「うざい」全共闘世代よ。

文藝春秋のオピニオン雑誌『『諸君』3月号には、小特集に「全共闘世代が日本を滅ぼす」として大塚将司氏(日本経済研究センター主任研究員)の「大手マスコミを巣食う・全共闘世代よ、早く消え失せろ」、また仲正昌樹氏(金沢大学教授)が「あんたたちが『下流社会』化の元凶だ」と論陣を張っている。

前者は新聞ジャーナリズムにおける現場検証で、この団塊・全共闘世代は、没個性、徒党を組む、異質の排除、リーダーシップの欠如、無責任な体質、被害者意識、過剰な意味づけなどのレッテル通りで、アナキズムの洗礼を受けて国家意識が欠如していることを指摘する。つまりこういう日本をダメにした連中が定年延長を叫び、還暦後ものさばるのは百害あって一利なしと一刀両断している。

同じく学会アカゼミズムにおいても、かつての左翼スタンスを持ち、今やステレオタイプ化した台詞しか吐けない一団が教員ポストを占領、「己の過去を美化する余り、未だに反権力を叫ぶだけの年寄りはうざい」と論壇している。

【2006年2月10日】


そういえば、高橋和巳における小説は処女作の『捨子物語』をおけば、『憂鬱なる党派』に代表されるように、そのほとんどの小説は組織内の苦闘と反権力闘争の苦渋に大きな主題を持っている。

それは学生時代、学内の京大作家集団に属して、若く「作家」になることを決意し、芸術派の一団とは袂を分かち「社会主義リアリズム」を強く表明した文学者の生き様であったといえる。

その高橋和巳が誠実に自己の文学の問題として、全共闘運動に加担していったことは運命的なものであったにしろ、その後のソ連邦崩壊など覇権主義国家の解体を経て、文字通り「近代文学」は終焉したのであった。

そして、今、大きく問われているのは、高度情報化社会やITバブルに象徴される豊かな良質の暮らしの中で、かつての共闘世代が愚昧な官僚的な立場を固執し、国家観、歴史観の喪失者として「うざい」存在になっているということである。そこには「日本を思想や理念と無縁の社会」にしてしまったという世代の害悪が指摘されてもいる。

若い世代からは、「自己弁護的な新左翼おじさん、あんたたちが“下流社会化”の元凶だ」といわれ、気分は全共闘でも、現在の保守論壇を席巻しているというのである。無論「全共闘世代」を十捉一絡げにすることはできないにしても、いったいこの場におよんで何が「反権力」であり、何が「ポストモダン的な混迷状況」か。

「歪んだ世界像」を刻印されているこれらの一群。
つまり、無節操に増殖する文化左翼によって支えられた文学者など何の意味があるだろうか、ということになるのである。

高橋和巳は、まぎれもなく全共闘世代によって愛読されたのであった。
とすれば、とりもなおさず、今、高橋和巳に関わってゆくということは最早センチメンタリズム以外の何ものでもないのかもしれない。
わが哀愁と孤独の宴。

【2006年2月14日】


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