朱雀の乱
ーー大津皇子の獄



 漆黒の闇が揺れた。
 闇は流れ、どよみ、ひしめき、ざめき、深く切り裂いていった。ふいに殺気が漂い、何かが近づいてくる。影が遠のいては、なりをひそめ、おののき、妖しい凄味を持って激しく止まった。
 確かに、誰かが忍び寄っていた。一瞬、喘ぐように息を噛む。緊張に身をすくませ、氷のように神経を尖らせる。不気味な暗黒に襲いかかられようとしては、いつまでも対(むか)いあっていた。
 やがて、闇が一条の光に揺れた。
 窓明かりがほんのりと染め抜かれ、東雲が透明な秋の夜明けを告げる。私は一睡もしていなかった。
 兵制官長(つわもののつかさのかみ)の藤原大嶋(おおしま)が私を引き立てたのは、朱鳥(あけみとり)元年(六八六)十月二日、辰時(朝八時)。武装した兵がわが訳語田(おさだ)の家を包囲し、運命が奈落に向かっていた。
 家中が泣き叫んでいた。急き立てられる私に取り縋り、妃の山辺皇女が嗚咽した。
 ――背(せ)の皇子さま。わたしもお連れください。
 泣き伏す妃の肩に手をかけながら、
 ――すぐに帰る。待っていてくれ。
 と私は静かに言った。
 だが、その声は恐怖に引きつっていたのだ。
 ――いいえ。どうか、ご一緒に・・・・。
 まだ若く美しい二十の妃の嗚咽がいじらしかった。
 鎧や弓矢に身をかためた軍兵に三重に囲まれ、侍女や舎人がさわぐ私邸から秋草の茂る道を辿り、私は 矢釣の宮廷に向かった。
 むなしく天命を待つしかない
 門の閉ざされた宮はひっそりしていた。昨日まで執事が行われてきていた部屋や回廊に人影はなく、朝臣や女官はどこかに息をひそめていた。少しでも歩をゆるめると、後ろから小突かれながら、私は長い廊下の突き当たりの奥向きにある一室に案内された。そこは四方が頑丈な板壁で囲まれていた。私はその獄に監禁される。
 一日、何の詮議も行われなかった。日が暮れ、夜を迎えたが、私はまんじりともできなかったのだ。
 ああ、もっと早く飛騨の山奥へ隠遁すべきだったのか。
 謀反? 謀略? 私はその暗黒の渦の中で生まれたのだった。
 
