「月光の会」について



福島泰樹と会ったのは1987年夏のことだった。
台東区下谷、法昌寺。本堂の脇の座敷に通され、私は緊張していた。
それまで短歌絶叫コンサートを2回ほど聞いていたが、実際に会うのはそれがはじめてだった。
あの高揚した時代、意気揚々の高橋和巳が、
「早稲田で講演を頼まれたんだが、それが福島泰樹という熱血漢でね」
と聞かされたことがあった。
 
1966年、早稲田の学園闘争のとき、福島泰樹は早稲田短歌会を代表し、三顧の礼で高橋和巳の講演をとりつけている。
歌集『バリケード一九六六年二月』で鮮烈にデビューした福島は、その講演当日、鎌倉から東京駅についた高橋和巳を丁重に迎え、タクシーに乗って早稲田へ向かった。
早稲田の高田牧舎で二人はビールを飲み、軽い食事をとって打ち合わせをしている。
講演題目は「文学の二重性」。
「騒ぐ者がいれば、直ちに連れ出す」
こころして聞け、 福島は聴衆に声高に言った。
立錐の余地もない講堂は熱気に満ちていた。
高橋和巳はひたすら”悲しみの連帯”ということについて話した。
その説得ある静かな語調に、若者たちは熱く燃えた。
 
福島泰樹の高橋和巳論である「知識人の存在根拠」(『国文学』1978年1月号)はいい文章だった。
読んでいて胸が熱くなった。
その時代との相克に、思わず同士としての志を感じた。
福島短歌の世界が花吹雪のように迫ってきていた。
いずれ相見えなければならない。
そう念じながら、18年たっていた。

出された酒は底をつき、福島泰樹は近くの馴染みの菊寿司へ連れていってくれた。
朝顔市の終わったばかりの下谷の町は、まだ何となく華やぎの余韻を残している。
江戸前の気風のいい親父の握る寿司は格別だった。
お互いの話は尽きなかった。
深夜、菊寿司を出ると、下町の大正ロマンもどきのアパートの建つ路地裏をほろ酔い加減で歩いた。
それは悲痛と狂気の輝きの出会いであった。
「歌会にも出てくれるかな」
別れ際に彼は言った。

月光の会は1987年4月に発足していた。
歌会に出ると、松岡達宜、北原燿子、篠原霧子、高橋凛々子らがいた。福島門下の多士済々の顔ぶれだった。そして、黒田和美、三杉連子、永浜郁子、沢木奈津子、藤岡巧、有賀真澄、柴田陽らがいた。
持田鋼一郎は爽やかな論客だった。
彼らしい粋筋好みで、よく根岸の小料理屋の暖簾を潜った。
 
会報『月光』は歌誌『月光』へと発展してゆく。
季刊文芸誌『月光』(デザイン:間村俊一)は1988年4月、創刊された。
詩魂きらめく船出であった。

「かつて詩歌が、日本の文学運動を果敢にリードしていた時代があった。
詩歌が近代浪漫主義運動を推進させ、詩歌の時代を現出せしめたのである。(略)
同志よ 来たれ!
願わくば、境界さだかならぬ乳白の闇覆う時代を刺し貫く、熱き一条の月光たらんことを!」 
福島泰樹は「月光の辞」で浪漫の再興を高らかにうたった。

1988年4月。
季刊文芸誌『月光』創刊の祝賀会は、渋谷ジャンジャンの満員盛況の福島泰樹絶叫コンサート終了後に行われた。
福島泰樹は「おい。お前が乾杯の音頭をとれ」と言った。
花を持たせてくれたのだろう。
緊張しながら私はステージに進み、乾杯の辞を述べた。酒樽が勢いよく割られた。
ジャンジャンは、月光祝賀パーティで華々しく盛り上がっていった。
持田鋼一郎が盃を上げ、松岡達宣が大きく笑っていた。
無頼派の石沢鷹が「今夜は飲もう」と、酒を何杯も注いでくれた。

そして、皆んなで新宿ゴールデン街へ流れた。
このとき、私は身内の不幸で失意のどん底にあった。
無情のみどり深野知らゆな・・・・酒に酔い狂う日々。
福島泰樹と月光の人たちが支えてくれた。

『季刊月光』9号・特集「清かなる夜叉の世界」では、塚本邦雄、松永伍一氏らが執筆。
また、その後、『歌誌月光』が発行された。
2003年11月、装いも新たに第2次季刊『月光』が話題をよんだ。