発行:阿部出版
1991年6月発行
定価:2200円
梅原 猛 |
高橋和巳の人間 |
小松左京 |
笑う高橋ともう一人の高橋 |
三浦 浩 |
高橋のこと |
石倉 明 |
高橋和巳と三上和夫 |
辻 邦生 |
高橋和巳のために |
福島泰樹 |
黒時雨の歌 |
高城修三 |
我これ如何せん |
井波律子 |
美文の精神 |
太田代志朗 |
微笑みやめよ |
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対談/高橋和巳の文学とその世界
梅原猛・太田代志朗
*
■すでに高橋和巳は時代の遠くにあった。
孤独な薄明のリングでしか、もはや論じられ、語られないようだった。
企画編集に当たるも情況は厳しく、また、「対話」第1次同人も非協力的であった。
■1日、小松左京さんと帝国ホテルのラウンジで懇談。
ホテルの1階ロビーには満開の桜花がまぶしく、高橋和巳没後25周年ということで理解していただいた。
意を感じた小松さんは、『対話』追討号以来の高橋和巳に関する原稿を寄せた。
編は梅原猛先生、小松左京氏としたが、企画編集に当初から私は全面的にかかわった。
没後25周年ということで、それなりの話題にはなった。
■埴谷雄高氏を吉祥寺のお宅に訪ね、深夜までワインのご馳走になった。
礼を以て迎えていただいた。高橋門下の縁だからだろう、ありがたいことだった。
ボッシュの複製の大きな絵の飾られた応接間、ここでどれだけの作家、編集者たちとの討議・酒宴が華やかに行われたことだろう。
かつて、若き無名時代の高橋和巳、小松左京、近藤龍茂の三羽烏が訪ねた応接間だった。
隣の部屋のベッドの傍らには書きかけのメモやらが置かれてあった。
私は「埴谷雄高」といいう巨人の生活環境の現場をしかと見たのだった。
■辻邦生さんにも温かい励ましをいただいた。
辻さんには、お手紙を頂戴したりして、『西行列伝』のあとは藤原定家にもぜひ取り組みたいということだった。
山ノ上ホテルでお会いした時、事故で腰を痛められ、歩くのも苦しいようだった。
「太田代志朗さん、決して弱気になってはいけません。どうぞ、いい仕事をつづけるように・・・・」
辻さんの手紙は、今も胸を熱くする。
■梅原先生との対談は祇園つるいで行われた。
先生は静かに対談をすすめてくださった。
茫々の歳月を呼び寄せ、まだ知らぬ高橋像が浮かびあがっていった。
■見舞いに訪れた病院では、高橋さんが手術した腹部の傷跡を見せながら、
「梅原さん、これで業は終わったんですよ」
と言ったという。
聞いて、戦慄をおぼえた。凄いことだと思った。
胸を揺さぶられた。
阿修羅は、静かに見果てざる世界に分け入っていたのだろう。
*
■1991年9月6日。
高橋和巳を偲ぶ会にちなみ、この本の出版を祝う会を京大楽友会館で開いた。
私は高橋さんの写真を額に入れて持参、祭壇にお花とお酒を供えた。
■梅原猛先生、岡部伊都子さんにもお出でいただいた。
井波律子さんも金沢から駆けつけてくれた。
小松さんは旅行とかで欠席だった。
私は小松さんら第1次同人の委細について、はすべて石倉明さんにお任せした。
■本書は「梅原猛・小松左京 編」なのだが、実質的な編集は私と版元でおこなった。
礼をつくした進め方だと自負していた。
■ところが宴がすすみ、執筆の原稿枚数がどうのこうのと年甲斐もないことをいう者がいた。
太田代志朗の書いたものに比べ、他の割り当ての原稿数枚数が少ないのはなぜか。
その言葉に棘があった。
どうやら、その本意は出版企画自体への批判と不満をこめたものであるようだった。
■いっておくが、それならお前さんたちがつくればいい。
どうぞ、おつくりなさればいい。
心こめた没後25周年の企画たが、まったく思わぬことだった。
また、本書の執筆陣に洩れた者の繰言など、聞きたくもなかった。
■矢面に立たされ、私はまったく閉口した。
梅原先生の手前もあって、まったく立つ瀬もなかった。
ーーとやかくいわれる筋合いはないぜ、私は唇を噛んだ。
嫌な雰囲気になった。
■すると業を煮やした高城修三が立ち上がり、
「黙れ。何を言っとるのか・・・・」
とビール瓶を勢いよくテーブルに叩きつけた。
けたたましい音に破片が飛び散った。
高城修三の心意気に、私のうちにはいいしれぬ熱いものが走った・・・・。