 ああ、もっと早く伊豆や、飛騨の山奥へ隠遁すべきだったのか。
 思えば、私の幼少時代は近江の都で豊かにはぐくまれていった。多くの皇子たち一緒に一日中遊び、博士について学問を身につけ、帰化僧から法話を聞いた。
 天智十年(六七一)、だが、天智に死の影がしのびよる。
 長年にわたり、苦楽をともにしてきたのが天智の弟、皇太子であり、わが父である大海人皇子であった。だが、天智はわが子大友皇子をつぎの天皇につけようと、死の床に大海人を呼び、後事を託そうとする。大海人はそれをひたすらに固辞。吉野の山に隠遁すべく、武器を朝廷に納めて、旅立つ。わずか従者二十人、伊賀を越え伊勢に走る。
 即位した弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷は美濃、尾張に軍を整え、大海人の息の根を止めにかかる。これに大海人軍は美濃の不破関を拠点に、東国の豪族たちを一気にまとめ、大和、近江に進軍させた。皇位継承をめぐる叔父、甥の大規模な戦乱。壬申の乱である。
 まもなく、私は近江を脱出、父に合流するが、大和、近江を中心にした激しい戦いは、ついに大海皇子が勝利することになる。
 飛鳥に帰還し、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)に入ったのは、秋風も冷たい九月。大海人は天武二年(六七三)に即位、天武天皇となる。都は新しい宮都の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)の造営にとりかかる。
 近江王朝を倒し、乱を勝ちとった天皇は最高の権威者としてあがめられ、日の神の子孫たる現人神(あらひとがみ)であるとされた。新朝廷は天皇を頂点とする身分体系を確立するため新しく八姓の秩序を設け、それぞれ主要な王臣にこの新姓を与えた。
 また、陽光のまぶしい緑の吉野の山路をすすんだのは、天武八年(六七九)五月。壬申の乱とゆかりの深い吉野宮に行幸。天武天皇は草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基の六皇子を抱き、力強く誓い合う。皇子たちが皇位を争わず、天智、天武兄弟の争いに端を発した壬申の乱のようなことがふたたび起こらないように、皇子たちの序列を示し、盟約したのである。このとき、一位の草壁は十八歳、私は十七歳。儀式の席次がその後の運命を決した。
 二年後の天武十年(六八一)は飛鳥浄御原津令、国史編纂の開始、草壁皇子の立太子と画期的な年であったが、その後まもなく、私は国政に参加することになる。これは皇太子に次ぐということで、父天武にはそれなりの考えがあったのだろう。
 私の母、大田皇女は天智天皇の子で、その妹が草壁皇太子の母の鵜野讃良皇女(うののきさらのひめみこ)皇后である。だが、母は私を産んだ翌年、病で没していた。もし、存命であれば天武の皇后であったろうし、当然のことに私は生母の点で草壁と比肩する存在であった。
 自慢ではなく、天武の第三皇子の私は幼少のころから文武にすぐれ、多くの有力な貴族の支持があった。
 ――壮(さか)んな風姿には気魄がこもっています。
 ――品位の香しい皇子でございますから。
 ――詩才にたけ、歌も詠み、しかも聡明なお方です。
 賛辞の声が上がり、延臣のあいだに人気があった。支持者がある皇子を放置しておくと、どういう誘いの黒い手が伸びてくるかしれない。その点を王権の簒奪者である朝廷はもっとも危惧したか。
 ああ、それにしても、青春は華やかだった。若い情熱に身を焼き焦がしたその恋と青春の日々がやるせい。
 そう、宮廷近くには石川女郎(いしかわいらつめ)がいた。大名児とも言われる蘇我系の人であった。
もともと草壁皇子とつきあっていた石川女郎だったが、しだいに私との恋に熱く燃えていったのだ。大名児、矢釣山の麓におまえを待ちわび、愛するために苦しく悩む私は山の雫にびっしょり濡れてしまう。

  あしひきの山のしずくに妹待つとわれ立ち濡れし山のしづくに
                                (万葉集巻二)

 草壁との運命の対立は、この魅惑的な女郎をめぐるときからすでに根強くはじまっていたといわねばなるまい。
 また、私は天武が軍臣とともに倉梯の地にでかけ、山野の狩猟にでかける日はよく供をした。丈夫(ますらお)たちはおおらかでさわやかだった。山の嶺に月が美しく冴え、酒宴は華やかで楽しい。獲物の切り肉を食べ、みんなと酒を一緒になって飲みほし、こころよく酔う。雲のようになびく旗を、嶺の前にはりめぐらせる。壮快な気分のまま、勇士たちは帰るのも忘れたのだった。

  朝(あした)に択(えら)ぶ三能の士、
  暮(ゆうべ)に開く万騎の筵(むしろ)
  臠(れん)を喫(は)みて倶(とも)に豁矣(かつなり)
  盞(さん)を傾けて共に陶然たり。
  月弓谷裏(こくり)に輝き
  雲旌(うんせい)嶺前(れいぜん)に張る。
  曦光(ぎこう)(すで)に山に隠れ
  壮士旦(しばら)留連す。
                          (懐風藻)


