不穏な日々であった。
暗雲が垂れ込めていた。
夜になると、赤くただれた流星が尾を引いていった。
京の都は流民であふれ、略奪が横行し、女はつぎつぎに犯された。天下大乱の兆は各地で起こる戦とともに、しだいに高まろうとしていた。
「風がなまぬるい。」
と僧あがりの男が言った。
坊主頭に折烏帽子をかむっている。
「また、星が流れた。人が死ぬ」
髭面の小盗人(こぬすっと)は卑猥な笑いを浮かべて言った。
敗れた脚絆に血糊がこびりついている。
「どれ、今夜は三条の中納言の屋敷よ」
僧あがりは相棒を睨みつけて言った。
「へへへ、乱らば乱れ。落ちれば落ちよ。」
「やるか」
「そうよ」
「ぬかるな」
「何。木っ端奴が」
語調は凄味をはらんでいた。
男の顔はゆがみ、鬼気迫っていた。
郎党が五人、六人集まり、中納言屋敷の襲撃が画策される。
兵火がいたるところであがった。
夜盗の群れが京小路を駆け巡った。
亡骸(むくろ)の山が築かれようとしていた。
応永二十八年(一四二一)は、雨の正月元旦で明けた。
鎌倉公方足利持氏は、たびたび将軍足利義持に反旗を翻した。その持氏に呼応した“新御所”と呼ばれる弟義嗣を捕らえて、義持は殺した。義嗣の一味残党は、それでもまだ鎮まらなかった。関東の警戒はもとより、奥羽、陸奥、甲斐も定かでなかった。さらに、九州でも大内義弘が諸大名を連合して、京都に向けた兵を挙げようとして
いた。
室町幕府は少しも安泰ではなかった。
各地で騒乱が勃発していた。
だが、唸りを上げるこの乱世を破滅につきすすみながら、人々はひたすら生きるしかなかった。
一月、幕府は五条河原で施しを行う。疾病が流行、五条天神に流罪を宣下した。
八月、常陸国で叛乱。京都は大雨洪水。全国的な飢餓疾病が流行った。
十二月、将軍義持は、子義量(よしかず)の大酒を厳しく戒め、父子は祇園社御旅所で贔屓の増阿弥の勧進猿楽を見る。一世を風靡した世阿弥には、もはや昔日の面影しかない。
応永二十九年(一四二二)。
一月、一条兼良、『公事根源』を著わす。
四月、義持、仙洞御所の参り猿楽。
九月、五条河原で前年の飢餓疾病死者の追善。世はいっこうに静まることなく、坂本の馬借らが京の乱入し北野社公文所に火を放った。まさに「日本開白以来土民蜂起是初也」(『大乗院日記日録』)であった。
飢餓を背景にして起こった「土民蜂起」の徳政一揆は、その後もとどまることがない。人々は鐘を鳴らし、鼓を打つ怒号とともに、洛中の土倉、酒屋を襲った。街は火炎につつまれた。
この一揆の動きはたちまち京都から、伊賀、伊勢、大和、紀伊、和泉、河内、摂津へとひろがっていった。
大名のあいだには私闘が頻発。武将は汚く相手を罵った。幕府は役夫工来、訴訟、安堵などに関する十カ条を制定したが、どこまで有効に働くものだったのか。
関東の状況も日に日に深刻化していた。
十二月、幕府、南禅寺の僧八人を捕らえた。
応永三十年(一四二三)。
一月、将軍、等持院に出家。
二月、義量が将軍職を拝命(酒と女色に明かしたこの将軍は在職二年で死去することになる)。
将軍職を辞した義持は公卿緒将の屋敷に海み、もっぱら遊楽酒宴に興じ、日がな神社仏閣に詣でた。斯波義将・義重、細川満元、畠山満家らが幕政を預かった。
五月、五月雨のあとの初夏の眩しい日差し。
後小松上皇の御所に参上した義持は、公卿の女数十人を率いて酒宴を開く。猿楽も召して侍らせた。日夜の沈酔だった。皇弟小川の宮は乱酔のあまり抜刀して、禁中を騒がせた。綾織の几帳の影で女官たちの薄紅色の張袴が恐怖に震えた。
十月、室町第の奥座敷に山薊が活けられていた。鞍馬の渓谷に咲く花だった。
十一月、幕府は今川範政らに関東討伐を命じた。
血は匂う。
死が叫ぶ。
夜の風が吹いていく。
――走れ、夜叉丸。
何をいつまでも、うずくまっている。
