高橋和巳略年譜

作成:太田代志朗

 

1931年(昭和6年)
8月31日 大阪市浪速区貝柄町11番地で生まれる。
      父秋光、母トミエの2男。父は建築金具の町工場を経営。
      この年、満州事変起こる。

1938年(昭和13年)
4月    大阪市恵美第三尋常小学校入学。

1945年(昭和20年)14歳
3月    第1回の大阪大空襲のため家屋・工場焼失。焼け跡を彷徨う。
      恐怖と飢餓の日々。この焼け跡が高橋和巳の原風景となり、神経質な
      少年時代を過ごすことになる。
8月    終戦。
10月   一家は母の郷里である香川県三豊郡大野原大字5475番地に疎開。
      香川県立三豊中学校(現・観音寺第一高等学校)に転入学。
 
1946年(昭和21年)15歳
10月   大阪の焼け跡に戻る。バラック建ての窮乏生活。
      今宮中学3年に復学。

1948年(昭和23年)17歳
4月    旧制松江高等学校文科乙類入学。

1949年(昭和24年)18歳
7月    学制改革により、新制京都大学文学部に入学。京都に下宿。
10月   三浦浩・豊田善次・北川荘平・石倉明・三上和夫・太田昭和らと
      京大文芸同人会(のちに京大作家集団と改称)を結成。
      仲間のあいだで芸術派に対抗して「社会リアリズム」を強調。
      18歳の高橋和巳が最年少で、よく泣いた。”泣きの高橋”だった。

1950年(昭和25年)19歳
      小説「片隅から」(「京大作家集団作品集」第3号)。
      後年、加筆訂正され、「あの花この花」として発表。

1951年(昭和26年)20歳
4月    2年間の教養課程を終え中国語中国文学を専攻。
      主任教授は吉川幸次郎教授。
10月   佐々木一郎・宮川裕行の呼びかけに応じ、牛尾侑・橘正典らと
      同人雑誌「土曜の会」創刊。
      同誌は「アルク」と改題され、小松左京・高田宏・三島裕一らも加わる。
     「月光」「淋しい男」を発表。

1952年(昭和27年)21歳
6月    破防法反対闘争の処分に抗議して、学長室前でのハンガーストライキに参加。
10月   小松左京・近藤龍茂・宮川裕行らと同人雑誌「現代文学」創刊。
      同誌に長編「捨子物語」の発端三章を発表。

1953年(昭和28年)22歳
      単位不足で留年。
6月   「薮医者」(「アルク」第七号)。
      後年加筆訂正して「日々の葬祭」として発表。
10月   父秋光死去(47歳)



1954年(昭和29年)23歳
3月    京都大学文学部文学科中国語学中国文学専攻を卒業。
      卒業論文は「『「文心雕龍』文学論の基礎概念の検討」。
4月    大学院修士課程に進学。布施市立日新高等学校定時制講師となる。
11月   岡本和子(高橋かず子)と結婚。
      布施市吉松蔦崎町110番地・布施アパートに住む。
      この年、文学界新人章に応募せしも落選。
      石原慎太郎の「太陽の季節」入賞。
      これによりオートバイに乗る湘南の青春に比べ「憂鬱なる世代」を標榜。



1955年(昭和30年)24歳
3月    日新高等学校定時制講師を辞め、和子夫人の実家
     (京都市上京区等持院北町8)に住む。
      当初の原稿はすべて和子夫人が清書した。

1956年(昭和31年)25歳
3月    京都大学大学院修士課程修了。
      論文は「顔延之謝霊運」。博士課程に進学。
10月   同人雑誌「対話」創刊。これは文学仲間である石倉明・北川荘平・
      小松左京・橘正典・豊田善次・宮川裕行らによびかけたもので、
     「京大作家集団」「ARUKU」「現代」を糾合する 形のものだった。

1957年(昭和32年)26歳
3月   「文学の責任」(「対話」2号)

1958年(昭和33年)27歳
4月    吹田市大字垂水1815の豊津住宅協会アパート1階20号室に転居。
      これは和子夫人の仕事関連で大阪に決め、父君の力添えによる。
6月   「捨子物語」を足立書房より自費出版。
8月    中国詩人選集「李商隠」(岩波書店)刊。



