高橋和巳『対話』編集後記

『対話』復刊号の編集委員として高橋和巳が寄せた「編集後記」は2編である。
何より、「相互了解」たる新たな力を結集した雑誌構想を持っていた。

第7号編集後記は、鎌倉の二階堂の家で書かれた。
すでにガンは進行し、病に伏せていた。
その原稿を受け取ったのは1969年12月、国立劇場で三島由紀夫『椿説弓張月』、観劇の日であった。



第6号(1968年8月)


対話の第1号を出したのが、昭和31年6月(1956)ごろだったから、この6月までにすでに12年が経過したことになる。充分ゆっくした歩みだけれども、放棄することなく、続けてきたことを慰めとする。

今度、私が京都にもどってきたので編集に参加することになった。初期の同人が、それぞれ極度に多忙で、読書会にも欠席がちであり、この雑誌にも多くは稿を投じられなかった。のは遺憾だが、幸い一世代若い人々の協力をえて、再出発することにした。

掲載した作品のすべてが、完全に意に満ちているわけではないが、活字にされること自体が書き手にとって最大の励ましであり且つ鞭となることは、世代を問わぬ真理であろう。

思想的にも、文字通り対話討論によって各自の思惟が深められることが期待される。一つに統一するつもりはなく、各自が自ら深め、そして望みうべくんば、その深まりにおいて、ある傾向性がおのずからに生れ、文学による、他のなにものによっても代替しえない相互了解の絆が結ばれればと思っている。


第7号(1970年3月)


去年の1月からはじまった京大の学園闘争と、その渦中で倒れたしまった病弱さのために、「対話の会」の月例の読書会もこの雑誌の編集も、ほとんど橘君、太田君にまかせっきりになってしまった。予定していた私の原稿も出来ずじまいである。

短い文書でもと薦めてくれる声もあったが、もう10年も前になるこの雑誌のスタートの際に、雑文で顔だけをそろえるといった形式的なことはしないという決意表明を、当の私自身が後記でしていて、病気に甘えてその約束ごとを反古にすることはできない。

幸い若い世代の同人が頑張ってくれていて、おくればせながらも第7号を世に送りだすこができる。世代交替は、むしろ苛酷におこっていいのであって、若い人たちによる叛乱と奪権を内心望んでいるぐらいである。もっとも文学はそもそも年齢差からも他の社会的規制から逸脱する平等のいとなみであるから、若い世代に過剰に期待する気持ち自体がそもそもよくないのかもしれない。

次号には全力投球的な作品をよせたい。この雑誌こそが、私の、私たちの友人の本来の舞台なのだから。


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