呻いているのだ。
もういい。
髑髏(されこうべ)を磨く手を止めよ。
傾く嶺の雲雀山(ひばりやま)。
愛しいおまえの髑髏。
憂き人の形見の扇。
膿ただれたこの世を生きることなど、
たかがしれている。
そうよ。
所詮、夢とも幻ともしれぬ今日が限りよ。
怖い、夜の恨みが怖い。
巷では堂上から地下にいたるまでが嘯く。
恐ろしい御霊が遠い異郷から飛来している、とな。
ええい、ほざくな。糞ったれ奴。
老獪な連歌師が薄笑いしながらつぶやく。
ふむ、花とな。
漂泊の手猿楽などに何が分かろうてか。
生きなば生きよ。
知らいでか、花など。
何の未練、何の奥義ぞ、とな。
おお、夜の烈風が吹き抜ける。
餓死者が放置され、肉が腐乱していく。
延暦寺衆徒が日吉神社神輿をかついで暴れる。
大津馬借が、祇園神輿を奉じて強訴する。
夜、花の畠山辻上りの婬坊が男たちを引き寄せる。
いや、待て。
菅の人形を前に調伏の呪符を行っているのはだれか。
真言二十一遍、心経七巻、観音経三巻。
アニチヤ、ソワカ、百遍を唱えよ。
ヲンヲリキリテイメイワ、
リテイメイワ、ヤシマレイ。
ソワカ。
時が流れる。
――行け、夜叉丸。
むさい息をいつまでも吐いているな。
悲しいか。苦しいか。
髑髏の破片が愛しいか。
おまえを生んだ母は素性の知れぬ歩き巫女だった。
女は闇からおまえを生み落とし、
おまえを闇に捨てて姿をくらました。
彗星、西の方に現れ、山崩れ地裂く。
陰陽師は空をあおぎ、天下の動静を占う。
散所の声聞師や法師は熱い祈りに涙を拭う。
あいや。
また、今夜も流星、東北指して行き、
その跡、化して雲となるぞや。
多武峰の神像が破裂した。
まったくいやな世の中だ。
――聞け、夜叉丸。
呪わば、呪え。
語らば、語れ。
分かっているな、地獄も仏のうちよ。
――どこにいる? おい、夜叉丸。
一念(いちねん)弥陀佛(みだぶつ)即滅(そくめつ)無量(むりょう)。
よいか。
おまえは母の死肉を食らって生き延びたのだ。
怨みを添える行方に髑髏の母を憎めばいい。
ああ、風が冷たい。
夜叉丸、いいか。
悲しき浮世の波千鳥。
どこへでも行くがいい。
走れ、生き延びよ。
それがおまえの運命なのだ。
正長元年(一四二八)。
この年、飢餓や疾病で死病者があふれる。
黒月の十五夜に起首し、三十五万遍を誦し、香泥を取りて尊像を供養せよ。
三月、毎夜、朧月が美しかった。青蓮院義円が還俗し名を義教(よしのり)と改め、第六代室町幕府の将軍となった。御連枝(義持)の弟である青蓮院義円、寺相国永隆、大覚寺義昭、梶井僧正義承の四人の中から籤引きで決められたのである。鎌倉公方足利持氏はかねて野望を抱いていたが、この時点ですでに局外者であった。
万里小路(までのこうじ)時房(ときふさ)の『建内記』正長元年正月十八日条は、黒衣の宰相醍醐寺満済のはからいにより、石清水八幡宮の社前の籤引きで前代未聞の将軍決定を行ったいきさつをつまびらかに記す。「神前御棚ニオイテ、畠山入道コレヲ執ル。再度コレヲ執ル。青蓮院ナリ」と。
その筥(はこ)に入れられたものは神慮をあらわすものと考えられていた。
幕府の陣容がととのえられ、将軍義教はただちに冷酷な武断政治を断行。そのために、室町第は“悪御所”と恐れられた。将軍の勘気にふれた者は公家、僧侶、守護大名を問わず、即刻、有無をいわせず首が刎ねられた。
関東征伐をはじめ甲斐、駿河、常陸、信濃の平定に幕政は注がれる。
血飛沫(しぶき)が上がった。馬蹄が入り乱れた。
七月、後亀山上皇の皇子小倉宮が、嵯峨野を抜け出し伊勢へ走った。南朝皇胤を奉じた朝権回復の動きは、どこへ波及していくのかだれにも分からない。伊勢国司北畠満雅は、すぐ吉野、紀伊、和泉、熊野の南朝遺臣を結集し、小倉宮を奉じて挙兵した。これに応じ、すぐさま将軍義教は五百騎の追討軍を伊勢に指し向けた。