1959年(昭和34年)28歳
3月    京都大学大学院博士課程修了。論文は「陸機の伝記とその文学」。
4月    立命館大学文学部中国文学科の非常勤講師となる。これは白川静教授の
      強い推薦によるもので、梅原猛らと親しくなる。現代中国語を担当。
      2部(夜間)も受け持つ。担当講座は中国語だけなくでなく文学論を
      望むも叶わず教授会はよくサボる。奈良本辰也教授・文学部長からは
     「二足の草鞋ははける」と励まされる。
      多田道太郎・山田稔主宰の「日本小説を読む会」に参加。
      富士正晴主宰の雑誌「バイキング」に参加。
     「憂鬱なる党派」を同誌に断続連載(18~22号)。



1960年(昭和35年)29歳
4月    立命館大学文学部講師となり、
      ①中国語学講義②中国語学特殊講義を担当。
5月    小説「老牛」(「バイキング」)。
      安保闘争激化。
6月    杉本秀太郎ら京都大学大学院生を中心とする雑誌「視界」に参加。
      同誌創刊号に「表現者の態度-司馬遷の発憤著書の説について」
8月   「新中国の長編小説について」(「新潮」8月号)
11月  「表現者の態度-職業としての文学の誕生」(「視界」第2号)



1961年(昭和36年)30歳
3月   「逸脱の論理-埴谷雄高論」(「近代文学」)。
4月    京大人文科学研究所桑原武夫を班長とする文学理論研究会に参加。
      上山春平・樋口謹一・加藤秀俊・牧康夫らのメンバーを知る。
      「竹内好論」(「思想の科学」)
      のちに「自立の精神-竹内好における魯迅精神」と改題さる。
     「中国の物語詩」(「無限」夏季号)。
7月   「非暴力の幻影と栄光」(「思想の科学」)。



1962年(昭和37年)31歳
9月    中国詩人選集「王士禎」(岩波書店)刊。
10月   長編小説「悲の器」が第1回文芸賞を受賞。
      選考委員は福田恒存・埴谷雄高・野間宏・中村真一郎・寺田透。
11月  「悲の器」(河出書房新社)刊。
     立命館大学の「広い小路文学」に顧問就任。



1963年(昭和38年)32歳
5月   「文学の責任」(河出書房新社)刊。
7月    岡田光治脚色・大山勝美演出でテレビドラマ「悲の器」(TBS)
     「戦後文学私論」(「文芸」7月号)
     「散華」(「文芸」8月号)
     「苦しむ才能-井上光晴論」(「新日本文学」9月号)
     「失明の階層-中間階級論」(「中央公論」10月号)
     「孤立無援の思想」(「世代・」111号)
     「日常への回帰」(「文学」11月号)
     「仮面の美学-三島由紀夫」(「文芸」12月号)



1964年(昭和39年)33歳
7月    生田直親脚色・大山勝美演出テレビドラマ「散華」(TBS)
     「京都の文学青年達」(「新潮」8月号)
     「戦争文学序説」(「展望」12月号)
12月   立命館大学文学部講師を辞職
     (実質的に6月以降は学校に出ず執筆に専念)



1965年(昭和40年)34歳
1月    長編「邪宗門」を「朝日ジャーナル」に連載開始。
     「現代の地獄-野間宏」(「文学」2月号)
5月    同人雑誌「対話」復刊発足。
      大坂科学技術センター7階ロビーにて設立会合。
      石倉明・牛尾一男・北川荘平・小松左京・瀬谷欣一・橘正典・豊田善次
      三上和夫、若手組に太田代志朗・林広茂。
      編集委員に石倉明・橘正典・太田代志朗。
8月    同誌座談会「戦後文学の二十年」(復刊第1号所載)を
      奈良・生駒の旅亭”たき万”で行う。 
     「堕落-あるいは、内なる荒野」(「文芸」6月号)
     「あの花この花」(「文学界」9月号)
9月    鎌倉市二階堂理智光寺748に転居
     「日々の葬儀祭」(「日本」10月号)
11月  「憂鬱なる党派」(河出書房新社)刊

1966年(昭和41年)35歳
1月   「日本の悪霊」断続連載
4月    明治大学助教授就任、①中国文学研究 ②日本文学講読 ③日本文学演習を担当。
5月   「孤立無縁の思想」(河出書房新社)刊
6月    同人雑誌「対話」(復刊第1号)刊
      この夏から、中国に毛沢東発動による10年間にわたる文化大革命。
10月  「邪宗門」上 、11月「邪宗門」下(河出書房新社)刊



