同人雑誌『対話』復刊



同人雑誌『対話』復刊号は、1966年(昭和41年)6月に第1号(通巻第5号)を出した。
「座談会:戦後文学の批判と展望」は夜を徹しての高橋和巳、小松左京、三浦浩ら同人の熱論。高橋和巳は分厚い雑誌にしようといったが、編集実務に1年余、僅か102ページのものとなった。 
『対話』」は以下の前史を持っている。


1949年(昭和24年)、学制改革により新制京都大学文学部に入学した高橋和巳は、ただちに京大文芸同人会を結成。これが改称されて京大作家集団となり、高橋和巳の文学運動の原点となった。
構成メンバーはトロッキスト、社会民主主義者、アナーキスト、芸術至上主義者、デカダンなど、同時代の他の集団からは「近寄りがたい異端の集団」であった。
高橋和巳はここではいちばん年若の18歳、酒を飲んでは泣き、仲間から"泣きの高橋"といわれた。
作家として生きるべく固い信念に燃え、社会主義リアリズム派であることを強行にかかげた。


そうした仲間の中へ、京大細胞の機関決定のもとに、近藤龍茂、小松左京が公然と加盟。
高橋和巳と小松左京は何かと馬があった。
だが、文学集団は四分五裂し、やがて潰滅した。
1956年(昭和31年)10月、かつての仲間約60人に呼びかけて、『対話』が創刊される。仲間の再統合をはかる高橋和巳の思いは、作家志望への志とともに熱く燃えたぎっていた。 


第1~4号は以下のよう発行された。
・第1号(1956年10月)
・第2号(1957年2月)
・第3号(1958年8月)
・第4号(1959年5月)


高橋和巳は率先して、規約原案を起草、同人の礼儀、あるべき会の組織、編集方針、会計など真剣に考えた。
そして、出来上がった雑誌を各大学へ売りに行き、書店販売の交渉にも当たった。
正式同人は17名。だが、常時例会に出てくる者は7、8人という有様の上、第4号に掲載されたあかしごろうの「京都一九五二年夏」をめぐって、高橋和巳、小松左京のあいだに熾烈な論争が行われ、ついに廃刊を余儀なくされてしまう。


1962年、立命館大学文学部講師だった高橋和巳は『悲の器』で第1回文藝賞を受賞。文壇にデビューした。小松左京もSF界で活躍しようとしていた。
こうした中で『対話』復刊について、具体的にどのような経緯があったのか、私はまったく知らない。
実際に「いよいよ新しい雑誌を出すことになった。」と聞いたのは1964年11月、大阪・吹田のマンションへ遊びに行ったときで、
「君も参加し、ぜひ小説、評論を書いておくように」
といわれた。
その後、若い人たちにも参加してもらうので、君のほうでいろいろ声をかけてほしい、ということだった。
私は京大、同志社、立命、龍谷などの友人に連絡した。


復刊についての第1回会合は1965年5月8日(土)、大阪・靭公園脇の大阪科学技術センター7階ロビーで開かれた。
高橋和巳、小松左京ら7人にわれわれの仲間では太田代志朗、林廣茂、岡部範黎が出席。
「分厚い雑誌を作りたい」と高橋和巳は強く主張。
編集委員に石倉明、橘正典、それに高橋和巳の推薦で太田代志朗。原稿締め切りは6月末とする。


しかし、その6月末に原稿は集まらず、会合や編集会議も当初の意気込みと違って集まる人数も少なかった。
8月になり、生駒・宝山寺前の旅亭たき万に泊まって、座談会「戦後二十年の文学について」を行う。
第一次同人の総結集といった意気込みで、その座談会は白熱した。


