武州残月記


 
天正十七(一五八九)年十二月五日。

武州岩月城主太田氏房は、神社に黒の馬を納め、冥利冥感を抽んがために祈願。内山弥右衛門尉には、本陣に備え妻子を岩月大構に入城させ、さらに兵糧の納入を命じた。<br> 江戸から十里、武州岩月はもともと武蔵七党の一つ渋江氏の所領であったが、長禄元年(一四九二)、太田資清が京の足利幕府に反旗をひるがえす古河公方足利成氏に対して築城。東北から東南部に流れる元荒川の流れを外堀に、台地と低地を巧みに組み合わせた自然の要塞を巡らせていた。<br> 葦の茂った沼地に鶴が舞い降りたような美しさを誇る平城で、別名、この典雅な城は白鶴城ともいわれた。爾来、北の藩屏として重要な任を果たしてきた。  

天正十八(一五九〇)年正月九日。

天下統一を期した関白秀吉は、ついに上杉景勝に小田原城征伐を告げる。<br> 側近の祐筆、木下半介吉隆が上意を受け、書状の形式で内意を下達。<br> 関東の覇者、名門の北条氏が誇る、かつて上杉謙信が攻め喘いで引き上げた難航不落の小田原城。一カ月、二カ月で落ちることなど、むろん秀吉も考えていない。<br> じっくりと包囲戦で迫ろうとするものだった。

天正十八年一月二十九日

小田原城主北条氏政は城塁を修築し、糧食・弾薬をたくわえ、八州の将士に部下をとどめて、城砦を守らしめた。その兵力五万六千七百人。小田原城を中心に関東全域には九十もの城が点在している。<br> 太田氏房は岩月城を出発。梅花が匂っていた。ただちに、春日左衛門尉、河合出羽守浜名ほか三千騎を引率し、小田原城に楯籠る。<br> 小田原は、さすが大国で、五世にわたって君臣の情宜あり、忍城主成田長康、鉢形城主北条氏邦も小田原にあり、美濃守氏規は韮山を、陸奥守j氏輝は竹浦を、左衛門太夫氏勝は山中を守った。<br> だが、味方と確信していた頼みの家康は大坂につき、伊達政宗との結びもうまくゆかないまま、奥州の諸藩はすべて秀吉に応じ、北条氏は完全に孤立した。<br> 城主氏政は籠城作戦をとった。そのため、城周辺の田畑を悉く焼いた。秀吉軍は兵糧が尽き退却するだろう。戦に負け知らずの氏政は安易に考えていた。

  天正十八年三月十五日<br> 関白秀吉の陣触れに応じた約二十五万の軍勢が、いっせいに相模国小田原に進撃。 <br> 関白、徳川家康を先鋒におのずから将として来攻。華麗な大作戦が展開された。<br> 大軍は湯元から小田原にすすみ、小田原城を俯瞰できる笠懸山に陣を取ると、ここに石塁を築き、石垣山の陣と称した。<br> そして、ここに巨大な城が一カ月でつくられた。世にいう一夜城である。<br> 進撃が続けられた。<br> 関白軍は山中城を破る。<br> つぎに竹浦城を陥し、後北条氏の支城はつぎつぎに陥落していった。五月、秀吉は陣中にあって、毎日のように茶の湯を催し、諸将を招待した。御茶頭(おさどう)の千利休も同道。戦乱の合間の茶一服。大名衆も茶の湯の小屋掛けを張った。秀吉は淀を連れ、また諸将は妻妾を連れてきていた。茶会のほか、能、狂言も演じられた。<br> 兵糧奉行は前線基地への兵糧の補強に勤め、二十万石の米を送っていた。これは二十二万の兵が十カ月、もちこたえられることである。<br> 一カ月もすれば兵糧が尽きて、秀吉軍は退却する。<br> そう踏んだ北条氏の籠城作戦は見事にはずれた。 それにしても、武蔵野の果てに転戦する錦の直垂(ひたたれ)の武将、古田織部とは何者なのだろう。虚堂(きどう)の墨跡、囲炉裏は四寸、5徳に真釜を据え釣瓶水指、井戸茶碗、たしか過ぐる年の京の大茶会に招かれた噂の端武者。

天正十八年四月五日

秀吉は北条氏降阪に百万手をつくし、黒田孝高、羽柴勝雅に命じ、北条氏政の弟である岩月城主太田氏房を説かしめた。<br> 桜花が満開だった。<br> 今のうちに降伏すれば、二国を当てがって、先祖の祭祀が出来るよう家の存続を叶ってやるーー。もとより氏房はその話を断った。<br> 武蔵の国を治める後北条家の誇りは高かった。

