ。開店するや政財界の重鎮たちの会員制クラブとして盛況を極め、“東洋一”を誇った。 魯山人は、星岡茶寮のすべての調度や料理を取り仕切った。 懐石料理の緻密で繊細な味と盛りつけの基調を破った豪快な盛鉢料理。また、それとは対照的な惣菜料理を手際よく取り入れた。その料理の奔放な演出に、東都の人々は舌鼓を打った。味付けと盛合わせ妙にすっかり魅了された侯爵木戸孝一は、たびたびここで、重臣や軍官僚の首脳との会合を開くという気の入れようであった。星岡茶寮のファンいやがうえにもは増えていった。 この茶寮と平行して、魯山人はかねて念願の窯を北鎌倉につくった。星岡窯である。ここには荒川豊蔵ら職人が呼び寄せられ、無名の陶工たちは魯山人がたばねた。 星岡窯で焼かれた魯山人の器は、むろん、星岡寮で使用するものと決められていた。独特の滋味あふれる食器や花器は、たちまち評判になる。轆轤は職人に挽かせ、もっぱら魯山人は箆や鏝で成形に当たり、印は「魯」「呂」「ロ」を押し、古法に則った奔放な絵付けを施した。一部、一般にも頒布されたので、人々は競って魯山人作の器を購い求めた。 星岡窯は「魯山人の研究探究に応じた境地」で、来館者は年々、急増していた。昭和七年度だけでも、紹介者や観覧券の来館者は四千名に上がっている。魯山人はひそかに微笑んだ。 気がつくと、蝉が啼いている。 朝日の照りつけが厳しくなり、木立の滴る夏の朝の緑が目に沁みる。 朝飯ならではの野趣に富んだ料理と雅味豊かな器の冴えに、誰もが満足していた。食後の一服には、横浜名物の亀楽せんべいが出された。 慶雲閣の廊下を渡った奥の茶席も注目された。床には素滝の一軸。釣舟の花入。葛饅頭が葛の葉に盛られ、静かな茶事が行われていた。この母屋の建物は魯山人の日常生活の場として使うために、天保年間の茅葺きの庄屋屋敷を改装したもので、大広間の床には自慢の天平の仏画、地袋の上には鎌倉の増長天が飾られていた。それらの贅を尽くした調度に囲まれながら、人々は食後の茶事や雑談にふけった。 ゆったりした朝の気分だった。まだ、七時過ぎ、朝飯会に招ばれた人々は心から満喫していた。いずれも、麻布、六本木界隈の料理とか、名だたる築地の料亭“錦水”の珍味佳肴を食した通ばかりだった。 その年、昭和八年といえば、満州事変を経て青年将校による動きがあり、特高が暗躍するなど不穏な社会情勢であった。国際連盟を脱退して「非常時」の掛け声が高まり、京都大学では滝川事件が起こっている。そうした中で夏になると、小唄勝太郎、三島一声の「東京音頭」が爆発的に流行った。東京・銀座はそれでなくても騒がしかった。飛行機の騒音がある中で防空演習が行われるなどたいへんなうえに、在郷軍人、青年団その他の野次馬が集まるというふうで、日夜ごった返していた。 戦争とファシズムの暗雲が垂れ込めようとしていた。 折しも一介の文士たる荷風は、江戸趣味の中に遊蕩しつつ『すみだ川』『腕くらべ』『おかめ笹』などで一躍注目され、銀座に毎夜のように出没していた。「燈下を点ずる事態はざれば薄暮家を出」ては、“風月堂”で食事。“食後はキュペル喫茶店”に憩い、人に会うことを日課のようにしている。『断腸亭日乗』がその日常を克明に明かしている。 非常時の時代であった。だが一方、焼き物いじりの美術世界は、なぜか不思議なことに、いちだんと熱が入っていた。旧大名家や華族の所蔵品の入札ピークは昭和初期のことだったが、爾来、古美術愛好者は熱狂的な時期を向かえていたということなのかもしれない。名器の周りには、噂を聞きつけた錚々たる勇士が群がる。いずれも、美に憑かれた具眼の士であった。 三井の大御所として辣腕を振るった鈍翁・益田孝は、品川の御殿山碧雲荘で太閤以来といわれる絢爛の大茶会を開く。また、横浜本牧に三渓園を自ずから構成造成した豪商の三渓・原富太郎は、あまたの美術品蒐集とともに、横山大観、下山観山、小林古径、前田青邨など近代日本画壇に輝く巨匠たちのパトロンでもあった。 魯山人はこの両者に憧れと羨望の念を強く抱きながら、ついに何の接点も持つことができないでいた。出自の知れぬ「天一坊」と罵られ、歯牙にもかけられなかった、というべきか。 だが、それはもういい。魯山人は二人には無視されながらも自分の名声が広まるにつれ、印譜二巻一帙、家蔵百選、作陶百影の第一編、小品画集を立て続けに上梓し、このところ気をよくしているところだった。しかも、その出版祝賀会は、耳庵・松永安左衛門を発起人代表にして、築地の“金田中”で行われたばかりであった。 また、京都の富豪の内貴清兵衛から魯山人は古美術や料理について多くのものを学んだ。内貴清兵衛の洛北松ケ崎の別荘は、連日、文人墨客、書画骨董趣味家で賑わっていた。松ケ崎山荘は、さながら京の芸術サロンの様相を呈し、とりわけ、内貴は土田麦僊、富田渓仙、榊原紫峰、速水御舟の絵を愛し、後援していた。