1967年(昭和42年)36歳
4月   「朝日ジャーナル」特派員として、文化大革命中の中国を2週間視察。
6月    明治大学助教授辞職、京都大学文学部助教授に就任。
      京都行きに夫人は大反対した。
      ここには「君の詩を一そう光りあらしめるべく」との恩師吉川幸次郎の
      強い計らいがあった。京都市左京区北白川追分町六・川島方に仮寓。
      単身赴任の不規則な生活がはじまる。
      京都在住とともに、「対話」の読書会が月例で行われる。
      ゲストに梅原猛、鶴見俊輔、岡部伊都子、真継伸彦氏ら。
7月    短編集「散華」(河出書房新社)刊
9月    ソビエト旅行。
     「暗殺の哲学」(「文芸」9月号)
10月   エッセイ集「新しき長城」(「河出書房新社」)刊
      長編「我が心は石にあらず」(新潮社)刊



1968年(昭和43年)37歳
1月    生駒”たき万”にて太田代志朗らと雪の夜明けに2日間ぶっ通しの開帳。
3月   「捨子物語」(河出書房新社)刊
8月   『対話』(復刊2号)刊
10月   長編「黄昏の橋」連載(「現代の眼」未完)
      この年、東大闘争、日大闘争をはじめ、全国的に学園闘争がはじまる。



1969年(昭和44年)38歳
1月より、 京大学園闘争はじまる。
      全共闘運動に加担、しだいに教授会などから孤立。
      孤立するまま、”若者たちのアイドル”となっていった。
2月   「対話」読書会に鶴見俊輔氏。 
3月   「孤立の憂愁を甘受す」(「朝日ジャーナル」3月9日号)
4月   「闘いの中の私」(「叛逆への招待-大学」京都出版会)
5月    佐賀大学、長崎大学、熊本大学で講演。
6月    エッセイ「わが解体」連載(「文芸」6~11月号)
7月   「対話」の読書会「文学理論の研究」(於:新島会館)
      極めて体調勝れず鎌倉から駆けつける。終わると二次会、三次会は
     「権太郎」、「梅鉢」、「ヴィヨロン」などが定コース。
      学園闘争に加え、べ平連のデモも盛んだった。
8月   「孤立と憂愁の中で」(筑摩書房)刊。
10月   京都で倒れ鎌倉に帰り、聖路加国際病院に入院。
      病名分からぬまま退院。
12月   国立劇場で三島由紀夫の『椿説弓張月』を観劇。好きな酒も止めて養生。



1970年(昭和45年)39歳
3月    京都大学文学部助教授を辞職。
      小田実・開高健・柴田翔・真継伸彦らと季刊同人誌『人間として』発刊。
      同誌に「白く塗りたる墓」第1部発表(350枚)
     「対話」(7号)刊
      太田代志朗の長男に「遥」と命名。また頃、特注生ローヤルゼリーをよく持参。
      赤軍派メンバーによるよど号事件、当日鎌倉の高橋家。
4月    東京女子医大消化器センター入院。胆嚢の裏にある上行結腸癌の手術。
      これは最期まで本人には知らされず、見舞客には「急性の肝炎から
      慢性の肝炎」になったと話す。
6月    退院。
9月   「三度目の敗北-闘病の記」(「人間として」第3号)
10月  「内ゲバの論理はこえられるか」
     (「エコノミスト」10月20、27日、11月3日号)
11月   三島由紀夫自殺、衝撃を受ける。
      病床で三島由紀夫に関するインタビューを受ける
12月  「生涯にわたる阿修羅として」(徳間書店)刊
      黒木和雄監督「日本の悪霊」封切。
      脚本:福田善之
      出演:佐藤慶、岡林信康、渡辺文雄、土方巽、観世栄夫。
      東京女子医大に、結腸癌転移のため再入院。



1971年(昭和46年)
1月    病名は誰にも知らされなかったが「高橋和巳が危ない」と風評立つ。
      井波r津子、太田代志朗、古川修が東京女子医大に見舞い。
      京都からもいっせいに見舞客が訪れるようになる。
3月   「わが解体」(河出書房新社)刊。
      討論参加「世界革命戦争への飛翔」(三一書房)刊。
5月3日  午後10時55分、永眠。
  5日  鎌倉の自宅にて通夜。
  6日  密葬
  9日  東京・青山斎場にて葬儀告別式執行。
      未刊長編「白く塗りたる墓」刊
6月    未完長編「黄昏の橋」刊
9月    エッセイ集「人間にとって」刊
10月   講演集「暗黒への「出発」刊
12月  「対話」(8号)高橋和巳追悼号刊