孤高の修羅よ瞑らざれ

――高橋和巳生誕八〇年、没後四〇年


 

 新緑眩しい二〇一一年五月。高橋和巳生誕八〇年、没後四〇年。青あらしが吹きわたる。

 処女作『捨子物語』を経て、長編『悲の器』(一九六四)で華々しく文壇デビューした。錯綜する戦後文学を真正面から受け継いで一躍脚光を浴びる。『憂鬱なる党派』『堕落』『散華』を始め、『邪宗門』『我が心は石にあらず』など問題作をつぎつぎに発表していった。

 生来の“褐色の憤怒”が業火のように燃えあがった。剛直な漢文体の調べに沸騰する情念のコードが、擬制の終焉の彼方に永劫の夢と想像力のありかを問う読者を熱狂させた。さやかにも一途な下降と破滅志向による有罪性希求と自己指弾の文学は、ラディカルな六〇~七〇年代の荒野に鮮烈に開示された。

 旺盛な作家活動であったが、そこへきて恩師の招きで京都大学文学部助教授に赴任。当初の意気揚々たる研究生活が、全国的にひろがる全共闘運動に加担していくということになる。血塗られた暗黒への出発であり、運命的な文化共同体の無残な解体への道だった。孤立無援の中で執筆された『日本の悪霊』『黄昏の橋』など、文学が深い感動と力を鮮烈に与える時代であったのだ。

 戦後的日本のエートスや知の原罪の惨めなまでの痛みに文学とは何か。人生にとって文学とはいかなるものであるか。その根源的テーマのもとにひたむきな苛烈の境位をつらぬいた。陰々滅々にして、悲哀と狂乱に殉じた三十九歳九カ月の生涯だった。

 全集二十巻もて時代は遥かに巡る。今や「戦後文学史・年表」にその名をとどめるにしかすぎないのだろうか。過ぐる没後二十五周年に当っては、梅原猛・小松左京編『高橋和巳の文学とその時代』(阿部出版)が刊行された。 この企画編集には埴谷雄高、辻邦生氏らの多くの賛同・協力を得た。

一九九一年六月、刊行パーティには梅原猛先生はじめ岡部伊都子さんらをお招きし京大楽友会館で盛大にひらかれた。それぞれのおもい秘めたパーティだった。同人雑誌「対話」の最後の饗宴であったのだろう。

 かくて高橋和巳研究会は、これまで断続的に 継承発展してきた第二次「対話」(一九六五~一九九一)に拠っている。代表幹事に「対話」同人の太田代志朗、林廣茂、古川修として、、幹事メンバーには小坂郁夫、後藤多聞、杉本真人、高城修三、立石伯、田中寛、外岡哲治、橋本安央、人見伸行、廣野勝、福島泰樹、安森敏隆ら多士済々が連なる。

 未だ会報の一つも出していないことは忸怩たるおもいだが、封印された高橋和巳が広大なサイトに結合することによる豊穣な文学的展開を臨む。それと同時に、今ひとたびのささやかな言挙げであることもここに銘記しておこう。

 BBS「高橋和巳を語る会」は二〇〇四五月に公開発信された。気軽な炉辺談議からポレミックな文学論までを瞠く繚乱の幻野、そのオマージュは次の通りである。

「あの激動の時代を疾駆していった高橋文学とはいったい何だったのだろう。ならば、郷愁に閉ざされた「高橋和巳」を無限のネットに解き放そう。蒼茫のウェブ・ラビリントスに彩られる栄光と悲惨の物語。今、宗邪宗の門が明けられ、黄昏の橋が蘇る・・・・」と。

孤高の修羅よ瞑らざれ。「最も苦悩せる死、そは最も美しき死」なればよ。


 

『日本近代文学館』館報 2011年7月15日号【第242号】


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