弥生3月に思うA

 ーー河出の面接は背広にネクタイ、ちゃんとしていけよ。
 東京・お茶の水で下車し、高橋さんの言葉を噛み締めながら、私は緊張してやっと見つけたビルの2階に上がり、しばらく待たされて坂本一亀さんに会いました。

 野間宏、椎名麟三、三島由紀夫、中村真一郎、水上勉、辻邦生らを発掘、また埴谷雄高との交流などを通じ多彩な武勇伝を持つ名編集者ーー坂本さんは多くの作家を生み、育てていました。
 高橋和巳はその坂本一亀さんに見出され、大きく羽ばたこうとしている矢先だったのですね。
 2、3の質問を受け、面接は20分ほどで終わりました。
 「わかりました」
 鋭い目を向け、坂本さんは最後に言いました。

 ところが、その採否の通知は1カ月たってもありません。
 そこで意を決して連絡した坂本さんの返書には、
 「貴君は不採用と決まりました」
 とあり、茫然としました。
 
 しかたなく、私は大阪・吹田豊津の公団3kのアパートに高橋さんを尋ね、項垂れながら事の顛末の報告をいたしました。
 「そうか、残念やったな」
 「申しわけありません」
 私は小さな声で言いました。
 「よし。『対話』ももうすぐ出る。小説を書け。いいか。真剣に書けよ。もう雑文は絶対、書くな」

 『対話』復刊号が出るのはそれからまもなくのこと。
 同誌には「反復」(100枚)が掲載されました。が、そこに至るまで2本の小説を書き上げ、いずれも厳しい指摘を受け、却下 されたのもそれなりにいい勉強(修業)でした。

 坂本一亀さんによれば、
 「若造よ。京都でもっと修業を積め」といことだったのでしょう。
 ちなみにその前後、河出書房には清水哲男(詩人)、佐々木幸綱氏(歌人)らが入って文藝出版の現場の仕事に従事していたのですね。

 ーー早春。この春めくもまだ冷たい風の中に、不安と緊張、そしてあのすべもなかった悲しみのようなものにふと襲われるのです。ありし日のまどいに立ち還る夢も淡く漂いて・・・・。

 【2005年3月10日】



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