戦場には軍馬が駆け巡った。
矢が射込まれ、血刀が肉を裂いた。
軍兵の首が飛んだ。
九月、北野社西経神人が幕府へ強訴する。それとともに、京畿諸国に土一揆が蜂起。徳政を幕府に要求した。正長の一揆である。薄氷を踏む思いで冷酷無比な将軍義教に仕える近臣たちは、なすすべもなく眉をしかめ、唇を噛んだ。
永享三年(一四三一)。
三月、幕府が紀州根来寺を襲撃した大伝法院の衆徒を鎮撫した。
四月、薄闇桜が舞った。
うちつづく飢餓、餓死の裏で、米商らは手持ちの在庫米を高値でさばこうと隠匿していた。各地諸国から京都に通じる米の運送路を阻害して、洛中の米がなくなるのを待ち、在庫米を高く売りつけようという算段である。だが、一味の謀略は露見し、門次郎ら悪徳米商人が捕らえられた。
永享五年(一四三三)。
二月、紅梅が匂った。将軍義教はその花の北野社に参籠して、一日一万句連歌を張行した。各会席は前摂政一条兼良などの公卿、管領畠山持頼らの武家、三宝院満済ら僧侶のほか、連歌の宗匠承裕らが主催。参加者には蜷川信水、祖阿、重阿、宗砌、能阿、親当ら当代の第一人者が加わった。
足利家の文化サロンの精華として、将軍義教は連歌の深い関心を示した。連歌会のある日は、その前日から興奮して眠れなかった。
永享六年(一四三四)。
六月、世阿弥(七十二歳)が佐渡へ流された。義教は、猿楽は観世元重を重用。元重は前年の春、糺河原で三日間の勧進猿楽を興行、全都の喝采を博していた。
七月、召し捕えられ牢内に縛りつけられていた相国寺の僧一人、建仁寺の僧二人が六条河原で首を刎ねられた。いずれも、同寺の喝食をなぶり者にした罪だった。『看聞御記』は同年六月十八日の条に「万人之ヲ見ル。言語道断事云々。重罪不及謂歟」と。
永享十一年(一四三九)。
二月、雪越しの日々がつづいた。
関東征伐のため東海、北陸から大軍が鎌倉を攻めた。将軍義持にそむく公方持氏は敗走。やがて、捕えられた持氏は永安寺に幽閉され自害した。いわゆる永享の乱である。ここに、関東管領家は亡んだ。
永享十二年。
一月、室町第では猿楽、田楽が華やかに張られた。正月早々、朝鮮使を引見した将軍義教は、さらに鎌倉の持氏の与党を襲った。
五月、義教は武田信栄、細川持常らに命じて、宿将一色義貫、持頼を大和の陣中に殺害。
嘉吉元年(一四四一)。
一月、雪が舞った。将軍義教は関東の騒乱に終止符を打つことができて、すこぶる意気軒昂だった。だが、なぜか、誅殺した一色義貫、土岐持頼の霊に苦しみ蒼褪めた。
五月、京都洪水、四条・五条の橋倒壊。
六月、朝から雨の降る一日、義教は関東平定の祝賀のため、西洞院二条上ルの赤松満祐邸を訪れた。五十人の走り衆(警護役)が先頭に立った。
祝宴では朱塗りの盃に酒が注がれた。派手に着飾った諸将大名や近臣とともに、将軍は満面の笑みを湛えた。関東に加え、九州も安泰、それに後南朝方と画策していた大覚寺義昭も自刃に追い込み、幕府の基盤はいっそう堅固なものになっていたからだった。
義教は能が演じられている舞台に目をやりながら、さらに一献あおった。と、その合間に一瞬、将軍のいる上段の間に、赤松家の刺客団が突進した。
襲いかかってくる黒い影に、
「何ごとじゃ」
叫ぶこともなく、目を空ろに向けた。
太刀が煌めき、鮮血が飛び散った。
烏帽子が投げ打たれ、将軍は血糊の中にのけぞってあっけなく息絶えた。嘉吉の乱である。
二日後、義教の子義勝(八歳)が病弱のまま管領細川持之の補佐のもとに家督を継ぐ。
九月、山城土一揆が蜂起。一揆陣十六カ所数万。一揆は洛外か洛内になだれ込んだ。
白昼、京の都には盗賊が徘徊。横行略奪と化した。
土一揆は土倉を攻めた。東寺の一陣は諸所に放火。洛中への出入りが封鎖される。