これを機に活動は加速していく。
座談会のテープは4日間かけ、苦労して私は原稿に起こした。ヘトヘトに疲れたが、楽しい仕事だった。いい勉強になった。これも猛者連のしごきの一つだったか。
まもなく、梅原猛先生も参加。1度、先生の運転する車で京都から宝山寺の宿に向かった。
先生の車の運転はお世辞にもうまくなかった。
宝山寺・たき万では皆んなでよく騒いだ。酒を飲み、花札に興じた。


『対話』復刊号は次のように発刊されている。
・第5号(1666年6月)
・第6号(1968年8月)
・第7号(1970年3月
・第8号(1971年12月)
・第9号(1973年8月)


もともと『対話』は、京大作家集団などの猛者の集まりだった。
復刊はその再統合をはっかた高橋和巳の夢と志であった。
だが、高橋和巳、小松左京という花形スターを生み、しかも各界で生業何かと慌しい中では、同人たちの思い入れも、各人各様だった。しかも、われわれ若手が、ひとえに高橋和巳関連で加わっていることについては、1部それなりの違和感があったようだった。
「高橋和巳は勝手に若者を連れ込んでいるが、何事ならん」
というわけである。


会合や読書会に出て来るメンバーも自ずと決まっていった。
1967年4月、京都大学助教授に赴任し、鎌倉から再び京都に舞い戻った高橋和巳は、月例の読書会を率先して開催した。場所は円山公園の”いふじ”などで、若手は20人、30人と集まった。風呂で挨拶された者まで加わるというふうだった。

 
若き京都の文学青年たちいでよーー高橋和巳は励ましてくれた。
だが、おかしなもので何らかの学閥的な雰囲気を感じたのか、田中博明ら京大生は2、3回出席してもう来なかった。


われわれにとって(いや、私というべきだろう)『対話』は、高橋和巳とその文学ゆえにあった。
私はそのために、乾坤一滴、歯を食いしばりいいものを書こうと努力した。
本来の同人雑誌であるというより、今から思えばそれは私にとってまぎれもない一つの高橋塾であり、そのための修業道場であったのかもしれない。
同人雑誌というなら、すでに私は「序説」などで離合集散は経験ずみのことだった。


『対話』編集制作の雑務のすべてを引き受けることは、苦痛でなく、無上情に楽しかった。
猛者連の文学への情熱と覚悟の鮮烈なシャワーを浴びたのである。


だが、その後の学園闘争が、高橋和巳をいやがうえにも巻き込んでゆく。
そして、1971年5月。 
全共闘のアイドル作家の死は、文壇以上の風俗的現象をともなっていた。
義と志に殉じた作家の死に、若者たちは慟哭した。本は飛ぶように売れた、という。


ところが、高橋和巳が亡くなり、『対話』に関わったわれわれ若手の存在が鬼子のように扱われていくのには、正直いって驚いた。早く発言力を持たねばならなかった。
また、文壇ジャーナリズムとやらの動きに微妙に対応しつつ、高橋和巳が去ってしまうと『対話』は京大作家集団系列の雑誌であり、復刊時代の活動を十分に検証しないまま、スポークスマン的に声高に論じる御仁には、もう恐れ入るしかなかった。
その無神経さと自己顕示にはまいった。
さもあらば、あれ。
内なる高橋和巳がそれで変貌したわけではないのだから。


後年、新聞ジャーナルストを経て大阪芸術大学教授に赴任した石倉明氏は、あんがいそこらを冷静に見てくれていたようだ。
小松左京さんとは、いつだったか、赤坂のお座敷に上がって飲んだことがある。
「対話は、一度閉じるか。それから出直すか。どうするか。おい、真剣に考えろ。いい加減にやとったら、承知せんぞ」
小松さん早口で言った。
その時、小松さんは同じ土俵で話してくれたのだ、と思った。
それは高橋和巳没後25周年のときに出す本のことでもそうで、直に会って話してみると、
「よし、分かった」
とこころよく理解してくれたのだった。


20代半ばの疾風怒濤。
『対話』における高橋和巳との蜜月時代は、いまなお私の内で輝いている。


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