天正十八年五月二日

秀吉、武蔵国太田之庄の大秀院と末寺、同忍之内の浄土院に、軍勢の乱暴狼藉停止など三カ条の禁制を出した。

一、軍勢甲乙人等乱暴狼藉事。

一、対地下人百姓、非文之儀申懸事。放火事。

右条之、堅会停止訖、若於違反之輩者、忽可被処厳科者也。

  今日も、秀吉は白地若松模様辻ケ花染胴服で、茶の湯を楽しんだそうだ。    天正十八年五月七日<br> 月が中天にあり、岩月城は冴え反っている。さすが、武蔵国の名城であった。<br> 蓮池のほとりにある瀬戸茶屋のまわりに咲き乱れる山吹。本丸より離れた奥山里の趣きの茶庭。<br> 岩月にはそのかみ、百韻、百五十韻をはじめ、祝言法楽連歌、月例歌会、また能楽一座が招かれていた。またの日、権大納言藤原尚顕卿をはるかに招き、詩歌の宴を開いたこともあった。京から下った連歌師が、志ある人のために諸種の会を催していたともいう。<br> 代々、城主は和歌を愛し、琵琶を嗜んだ。<br> 本丸中央の曲輪に囲まれた御殿。その奥座敷の一画にある唐櫃の中に収められているのは武器や衣類、御小袖、白陵のほか、掛物、巻物、書画にまじって、王朝詞華集、五山の碩学詩文章の類が渦高く積まれているということだ。<br>「菊若、元気にいたせ」<br> 天下の軍(いくさ)戦に、武将の悉くを連れて小田原援軍に駆けつけた初春月。<br> それが、御屋形様の別れの言葉であった。<br> 紫の羅背板に白、黄、緋、萌黄、浅葱の五色の羅紗で大小とりまぜた水玉模様のあでやかな陣羽織。裏裂は白地一重蔓牡丹唐草文様金入綿、。まさに、一念三千の花薫じた決然たる出陣であった。<br> 城主氏房を送り出した後、小姓菊若丸は、なぜか姿を消した。<br>

  天正十八年五月十日<br> 留守居役伊達房実の籠る岩月城は、夕陽の中に静かに一日を終わろうとしていた。<br> 残された馬廻、わずか三百五十騎。毎日、軍評定が開かれた。侍大将の浅倉綱茂、内藤晴持をはじめ、小座敷衆の室伏義隆、高杉重矩、小奉行の阿部隆康らは沈痛の面持ちを隠せなかった。<br> 家臣団の不安と動揺に日に日に昂まっていった。<br> 夜、月、冴える。<br> 御厩跡で上臈の一人が、何者かに斬殺された。

天正十八年五月十一日

武蔵、相州模の後北条氏の支城は、つぎつぎと陥落。<br> 残すところは松井田城、韮山城、鉢形城、忍城、岩月城だけとなる。<br> 岩月城本丸には御茶屋曲輪、御成門。二丸に竹沢曲輪、大神曲輪、天神社、明戸口、武具蔵二カ所。そして、内外の郭、三つの櫓台、二つの城門。東北の大川の流れ、東より南へ堀を設け、深田をもって要害とする。<br>「いかがなものか」<br> 老いた武将の一人が言った。<br> 力のある若い兵はおおかた小田原詰である。<br>「おお、つぎつぎと陥落」<br>「この戦力で、どこまで持つか・・・・」<br>「ふむ。最後まで守り抜くしかあるまい」<br> 襲来する馬蹄の響きは、すぐ近くに迫っていた。<br>