幕府は徳政令を侍所頭人京極持清の名で発布した。こうした嘉吉の乱直後の混乱状態について、大外記中原師郷(もろさと)の『師郷記』は「言語道断濫吹也」という。
嘉吉三年(一四四三)。
比叡の雪が眩しく光る。
幕府は徳政一揆の首謀者である塔森船渡代官山本弥郎を刺殺した。
二月、義勝が没し、弟の三春(のちの義政)が継いだ。幼い将軍のもとに、幕府の統制は揺らぐ。危機と不安がよぎる。
五月、一条兼良邸で三百番歌合せ。吉野南軍の動きが不気味な流言とし都大路を駆け巡った。
九月、はたして、かねて機会をうかがってきていた南朝の遺臣たちが御所を襲撃した。
――神器奪還の機会は、幕府のタガが緩んだこの時をおいてない。神泉苑に集結して奇襲戦略を練った三百人の南軍は、夜陰にまぎれて御所に侵入。火が放され、清涼殿が焼き落ちる。南軍は神器を奪取すると、一味は奥吉野へ落ち、一味は比叡山を目指して駆け上がった。南方謀反の首謀者は源尊秀か。
文安元年(一四四四)。
四月、花が吹雪いている。京都の地下人が酒屋、土倉を襲った。西京の住民、千日籠と称して北野社に立て籠もり、管領軍と戦った。北野社、西京が消亡した。
大雨洪水で山崩れや橋の損壊で多数が死傷する。また、大地震が起こり、神社仏閣が倒壊。内裏をはじめ東大寺戒壇院、南禅寺、十禅寺、等持院などが炎上した。
しかし、そうした中でも、宗砌らは前関白一条兼良第で三代集作者百韻を張正徹は将軍義成に『源氏物語』を講じた。また、幕府は内裏炎上で消失した新続古今和歌集を修訂。
十一月、鷹ケ峰の山路に咲く侘介椿の風情があでやかだった。
長禄元年4(一四五七)。
十月、山城国の土一揆が徳政を要求して、洛中に土倉の兵と一戦を交える。ここには凡下(ぼんげ)と呼ばれる小土豪や貧農はもちろん、小盗人、乞食法師など世の中のはみ出し者の群れが加わっっていた。
幕府から土一揆の追討を命じられた細川勝元配下の六十騎は、これに応戦。だが、しだいに後退していった。午前七時、火の手が上がる。その火は一日中燃え、七条以北条以南が焼亡した。「下極上之至、曽有者歟狼藉所行末」と、『経覚私要抄』同年十月十七日の条は記している。
寛政二年(一四六一)。
三月、土一揆は、ついに御所に放火した。
さらに、疾病飢餓が深刻化していた。死骸が京の都に満ちた。
『碧山日録』は五山派の禅僧である太極が、室町八代将軍足利義政が政権を握って十年目から十九年目までの悪政と党争、飢餓、土一揆を記載する。すなわち、「四条坊橋ヨリソノ上流ヲ見ル。上流屍無数。塊石ノ如ク磊落シ、流水擁塞シ、ソノ腐臭当テルベカラズ」。まさに、京都鴨川の上流には無数に死骸が重なり、川の流れを塞ぎ、腐臭が鼻を突くというのである。この時の京都の餓死者は八万二千人。悲惨極まる情景であった。
人々は村を逃散した。諸国から逃れ、京へ乞食となって上がってきたか何千万人いたか分からない。
将軍義政は五、六日の施行をしたが人数が多いために、その施行は中止。願阿弥という奇特な僧が六角堂の北に一町分の仮屋を建てて乞食を住まわせ、間Oに地二度の粥と味噌汁を施与したところ、これを食して死ぬ者が日に三百人、五百人にのぼった。死人は五条河原に三町ほど穴を掘って埋め、洛中の所々にも埋葬された。
新任の探題と執権は沈黙し、歴戦の武将もなすすべがなかった。
文正元年(一四六六)。
九月、十六夜に萩が揺れている。
幕府の元老は無力のまま、室町第造営のために京中に棟段銭、諸国段銭を強いる。
将軍義政は諸将の殺害を企て、酒色に溺れていった。それだけでなく、政治はそっちのけに、花卉、茶器を五山から徹底徴収。また、音阿弥の鞍馬寺勧進猿楽を糺河原で興行した。これを将軍、諸大名、摂関、諸公卿こぞって見物。室町第においては女猿楽が演じられる。