 私はこの遊猟の一篇の詩をつくり、宮廷人の前に披露されると、万雷の喝采を博した。新しい国づくりに参画し、希望と主張が叶えられる私は自信に満ちていた。
 だが、天武十四年(六八五)、宮廷に激震が走る。
 天武天皇が病に倒れたのである。いったん持ち直すが、翌年五月に再発。宮廷では二百巻の観音経がよまれ、多くの僧女が得度し、香燈が焚かれる。朝廷は死罪者など百九十二人を恩赦、百四十人を出家させる。
 だが、虹や彗星があらわれ、各地で地震があった。
 巨きな星が東から西に向かう。不気味な日々、何の凶兆かわからぬまま、人々は恐怖にからだを震わせた。
 折しも筑紫太宰が三匹の雀を献じ、大極殿で宴会が催されると、この雀は群臣に披露された。三匹の雀は朱色で、この年が朱鳥(あけみとり)元年だった。その七月十五日、危篤状態のもとで天武は「天下の事、大小を問はず、悉(ことごと)くに皇后及び皇太子に啓(もう)せ」と、国政の権限を?野皇后、草壁皇太子母子に委ねる。
 天武天皇崩御は二カ月後の九月九日。朝廷は混乱した。
 後継の座をめぐり、?野皇后は不安だっただろう。実子の草壁を天皇につけるためにはこの私が邪魔者だったからだ。はたして、話し合いで決着がつくのか、それとも武力衝突に発展するのか。鬼神は牙をむき、活発な情報合戦が繰り返された。
 私はやむなく矢釣の宮に籠もり、漢詩をつくったりして過ごした。夕暮れになると、大和平野の寺々の鉦が静かに鳴り響いた。
 河嶋皇子が隠れるようにして訪ねてきたのは、日の暮れる酉時(午後六時)のことで、
 ――どうする? 後継の座をめぐってはいろいろな情報が飛び交っている。
 と真正面から見詰めて言った。
 それは同じ憂いを持ついつもの同士の口調だった。
 ――む。
 私は目を伏せた。
 ――皇太子(ひつぎのみこ)は体が弱いし、凡庸だ。鵜野皇后は大津の力量をいちばん恐れている。草壁を 立てるには、後継者では最有力の大津を排除せねばならない。
 ――さりとて、どうすればいいのだ。
 私は慎重に応え、酒杯をすすめた。
 疑惑、不信、憤懣の塊が燃え上がっていたが、軽率にいうこともできなかったからだ。
 ――黙って漢詩を読んでいるときではないだろう。大津は、どこにいても妬みの的になっている。才能豊かで人望も厚い。有力な豪族も支援している。
 深い学識と鋭い洞察力を持っている河嶋のことばに、私は一つ一つうなずいた。
――皇后が草壁を贔屓にするのは当然だろうね。だが、このままでは国政がどうなるか、案じられることも事実だ。
 不安と焦燥のなかで私は言った。天武天皇なきあとを憂え、国事は多難であった。
 ――それで、大津皇子の気持ちは決まっていますか。
 ――いや。
 私は無理に笑みをたたえ、言葉を濁した。
 ――政争に勝ち抜くには鬨がある。決起するなら、今だよ。
 ――う、うむ。
 ――反乱軍が西に東に興っているというではないか。
 ――そんなことはない。
 ――なるほど。では、朱鳥の乱はないということか。
 天智の子である年長の河嶋皇子は、何かと朝廷ではうとまれていた。その負い目が、いつもどこか卑屈にさせていたが、急に政(まつり)ごとに口出ししてくるのは、なぜだったか。
 ――それに、大津。きみに何かと吹き込んでいる新羅の僧行心には気をつけたほうがいいよ。あれは回し者さ。妖しい呪いにかかるなよ。
 兵を挙げれば叛乱の徒であり、挙げずに黙って耐えていれば、いずれは抹殺される。私は闇に喚き伏し、ますます陰惨な疑念に苛まれた。
 懊悩の日々、流星が赤い尾を引いた。
 星空が崩れ落ちるようだった。人心が揺らいだ。
 ――おお、天が叫ぶ。
 と大分恵尺(おおきだのえさか)が拳を固めて言った。
 ――運命をはねつけ、謀略の燈下(あかし)は打ち消さねばなりますまい。
 小墾田猪手(おはりたのいて)が呻くように言った。
 ――皇子、神事のお指図を受けた旗をかかげましょう。
 と眉間に皺を寄せた難波三綱(なにわのみつな)が言った。
 ――玉座と国家に報いの盃を! 悲運の皇子よ。
 山辺安麻呂(やまべのやすまろ)がしわがれた声で詰め寄った。
 いずれもあの困難を極めた近江脱出のとき以来の腹心である。
 緒王や群臣が私の決意をうながして、各地で動揺する軍隊が攻撃の開始を待っている。風が唸り、地が揺れた。
 九月二十四日、天武の殯宮(もがり)の儀式の終了を待つかのように、私は謀反を企てたとされる。一味三十人が捕縛された。
 何と、密告者は河嶋皇子であるという。吉野の盟約に加わり、莫逆のちぎりを交わしていたあの信頼すべき河嶋。そうだったのか。いや、危険は河嶋にも迫っていたのだろう。煩悶、懊悩のすえに告白し、自己の保全を図ったのか。先帝の子として、私から離反することにより、天皇と皇太子に身の証をしたのだろうか。
ああ、そして、姉大伯皇女(おおくのひめみこ)よ。たった二人の血を分けた美しい姉宮。
 いま、一度、お会いしたかった。天武二年(六七三)、十四歳で、父天武天皇が壬申の乱での勝利を神に謝する心で伊勢の大神に仕える。十四歳の処女はひとり大和を去り、伊勢に赴き、以来二十五歳の女盛りまで、清らかに神に奉仕してきていた。
 一つ違いの優しい姉よ。
 血腥い政治のことは何ひとつ知らない斎宮の身にも、不穏の空気は伝わっていたのだろう。その伊勢に赴き、あなたとお会いすることで、私の心はいつも清く晴れ上がっていた.・・・・。
 いや、もういい。もう、いいのだ。
 孤立、挑発、謀反、私の背後でいつもひっそりと息づいていた無情の闇。汚辱と業火の運命を、狂うのでもなく甘受しよう。これが夢の兆(しるし)の託宣だったのだ。闇に放たれた閃光は、恐怖となって私を引き裂き、蒼白な大地の背(そびら)が慟哭する。