無類の仏教美術の蒐集家としても知られ、近年、魯山人の影響もあって国焼きにも関心を寄せるようになっていた。その内貴のとりなしで、竹内栖鳳、鏑木清方、河合玉堂、安田勒彦、前田青邨らは魯山人の彫った款印をすすんで用いていた。 当時、絵や焼き物、古美術界の話題はビッグニュースとして、縦横に飛び交っていた。たとえば、「横山大観はあれだけの大家でありながら、酒が入ると昔の書生に返っていた」にはじまり、さまざまな話題の花だった。 竹内栖鳳は日本画の最高値であった。だが、当人は磊落で絵をただで人によく上げた。 加藤唐九郎が茶碗クラブで講演をした。 益子の濱田庄司は 「汽車土瓶をやってみるが、それがどうしてもうまくできない」 と腕を組む。 朝鮮物に詳しい青山二郎はその濱田庄司から、お気に入りの水差しをやっと手に入れ有頂天であった。 河井寛治郎の個展が、京橋・高島屋で開かれている。 バーナード・リーチとともに李朝物を盛んに宣伝している柳宋悦が上京。朝鮮李朝物展覧会を開催した。 松永安左衛門は大庄屋の旧家を移した広大な柳瀬山荘(埼玉県入間郡柳瀬)を構え、天下の名品を惜しみなく蒐めていた。高雅の士はたびたび訪れては、その品々の気高さに思わず音を上げた。 東京・青山の根津嘉一郎邸でも、所蔵拝見の会が行われた。玄関から洋間、ホール、客室まで所狭しと石仏、金銅仏、木彫、唐・宋の焼き物が並べられ、 「玉石混淆だよ」 と根津翁はさりげなく言うのだった。 小林一三は美術品の鑑賞に全国を巡っていた。「どこでもござれ」で夜行でも何でも駆けつけ、小店の堀り出し物に余念がない。蒐めた雅俗山荘収蔵の大半が本として刊行されようとしていた。 文士で星岡茶寮を根城に人を接待するのは、文藝春秋を興した剛毅な菊池寛だけだった。こうした動きの中で、魯山人にとって、柳宗悦のいわゆる民芸だけはどうしても鼻持ちならず、真正面から罵倒した。だが、名もない民衆のつくったものに真の美を見出す柳美学への批判は、いってみれば魯山人の劣等感の裏返しであったのかもしれない。柳宋悦は恵まれた環境に育ち、学歴も積んでいる。その高みから民衆芸術を説くことは魯山人には赦せない。同じように、会津八一の書や古典への方向にも猛烈な敵意を抱いた。 魯山人は貪欲だった。 およそ、美術と名のつくものなら、西洋画、彫刻、陶芸、工芸品、さては建築、庭園など興の赴くまま隈なく見て回った。見ていなければ、落ち着かない。心が疼いた。乾いた。飢える思いだった。調子の高い美術、古美術、工芸品に接していたかった。絶えず、狂い、燃えていなければならない。そのために、感じるものがあれば大物名品に限らず、何でも手に入れなければ気がすまない。己の道楽にすべてを賭けていた。かくて、星岡茶寮の参考館には、日本、中国を主軸に朝鮮、ペルシア、オランダ、ドイツ、フランスなどの古陶磁が大量に蒐められていった。 朝の一陣の風が吹いていった。 風流と趣向を凝らした朝飯会が終わって、最後の客を見送ると、魯山人は母屋に戻っていつものようにひと風呂浴びた。 明代の青磁の大浴槽に、熱めの湯が勢いよく音を立てて溢れる。淡紅色の肌が明るい湯の中にかがやいている。その湯気に、大きく息を吸い込んでみる。そして、 三日と明けず理髪店で鋏を入れている頭に、両手に掬った湯を荒々しく掛ける。同じように、顔にも掛けて乱暴に洗う。ひと仕事終えて、爽快な気分だった。すべては上々だった。 星岡窯に関する不動産や古美術蒐集にかかわる経費のことなど、もとより眼中にない。茶寮の財政が日に日に苦しくなり、茶寮の実質的経営者である中村竹四郎とのあいだには、もはやどうにもならない亀裂が深まっている。だが、そんなことは知ったことか。魯山人はいっこうに意に介さない。黙れ、召使ども。そればかりではない。家族とのいいしれぬ相克や掌を返した知友たちの報復など、それがいったいどうしたというのだ。 「ままよ。おれが分かってたまるかーー」 魯山人は呟く。 来し方、行く末が業そのものであるなら、それもいい。人の世は幻。一切、空無に帰するなどと、いったいどこの誰がうそぶくというのか。 夕べからほとんど寝ていない。 だが、少しも疲れを覚えなかった。ちょうど五十の坂を過ぎたが体調はよく、制作意欲も旺盛で、ますます充実している。このところ、本焼きの窯から取り出される器は、これまでの華やかな色絵付けや織部好みから、無釉の信楽や伊賀、備前に変わってきているようだが、これも年相応のことか。 食膳には、まず豆腐。豆腐は、若く辛酸を舐めていたころ、華麗な紅色のギヤマンの古玩の鉢で食べていらい、好物の一つだ。鱧茶漬けでも軽くとって、少し眠りたい。 きょうも暑くなるのだろう。 明後日は中秋の名月。ひとしきり、蝉時雨がたかまったようだった。 |
| 『文』1999年1月号掲載 |