わが「対話」編集後記
●第6号(1968年8月) |
■復刊二号を送る。 永い沈黙を経て、幻のごとく花開いた季節。 この壮麗な祝祭。 「対話」発刊当時の瑞々しく透徹したその情熱を、ぼくらは、清新な文学の問題として真摯に継承する。 ■そして、新たなこの羽ばたきの夢を、ぼくら自身の存在論敵視点にまで高めよう。 峻烈なアカデミズムと奔放なる情熱との甘美な共存を、何よりのよしとする。 「対話」は常に残酷と優雅の剣をかかげる。 ■座談会「文学による救済は可能か」では、個々の存在証明からその<救済>を検討。 なかんずく、同人雑誌的空間に拠って立つべき意味を問うなら、その荒野的志向における自立の精神しかありえない、ということもまた自明の理である。 ■何も<救済>のもとに甘ったるい書生論を展開しているのではない。 日常的ニヒリズムに隠微にからまった俗悪は、もう金輪際、真っ平だ。 であれば、この、最早、はぐらかしのきかぬ<文学>を選んだことの極北的な意味を、今一度、はっきり確認しておきたい。 *社会・文学 1月、エンタープライズ、佐世保入港 6月、日大、東大紛争激化 10月、反戦国際統一行動デー 12月、3億円事件 辻邦生「安土往還記」 三島由紀夫「文化防衛論」 杉浦明平「渡辺華山」 ●第7号(1970年3月) ■五年前、八年振りに「対話」が復刊された。 奈良・生駒の旅館で総勢二〇名も集まり、夜を徹しての討議は白熱した。 その後、高橋さんは上京。編集委員の石倉、橘さんとは月に二、三回梅田界隈で会った。 会えば、地下街に居酒屋、曽根崎通りのスナックやOS劇場と回った。 ■或る夜、やはり梅田で少し飲み、その勢いで石倉さんが 「おい。小松んとこへ行こう」と言った。 尼崎の小松邸に駆けつけると、また酒になった。 小松さんはサインした新著をくれ、いろいろもてなしてくれた。執筆やその他のことで多忙のようだった。 ■その深夜の帰りの車の中で、石倉さんは、 「対話はこれからや。対話はマイペースでやっとる!」 と実に悠々たる口調で言った。 ■高橋さんが吹田にでもいれば、またタコ焼きでも持って議論を吹っかけに行ったのだが、それもできず、むしょうに淋しい頃だった。 ■ーーだが、二年後、高橋さんは京都に舞い戻り、読書会・研究会とふたたび「対話」の、おもえば蜜月時代がはじまったのだ。 爾来、「マイペースでやっとる」と、ぼくはいつも自信をもって独語している。 *社会・文学 1月、京都の各大学に学園紛争激化 3月、日本万国博開催(9月閉幕) 3月、日航機よど号事件 3月、高橋和巳、京大を去る 11月、三島由紀夫自決 高橋和巳「白く塗りたる墓」 埴谷雄高「闇の中の黒い馬」 古井由吉「杳子」 倉橋由美子「夢の浮き橋」 小川国夫「試みの岸」 ●第8号(1971年12月) 高橋和巳追悼集 *社会・文学 5月、高橋和巳死去 6月、沖縄返還協定調印式 三島由紀夫ブーム 梅原猛「隠された十字架」 李恢生「砧をうつ女」 辻邦生「嵯峨野明月記」 高橋たか子「共生空間」 吉本隆明「源実朝」 ●第9号(1973年8月) ■復刊号を出してから八年、これで5号となる。 相変わらず、「対話」は、ニタニタと不適な微笑を浮かべながら、牛歩的刊行に甘んじているというべきか。 ■--凡百の同人雑誌、凡百の同人雑誌論のある中で、そのありうるべき意味について、今一度、改めて考えてみたい。 *社会・文学 1月、ベトナム和平協定 6月、ベ平連、経団連へデモ 小松左京「日本沈没」 中上健次「十九歳の地図」 高橋たか子「失われた絵」 森敦「月山」 梅原猛「水底の歌」(第1回大仏次郎賞) |