 時が軋み、流れた。
 巳時(午前十時)になり、足音が近づいてきた。緊張に身が凍る。戸口の鍵が開けられようだ。
 しばらくして、淨御原の大宮からの使者が恭しく私の前に立っていた。
 ――謀反の企てにより、ただちに訳語田の私邸で死を賜ることにする。
 と使者は静かに言った。
 私は目を瞑って聞いていた。獄中二日、一片の抗議も許されないまま、夢や野望は無惨に潰え、天運にむなしく自分を投げるのみだった。
 しばらくして、私はおもむろに立ち上がった。
 さあ、大津、歩くのだ。歩く・・・・、のだ・・・・。
 私は自分に誇り高く、きびしく言い聞かせていた。
 警固する軍団の隊列はさらに厳しく整備されていたようだった。だが、叛乱はどこにも起こる気配はなかった。
 荒栲の衣に着がえ、麻の帯をしめ、飾りのない青駒にまたがった私は、刑務官(うたえのつかさ)に先導され、飛鳥から山田道を十余町ばかりいったところ、磐余の池のほとりへ向かっていた。大和の国原は広々として、野にそそぐ澄み切った秋の光が眩しい。池には鴨が鳴いているのだろう。初秋の風に萩が揺れているのだろう。
 ああ、風、鴨、雲よ。大和の国よ
 ひと雫の涙が頬を伝わっていった。この日限りに何も見ることが出来ないことを思うと、私は心残りに、はじめて目頭が熱くなったのだ。

  ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ  
                                (万葉集巻三)


日本ペンクラブWip委員会編『21人のプリズン』所収
(2002年10月発行)

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