  天正十八年五月十九日

関白秀吉軍は破竹の勢いで迫った。<br> 本田忠勝、鳥居彦左衛門、平戸七之輔、浅野長政、木村常陸介、同弥右衛門は、午の刻、一万三千を率いて岩月城に雪崩込む。<br> まず、花積台に矢櫓を組み城内を見下ろしたが、どこも手薄だった。<br> 追手からは大将本田忠勝、浅野長政、新曲輪から鳥居元政、平岩主計が討ち入る。明戸口からは、いずれも南辻八幡宮境内で具足をつけた大軍が雲霞のごとく攻め入った。 <br> 長政の嫡男左京太夫幸長は、今年十五歳。追手門車橋の上に立って勇を振るって奮戦。本田忠勝の子平八郎忠政は、今年十六歳、太刀振りかざし馬上で激戦。<br> 迎え打つ城代伊達達実ら千の兵は、千々に乱れた。<br> 死闘が繰り返された。<br> 血しぶきが上がった。<br> 生首が転がった。<br> 岩月城預かり妹尾下総主は、たちまち軍兵に囲まれ、忠政の刃に蹲る。<br> つづいて、主なる諸将も斬り倒れた。<br> 敵見方入り乱れ闘う中、紫色の振袖に襷十字のひときわ目立つ前髪立の美少年、菜女図書之輔も血に染まった。<br>

  天正十八年五月二十日

 浅野長政が城外へ火を放った。<br> 忠勝の旗奉行三宅理右衛門、鈴木九郎右衛門、車橋から城門へ先登し、旗押し立てて攻め入っていった。<br> このとき、倒れた者、寺内喜兵衛門、安藤孫四郎、一宮左太夫ら二十五人。手傷を負った者、四十人余。<br> 一方、岩月勢は敵兵の前に、家老月景玄藩ら五十六人討死。

天正十八年五月二十一日

晴天。辰の刻、怒号が渦を巻いて、本丸に殺到した。 <br> 城兵は討死。手傷を負った者は、首を刎ねられた。<br> 元荒川が赤い血で染まった。<br> 未の刻になり、この三度の闘いでさしもの岩月城も、ついに陥落。梅樹鶯蝶金付の赤絲大鎧の伝わる、そのかみ備中守に任ぜられ鎌倉扇谷杉本持朝に仕えて六代目、関東の覇者とうたわれた名家もここに断絶。<br> 時を同じうして、岩月の近くの寿能城、伊達城、太田窪城、伊奈城も落ちた。<br> 岩月城内には町人、百姓、女、太田氏房の妻子眷属は二丸の警固。関白からは、本田忠勝、鳥居彦左衛門、平岩七之輔に、「女子共は悉此方へ可差越候。引散候者可為越度候。委細両三使可申也」と挨拶があった。<br> この手紙に副え、熨斗目付の脇差を忠勝は賜った。<br>

  天正十八年五月二十三日

 二丸孔雀図刺繍屏風の陰で、終日、氏房の正室小少将の眉が翳った。枝垂桜の花籠聯模様小振袖が涙で濡れた。<br>

  天正十八年六月十日<br> 未明、氏房の嫡子幼い安王丸、春王丸、二丸から連れ出され切腹、斬殺。<br> 嵐月更け、城落ちた跡の草堂で、誰知らぬ読経。

  天正十八年七月五日

 小田原城、陥落。城主北条氏直は自ら城を出て、黒田孝高を頼り助命。<br> 氏政、氏照、および老臣大道寺政妹、松田憲秀の四人自刃。十四、五日頃秀吉、岩月へ行くべく普請など油断なくもウシ申しつけられた。

  天正十八年七月十五日<br> 北条氏直は家康の女婿にて、紀伊高野山に放たれる。<br> 氏房公の消息は依然として杳として分からない。<br> 関東平定され、噂には<br> 徳川家康の江戸入府もまもなくらしい。<br> 岩月、落城の城跡に夏草繁るゆめまぼろしの仮の世。朝の紅顔、夕べ白骨となり郊原に朽ちぬーー。

天正十八年九月二十一日

城落ち、戦火を遁れた真厳院の書庫。<br> 古文書の類の中から岩月城関連書写とともに、歌書の一束が見つかった。<br> これまで人の噂に聞いていた蓮青院入道太田氏房の『残月百韻』。<br> これぞ、「軍策武略は更なり。風雅優美且つ和歌に名だたる事跡」と、関東の名家上杉氏の重臣の血の中に連綿と流れつづけてきた歌ごごろであったか。

   秋の夜の月のかつらの花盛りさそふ嵐のなき世なりせば

たれうゑてよよのかたみを残しけんおりしるものの袖の白露

あはれてふ幾年なれぬ山里の月に泪にいかで落らん

 「右百首相州鎌倉比企寿雲寺伝写之。献藤左府二条殿。者也。天正十三年十一月下旬七日」と判読された。

  天正十八年九月二十五日

今夜も武州岩月、山里の月が美しい。

天正十八年九月二十七日

月、煌々と冴える。ああ、月よ



『月光』1989年10月号所載