まもなく、義政は東山山荘の設立構想に夢中になり、その建物や庭の山水の美に執着していく。諸大名は幕命をきかないまま、自儘な行動をとっていた。世の秩序は乱れ切っていった。天下諸人、徳政と号して土倉の質物を取り返す。各所で暴動が起こり、雑兵や盗賊が放火を繰り返した。
―一期は夢よ、ただ狂え。人々は自棄的になっていた。
十月、室町第は庶民の祭り、猿楽、相撲、見物、寺社縁日の参詣を禁じる触れをかかげる。
応永元年(一四六七)。
五月、ついに、京都に大乱。細川勝元率いる東軍十六万千五騎、山名宗全率いる西軍十一万6千騎が、激しい戦闘を開始。この応仁の乱はもとはとえば、畠山、細川、斯波三家の家督争いに将軍足利義政の継嗣問題が重なったものだった。
市街戦が起こり、京都は戦火につつまれた。戦死者が街路に転がった。社寺、公家の邸宅が焼け落ちる。公卿僧侶は難を避けて地方に下っていった。
六月、京都百余町、三万余宇焼亡。街のほぼ半分が被災。
家臣の争いを諌められない将軍家の威信は地に落ちて」いった。しかし、将軍義政は夫人日野富子や外戚の日野勝光の専横な振る舞いに、しだいに厭世感を深めていった。国事を離れ、風雅の道にふけるとは、「世間ハ滅バ滅ヨ。人ハトモアレ我身サヘ富貴ナラバ」(『応仁記』)だったのか。
十二月、暮れになり強盗、女取り、誘惑誘拐、辻斬り。
文明二年(一四七〇)。
三月、将軍義政は室町第で猿楽。諸大名を饗応。戦乱は膠着状態に入っていた。
文明五年(一四七三)。
京都は一面の焼け野原になった。内裏をはじめ、公家武家の邸宅、自社など、由緒あるものはことごとく焼亡した。
十二月、義政は将軍職を子義尚に譲る。
骸が散乱する河原には物乞いがたむろしていた。
雪ざれの日がつづいていた。
――おお、都が寒い。
寒い都が覚策(おぼつか)ない。
そうよ。
花の将軍も、幕府も地に落ちた。
すべての権門も没落よ。
上様は戦の時も酒を飲み、女に狂い、風流三昧。
おお、天下は乱れ、ただ狂え。
おれは東福寺近くの東岡の馬切配下の足軽だった。
ふふ、略奪、ふふ、剥ぎ取り専門よ。
戦場では敵兵をつぎつぎに殺(や)った。
血と汗にまみれていつも走り抜けた。
東軍につくかと思えば、わけなく西軍に寝返った。
何? 何?
夜叉丸だと。
おれを呼ぶにはど奴だ。
おれの昔を知っているのは、いったいだれなのだ。
忘れてしまった遠い夢。
捨ててしまったおれの幻。
いうな。喚くな。おれにしゃべるな。
幼い頃、後生、大事にかかえた母の小さな骸。
ふん。闇に去った女とな。
おうよ。そんなこともあった。
一片の骸をおれは齧りつづけた。
生き延びたのよ。
夜叉丸?
何とな。ど奴だ。気安く呼ぶな。
おれに近寄るな。
そうよ。
路傍に捨てられたおれは一人の僧に拾われたのよ。
おれは夜気を裂いて生きたのよ。
現身(うつつみ)に息吹が与えられた。
だが、生きるってことが何だってんだ。
今生かくのごとくなる無常の嵐よ。
生死長夜の月の影ってんだ。
遁走れる路もなかった。
銭の布施を乞うた。
ふむ、ふむ。おれはいつしか、行脚僧となり巡礼にも出かけた。
おう、それにしても、どうしたのじゃ。
そこの人。こちの御仁。
生計(たっき)は立ったかやのう。
いやいや、住みつる浮き世に人問えば、
驚く夢の世の迷い。
花の心とよ。
心よの、山の風は。都は地獄。都は極楽。
黒は白、白は黒の五逆の世界。
わあっは、はっは。
のう、兄弟。
やい、そこな鬼丸。待て、待て。
夜賊となって幕府を襲った仲ではないか。
雲見寺の悪党として飯食った仲ではないか。
天下の大乱が終わらば終われ。
おれさまたちに、剥ぎ取るものはもう何もない。
うふふ。うふふふ。
時雨もめぐり、おれは老いさらばえた。
娑婆示現観世音。
赦してお食べ。
助けてお食べ。
弥陀誓願の浄土かや。
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